戦のさなかとは思えないほど珍しく平穏な朝。
寝坊の癖があるシェイは副軍師クラウスに起こされ、眠い目をこすりながら身支度を整え、階下にあるサロンへ食事を取りに行く。
ハイランド王国のルカ皇子を破った前後から戦乱を避けてこの城に避難してくる一般人が多くなり、最近では城の周りに城下町らしきものもでき始めている。
おかげで城の中にあるハイヨーの店も沢山の人で賑わうようになり、そこへリーダーであるシェイや正軍師のシュウ、フリックやビクトールなどの幹部クラスが行くと、途端に回りを民衆で囲まれて食事どころの騒ぎではなくなってしまう。
もちろん、一般民がそうやって慕って来るのは嬉しいことであるし、そういった民衆とのコミュニケーションも必要ではあるが、以前暗殺未遂があったシェイの身柄の安全を考慮したシュウは以後、幹部クラスの連中はなるべくレストランの側に新しく作ったサロンで食事をとることをすすめた。
無論、強制ではないが、確かにここ最近のレストランでの騒ぎは大変なものだし、ハイヨーも若干それに閉口している節があるのでそれに協力する人間も多い。
そしてシェイ自身、自らシュウの示した方策に従っている。
「おはよう。」
サロンに降りて行くとそこにはシュウや、自分を起こしに来たクラウス、それからマイクロトフやカミュー、フリックやヴィクトールといった連中がいて、すでに食事を終えて食後のコーヒーやら紅茶をそれぞれ飲んでくつろいでいる。
「もう、相変わらず寝坊なんだからっ。」
ぷんぷん、といったように頬を膨らませる姉に苦笑しながらシェイはナナミの隣の席につく。絶妙のタイミングで朝食が運ばれて、フォークを取る。
「ね、ね、シェイ、今日はなんの日だかわかってる?」
そんなシェイにナナミが目を輝かせて待ってましたとばかりに話を切り出すのを、そこにいた他の連中も興味深そうに二人の会話の成り行きに注意している。
「…今日?…なんかあったっけ?……………ねぇ、シュウ?」
しばらく考えるそぶりをしていたが、やはり何も思い浮かばなかったようで、シェイはナナミとは反対側の隣の席に座っているシュウに尋ねて見る。
「さぁて。…なんでしょうか。」
シュウは相変わらずの薄い笑いを僅かに唇に浮かべているだけで、本当にわからないのか、それとも知っていてはぐらかしているのかシェイには判別がつきにくい。
「わかんない。なに?降参。」
このまま待ってもシュウからは答えを得られそうにもないと判断したシェイは素直に降参してナナミに答えを教えてくれるように促した。
「今日はシェイの誕生日だよ!自分でも忘れちゃっていたんだね!」
得意げに、嬉しそうに笑う姉の顔に、ああ、そう言えばそうだったかと思い出し、意識的に目元と口元を綻ばせる。
「ほんと、気付かなかった。…よく覚えてたね。」
するとナナミは威張ったように胸を張って朗らかに笑う。
「もちろん!そんでねっ、今日は夜にお誕生日のお祝いをしてあげるっ!ナナミスペシャルのケーキだって作ってあげる!」
そういってナナミは跳ねるように椅子から立ち上がる。
「さーて、それじゃあハイヨーさんのとこに行って来よっと。シェイ、楽しみに待っててね。」
バイバイと手を振ってナナミがサロンから出て行くのを苦笑交じりにシェイは見送って、ようやく朝食に手をつけ始める。
「へぇ、シェイ、今日が誕生日だったのか。」
フリックが尋ねると、パンを齧りながらこくりとうなづいた。
「いくつになったんだ?」
「16。」
口の中のものを飲み込んだシェイが短く答えてからまたスクランブルエッグを口に運ぶ。
「16か。まだまだ若いな。…全く、俺が同じ年の頃にはまだガキだったもんだが。」
苦笑しながらフリックが言うとおかしそうに表情を綻ばせてシェイも笑う。
「僕だってまだまだガキだけどね。」
「大変立派ですよ。」
穏やかな口調の副軍師の口添えに少しだけシェイの気分もよくなる。
「ありがとう、クラウスにそういわれると、少しはそうかなって思えるよ。」
素直に礼の言葉を口にするとクラウスもどういたしまして、とばかりにもう一度穏やかに微笑んだ。
「それにしても誕生祝いねぇ。彼女、張り切っていたからすごいケーキを作りそうだね。」
カミューの言葉にシェイがくすっと笑う。
きっとナナミのことだから、食べきれないほど大きなケーキとか、たくさんの料理を用意するだろうことが簡単に予想できる。
「つきあってくれるんでしょ?みんな?」
子供っぽい言い方でその場にいる全員に問いかけるとみんなは苦笑しながら静かに微笑んでうなづいた。ナナミの料理があまり上手ではないことはみんな知っているから、なんとか食べれる料理にするためにこのあと、きっと料理ができる女性が総動員でナナミの手伝いをすることになるのだろう。
「…きっと、ナナミも喜ぶよ。賑やかなのがスキだから。……あっ。」
その様子が目に浮かぶようで、笑いながらそういいかけて、シェイは何かを思いついたように、その大きな黒目がちの目をぱっと見開いた。
「ねぇ、シュウ。…お客さん、呼んじゃだめかな?それで1週間ほどここにいて貰うの。」
「どなたですか?」
「ふふふ。ヒミツ。」
嬉しそうに笑ってから悪戯っぽくシェイが口の前に右手の人指し指を立てる。
「女の子なんだ。最近知り合ったの。大事な僕の友達。」
すると、それが誰だか思い当たったようでカミューとマイクロトフ、そしてフリードはああ、と揃ってうなづいた。
「三人とも、喋っちゃダメだからね。」
誰であるか言わないようにシェイは先に口止めをしておく。
「…当然、ちゃんとした人だよ。ハイランドのスパイとかじゃない。」
ダメ?とばかりに少し上目遣いでシュウを見ると彼はいつもの表情を全く崩さないまま静かに、だけど短く口を開く。
「ご自由に。」
「わ、やった!」
そんな素性もわからない人物を招待するなどと反対されるかと思っていたシェイは予想外の返事に本当に嬉しそうに破顔する。
「女の子って、シェイの彼女か?」
にやにやしながらフリックがからかおうとすると、逆にシェイがにやりと笑って答える。
「ううん、ただの友達。…だけど、もしそうなっても…そんなに悪くないかもね。少なくとも、ストーカーみたいなことはしないと思うし。」
暗にやり返されてフリックが苦い顔になる。
「…美人か?」
今度は興味深そうにヴィクトールが尋ねてくる。シェイは彼女の顔を思い出すようにうーんと、唸りながら少しだけ首を傾げて考えた。
「美人ていうより…凛々しいっていう方があってる。そうだなぁ…とても強くて、でもその分脆い人って感じ。」
「ほぉ。…なるほどねぇ、おまえはそんなのが好みか。」
楽しげにいうと、朝食をすっかりと平らげて口元を拭いながらシェイは答える。
「好みっていうか、…つきあうとか抜きでも、いい友達になれそうなタイプ。」
そう言ってからかたりと椅子から立ち上がる。
「ごちそうさま。彼女を迎えに行って来るよ。」
「誰かお連れ下さい。」
シュウの言葉に、承知しているといった風にうなづいてから部屋の中にいる人間をぐるりと見回した。
「マイクロトフ、カミュー、それからフリード…一緒に来て。」
「4人で大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねるクラウスににこりと微笑んで答える。
「うん、平気だよ。それに向こうにつけば彼女が加わってくれる。それで充分。」
なお不安そうな表情のクラウスにカミューが大丈夫だという意味で頷く。
「あの辺では随分と訓練いたしましたから大丈夫ですよ。それに、帰りは彼女が加わってくだされば本当に心強い。…というよりも、私たちの方がかえって足手まといになりかねませんが。」
カミューの言葉に、それならいいんですがとクラウスが呟いた。
「じゃあ、行って来る。夕方には戻ってこれるから。」
そういって3人を従えてシェイはサロンを出て行こうとする。が、部屋から出る前にぴたりと立ち止まった。
「ああ、そうだ。」
シェイがにこりと笑いながら振り返る。
「さっきの、彼女になっても悪くないって言うの。あれ、ナナミには内緒ね。あれでもナナミ、結構やきもちやきだから。」
それだけ言い残してサロンから出て行った。続いてマイクトロフ、カミュー、フリードがドアの外へ消えていき、扉がバタンという音を立てて閉まった。
「…やれやれ。…彼女、ねぇ。」
フリックが苦笑する。
「色気づきやがって。…まったく、誰の影響だ、誰の。」
ヴィクトールがそういいながら側にいたシーナを笑いながら睨むとシーナは俺じゃないとばかりに慌てて首を振った。
「そういう年頃なんですよ。」
クラウスが微笑みながらやんわりとシーナに助け船を出すと、ほっと安堵の表情を浮かべる。性格はまったくといっていいほど正反対の二人なのだが、同じ年齢と言うこともあり、それなりに仲がいい。
「しかし。なかなか言うようになったな。…最初に会った時は、まだほんのガキだったのに。」
フリックの言葉にシュウが僅かに口元を綻ばせる。
「それだけ、成長したと言うことだ。それが喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか、まだわからないが。」
そう言ってから、食後のコーヒーを飲み終えたシュウはかたりと椅子から立ち上がり、まだ席についているクラウスのほうに向く。
「クラウス、あとでカスミとモンドに私の部屋に来るようにと伝えておいてくれ。」
「承知いたしました。」
クラウスの即座の返答に満足そうに唇の端をわずかに上げてから出入り口の方に歩き始める。
「なぁ。おまえはもう誰を連れてくるかわかっているのか?」
サロンを出ようとしたシュウにビクトールが尋ねると、例の薄い微笑を浮かべてすぐに頷いた。
「大体は。しかし、私が言うわけにはいかない。」
そう言ってからビクトールたちを見て、ふ、と短く笑う。
「我々にとってもある意味、大変な客だ。…一人一人の立場は違えど、だが。」
そう言ってサロンを出て行ってしまった。
「ねぇ、おいでよ。せっかく友達になったんだし。」
バナーまでビッキーのテレポートで飛ばしてもらった後、山道を大急ぎで(ほとんど全速力で走って)越えてきたシェイ達は昼にはなんとかグレッグミンスターに到着することができた。
マクドール邸に行くと、しばらくグレッグミンスターに滞在するとの言葉どおり、ファロンは自宅にいて、息せき切ってきた連中をにこやかに出迎え、グレミオ特製のサンドイッチを昼食として振舞っていた。
「でも…。」
昼食の席上でシェイは誕生日のお祝いに来てくれる様に頼んでいるのだが、ファロンの返事は芳しくなく、困ったような表情を浮かべているだけだった。
「伺えばよろしいじゃありませんか。」
そんなファロンの様子を見て、紅茶のお代わりを持ってきたグレミオはにこにこと微笑んで言う。
「せっかくできたお友達なんですし、ついでにシーアン城見学も悪くはないと思いますよ?」
グレミオの言葉を渡りに船とばかりに、シェイはさらに誘いの言葉を口にする。
「そうだよ。僕らの本拠地、見たことがないだろう?廃墟だったなんて嘘のように綺麗になったんだから。」
あの地方については昔、そこがビクトールの出身地だと聞いたことがあるが、実際にそこを見たことがない。ネクロードのために滅んでしまい、廃墟となった城には村人達の墓しかない寂しいところだとビクトールは言っていた。
だからそこがどんな風に復興を遂げたのか、シーアン城には一度、遊びに行きたかったのは事実である。
でも。
ファロンはそこで俯いた。
あそこには、あの人がいる。
それがファロンに芳しくない返事をさせている原因だった。
自分がそこに行くことでシーアン城の人たちを紋章の犠牲にしてしまうかもしれない、いや、もっと絞って言うと今度こそフリックを餌食にしてしまうかもしれない、そう考えるとシェイの誘いに良い返事ができなくなる。
グレミオはそんなファロンの心情を察したのか、ティーポットを置くと穏やかに話し始める。
「大丈夫ですよ、ファロン様。」
「でも…グレミオ。私は…。」
弾かれたように俯いた顔を上げて言いかけるが、グレミオはにっこりと笑って先に言う。
「今のファロン様なら大丈夫です。…先日だって、大丈夫だったでしょう?」
バナーの村で起きた誘拐事件で、一瞬ファロンの右手にある紋章が怪しい光を放った。だけど、それはファロンの力が抑え込み、彼は毒には侵されたものの一晩で回復し、大事には至らなかったのである。
だけど、今度も無事だとは言い切れない。無論、努力はするけれど、紋章を制御できるとは思えないのだ。
何も答えられずファロンが唇を噛み締めるのを、グレミオは笑って首を振った。
「前だって、無事だったじゃないですか。」
あの日、グレッグミンスターの王宮で、フリックとビクトールは残り、以後行方不明となった。一時は絶望したのだが、結果的には二人は無事で、今、目の前に自分を迎えに来ている少年の率いる軍に参加しているのだけれど。
そっとグローブのはまったままの右手を見ると、ソウルイーターは沈黙を護り、何の変化も起こしているような様子は見られない。
「…そう…かな…?」
呟くファロンに大きくグレミオはうなづいた。
「ええ、そうですとも。…きっと大丈夫。ここだって、何も変っていませんし。」
その言葉がどういった意味を持つのか、シェイ達は何も分からない。
ただ、ファロンがトランの英雄であった事と、何かしら関係があるのではと予測はしたものの、聞いてはいけないような気がして誰もそれを尋ねるものはいなかった。
そしてシェイは真実を聞かない代わりに、二人の会話の言葉を額面どおりに受け取ったふりをして、大きくうなづいてみせる。
「そうだよ。シュウ…あ、ウチの正軍師なんだけど、ちゃんとシュウにも許可を取ったんだ。お客様として招待していいって。ね?せっかく友達になれたんだし、ぜひ遊びに来て欲しいんだ。いろいろ話したいこともあるし、ファロンの話しも聞きたいし。」
嬉しそうに話すシェイに、ファロンはその後ろにある頂点にいるものの孤独を感じ取り、無碍に断ることもできなくなる。
「ね、伺いましょうよ。」
グレミオにも促されてファロンはしぶしぶうなづいた。
「そうと決まったら、私は支度をして参ります。ああ、そうだ。せっかく伺うんですから、シェイさんには特製のシチューをご馳走いたしますね。材料ももっていかなきゃ…。ファロン様、待っててくださいませ。今、クレオに言付けてまいります。」
グレミオはそういいながら楽しそうに食堂から出て行った。
そのうきうきとした後姿を見送ってシェイがくす、と笑いを漏らす。本人であるファロンよりもグレミオの方が楽しそうである。
ファロンとグレミオは急いで支度を整えると、それからまた急いでバナーの村に戻り、そこから瞬きの手鏡で城内に戻っていった。
いきなり城の中に入ってしまって、ファロンは少し不安そうな表情を浮かべながらゆっくりと辺りを見回す。
とうとう来てしまった。ファロンは緊張から口中に溜まったつばをごくりと飲み込んだ。
フリックに会ったらどうしようと一瞬考えるが、今さらであることに気づいてファロンはそっとため息をつく。リーダーであるシェイの招待で来ているのに中心メンバーであるフリックに会わないはずはないのだ。
もしも自分を避けるような素振りをされたらどうしよう。それどころか、非難されたらどうしたらいいのだろう。悪い考えばかりが頭の中に渦巻いて段々と心が沈んでいく。
「あ、ファロンさん!」
急に声をかけられて驚いて顔を上げると、同じように驚いた顔をしたビッキーがそこに立っていた。
「…ビッキー。…ここにいたんだ。ひさしぶりだね。」
にこ、と今できる精一杯の微笑みでファロンが言うと、ビッキーは不思議そうに首を傾げる。
「え?この間もあいませんでしたっけ?」
今度はファロンが不思議そうに首を傾げるのを、おかしそうにシェイは見ている。
「ビッキーの時間軸は僕らのとは違うようなんだよ。さぁ、行こう。」
そういいながらシェイはファロンの手を取って先へと促した。
夕刻近いホールは斜めに夕日が入ってきていて空間そのものがオレンジの光に染まっている。明るく、開放的な雰囲気のする城は自分たちが本拠地として使っていたオデッサ城とは随分違う気がする。
湖の上に浮かぶオデッサ城はもっと人の少ないところで、トラン解放軍に参加している人しかいなかった。だけど、この城は軍関係者だけでなく、一般の市民も当然のようにここにいて生活をしているという。元はノースウインドゥという街だっただけあって城全体の規模も大きいからそのようなことも可能なのだろう。
しかし何より、シェイの人柄がそうしているのは明らかな事実ではある。
ファロンはきょろきょろとしながらシェイに引っ張られるまま、後をついていくと、ホールのつき当たりによく見知った顔が立っているのを見つけ瞠目する。
「ルック…、君も…いたんだ…。」
驚いたような表情で呟くように言うと、ルックはふふんと鼻で笑う。
「レックナート様の命令でね。…そうでもしないと、この戦、シェイには不利だし。」
その言葉にシェイの表情が不機嫌そうになり、反論しようとするのをルックは軽く片手をあげてさえぎった。
「ああ、君が力不足、と言っているわけじゃない。…簡単な話だ。紋章の数が多い方が有利だ。」
ルックの言葉にシェイはわけがわからないといったように首を傾げる。
「向こうは真の紋章が3つ。こちらも僕が入ってようやく3つ。ああ、そういえばビクトールの剣があったな、あれで4つ。それでようやく有利にことが運ぶ。でもファロンがここにいるなら5つ、になるのかな?」
ルックがおかしそうにくすくすっと笑う。
「私は…別に…。」
戦うつもりはないと、いいかけたファロンより先にルックは言葉をつなぐ。
「無理だよ。君は戦う羽目になる。君だって、ここに来た以上、覚悟はしてきたんだろう?君はここに誰がいるのか、分かってるはずだから。」
ルックの言葉にファロンは俯いて僅かに唇をかむ。
「ああ、別に責める気はないよ。ただ、胸をはっていて欲しいだけさ。君は真の紋章の所有者なんだから。」
そういって真っ直ぐにファロンを見つめた。
そのやり取りの意味がよくわからないシェイは焦れたようにファロンの手を引いて先に行こうと促す。
「さ、もういいだろう?ルック、君もあとでサロンに来るといいよ。」
そう言ってファロンを伴ってサロンへと歩き始める。
「パーティーはサロンでやるんだ。サロンって最近できたんだけど、幹部用の食堂やちょっとした会議を行うところなんだ。みんな、そこにいるはずなんだけど。」
シェイの言葉に、もう後は自分のつき従う必要はないと悟ったグレミオはサロンに入る前にシェイに申し出る。
「あの、よろしければ私はすぐにでも厨房に行きたいのですが。」
「ここを向こうに向かっていけば一般の入り口があるから、そこから入っていって下さい。厨房にはこの前同行していた僕の姉がいるはずだから。」
「ナナミさん、ですね。」
「うん。ナナミに言えば足りないものとか用意してくれるよ。シチュー、楽しみにしています。」
「わかりました。…それでは、後ほど。ファロン様をよろしくお願いいたします。」
そう言ってグレミオは一礼をしてからいそいそと嬉しそうに弾んだ足取りで向かって行く。
「さぁ、行こう。」
その後姿を見送ってからシェイはファロンを促してサロンに向かっていった。
「ここだよ。」
そういってシェイが示したのは重厚な木製のドアの前。
シェイは何のためらいもなくそのドアを開けて中に入っていく。
「ただいまー。」
「よう、お帰り。待ちくたびれたぜ。」
そういって出迎えてくれるのはビクトール。
見ればサロンにはたくさんの人間が集まっている。おそらくシェイの朝の発言が噂を呼んで、こんな時間からみんなが集まっているのだろう。
「おかえりなさい。無事でなによりです。」
そう言ってくれるのはクラウス。となりではシュウも無言でうなづいている。
「シェイ、勿体つけてないで、早く紹介しろよ。」
待ちきれない、といったように促すのはシーナ。シェイはみんなの様子に苦笑しながら未だドアの外に立っている彼女に入ってくるように促した。
けれど、彼女の足は動かない。
竦んでいるのか、とシェイはドアの外に出てそこに立ったままでいる彼女の手を引っ張って中に招き入れた。
途端に、「あっ!」とあちこちで驚きの声が上がる。そのリアクションを充分にシェイは楽しんだあと、得意げにみんなに言う。
「紹介するよ。僕の友達、ファロン・マクドール。」
シェイの少し後ろで、ぺこりとファロンが頭を下げた。
「ファロン…。」
ビクトールは突如現れた少女に驚いて言葉さえまともに出てこない。
その様子をシェイは満足そうに見ながらまずは自分の正面に座るこの軍の影の主の姿を探してその方向に体を向けた。
「ファロン、紹介するね?うちの正軍師のシュウ。君の軍師だったマッシュさんのお弟子さんだったことがあるんだよ。」
「はじめまして、ファロンです。」
ぺこんと、もう一度、およそトランの英雄に似つかわしくない動作でお辞儀をするとシュウは珍しくもにこりと笑う。
「はじめまして、お会いできて光栄です。」
シェイはそうしてその隣に控える静かな青年に顔を向ける。
「隣がクラウス。副軍師なんだ。」
「はじめまして。クラウスです。」
物静かな副軍師は穏やかに微笑んで言うと、少しだけファロンも安堵したように微笑んだ。
シェイは次々にそこに居合わせた幹部連中をファロンに紹介していく。ファロンの素性が何者であるかすぐに分かったものもいて、分かったものたちはみな一様に伝説になった少女の姿に驚きを隠せないでいた。
「それからその隣にいるのがテレーズ。グリンヒルの市長代行なんだ。」
「こんにちは、ファロンさん。」
「こんにちは。」
「で、テレーズの後ろに控えているのがシン。ボデイガードね。それからテレーズの隣がニナ。本当はグリンヒルの学生なんだけど、今はテレーズの世話係、でいいのかな?」
シェイが尋ねるとふふっとニナが笑う。
「ええ。まぁ、そんなところね。」
「はじめまして。ファロンです。」
ファロンは丁寧にお辞儀をすると、シェイに促されて隣の人物に目を向ける。
「それから、アップルは知り合い、だったね?」
ファロンは少し表情を曇らせて、こくりと小さく頷いた。一方、アップルの方はというと、これもまた少々気まずそうな顔をして頷いた。
「ええ、久しぶりです、ファロンさん。……あの時は…すいませんでした。」
アップルは、申し訳なさそうに頭を下げる。
あのグレッグミンスターの作戦後、マッシュが亡くなった時、アップルはその悔しさからマッシュが死んだのはファロンのせいだと責めたのだった。
当時、まだまだ子供だったアップルにはそれがファロンにとってどんな作用を及ぼすか考えず、ただただ、マッシュが死んでしまった悲しさからの行為だったが、あとになって、だんだんと物事がわかるようになって来るにつれ、自分がどんなに酷いことを言ってしまったのかわかるようになり、ずっと謝りたいと思っていたのだった。しかし、時すでに遅し、ファロンは旅に出てしまって、消息もわからず、今の今までアップルは謝りそびれていたのである。
「…ううん…。別にいい…。」
僅かに微笑んでそう答える瞳は悲しそうで、そのことからもまだ彼女はあの戦争の傷から立ち直れていないことが想像できる。
アップルはそれ以上、言葉を繋げることができず俯いた。
そんなアップルの様子を知らぬ振りしてシェイは紹介を続ける。
「シーナも知ってるよね。」
「ああ。久しぶり、ファロン。」
「久しぶり。…ここにいたんだね。」
「つーか、親父に無理やり。」
その明るい返事にファロンも僅かに笑う。少しだけファロンの様子が戻ったのを見て安心しながらシェイはその次に控えている男に目を移した。
「それからビクトールは、知ってるね?」
「…ええ。」
複雑な表情でうなづいたファロンに、ビクトールはよぉと軽く手をあげて答える。
「そんだけかよ、ビクトール。」
あきれたようにシーナが言うと、ビクトールは不思議そうな顔をする。
「なんで?他に何がある。」
「何がって…。」
シーナが何を言おうとしているのか察したファロンは首を小さく振ってシーナをとどめる。
「なんだよ?どうしたんだ?」
その二人のやり取りにわけが分からないといったようにビクトールが首を傾げる。
「別になんでもねぇよ。」
当の本人であるファロンに止められてしまい、それ以上の言葉を繋げることができなくなったシーナはふいと横を向いてしまった。
「ごめんなさい…。でも、久しぶりね。元気そうでよかった。」
そうは言いながらも落ち着かない瞳で、ファロンはその側に視線を彷徨わせる。それが何を意味するか、ビクトールには瞬時に分かって、その説明をしようとした時だった。
「シェイ、戻ってきたかぁ?」
ばたんと勢いよくドアが開いて、誰かが入ってくるのを、反射的にシェイも、そしてファロンもドアを振り返った。
「おかえり、シェイ。…遅れてすまなかった。ちょっと出掛けていてな。」
そうシェイに謝りながら、隣に立っているお客に目を向けた瞬間、遅れてサロンに入ってきたその男、フリックは凍りつく。
「…ファ…ロン…?」
そこには、最後に見たときとほとんど変らない少女が立っていた。しかし、強くまっすぐな、戦いの意志を秘めた瞳は、今では静かで、まるで遠くのものを見ているような冴えた瞳になっており、3年の間にファロンに起こった変化が決して彼女を楽しませているわけではないことを感じた。それでも凛とした雰囲気はそのまま残していて、やはり彼女が彼女であることを物語っている。
その姿は確かに、何度も何度も、夢に見て、そのたびに会いたかったのに、会うことも叶わなくなった少女。自分から離れて言ったはずなのに、酷くそのことを後悔して幾度も眠れぬ夜を過ごした、その愛しい少女が目の前に立っている。
「フリック…。」
桜色の震える唇が自分の名前を呼ぶ。
まだ、自分の名前を呼んでもらえることにフリックの体が思わず歓喜に震える。
あのグレッグミンスターの城で別れてから、3年。ずうっと無理やりに抑えこんできた気持ちが一気に脳まで突きあがって、本人の意識する暇もなく、手も足も、体も動いていた。
「ファロン。…ファロン、ファロン!」
その華奢な体を二本の腕の中に抱き、逃れることもできないほどきつく抱きしめた。
何度も何度もこうして抱きしめる夢を見て、そのたびに腕は宙を掻き、その腕の中に閉じ込めることは叶わなかった少女を、今、こうして抱きしめてる、それが信じられない。ファロンの体温も、存在も、鼓動も感じられることにこの上もない悦びを噛み締めていた。
そのフリックの行動に、ヒュウっと口笛をならしたのはシーナだったが、それも聞こえないほど、フリックは腕の中の少女を感じることに精一杯だった。
「会いたかった…。」
搾り出すような声でフリックが囁き、抱きしめる腕に一層力をこめる。戸惑った表情を浮かべ、フリックにされるがままであったファロンは、やがて、強張った表情から緊張がとけていくようにゆっくりと、まるで大輪の花が綻ぶような綺麗な微笑をうかべた。
「…うん…。」
たったひとことだけ、うなづいただけの返事だったが、それがひどく嬉しそうで、ファロンがそんな表情を浮かべたのを初めて見たシェイはたちまち不機嫌になる。
「フリック。…後にしてくれる?」
むっとした声でシェイが声をかけると、ようやくそこで衆人の目の前であることと、自分がしていることに気がついたようでフリックは慌ててファロンを離す。
「…あ…す、すまない…。」
そう言いながらも視線はファロンから外せない。ファロンの方は、嬉しそうな、だけどどこか悲しそうな瞳でフリックを見つめていた。
「僕のお客さんだからね。優先権は僕。」
意地悪く笑って言うシェイにフリックは真っ赤な顔でぽりぽりと頬を掻く。
「パーティー、始まるまで少し時間があるようだから、城の中を案内するよ。それから、君の部屋も。」
そう言ってシェイはファロンの手をひくと、ファロンの方もそれにつられて歩き出す。
「…それじゃあ、あとでね。」
シェイは重い扉を開けてファロンを伴ってさっさとサロンから出て行った。
「…フリック。どうだ、感想は?」
二人が出て行ったのを見送ったあと、にやにやとビクトールが笑いながら尋ねる。
「………………。」
フリックは彼女が出て行ったドアからようやく視線をはずすと、今度は無言でファロンを抱きしめていた自分の手を開いて呆然とした表情で見つめていた。
「ちょっとぉ、あの人、フリックさんのなんなんですかっ!?っていうか、何者っ!?」
目の前で、好きな男が他の女性を抱きしめているのを見て黙っていられるはずがない。ニナは叫んでフリック本人ではなく、相棒であるビクトールに向けて詰め寄っていく。
「…フリックさんって…意外と大胆なんですね…。」
可笑しそうにそう呟いたのはクラウスで、それを耳にしたトラン解放戦争参加者は苦笑する。本人、フリックは複雑な表情を浮かべているが、まだ顔は赤いままであった。そのことが、まさに彼が本能的に動いてしまったことを如実に示している。
「あれがファロン・マクドール…。若いとは聞いていましたが、まさかあんなに若いとは思いませんでした。」
感心したようにテレーズが呟くとシュウが苦笑する。
「うちだって同じです。」
「確かにそうですが。」
「だーかーらー!何者なんですっ!?」
誰も的確な返答をよこさないのに焦れて、もう一度尋ねるニナにシーナが横から答える。
「ファロン・マクドール。トラン解放軍のリーダーにして、トラン共和国の初代大統領に就任するはずだった奴。…トランの英雄っていえば分かるか?」
「え?あれが!?」
ニナは驚いてさっき彼女が出て行ったドアの方を見つめてしまった。
ゆったりとした服を着ているからよくは分からないが、おそらく普通のその辺にいる少女と変わらない。いや、もしかしたらもう少し華奢かもしれない。ニナは思わず自分の手足を見てしまう。自分とそんなに変わらないような体格。年齢はさすがに上なんだろうが、それにしても百戦錬磨の兵を率いていたリーダーにはとてもじゃないが見えなかった。
シーナがからかっているんだろうと、睨むような表情で彼を見るがその表情は真剣で。
「…あれが、だよ。…俺も会うのは久しぶりだけど。…ああ見えてもすげぇんだぜ?」
シーナの言葉に当時のファロンを知るものはみなうなづいた。どうも、シーナは自分を担いでいるわけではないと分かってニナは黙り込んでフリックの様子を伺った。
「それにしても…行方不明、と聞いていたが。」
ようやく再会の興奮も収まったフリックが呟くが、さすがに嬉しさが隠せない。どう隠しても頬が僅かに緩んでいる。そんなフリックの様子にシュウが口元だけで笑う。
「先日、マイクロトフとカミューの訓練でバナーへ行ったときに出会ったそうだ。村の桟橋でのんびりと釣りをしていたらしい。」
シュウはどうやらそのときの報告を誰かから聞いていたらしい。
クラウスは朝、カスミとモンドを呼んだのも客がファロンだと分かっていたからのことであったかと、毎度ながらシュウの行動の速さに驚かされる。
トランの英雄が客となれば、彼女の行動次第によってはデュナン軍全体の士気にも関わる。特に、今はトラン共和国から義勇軍を借りているので下手をすればトラン共和国に寝首をかかれかねない状況なのだ。ただし、上手く使えばこの上もなくデュナン軍にはプラスに働き、この戦の勝敗を一気に片付けるのに大いに役立つ。
カスミとモンドを呼んだと言う事は、シュウにはすでに彼女をどう遇するかプランがあるということだ。
彼の相変わらずの手回しのよさにクラウスはやはり自分などはまだまだだと苦笑した。
「しかし…シェイのあの言い草、まさか、ファロンに…?」
友人の呆けた顔を眺めながら面白そうに話を大きくしようとするビクトールに、シュウは呆れたようなため息をついて首を振る。
「トランとの協力関係を強固にするため、私がシェイ殿とファロン殿の婚約を薦めたら、という意味だろう。無論、私はそんな策は考えないが。」
その言葉にフリックはそっと安堵の息を漏らす。
「お?なんだ?ほっとしたか?」
ビクトールがからかうのをフリックは無言で出口の方へ歩いて行く。
「どこへ行く?」
「頭、冷やしてくる。」
それだけ言って、サロンからさっさと出て行ってしまう。
「ダメだよ、冷やかしちゃ。」
シーナが可笑しそうに笑って注意すると、ひょいと肩をすくめた。
「言葉より先に行動が出るとはな。…まだまだ青いぜ。」
笑うビクトールに一向に彼女とフリックの間柄がわからないニナが焦れたようで、怒ったようなきつい口調でもう一度ビクトールにつめよった。
「だから!あの人、フリックさんのなんなんですかっ!?」
「…何って言ってもなぁ…。」
ビクトールは二人の間柄を説明できる上手い言葉が見つからず、うーんと唸る。彼女、と言うには、まだそういった手はずを踏んでいないし、彼の知る限り、フリックもファロンも互いの思いを伝え合ってはいない。
ただ、そこらへんの恋人同士よりもよっぽど互いのことを大事にしていて、大切に思っていることは間違いない事実である。
以前はオデッサのことを思い出してぼんやりと考え事をしていたフリックは、最近ではファロンのことを考えていることが多いことも知っている。
相手が死んでしまったのならば諦めがつくが、生きてどこかにいるのならどうしたって諦めがつくわけがない。自分から決めた別れをとても後悔していたのもビクトールはよく知っていた。
「…そうだなぁ…フリックが…自分の命よりも大事にしている女?」
ようやくビクトールが見つけたのはそんな陳腐な言葉。
あのグレッグミンスターでの最終決戦のあと、城を脱出する際にフリックが命を張ってファロンをかばったことを思い出したのだ。自分を盾にしてでも彼女を守ろうとしたその行動そのままが、おそらくフリックのファロンに対する正直な気持ちである。
「そんなところだね。…もっともファロンも、だろうけど。」
その言葉を受けてシーナがくすくすと笑いながら同意する。その二人の様子に不満そうにニナが食い下がる。
「だって、フリックさん、彼女はいないって…。」
「まだ彼女、じゃないんだよ。……いろいろ、あってね。」
それきり、ビクトールもアップルもシーナも、口を閉ざしてしまった。
|