蔵に入っていった翡翠の後姿を見送りながらそっとため息をつく。
座卓の上に置かれた黄龍甲。わずかな綻び。これが威力にはそう影響はないことはわかっている。だけど、修繕の依頼をしたのは、翡翠のところにくる口実が欲しかっただけ。こんなわずかなことでも、彼は面倒がらずに快く引き受けてくれる。自分の我侭で手を掛けさせてしまうことに気が引けるけれど、反面、快諾してくれたことが嬉しくて。できあがるのは明日。また明日もここに来れるんだなぁって思ったら、顔が緩んできた。
一緒に戦ってくれるようになってから、もう随分と経つ。いつでも翡翠は援護にきてくれて、側で私が戦いやすいように守ってくれるから、きっと嫌われてはいないと思うけど。こうして、店に来ても嫌な顔もせずにお茶を淹れてくれるし、おいしいお茶菓子も出してくれるし。
でも、手のかかる友達、それくらいかも知れない。
やっぱ、翡翠には雛みたいな大人しい子や、葵みたいなしっかりした人が似合うよなぁ。私は自分の性格を考えてみる。元気はある、元気だけは。でも、それが故に度々翡翠には迷惑をかけていて、はっきりとは言われないけれど翡翠が重いため息をついているのも知っている。だから、仲のいい女友達のまま、それでもいい。今のポジションが、きっと一番翡翠の側にいられるから。
「ごめんください。」
不意にからからとガラス戸が開く音と声がした。店先を見ると、紺色のブレザーを着た女の子が立っている。校章から、すぐに王蘭の生徒だということがわかった。彼女は私を見ると、困ったように視線を彷徨わせた。
「あの…如月君はどちらに?」
一通り、視線をあちこちに飛ばして翡翠の姿を探したあと、彼女が私に尋ねる。
「今、蔵の方に。」
「そうですか…。」
どうしようかと、思案するような仕草を見せた彼女は、翡翠の学校の友達らしい。
「あの…私が言うのも変なんですが…どうぞ、上がって待っててください。」
そう言って、座布団の入っている押入れから1枚取り出して自分とは反対側に置いて上がるようにすすめた。お茶とか、淹れた方がいいかなぁ?私が立ち上がろうとすると、彼女はにっこりと笑って私を制する。
「どうぞ、おかまいなく。」
で、このきまづい雰囲気から逃げることも叶わなくなって、私は再び腰を座布団に沈めた。彼女は、落ち着いた雰囲気の、いかにも賢そうな人だった。ああ、やっぱり。私は心の中で密かに落胆の息を漏らす。
「あなたは?」
はきはきとした口調で尋ねられて、気圧される。
「え、と、緋勇龍麻っていいます。」
口篭もりながら答えると、彼女は眼鏡の奥の眼をすうっと細める。
「その制服、新宿の真神の?」
「あ、はい。」
「私は王蘭学院の橘朱日です。如月君とは同じクラスなの。」
そっか。翡翠だって、学校に友達くらいいるだろうし。私達と戦ったり、店で商売やってるばっかりじゃないんだった。当たり前といえば当たり前のことだけど、あんまり翡翠と過ごしている時間が長くって錯覚を起こしていた。
橘?ふと、前に、雪乃が言っていたことを思い出す。そういえば、前に、鬼道衆が翡翠を襲撃したときに、翡翠の彼女らしき女性が巻き添えを食ったといっていた。橘、確かそんな名前だった気がする。あのあと、それを知った京一が、顔を合わせるたびに翡翠をそれでからかっていたけれど、あまりに真剣に嫌がる翡翠にやはり違うのだとみんな囁きあった。でも、こうして尋ねてくるのを見ると、事実なのかもしれない。翡翠は、そういうの隠すだろうし、それに京一がしつこくからかったりしたから。
「緋勇さんは、如月君のお友達?」
急に訪ねられて、幾分俯きかけた顔をはっと上げる。
「あ、はい。…えっと、今日は客なんですけど。」
「お客さん?」
彼女は怪訝そうに私を見る。
「骨董に、興味があるの?」
「いえ、あの、ちょっと修繕を頼みに。」
彼女がちらりと、私の脇に置いてあった黄龍甲に目をやった。
「如月君は腕がいいですものね。…贔屓にしてくれるお客さんも多いし。」
店のこと、随分知っているような口調だった。翡翠から店の様子とか聞いているのだろうか。それほどに、仲がいいということの証明?きまずい沈黙がちょっとの間その場を支配する。なんだか、いたたまれない。帰りたいな、そう思って庭先に目をやると、蔵から翡翠が荷物を持って出てくる姿が見えた。
「お待たせ、あれ?橘さん?」
部屋に戻ってきた翡翠は少し驚いたような顔をしたが、すぐに自分が持っている四神甲に目を移す。
「如月君、今日、進路指導だったでしょ?」
「ああ。」
「先生、怒っていたわよ。」
「そうか?」
彼女の言うことをさして気にも止めないようで、丹念に箱の埃を払って、中を点検している。そのやり取りが、なんだか夫婦のそれに似ていて。心の中に鉛を流し込まれたような気分になる。
翡翠は、中に入っている四神甲に異常がないことを確認するとそれを私に渡してくれた。
「これでどうかな?龍麻?」
黄龍甲の次にいい手甲。前に私が使っていたものとは違うようだ。
「あ、うん。ありがと。」
「こっちは明日、夕方にはあがるようにしておくから、また学校帰りにでも取りに来るといい。」
「ごめんね、手間かけさせちゃって。」
私が詫びると、翡翠はにっこりと微笑んで言う。
「かまわないよ。僕としてもこれには興味があるからね。」
ちょんちょんと黄龍甲をつつくようにして笑う。真旧校舎の最下層でそれを見つけて以来ずっと使用しているのだが、翡翠はその骨董屋の探究心ゆえか、新しい商品を見つけると研究したくてたまらなくなるらしい。その笑顔を、複雑な表情で眺めている橘がちらりと視界に入った。やっぱり、邪魔だよね。私は四神甲を持つと立ち上がった。
「悪いけど頼むね。それじゃ、私、帰るから。」
急なことに、驚いたように翡翠が目を見開いた。
「え?もう?」
「うん。今日は、ちょっと用事もあるしね。」
翡翠は無理強いはしない人だから、こういえば絶対に無理に引き止めるような真似はしないのがわかっていた。私は負け犬よろしく、鞄と手甲を持つと急いで店の外へ出て行った。そのまま一気に早足で近くの公園まで歩いて、そこでようやく歩く速度を緩めた。
やっぱり、彼女、いたんだよね?さっきの彼女の姿が浮かぶ。葵みたいに賢そうな人。私とは全然違う。
しょうがないよね?諦めてたよね?何度も、何度も、自分の中で繰り返して納得させる。多くは望んじゃいけないって、わかってたはずだから。きっと、この胸の痛みも、悲しみも、少しだけで済むはずだから。出てきそうになる涙をこらえながら、気持ちが落ち着くまでゆっくりと歩いて、隣の駅から電車に乗った。
「そう、そんなことがあったの…。」
昼休み、真神学園の屋上。今日は風もなく、おだやかな日差しが照っていて、まさに小春日和で、龍麻、葵、小蒔の3人は久しぶりに屋上でお昼をとっていた。
龍麻の話に悲しげに瞳を曇らせる葵に、龍麻は慌てて弁解をする。
「で、でもっ、ほら、やっぱさ、翡翠ってばもてるしね。」
明るく言う龍麻に一層、葵の顔は曇っていく。
「んなの、絶対にその子の思い込みだってば。」
葵とは反対に、元気付けてくれるのは小蒔だった。
「だってさ、龍麻って、あんだけ如月クンちに行ってて、その子を実際に見たのは初めてなんでしょ?」
「うん…そうだけどさ。でも、雪乃たちも見たことあるって言うし、それに、そんときに京一にしつこくからかわれたから、翡翠も警戒して自分ちに寄せないようにしてるんじゃないのかなぁ?…そういう秘密主義みたいなとこ、あるじゃない?」
「そりゃあ、確かに、そういうとこあるけど。」
確かにそうであるから龍麻に反論が出来ず、しぶしぶ小蒔がうなづいた。
「ま、しょうがないよね?」
明るく笑う龍麻に、葵が悲しげな目を向ける。
「龍麻、そう決まったわけじゃないわ。直接聞いたわけじゃないんでしょう?」
「うん…。」
「龍麻はどっちを信じる?如月君?それともその女の子?」
柔らかに、諭すような口調で言われて龍麻は少し考えこんだ。
「翡翠…だけど…。」
「けど?」
「そういうの、きっと翡翠は自分から言わないよ。」
「じゃあ、聞いて御覧なさい。」
「…やだ。なんか、彼女でもないのに、やきもちやいてますみたいで。」
龍麻がしゅんとして肩を落としたのをみて、葵はふぅっとため息を漏らす。
「押しかけ彼女、そういうことも考えられるでしょう?」
「…。」
龍麻は黙ったままだった。
「そういう人、多いと思うの。全く如月君が彼女と接点がないとは言わないし、同じクラス以外にも何らかの関わりがあるのかも。でも、店に来るから彼女かっていえば違うでしょう?…そうね、多分、龍麻の言うとおり、彼女自身は如月君のことが好きなのかもしれないわ。」
「絶対、そうだよ。」
「でも、龍麻。如月君が彼女を好きかどうかは別の話ね?」
確かにそうであるが。
「本当に彼女だとわかったら、その時諦めなさい。でも、今はまだ早いわ?」
ね?と念を押されて龍麻がしぶしぶうなづいた。そこで丁度予鈴が鳴り始める。3人は慌ててお弁当を片付けて教室に戻っていく。数歩先を歩く龍麻の背中を見ながら葵と小蒔はこそこそと話し始めた。
「あんだけ、如月クンの性格がわかってて、どうして気持ちがわかんないかなぁ?」
呆れたように言うのは小蒔。旧校舎潜りに参加しているメンバーなら如月が龍麻のことを好き(龍麻に好意を寄せているのは如月だけではないが)だなんてことはみんな知っている。無論、龍麻も如月に好意を寄せていることはわかっているので(そしてその事実は、どういうわけか如月だけがわかっていない)、悔しくても男性陣はちょっかいを出さずに大人しく見守っているのだ。一時は如月をからかっていた京一も、からかうのをやめたのは如月が好きなのは龍麻であることに気付いたからだった。
「そこが龍麻のかわいいところなのよ。」
微笑みながら返答する葵は肩先で切りそろえた黒髪がさらさらと揺れる龍麻の背中を愛しそうに眺めている。
「で、どうする?」
小蒔の問いに葵の菩薩眼に厳しい光が宿る。
「うふふふふ。どうしようかしら?」
不適な菩薩笑いを響かせながら、葵は楽しげに何かを考えているようだった。
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