ボタン〜2〜

 

それから壬生先輩を遠巻きに眺める日々がずぅっと続いた。
先輩は相変わらず彼女を作るでもなく、並み居る自分のファンにも冷たく、誰の告白を受けても断るばかりである。
そのためにかえって、誰のものにもならないという安心感を抱くようになり、固定ファンは激減しないでいる。
ただ、本当に眺めるだけ、という報われない毎日の連続から、それよりはもっと手の届く人を彼に選ぶ人もかなりいた。
私はというと、壬生先輩の代わりになる人なんか全くいないし、壬生先輩よりも気になる人もいなかった。ただ眺めるだけの毎日なんて不毛かもしれない。だけど、私は、自分の心に正直になりたかった。
この先、壬生先輩よりも好きな人ができるかもしれないけど、今は一番壬生先輩が好きだった。
そんなことを考えながら、私は祖母の入院する病院に向かっていた。
先日心臓病で倒れた祖母は救急車で川向こうにある大病院に運ばれた。幸い、命に別状はなかったが、それでも1ヶ月半ほどの入院生活を余儀なくされて、自営業で忙しい母の代わりに毎日私は世話をしに行くことになったのだ。
しばらくの間、壬生先輩の練習風景を覗きにいけないのは残念だけど、自分を小さい頃から可愛がってくれているおばあちゃんのためだからそれは仕方がない。それに、少し壬生先輩から離れてみたらまた心境に何らかの変化が出てくるかもしれないし。
「おばーちゃん。具合どう?」
おばあちゃんのいる2人部屋を覗いてみると、元気そうで老眼鏡をかけてテレビを見ている。
「おや。よく来たね。」
もう一人の入院患者さんに挨拶をしながら側に行き、まずはお母さんから預かった着替えをロッカーにしまいこみ、その代わりに洗濯物を鞄の中に詰め込んだ。
「お花持ってきたのよ。活けてくるね。」
花瓶を持って、廊下に出て洗面所に入る。誰かが持ってきた花がしおれかけていたので来る途中で花を買ってきたのだ。花瓶に簡単に花を活けて病室に戻ろうとすると、見覚えのある人影がフロアの一番端の病室からすいっと出てきた。それは濃い紺の学ラン。
壬生先輩だ!
先輩は病室のドアを閉めてもすぐにはこちらの方にあるエレベーターの方に向かって来ず、考えるような仕草で俯き、悲しげな、泣きそうな表情を浮かべ静かにそこに立っていた。
右手は握りこぶしを作り、廊下と病室を隔てる壁にそっとあてられているが、それに力が入っていて、まるで泣くのを我慢しているかのように、小刻みに震えているのが私のところからでもよく分かる。
その姿を見ていて、私はまるで足がそこに根でも生えてしまったかのように動かなくなってしまった。
壬生先輩が…悲しんでいる。静かに、だけどとても激しく。
まるでその悲しみが伝染したかのように、私の心の中も痛くなり、目頭がじんと熱くなった。そうして鼻までもじわりと熱くなってきて、なんだか酷く悲しく、そして同時に、今まで曖昧だった好きという感情が急にはっきりして、どくんと胸に急激に血が流れ込むような勢いで意識するようになってしまった。
僅かな間、壬生先輩はそうしていたけど、迷いを吹っ切るように2、3度頭を左右に振り、深呼吸するように肩を一度大きく上下させてから、いつものように無表情に戻ってこちらに向かって大股で歩きだし、ナースステーションにいる看護婦さんに頭を下げてからエレベーターホールに行ってしまった。
壬生先輩…一体、誰が入院しているのだろう。
まさかこんなところで会えるとは思っても見なかったので予想外の出来事に嬉しいのは嬉しいが、先ほどの、普段の壬生先輩からは想像できないような悲しげな表情を思い出すと私の心まで痛くなってくる。先輩の力になりたい、と真剣に思った。
いつも無表情でいるのはこのせいなのかもしれない。自分の辛いことがでてしまわないように、笑えるほどの余裕はないから、せめて辛い表情をしないようにしているのが無表情になってしまった原因なのかもしれない。
「あら?」
廊下の真中でぼんやりと花が活けてある花瓶をもったまま立ち尽くしている私に、おばあちゃんと仲の良い看護婦さんが気付いて声をかけてきた。
「どうしたの?」
そう言って、私の見ていた方をちらりと確認して、くすくすっと小さく笑う。
「ああ、…紅葉君ね。」
言い当てられて、真っ赤になって、でも正直に私はうなづいた。
「そうねぇ、かっこいいもんね。」
「誰が入院しているんですか?」
尋ねる私に看護婦さんは困ったように微笑んだ。
「紅葉君のお母さん。」
「何の病気で?」
そう尋ねると、看護婦さんは申し訳なさそうに眉を寄せる。
「ごめんなさいね、病名はプライバシーに関わることだから言えないの。」
ああ、そうか。私は慌てて馬鹿な質問をしたことを看護婦さんに謝ってから、さっきの壬生先輩の様子を伝えた。
「…学校の…先輩なんです。…なんだか酷く悲しそうだったから…。」
そう言うと、看護婦さんは苦笑する。
「…そうね。…いろいろと…大変なのよ。…今すぐ、どうこうって訳じゃないんだけど。」
そう言って看護婦さんはナースステーションに戻っていった。
先輩は…どうしたらあんな顔をしないですむようになるのだろう。どうしたら笑えるようになるのだろう。
どうしたら…?

おばあちゃんが退院するまで、何度か壬生先輩を病院で見かけた。
だけど、壬生先輩はその後、あんな悲しそうな表情をすることはもうなかった。
それでも、いつも無表情で、笑うことはない。
私といえば、壬生先輩を笑わせる手段も思いつかず、ただ毎日、だらだらと遠巻きに眺めている日々を過ごしていた。
接近したくても出来ないのが現実で、壬生先輩はただでさえとても忙しく、私たちが関わりあいになるような時間がない。
放課後は速攻で師範代としてのお勤め、そして館長先生のお手伝いと、本当に時間がない。手芸部のほうは滅多に顔を出さなかったが、それでも律儀に作品だけは一定の間隔で部長の所に届けていたが、文化祭を終え、正式に3年生は部活を卒業し、それももうなくなってしまった。
本当にもう私と壬生先輩の係わり合いは全くなくなってしまったのだ。
今日、2学期末のテストが終わり来年からは3年生はほとんど学校に来なくなる。
「3年戌組、壬生紅葉。至急館長室まで。繰り返す。3年戌組、壬生紅葉。至急館長室まで。」
急遽入った館長先生の声の放送に何人もの女の子が反応した。
壬生先輩が館長先生の愛弟子で、あれこれと館長先生の用事をいいつかることは誰もが知っていることだけど、こうして放送で呼び出されたことなど今まで一度たりともない。何かあったのだろうかと、物見高い野次馬がみんなぞろぞろと館長室の方へ向かっていく。勿論、私もその一人だった。
呼び出しの館長先生の声はそれほど切羽詰った声ではなかったことから、何かよからぬ自体ではないことは容易に想像できた。それでもわざわざ全校放送を使ってまで呼び出したことにみんな少なからず何かあることを感じ取っていたのだ。
私が館長室の方に行った時にはもう壬生先輩は館長室に入っていった後で、そのままそこでしばらく待つと、壬生先輩が館長室を出てくる。
だけど、一人だけではない。
一緒に出てきたのは、私と同じくらいの年の女の子。少し地味な、ニットのアンサンブルとAラインスカートをはいた女性はにこにこと、笑顔をたたえていた。服装は地味だけどとても綺麗な人で、顔の造詣もそうだけど何よりも顔の表情が生気に満ちている、というのか、不思議と目が離せなくなる。
そして。
そのとき、私は初めて嬉しそうに微笑む壬生先輩の表情を見た。
「急に来るからびっくりしたよ。」
そう言いながら微笑む壬生先輩は、その女性に会えたのがとても嬉しいようで眩しそうに彼女を見つめた。
彼女の方もおかしそうに笑いながら壬生先輩に答え、そのまま二人で道場の方に向かっていく。
壬生先輩がそんな表情を見せる人。
心の中で一気に暗雲が立ちこめる。
二人の関係がそうであることを考えたくなくて、すぐに私は最も適した関係を頭の中で想像した。道場の方に向かっていったのだからきっと館長先生のお弟子さんの一人に違いない。それだけだ。それだけの関係。兄弟弟子なら仲が良くても当たり前だ。そう頭の中で納得しようとしているのに、私の中の本能が直感的に警鐘を鳴らしている。
そのまま二人は更衣室の方に向かっていき、彼女は女子更衣室に、壬生先輩は男子更衣室に入った。
本当にあの人も武道をするのだろうか。一見、どこにでもいる普通の女の子、どちらかといえば華奢な方で、とてもじゃないけど武道をやるような人には見えない。
でも、そうであってほしいと心の中で祈りつつ、私は道場に向かった。

道場には館長先生が既に来ていて二人が着替えて上がってくるのを待っているようだった。
先に上がってきたのは彼女の方で、道着ではなくスカートをジーンズに穿き替えただけである。館長先生と何やら親しげに話している様子を見て、彼女がただの弟子ではないことを道場の周りを取り囲んでいる人間は感じ取っていた。
師範代である壬生先輩でさえ館長先生にはそんな親しげに話をしない。
そして館長先生自身も、彼女の振る舞いに気を悪くするようでもなく、かえって嬉しそうに顔を綻ばせていたのだ。
やがて白い道着をつけた壬生先輩が上がってくる。
何事かを二人で話して、それから二人が少しの距離をおいて向かい合った。
周りからはざわざわと声があがる。
だって、まさか女性が壬生先輩とやりあうなんて。
「あの女、大丈夫かよ。」
「下手すりゃ死ぬぜ?」
「きっと、手加減するんだよ。」
いろんなことが囁かれる中、本当に二人は戦い始めようとしていた。
最初に動いたのは彼女の方だった。
数歩、すごい速さで壬生先輩の懐に飛び込むといきなり何かの技を放ったらしく、壬生先輩の体が大きく後ろに飛んでいく。
構えは解かずに、彼女はそのまま壬生先輩の起き上がってくるのを待つ。
「おい…まじかよ…。」
みんな、信じられない光景を目の当たりにして呆然としていた。拳武館で無敵を誇っていた壬生先輩が飛ばされたなど、今まで見たこともない。
壬生先輩は立ち上がるとそのまま彼女の方に近づき、反撃で蹴りを入れる。それは、今まで練習では見たこともないような威力で、彼女のボディに確実にヒットし、先ほどの壬生先輩のように大きく後ろにとんで、道場の壁にしたたかに背中を打ちつける。
女性相手にも容赦がないのは壬生先輩が本当に真剣に戦っているからだと思う。
彼女はそれでも立ち上がると、なぜなのか、嬉しそうに微笑んでから再度壬生先輩の懐に入り込んで小技のラッシュをかけていた。
壬生先輩も彼女に負けずに得意の足技を中心に彼女に技を浴びせ掛ける。
女性が壬生先輩と対等に遣り合っている。
その事実は道場の周りにいる私たちを黙らせた。壬生先輩が手を抜いているわけではなく、弱いわけでもなく、ただあの女性が強すぎるのだ。
館長先生はその二人を止めることなく、彼女同様に嬉しそうに僅かに微笑みながら二人の試合を見ている。
やがて、壮絶な試合は信じられないことに彼女の勝ちで終わりを迎えた。
精根尽き果てたといったように、壬生先輩は壁に叩きつけられたまま起き上がることもなくそのまま倒れこんでいるのを彼女は近寄って起こしてやる。
気が付いた壬生先輩は自分を倒した彼女を恨むでもなく、そのまま何をか話し、そして一緒に更衣室の方に降りていった。
数分後、彼女と肩を並べて帰る壬生先輩は微笑み、楽しそうに話をしながら校門を出て行った。
ちら、と聞こえたのは壬生先輩を『紅葉』と呼ぶ彼女の声。壬生先輩を呼び捨てにするのは館長先生しか知らない。だから、館長先生くらい壬生先輩に近い人。…やっぱり恋人。
壬生先輩と何の接点もない、ただの、同じ拳武館の学生であるだけの私は彼女に到底敵わない。
壬生先輩よりも強くて、そして綺麗な人。
そんな風に生まれたかった。壬生先輩を楽しい気持にさせたかった。…一緒にいて嬉しいと思ってもらいたかった。
だけど…私には…何もなかった。

そうして気落ちしたままやがて大晦日を迎え、なんだか分からない異常事態はあったものの私の家では無事に年を越した。
3学期に入って、幾度か壬生先輩を見かけることもあったけど、もう道場まで壬生先輩を見に行くこともなかったし、壬生先輩も受験のためなのか道場に顔を出すこともめっきり減ったようだった。
風の噂に聞いたところによると、彼女は館長先生の親友の娘さんであり、同時に愛弟子の一人でもあるらしく、その卓越した武道のセンスからもゆくゆくはこの拳武館を彼女に任せたいと思っているらしかった。
もう一人の愛弟子である壬生先輩とは兄弟弟子になるそうだけど、館長先生に聞いた話だと別に付き合っているというわけではないらしい。誰が館長先生に聞いたかは定かではないので信憑性は低いけど、そうだとしても壬生先輩が彼女を好きだというのは火を見るよりも明らかなこと。
私の思いはおそらくかなわない。
だけど…。
諦めるために。一生懸命に壬生先輩を好きだった自分へのご褒美に、なけなしの勇気を振り絞って制服のボタンを貰うために動いてみることにした。ずっと、ただ見ているだけだった私の最初で最後のアクション。
そして、今、私の掌にはボタンがひとつ。
「本当に…好きだったの…。」
私の呟きに、友達はこくりと頷いた。
「でも、…仕方がないよね。」
じわ、と目の前がぼやけていく。友達の顔も、黒板も、机も、椅子も、全ては水の中に映って、滲んで、その世界から抜け出すには随分と長い時間が必要だった。
ようやく水の世界から抜け出したとき、私の恋はボタンひとつを残して…終わった。

3学期の終業式を迎える前に一度だけ、道場から稽古帰りの壬生先輩と彼女を見かけた。
前のときよりもずうっと親しげに話していて、彼女が何かを言うと、おかしそうに声を立てて壬生先輩は笑っていた。
そんな二人の様を見ていて、とても嫌な気持になるだろうと思っていたのに、不思議にならなかったのは、きっと壬生先輩が嬉しそうに笑っていたからだと思う。
校門を出てから少し広めの道路をしばらく歩き、丁度、私の家の方向と先輩の家の方向と道が分かれるところまで二人は20メートルほど先を歩いていた。先輩の家のほうに続く道に入ると彼女は悪戯っぽく笑ってから右手を差し出す。一瞬きょとんとした顔の壬生先輩が、すぐに破顔して、わざと大げさに恭しく彼女の手を取りそのまま二人で夕闇の町に融けていく。
きっと壬生先輩の思いは彼女に通じたのだろう。
隣にいるのは自分じゃないけど、壬生先輩が嬉しそうだったからそれでいい。
笑っていてくれればそれでいい。
自分が好きだった人には不幸になって欲しくなどないから。
大きく深呼吸をして暗くなりつつある空を見上げた。浮かびかけた涙を零さぬように。
葛飾の空は相変わらずで、お世辞にも綺麗とは言いがたい。だけど排気ガスや工場で出す排煙にくすんでいても、星は一生懸命に瞬く。
私も、がんばらなくっちゃ。
もう一度、大きく深呼吸をし、『よし!』と自分に気合を入れ、元気良く大股で歩き出した。


 

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