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Pickpocket / スリ #2

Contents:

  1. 落葉の記憶
  2. 月の影
  3. 泡の声
  4. 希望の路
  5. ぬけがらの影法師

落葉の記憶

 真夜中の公園のベンチに腰かけ缶ジュースを飲んでいる受験生風の冴えない少年を想像してほしい。それが、そのときのぼくの姿だ。
 もっともそこを公園と呼ぶにはためらいが残る。高架道路の下に申し訳程度に造成されたその一角はまさに猫の額ほどの広さ、いや狭さしかなかったから。よく「ボール遊び禁止」などと書かれた立て札が公園の入口に立てられていたりするけどそこにはそんなものは必要なかった。なにしろキャッチボールさえろくにできそうになかったのだから。
 街灯の光さえろくにあたらないその場所で、ぼくは缶ジュースをちびりちびりとなめていた。
 何もそんなところで、と思われるかもしれない。ぼくもそう思う。狭いし暗いしそのうえ頭の上からは車の通りすぎる音がひきりなしに聞こえてくる場所だ。落ちつく先としては最低の部類だろう。それでも弱まる気配を見せない雨を避けることはできたし、それになりゆきでしかたなくたどりついたにしては他に人影はなかったのだからひどくないと言えなくもなかった。
 なぜか、って? そのときのぼくの目にはものがぼやけしかも横に三つ並んで見えていたのだ。
 その体で目覚めたとき、それが極度の近眼のためだと認識するまでぼくはベッドの上で何回も天井を見つめたまままばたいた。それからそろりと布団を抜けだすとすべてのものに鼻をくっつけるようにして眼鏡を捜した。見つからなかった。当然と言うべきか、かわりにコンタクトのケースは見つかった。けれどレンズを目に入れてみる勇気はなかった――記憶にあるかぎりコンタクトレンズをためしてみたことはなかったから。もっとよく捜してみればいいのだけれど翌朝目を覚ます体の主が不審がるといけないからあまり派手なことはできない。そんなわけで結局その夜のぼくはぼやけた視界で過ごすことになったのだ。
 やれやれと思いながら玄関を出てみると外は雨が降っていた。
 行くか戻るか、軒下に立ったままずいぶん長いあいだ思案した。雨はかなり強い調子で降っていて散歩に向かない天気だということは一目瞭然だった。かといって部屋に戻っても漫画を読むのも苦労しそうな視力ではCDかラジオを聞くくらいしかすることはなさそうだった。いつも外を徘徊するぼくにとってそれはかなり気の滅入る状況だ。
 悩んだ挙げ句、ええいままよ、とばかりにぼくは雨に濡れる夜の街に足を踏みだした。
 十歩も歩かないうちにそれがおおまちがいだということはいやというほどよくわかった。なにしろ足元の様子がほとんどわからないのだ。街灯がそれほど多くない住宅街ということも手伝ってアスファルトの路面のどこが水たまりでどこがそうでないかそのときのぼくにはほとんど見分けがつかなかった。いったい何度派手な水しぶきをあげたことか。勢い足取りは慎重にならざるを得なくなりその分だけ気苦労も増える。そうやって気を使ってもけっきょくは水たまりにぶつかってしまうのだ。最初の交差点にたどりついたときにはもうすっかり嫌気がさしていた。
 かといってそのまますぐ戻るのもしゃくだった。スリのぼく、いつ誰の体を借りて目覚めるのかわからないぼくにとっては目覚めそのものが貴重な機会だ。おとなしくなんてしていたくなかった。吐息ともため息ともつかない調子であいまいに息を吐きだすとぼくはあたりを見まわした。
 そのときになってようやくぼくは脇に立っている掲示板に気がついた。
 向きあって顔を近づけてみるとそれは広域避難所の案内だった。整然とした街路図のところどころが濃い緑色で塗りつぶされている例のあれだ。ぼくはなんとはなしに現在位置をたしかめた。
 と、さほど離れていないところにあるちいさな公園がいっしょに目に入った。
 とりあえずそこまで行ってあとはまた考えよう――そう決めたぼくは高架下までそれまでにも増してゆっくり慎重に歩いた。
 着いてみるとまあ部屋にいるのと大差ないんじゃないかと思うような空間だった。いつもなら長居などする気にもならなかっただろう。しかしとりあえず雨をしのぐことはできたし、それにぼくはそこへ行くまでにかなりの数の水たまり地雷を爆発させて疲れきっていた。とにかくここに腰を落ちつけてしまう、そう妥協するとぼくは近くの自動販売機で缶ジュースを買って(もちろんこのお金はぼくのものではない。自分勝手な言いぐさだけど迷惑かけられているんだからこれくらいいいだろうという気分だった)ベンチにどかっと腰をおろした。そんなわけではじめに話したようなさまになったのだった。
 一口飲んで息をつくといくらかおちついた。そうすると悪い視力でもあたりの様子がそれなりにわかった。いくら狭いとはいっても公園の体裁をしているだけあって緑がけっこうあるのはありがたかった。もっともまわりをぐるりと囲むそこそこの幅の生け垣のせいで公園がさらに狭くなっている感はなきにしもあらずだったが。
 雨は降り続いていた。高架の上では姿の見えない車がさまざまな音だけを残していそがしく行き来していた。真夜中に車を走らせるドライバーの顔を想像してみようとしたことを覚えている。恋人を隣に乗せた幸せな人もいるだろう、積み荷を早く運ばなければいけない人や急病の知らせを聞いて取るものもとらず駆けつけようとしている人もいるに違いない、などなど。
 ひとつだけ、ぼくみたいな人がいないことだけははっきりしていた。そのせいかどんな顔もうまく想像できなかった。

 がつっ、という剣呑な響きに注意を引き戻されてぼくはあわててあたりを見まわした。
 発生元はすぐにわかった。夜の公園で動く影はそれしかなかったから。その背の低い影は右斜め向かいのベンチのうしろで全身を揺らして何事かをなしていた。影の頭のあたりが低くなるたびにがつっ、がつっ、という音が鈍く響いた。
 そのときのぼくの目では何をしているやらさっぱり見当がつかなかった。ものが横に三重に見えるようではそれも無理はないだろう。しかし音の様子からその人影が凶器になりそうなものをなにやらあやつっていることだけはまちがいなさそうだった。人影が何をしているのかを見きわめようとぼくはがんばって目をめいっぱい細めた。
 棒のようなものを両手で持って下に動かしていた人影はしばらくそれをくりかえしてから棒をベンチの背にたてかけた。握った両手を背中の腰のあたりにあててうんと伸びをし、それからすっとかがみこむ。立ちあがったその手にはベンチにたてかけているのよりもっと見にくい(つまり細い)棒を手にしていた。
 その棒をまっすぐたてると人影はしばらくもそもそと揺れるように動いた。それが終わったときには棒は手を放しても立ったままだった。人影はベンチにたてかけておいたほうの棒を手に取りふたたびそれを地面に突きたてるように動かした。前のような硬い音はもうしなかった。
 やがてまた手に持つ棒をベンチにたてかけると人影は両手を高架めがけてまっすぐ伸ばしてぎゅうっと伸びをした。その手を下におろし、すこし背中を丸めた姿勢でベンチの前にまわりこんで腰をおろした。やれやれという声が聞こえてきそうな感じだった。それからうつむいてなにやらもそもそと顔の前で手を動かすと煙を高く吐きだした。
 下におろされたその視線はぼくをまっすぐとらえた。相手の目がどちらを向いているかなんてろくにわからなかったのになぜかそれははっきりとわかった。
「おやまあ、あんた、なんて目で人のことをにらみつけるんだい?」
 太くて豊かな女性の声だった。
 ぼくは一瞬きょとんとし、すぐに苦笑を浮かべた。おもいっきり細めた目で人を見たらどんな顔になるかそのときまで考えもしなかったのだ。
「まあ夜中に公園で穴掘りをしているおばさんなんてのはどっから見てもあやしいんだろうけどねえ」
 大声で言い放つとおばさんは豪快に笑った。
「穴掘り、ですか?」
 推測がまちがっていなかったことにほっとしながらぼくは訊いた。と、一瞬の空白を置いてふたたび言葉が返ってきた。
「おやまあ、あんた、わかんなかったのかい?」
「はあ。近眼なんです」
 なんとなく申し訳ないような気になってぼくはちょっと頭をさげた。おばさんがどんな表情をしたのかはわからない。ただしばらく間があってからおばさんはぼくを手招いた。
「おいで。その目で見てみるがいいさ」
「――えっ?」
 ぼくは何度かまばたいた。おばさんは手招きを続けた。ぼくは肩のあたりをこわばらせてすこし身を引いた。何を見せようというのか予想がつかなくて。
 ためらっているとおばさんはぼくにまっすぐ声を届かせた。
「こわがらなくたっていいよ、別に取って食おうってわけじゃないから。そりゃあんたの気持ちもわからないでもないけどさ、あんただって真夜中の公園に一人ぽつねんと座ってたんだ、誰かをこわがらせるには充分だろう。おたがいさまだよ。さ、納得したならこっちおいで」
 たぶんおばさんは笑って見せたに違いない。手招くその姿はいやに堂々というか確信ありげというか自信満々というかそんな感じだった。
 ぼくはすこし迷ってから腰を浮かせた。他にすることがあるわけでもなかったし、それにおばさんの声には近づいてもいいと思わせる人を魅きつける率直さがあった。
 隣に腰をおろしてあらためて顔を見るとおばさんはにっと笑った。
「それ、一口おくれよ」
 答える間もなくおばさんは伸ばした手でぼくの持っていた缶を取りあげ口をつけるとごくっ、ごくっ、ごくっ、と小気味いい音をたてて飲んだ。戻ってきた缶の重さは半分くらいになっていた。なんと言っていいかわからずただ缶とおばさんを交互に見るとおばさんはまたにっと笑った。
「おいしかったよ」
 ぼくはなんとなくちいさく息をついた。
「それで、なんで穴なんか掘ったんですか?」
「まあもうちょっとお待ちよ。すぐにわかるから」
 おばさんの口調にはちょっと得意げな感じがあった。笑うその顔は次の瞬間ぼくのほうへぐいっと突きだされた。迫力にぼくは思わず身を引いた。
「それにしてもあんた、こんな時間に一人で何してんだい? 勉強のあいまの息抜きかい? なんにせよいい若い者が真夜中うろちょろするっていうのはちょっと感心しないねえ」
「えっ? いや、あの――」
 言いかけた言葉は空にまぎれて消えた。スリであるぼくのことを説明してもわかってもらえないんじゃないかという気がして、それ以上言葉を続けられなかった。
 そんなぼくの気持ちに気づいたのかどうか、おばさんは含むようにすこし笑った(不思議なことにこの距離まで近づくと像ははっきりしないのに表情はなんとく感じとれた)。
「ま、あたしも人のことは言えないやね」
 すっと立ちあがるとおばさんはベンチのうしろへと動いた。
「さて、今日はどんなもんかな、と」
 ベンチにたてかけておいたほうの棒をつかんでにやりと笑い、おばさんは地面に刺して立ててあるほうの棒の根元あたりにそのシャベルを突きたてはじめた。
 シャベルは見る間に棒の根元から土を取りのけた。顔をしかめてそれを見ていたぼくはそのうちに様子がどこかおかしいことに気づいた。土は着実に取りのけられているのに棒はいっこうに倒れる気配を見せないのだ。
「ふむ……今日はいまいちかな?」
 言いながらおばさんはシャベルの動かしかたをすこし変えて棒の根よりもそのまわりの土を丁寧に除けはじめた。すこしずつ姿をあわしはじめた棒の根にあるものを見きわめようとぼくはベンチの背から身を乗りだした。けれどその距離からそれが何かをたしかめるにはそのときのぼくの視力は悪すぎた。
「……ま、こんなもんかねえ」
 あらかた土を取りのけるとおばさんはシャベルを棒の根元の下におもいっきり刺した。がつっという固い音が高架道路に不気味に響いてぼくは思わず首をすくめた。
「ほら見てごらん。どんなもんだい?」
 それはおそるおそる目を開いたぼくの鼻先にあった。シャベルの上に乗ったそれをぼくは目を細めてにらみつけた。そうしないとかたちをとらえることができなかったから。
 土で薄汚れているそれはぼくの目にはゼリーのように映った。無色で半透明、全体が小刻みに震えていたのだからそれはあたりまえの連想だろう。ただしおおきさは違った。つぶれたバレーボールくらいのおおきさのそれはシャベルの大半を占めていた。
 ぼくは視線をおばさんに転じた。
「これ、なんですか?」
「さあ、なんだろね」
 おばさんはシャベルを引くと穴の手前にそっとそれを置いた。
「――知らないんですか?」
 ぼくは目を丸くしていたはずだ。登り終えたはしごをはずされたような気分だった。
「そう、知らないんだよ」
 おばさんはゼリー状のものに刺さっていた棒を抜いてベンチにたてかけた。
「あたしゃ頭が悪いからね、こいつが何かなんて調べたってきっとわかんないよ。だけど、こいつがあたしを呼びだすってことだけは知ってる」
 片手に持ったシャベルを地面に突きたて、もう片方の手を腰にあてておばさんは息をついた。いつのまにかちょっとにごった雰囲気がおばさんをとりまいていた。
「……尻のあたりがむずむずするんだよ、こんな日の夜は。はじめは何が原因かわからなくてねえ。気づいちまうとどうにも眠れなくて、まんじりと夜を過ごしたもんだよ。それが、ある晩起きだして植木いじりをしていたらこれを見つけてね、もちろんもっとちいさかったけど。ああ、こいつがあたしを呼んでたんだ――そうわかっちまったんだ。こいつとのつきあいはそれ以来さ。まったく何の因果なんだかさ」
 言葉を切るとおばさんはやれやれとでも言うように首を横に振った。それは、けれどかならずしも否定的な意味だけがこめられているわけではないようだった。
「掘ってまわってるんですか?」
 ぼくの問いにおばさんは落としていた視線をあげて横目でぼくを見た。
「そ。と言いたいとこだけど、そこまではね。遠出なんかできないし、それにだいたいそんなにたびたび出てくるわけでもないし。こんなのにいくつも出てこられちゃたいへんだよ。あたしだけじゃない、みんなの体が持たなくなっちまう」
「……?」
 ぼくは疑問の目をおばさんに向けた。応えるようにおばさんはにやっと笑った。表情は元の調子に戻っていた。
「じゃ、もったいつけるのはそろそろやめにしようか」
 おばさんは背筋をぴんと伸ばしてシャベルを頭上高くふりあげた。その姿はまるで剣道の選手のように決まっていた。
「よーく見ておくんだよ。――そらっ!」
 掛け声一閃、おばさんはシャベルの背をゼリーに対しておもいっきりふりおろした。
 ゼリーははじけた。
 その瞬間の映像はまるでスローモーションのように鮮明に記憶に残っている。かたちあるものが粉々に砕けつぶされたというのとはまったく違った、なんと言えばいいか――そう、ものすごい力で圧しつけられていたものがその圧力から解放されて自由になったという感じだった。
 かけらはあらゆる方向へと飛び散った。シャベルを突きぬけて上へさえも。遠く離れるにつれてそれはさらに細かく分かれた。その様子はぼくにはまるで世界に溶けているように見えた。けっこうな量がおばさんに、いくらかはぼくにぶつかり、そして跡形もなく消え去った。
 と同時に、気分がすっと軽くなった。
 ぼくは胸のあたり、かけらを浴びたあたりを見おろした。
 ふと顔をあげるとシャベルを脇に立てその上に肘を乗せたおばさんがにやにや笑いながらぼくを見ていた。
「どうだい? こういうことだよ。わかったかい?」
 ぼくはちいさくうなずいた。

「あーあ、すっかり遅くなっちまった」
 おばさんは肩に手をあて首を二、三回横に倒した。次の瞬間には火のついたタバコがその唇にくわえられていた。
「座って休んだらどうですか?」
 ぼくの言葉におばさんは煙を高く吹きあげて応えた。
「そうゆっくりしているわけにはいかないよ。帰って寝ないと朝がきついからね。おとうちゃんとタカシを叩き起こして弁当持たせて送りださなきゃいけないんだから。まったく主婦ってのも楽じゃないよねえ。その上こんなことまでやんなきゃいけないんだからさ、まったく」
 ぶつぶつ言いながらおばさんはタバコを落とすとかかとで踏み消した。言うほどたいへんそうではない感じだった。
「さ、あんたもそろそろ帰ってお休み。夜更かしして勉強しても遅刻したんじゃ本末転倒だよ」
「はい。これを飲んだら帰ります」
 ぼくは缶を頭の高さまで持ちあげて軽く振った。満足げな顔でうなずくとおばさんはベンチの下に転がっていた傘を取りあげ開いて空いたほうの手でシャベルと棒を脇にはさんだ。
「じゃ、元気でね」
 去りぎわに肩越しにふりむいてそう言うとおばさんは雨の中へと歩いていった。
 ぼくはそのうしろ姿をしばらく見送った。それからきれいに埋め戻された穴の跡に視線を転じて缶の残りに口をつけた。
 あのおばさんはぼくのことがわかっていたんじゃないか、そんな気がした。
 けっきょくぼくは自分がスリだということを一言も話さなかった。おばさんも個人的なことは何も聞こうとはしなかった。でもそしたらなぜぼくに作業を一部始終見せてくれたんだろう? 他に理由は思いつかなかった。
 それに、これはまったくの推測に過ぎないけど、おばさんは自分のしていることをわかってもらえると思ったのではないだろうか? ありかたは違えど同じ日常の縁をさまよう者同士として。
 だとしたらそれはあたっていた。ゼリーがはじける瞬間、ぼくはたしかにそれが世界からなにかを奪っていくのを感じたから。
 おばさんは世界に澱んで溜まった思いを解放しているんだ――ぼくはそう信じている。
 もっとも実のところそのときのぼくにとってそれはどうでもいいことだった。胸の中にたしかに残っていた解放の感触はぼくをいい気分にさせてくれていたから。
 雨は変わらない調子で降り続いていた。空き缶をもてあそびながらぼくはいつもより早いけどそろそろ戻ろうかなどと考えていた。

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月の影

 あの瞳は、もしかしたらぼくを見ていたのかもしれない。

 海辺で風が強いとくればこれはもうとことん外出には向いてない――その事実をぼくは砂浜を歩きだして何分もしないうちに自分のものではない体でいやというほど思い知らされていた。
 理由があってそんなことをはじめたわけではなかった。しいて言えば家を出るとすぐに堤防とそこに空いたトンネルが見えたので好奇心にかられたまでのこと。スリのぼくにとって目覚めは偶然に過ぎない。トンネルの先にあるのが海だということさえそのときのぼくは知らなかった。
 そんなぼくに潮風という現実は容赦なく吹きつけた。
 すぐに戻るのもしゃくだからそのまましばらく歩きつづけた。首をすくめパーカーの襟を立てて。けれど風は一向に弱まる気配を見せなかった。半ば意地になって砂浜に足跡を残していたぼくもしだいに弱気になって戻るかそれともとにかく次のトンネルまで歩くかを心の中で秤にかけはじめていた。
 あと十歩歩いて次のトンネルが見えなかったら引きかえそう――ついにそう決心したそのとき、目と鼻の先をなにかがものすごい勢いで横切った。
 ぼくはあっけにとられてその場に立ちどまった。二、三秒そのまま立ちつくし、それからあわてて海のほうに顔を向けた。借りものの目が信用できるならぼくが見たなにかは海に向かってまっすぐ走っていったはずだったから。
 はたして、波打ち際にそれまでなかった影が姿をあらわしていた。
 月明かりに浮かぶその姿は若い男の子に見えた。寒いほどだというのに何を考えているのか着ているのはTシャツに短パンで、その上足は膝まですっかり海に入ってしまっていた。思わずぼくは身震いして体をちぢこまらせた。
 と、どこかあさってのほうを向いていた男の子の頭が不意にぼくにまっすぐ向いた。
 あっ、と思ったときには視線が正面からぶつかっていた。
 さぞかしまぬけな顔をしていたことだろう。そう思うのには理由がある――男の子の顔がまさしくそうだったから。そのまましばらくぼくらは互いに相手のまぬけ面をただながめた。
 やがてあっけにとられていた男の子の顔ににやついた笑みが浮かんだ。
 しまった、そう思ったときにはもう遅かった。男の子は水しぶきを跳ねあげぼくへとまっすぐ走りだしていた。あまりの勢いに逃げたほうがいいかと考える余裕さえなかった。男の子はあっという間にぼくの目の前まで来ていた。
 もうすこしで手が届きそうな距離で立ち止まると男の子はにやにや笑いながらぼくを見つめた。まだ落ちついた上半身にくらべ下半身は浮かせた足の裏をふくらはぎにこすりつけるというのをたがいちがいに何度もくりかえしていた。
 ぼくは相手の顔をただ見かえすしかなかった。やばいことにならなきゃいいけど、頭の片隅ではそんなことばかり考えていた。喧嘩にでもなって怪我したりしたら本来の体の持ち主に申し訳がたたない、と。
 そんなぼくの考えなどまったく意に介さない様子で男の子はいきなりぼくに挑むように顔を近づけた。
 反射的に身を引いた。体は知らずしらずのうちに身がまえていた。
 けど男の子は殴りかかってくるわけでもなく、ただ目と口を横に細くしてにっと笑っただけだった。
 どことなく拍子抜けしつつ緊張をすこし解いた瞬間、男の子の口がおもいっきりおおきく開いた。
「お話のヒロインって、なんで美人ばっかりなのかなあ?」
「――はあ?」
 あまりに意表をついた言葉に思わず声が漏れた。と、男の子はわが意を得たりとばかりににたっと笑った。
「美人とかきれいとかかわいいとかって言葉、まるで安売りみたいにいろんなところでたくさん使われるけどあれってどんなもんなんだろう? 十人並みとかえらが張ってるとか鼻が低いとか目つきが悪いとか、そんなふうに書いてあることなんてめったにないよ。そりゃあしょせんお話なんだから夢があるほうがいいってことはあるかもしれないさ。でも全部が全部それっていうのはちょっと安易じゃない? もうちょっと描写にバリエーションがあったっていいと思うんだよね。細部の積み重ねが全体をあらわすわけでもないし全体が細部を説明しつくすわけでもないんだから。ね、そう思わない?」
 一気にまくしたてると急に口を閉ざし不安そうな顔つきになって男の子は上目づかいにぼくの瞳をのぞきこんだ。
 ぼくは口の中にたまった唾を飲みこんだ。
 勢いに圧倒されてどう答えればいいのか見当もつかなかった。いや、それ以前にいまの言葉がはたしてぼくに向けられたものかどうかがわからなかった。それでも男の子はぼくをまっすぐ見つめていた。とにかく口から出す言葉はないかとぼくは必死になって考えた。
 ようやくそれらしいものが見つかったと思った瞬間、男の子は頭をおもいっきりのけぞらせて星空を見あげた。いつのまにか顔には晴ればれとした笑顔が浮かんでいた。
 引かれていた手を途中で放されたようなこころもとなさを覚えながらぼくはただ口を開けて男の子の顔を見つめた。

 寒風吹きすさぶ夜の砂浜にずっと座っているのはなかなかつらいものがある。いったいぼくは何をしているんだろう、そう心の中で問いかけることも二度や三度ではなかった。
 堤防を背にして腰をおろしたぼくの横にはあの男の子が座っていた。男の子の視線はきれいにまんまるな月に向かっていた。希望に満ち満ちているように見えるその横顔を見るとぼくはそっとため息をついた。
 なにも好きこのんでくそ寒い中座りこんでじっとしているわけではなかった。できることならさっさと海辺から離れて体をあたためたかった。それが無理ならせめて潮風があたらない場所に身を隠すだけでもよかった。何もせずただじっとしている状況を変えられるならすることはなんでもよかった。
 男の子がそれを許してくれなかった。
 焦点は定まっているのに何を見ているのかよくわからない男の子の視線はじっとしていると見向きもしないくせにぼくがすこしでも動くと目ざとくそれをとらえた。するとそれまであさってのほうを向いていた顔がくるっとぼくのほうに向きなおって実にたくさんの言葉を浴びせかけはじめるのだ。たとえばこんなふうに――
「道路って世界中にたくさんあるけど、そのうち必要な数ってどれくらいかな? 車の数と道路の数をくらべてみればわかるかな。車が走らない道路だってたくさんあるはずだよね。人が歩く道なんて道路じゃなくたっていいのになんでもかんでもそうしちゃうから数が増えるんだ。ちょっと減らしたほうがいいんじゃないかなって思うよ。そうじゃない?」
 あるいはこんなこと――
「あんなにたくさんの人が狭いところに押しこめられてるなんてもったいないよな。先生がいなけりゃみんなもっといきいきしてるんだからそのパワーを生かしたほうがいいのに。どうせ授業なんて誰も聞いてないんだし。無駄は無駄であったほうがいいと思うけどそれは無駄じゃないものがあってはじめて生きてくるわけで、全部無駄ばっかじゃほんとうに無駄じゃん。そんな無駄のために何年も囲っておくなんてそれこそ最大の無駄だよ。無駄な抵抗はやめにすればいいのにさ」
 などなど。
 言葉を切るたびに男の子は上目づかいにぼくの瞳をのぞきこんだ。その不思議にまっすぐな視線は反応を切実に求めているように見えた。だから最初のうちは返す言葉をいっしょうけんめい考えた。けれどうまい言葉が見つかる前にいつのまにか男の子の視線はすっとぼくを離れてどこか遠くに向いてしまうのだ。男の子は本当にはぼくを見てはいないのだ、そう気づくまでにはそんなことを何度もくりかえさなければならなかった。
 しかしそれに気づいたからといって男の子がぼくのことをすっかり忘れ去ってしまうわけもなかった。結局そのまま動くことができず、ぼくは男の子と並んで座りつづけるはめになったわけだった。
 よく見ると男の子の体つきはぼくの借りものの体とたいして変わらなかった。歳もたぶん同じくらい、十代後半から二十代前半だろう。けれど男の子はとてもそんな歳とは思えなかった。しゃべりかたと表情が男の子を年齢よりもずっと子供に見せていた――精神の発達が肉体の発達に追いついていないことは明らかだった。
 ぼくはといえば自分から声をかけようとはしなかった。試してみるまでもなく、男の子がぼくの言葉に耳を貸すとは思えなかったから。
 結局のところ、ぼくらは二人ではなく一人ずつでいるのだった。ただ並んで座っているだけで。
 ひときわ強く吹きぬけた風にぼくはパーカーの襟を立てた。波の音があたりを包むように響いていた。ぼくはなんとなく男の子の横顔に目をやった。彼は何を考えてここにいるのだろうと思いながら。
 つぶやきが聞こえたのは一瞬風が凪いだそのときだった。
「……スイッチを、うまく入れられないんだ」
 自分の耳が信じられず、ぼくは目をまるくして男の子を見つめた。
 男の子は水平線の彼方に目を向けていた。まるでぼくから顔をそむけるように。そのせいで表情ははっきりとはわからなかった。けど様子が変わったことは顎や顔の輪郭から見てとることができた。
 思わず言葉が口をついて出そうになるのをぼくはぐっとこらえた。自分から声をかけてしまったらまた元の状態に戻ってしまいそうな気がして。
 しばらく波の音だけが続いた。
 やっぱり空耳だったか、そう信じかけたころふたたび男の子の声がぼくの耳に届いた。
「いつもそうなんだ。うまくいかないんだ。みんな普通にやってることなのに、ぼくだけできないんだ。
 なんでだろう? 簡単なことなのに。そう見えるのに。ちょっと手を伸ばしてパチってすればいいだけなのに。
 でも、できないんだ」
 ひときわおおきな波が打ちよせて去っていった。
「できなくたっていいじゃん。そう思う?
 そりゃこまらないさ。でも仲間には入れない。入れてくれないし、入れない。あたりまえだよ、ぼくだけ違うへたくそなやりかたでスイッチを入れたり消したりしてるんだ。それじゃいっしょに遊べやしない。
 わかってるさ、そんなこと。でもどうしようもないんだ。ぼくはぼくのやりかたでスイッチを入れるしかない――みんながみんなのやりかたでやってるみたいに」
 最後の言葉は波の音に消されそうなくらいちいさかった。
 微動だにしなくなったその姿をぼくはただじっと見つめた。
 男の子の言葉をどんなふうに受けとめていいかわからなかった。
 すくなくとも男の子が自分自身について話したということは疑いようがなかった。その中身も。けどそれがぼくに向けられた言葉だという確信は持てなかった。それまでの男の子の態度とあまりに違いすぎて。
 そもそもなぜ男の子がいきなりこんなことを話しだしたのかがわからなかった。
 ――やれやれ。
 ぼくは目を閉じて首をちいさく横に振った。
 深く考えてもしょうがないか、そんな気がした。考えてみれば男の子が普通の意味でのコミュニケーションをはかろうとしているのかそれ自体がわからないのだ。もちろん推測することはできる。でもその意味はあくまで男の子自身の内にあるのだ。下手に推測してなんになるだろう?
 そしてそんなこととはかかわりなく、じっとして動かない男の子の姿には心を動かすものがあった。
 だから目を開いたときに言葉は自然に口から漏れた。
「いいんじゃない? それはそれで。それが――違ってることが、自分でわかってるなら」
 それはぼくの本音だった。他人と同調できないのはぼくも同じだったから。どんなことであるにせよ自分ではどうにもならないことはあるのだ――その事実をぼくは体験的に理解していた。
 ぼくの場合それはスリという自分の在りかたそのものだった。
 この男の子にとってはなんだろう?――そんなことを想いながらぼくは言葉を切った。
 瞬間、男の子の耳がぴくっと震えた。
 言葉の連打の予感にぼくは身がまえた。と、予感とは裏腹に男の子はひどくゆっくりした動作でふりむいた。緊張のゆるんだ顔がぼんやりとぼくを見た。ちょっと拍子抜けした感じでぼくは緊張を解いた。
 間髪入れずに男の子は頭をぼくに向かって突きだした。
 ほとんど触れんばかりに近づいたその顔のあまりの迫力に思わず座ったままあとずさった。息をはずませて見かえすと男の子はおもしろがるようににやーっと笑った。
 それからやおら立ちあがるとなにやら声をあげながら海へとまっすぐ駆けだした。
 ばしゃばしゃとしぶきを跳ねあげて海に入っていくと水を手ですくってあたりにまき散らしはじめた。
 ぼくはその姿をあっけにとられてただ見ていた。
 ――どうする?
 その言葉が脳裡に浮かんでぼくは我にかえった。
 堤防から海まではけっこう距離があった。走って去れば気づかれずに来たトンネルに戻れそうだった。気づかれても街中に入ってしまえば男の子を振り切るのは充分可能に思えた。そう、それは男の子と別れる願ってもないチャンスだった。
 けれどぼくは逃げることにためらいを覚えてもいた。
 ぼくの一部が男の子の行動の意味を知りたがっていたから。ぼくの言葉が男の子に通じたのかどうかを。
 知る術が、しかしぼくにあるわけでもなかった。
 吹きすぎた一陣の風がぼくの心を決めた。
 ぼくは首をすくめてあたりを見まわした。おさまっていた風がふたたび強く吹きはじめていた。気まぐれな天気は海岸から人を追いだしたがっているようにぼくには感じられた。
 ぼくは男の子に視線を戻した。
 膝まで海につかった男の子は両手を腰にあてて水平線の彼方をじっと見つめていた。月明かりに浮かぶその姿はどこか非現実的だった。ぼんやりと光るその輪郭から男の子の考えを読みとることはぼくにはできなかった。
 立ちあがって尻についた砂を払い、ぼくは視線をそらして歩きだした。
 男の子に見つかってつかまってもいい、そう思っていたから急ぎはしなかった。けれど吹きすさぶ風はぼくの足を自然に速めた。ぼくは複雑な気分で足を進めた。
 結局出てきたトンネルにつくまで何事もなかった。
 そのままトンネルを通り抜けることもできた。でもぼくはふりかえらずにはいられなかった。
 海に目を向けたぼくはそのまましばらく立ちつくした。
 男の子はぼくに向かって深々と頭を下げていた。
 両足はまだ海につかったままだった。打ち寄せる波が膝のあたりを洗った。けれども男の子は動こうとはしなかった。ただぼくに向かってずっと頭を下げていた。
 その姿をぼくは肩越しにふりむいたままの中途半端な姿勢で見ていた。
 どれくらいそうしていただろうか。やがて男の子はゆっくりと上体を起こしてぼくを見た。
 そして笑顔で手を振った。
 ついさっきまでとは違いその顔は子供のそれではなかった。大人と呼ぶにはまだすこし早いけれどたしかに長い年月を経て成長してきた少年の表情だった。
 月光に照らされたその顔は明るく輝いていた。
 知らぬ間に笑みがこぼれた。ぼくは少年に応えるように固めた右の拳を天に向かって突きあげた。
 振っていた手を静かにおろすと、もう一度、今度はちいさく、男の子はおじぎをした。
 手をおろしたぼくはおおきくうなずいてトンネルへと歩きだした。

 トンネルを抜けると風はいくらかやわらかくなった。
 堤防から離れるように歩きながらぼくはほっと息をついた。砂浜と住宅街では明らかに寒さが違った。ぼくは冷えきった手で口元を覆うと息を吐きかけて掌をこすりあわせた。
 歩きながらまだ海にいるだろう少年のことを想った。
 ぼくの言葉があの突然の変化をひきおこしたのかもしれない、そう考えるのはなんとなく気分がよかった。
 もちろん変化の原因そのものは彼の内にあるに違いない。あるいは彼ははじめからふりを装っていただけかもしれなかった。しかしそれでもぼくの言葉がなんらかのきっかけになったと考えるのはまちがってない気がした。そう、たしかに彼はそれまでとは違う姿を見せてくれたのだから。
 風変わりなコミュニケーションでぼくたちは互いにさえよくはわからないなにかを伝えあっていた。
 ぼくは男の子の瞳を思いかえした。あの何も見てはいないように思えた瞳を。はじめにそう思ったのはまちがっていたのかもしれない――あの瞳ははじめからぼくを見ようとしていたのかもしれない。スリのぼくを。借りものの体の中にいるぼくを。
 ――はたしてぼくの姿は映っただろうか?
 そんなことを想いながらふとぼくは足を止めて空を見あげた。
 月は高度を落としはじめていた。星は激しい瞬きをくりかえしていた。夜が開けるまでにはまだ時間がありそうだった。
 強く吹きぬけた風にぼくは身を震わせた。
 ――さて、どうしようか?
 とりあえずぼくはまた歩きだした。波の音を打ち消すように車の走る音が聞こえてきた。

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泡の声

 煙は灰色の空に向かっていつまでもまっすぐ昇っていた。

 雪のうっすらと積もる土手の上を歩いていた。
 他に足跡はなかった。
 あたりにはまだいくらか小雪が舞っていた。しかし気になるほどの降りではなかった。吐く息の白さのほうがよっぽど目に染みた。
 寒さは着てきたダウンジャケットが完璧に防いでくれて両手をポケットにつっこんでしまうとほとんど気にならなかった。
 なかなか快適な夜の散歩にぼくは気分よく雪を踏みしめた。
 右手側には広い河原とそれよりさらに広い幅の川が広がっていた。左手側には住宅街。どちらも街灯の青白い光に冷たく照らしだされていた。
 静かだった。
 ――まるで街中から人が消えてしまったみたいだ。
 ふとそんなことを思い、続けてこうも思った。
 ――めったにない雪化粧にみな家でおとなしくしているのかもしれない。
 しかしそれが本当のところどんな感じなのかはわからなかった。スリのぼくにしてみれば景色はすべてはじめてのもの、ただ一度かぎりのものに過ぎなかったから。
 と、遠くのほうからバイクの音が聞こえてきた。
 ぼくは足を止めて耳を澄ました。
 左斜め前からしだいに近づいてきたエンジン音は前方を横切ってすこし先の陸橋の上を去っていった。
 ぼくはしばらくその軌跡をじっと見つめた。
 ふたたび歩きだそうと視線を戻したとき、影のようなものが目にとまった。
 二、三度まばたいて目をこらした。
 それから疑問に目を細めた。
 影のように見えたものは煙だった。
 風のせいかほんのすこしだけ揺らぐそれは舞う雪に逆らうように天へと昇っていた。
 ――焚き火?
 ほんのすこし首をかしげ、あらためて位置をたしかめた。
 煙は陸橋の向こう側、水辺の近くからあがっていた。
 ぼくは河原に目をやった。土手の上と同じように河原も雪に薄く覆われていたが生い茂る草木を隠してしまうほどではなかった。
 ぼくはすこし考え、それから煙を見てふたたび歩きだした。
 橋を行きすぎたところで足を止めた。
 煙は考えたとおりのところからあがっていた。火種も予想通りのちいさな焚き火だった。ただ不思議なことにそのまわり数メートルの範囲には雪がまったくなかった。
 焚き火の脇では腰をおろした人影が火になにかをくべていた。
 他に動きはなかった。
 ぼくはしばらく人影の動きをながめた。
 それから道を逸れてゆっくりと慎重に河原へと降りはじめた。
 人影はぼくに気づいたそぶりさえ見せなかった。
 その横で足を止め見おろすとようやく顔をあげた。
 炎が無表情な顔を照らしだした。
 初老の男の顔だった。
 ほんのすこしのあいだ興味なさそうにぼくを見ると男は視線を焚き火に戻した。
 ぼくは男とそのまわりをさっと見た。
 服はお世辞にもきれいとは言えなかった。長い髪の毛も固まりかけて脂っぽく光っている。脇にかかえこんだおおきな袋はぼろぼろであちこちほころびていた。どういう理由かあまり臭いが感じられないことにぼくはひそかに感謝した。
 それだけのことを見てとるあいだ男は袋の中に手をつっこんでがさごそと中をかきまわしていた。
 やがて動きを止めると手を引き抜きつかんだものを炎へとさしだした。
 ぼくは目をこらしてそれを見た。
 短冊だった。
 真っ黒な、闇よりも濃い墨に染められたような紙だった。
 その上に、幾筋かの線が炎に淡く浮かびあがっていた。
 哀という字だった。
 ぼくが見つめる中、男は短冊を無造作に焚き火に投げ入れた。
 短冊は引きこまれるように炎までただよい、一瞬で燃えつきた。
 灰が炎にあおられて舞いあがった。ぼくは顔をあげてその行方を追った。ちりじりになった灰は煙とともにどこまでも高く昇っていった。目に入った雪に思わずまばたきすると次の瞬間にはもうどこへ行ったのかわからなくなっていた。
 ぼくは息を吸いこんで視線を戻した。
 男は別の短冊を手にしていた。
 今度のには憎と書かれていた。
 同じように男は短冊を炎の中に投げ入れた。
 同じことを男は何度もくりかえした。短冊はどれも同じで、ただ書かれている字だけが違った。愛、恨、楽、悲、喜、祈、想、現、夢、幻、創、壊、呪、情、怨、包……。たくさんの字が炎に焼かれて消えていった。
 ぼくは飽きもせずただそれをじっと見ていた。
 やがて袋に手をつっこんだ男がわずかに顔をしかめた。
 取りだされた手はもう何も持ってはいなかった。
 黒く汚れたその手を男はしばらく見つめた。
 それから不意に視線をぼくに転じてその手を伸ばした。
 面食らったぼくは思わず身を引いた。渡せるものなどあるはずがなかったから。
 と、ポケットにつっこんだままの手がかさついたなにかを感じとった。
 信じられない思いでぼくはそれを指でつまんだ。
 手を差しだす男の目に迷いはなかった。
 ためらいながらぼくはかさつくなにかをつまんだままポケットから手を引き抜いた。
 出てきたのはくしゃくしゃにまるまった黒い紙だった。
 ぼくはそれを開いて皺を手で伸ばした。
 そして書いてある字を見た。
 しびれを切らしたように腰を浮かすと男はぼくの手から紙を奪い取って炎に投げこんだ。
 灰が炎にあおられて舞いあがった。
 ぼくは顔をあげてその行方を追った。
 細かい灰が雪にまじってぼくの顔に降りかかった。

 気づいたときには男は袋を脇にかかえて水辺を焚き火から遠ざかるように歩いていた。
 ぼくはその背中を闇に半ば沈むまで見送った。
 それから足元に目を転じた。
 勢いは弱まったものの焚き火はあいかわらず灰色の煙を吐きあげていた。じっと見ているとときおり炎のあいまに積もった灰が姿をのぞかせた。
 この炎の下を掘ったらあの短冊がたくさん出てくるのではないだろうか?――ふとそんな錯覚がぼくの脳裡をよぎった。
 ためしてみる気はなかった。本当にそうだったとしてもどうということはないから。
 くしゃみがひとつ口をついて出た。ぼくはあらためて寒さに体を震わせた。いつの間にか肩の上には雪がうっすらと積もっていた。ぼくは肩の上を、ついでに頭の上も手で乱暴に払った。
 雪の軌跡が風にすこし斜めに傾きだしていた。降りがすこし強くなってきたようだった。
 ――そろそろ潮時か。
 ぼくは焚き火に背を向けて土手へと歩きだした。
 土手を登りきったところで肩越しにふりかえった。
 煙は灰色の空に向かっていつまでもまっすぐ昇っていた。

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希望の路

 重たい鉛色の空から無数の粉雪がすこし風に流されながら舞い降りていた。
 ちいさな交差点の角で足を止め、ぼくはあたりを見まわした。
 物音ひとつ聞こえない、静まりかえった夜だった。
 信号が雪を照らす色を変えた。ぼくは積もった雪にはじめての足跡を残しながら道を渡った。
 雪は冷たかった。風も冷たかった。けれど不思議なことに冷えこんでいるという感じはなかった。むしろどこかに温かみを感じさせる気配があった。
 降りしきる雪の中、ぼくはいい気になって傘もささずに歩きつづけた。

 いくつめだろう。また交差点を渡ったところでぼくは足を止めた。
 目を細め、まっすぐ道の先をじっと見つめた。
 それまでと違う雰囲気があたりにただよっているような気がした。
 道はぼくのいるところからすこし狭くなっていた。先に見える交差点にもう信号はなかった。消え残った門灯とだいぶ古びた街灯がぼんやりとあたりを照らすばかりだった。
 その中で、なにかが動いた。
 ぼくは目をこらした。
 ふたつ先の街灯の下でもやのようなものがかたまりとなって浮かびあがった――ように見えた。
 次の瞬間、それは人の背中になっていた。
 ぼくは目をみはった。舞い散る雪越しに見た光景がほんとうかそれともまぼろしなのか見きわめがつかなかった。
 と、背中がふりむいてぼくを見た。
 視線があった。
 目鼻だちもわからないのに、それだけははっきりとわかった。
 ふらふらと、吸い寄せられるように、ぼくは街頭に浮かぶ人影に近づいていった。

「すっごい、びっくりした」
 驚きに目をまるくしたまま、つぶやくように彼女は言った。
 なんて応えればいいかわからず、ぼくはただその姿をながめた。
 地味なビジネススーツを着ていた。控えめに染められた髪は耳の下あたりできれいに切りそろえられている。化粧は最小限で最大の効果をあげていた。全体の雰囲気は三十過ぎの仕事のできるキャリアウーマンという感じだった。
 そんな時間、そんな場所でなければ。
 傘もささずにそんなふうに立っている理由を、ぼくは近づくあいだに察していた。
 彼女の足は地についていなかった。
 雪は彼女の身体を素通りしていた。
 とまどいをおぼえながら、ぼくは手を伸ばせば触れる(かもしれない)くらいの距離を置いて彼女に向きあっていた。
 ただ立ちつくしていた。

 と、いったん目を伏せ、それから意を決したように顔をあげて、彼女はぼくをまっすぐ見つめた。
「――あなた、何者なの? いままで誰にも気づかれなかったのに、どうしてわたしのことがわかったの?」
 ぼくのほうが聞きたいくらいだった。けれど彼女がその目元にただよわせる思いつめたような気配は尋常ではなかった。彼女の問いは切実だった。ぼくよりも遥かに。
 だから、まず話した。ぼくのことを。スリのぼくのことを。
 話し終えるまで彼女は静かに耳を傾けていた。

 やがてぼくが言葉を切ると、彼女はほんのすこし視線をそらしてつぶやいた。
「……信じられないわ。そんな話って本当にあるのかしら?」
 思わず口を開きかけた。
 その気配に彼女ははっとした目でふたたびぼくを見た。
 そして目を伏せ、ふっと息を吐いてさびしげに微笑んだ。
「……そうよね……。他人ひとのこと、言えないわよね……」
 風が巻いて雪が舞った。
 寂しげな影の差すその横顔に、考えるより先に言葉が出た。
「その……よかったら、あなたのこと、聞かせてもらえませんか?」
 ささいなことに気づいたようにほんのすこし顔をあげ、彼女は上目づかいにぼくを見た。
 唇が開きかけ、何も言わずに閉じた。
 やがて視線が横にそれた。
 見つめる先は交差点のまんなかだった。彼女は軌跡をなぞるように腕をまっすぐ伸ばして指差した。
「――あそこ。あそこで、車にはねられたの」
 そう言うと彼女は腕をおろしふっと息を抜いて口元にかすかに笑みを浮かべた。
「……そのこと自体は別にたいしたことじゃないわね。しばらくはずいぶんうらみごとを口にしたものだけど、いまはもうそういうものだと思ってる。突然不幸に襲われるのはわたしだけじゃないんだし。
 でもね、そう――そうやってすべてをあきらめるには、私はこの世に未練がありすぎたのよ」
 笑みは消えていた。目を伏せ、彼女はまたちいさく息をついた。
「ここではねられたのには理由があるの。車のことを気にかけていなかったから。ここを通るときは車のことなんてまったく気にしていられなかったから。
 好きな人を目にするために、わたしは毎朝ここで必死になってたの。
 相手はなんと高校生だったのよ。笑っちゃうでしょ? ひとまわり以上も年下に恋するなんて。自分でもそう思う。でもどうにもならなかった。出勤の途中ですれ違う一瞬が、ときおり交わす一言二言が、いつのまにかなによりも大切なものになっていたの。
 あのときもそうだった……」
 薄く目を開き、彼女は視線を交差点の中央に戻した。
「……姿が見えて、思わず速足になっていたわ。そこに、横からちいさなバンがつっこんできたの」
 彼女は目を閉じて口をつぐんだ。

 しばらく、沈黙が続いた。

 ためらいながらも、ぼくは聞かずにはいられなかった。
「……いまも、ここでその人を見てるんですか?」
 彼女はぼくに顔を向けて笑った。
「まさか。向こうは生きてるのよ。高校を卒業したらこの道に姿を見せなくなったわ。どこか遠くの大学にでもいったのよ、きっと――」
 そこまで言って言葉を詰まらせ、彼女は手で顔を覆って泣きだした。
 どうすることもできなかった。かける言葉は見つからなかったし、触れることもできなかった。ときおり頭に積もった雪をはらいながら、ぼくはただ彼女のそばにじっと立ちつくしていた。
 やがて鼻をおおきくすすりあげると、彼女はすこし顔をあげた。
「……ごめんなさい」
 なんて応えればいいのかわからなかった。
 かわりに、気配にふと空を見あげた。
「……どうしたの?」
 ぼくは視線を動かさすに応えた。
「夜明けが――」
 雪は変わらず降りつづいていた。雲の厚さも変わらないように見えた。けれど朝はたしかに近づいていた。いつのまにか長い時間が過ぎていたことにぼくは驚きをおぼえた。
「――そう」
 沈んだ声音にぼくは視線を戻した。
 彼女は顔をそむけてどこか遠くを見ていた。
 ぼくはその姿を見つめた。

 と、彼女は視線を戻し明るい顔で開いた手を差しだした。
「握手、して。帰る前に」
 ぼくは彼女の目を見、白い手に視線を落とし、また目を見た。
 彼女は何も言わずただ待っていた。
 ぼくは素直に手を差しだすことができなかった。
 見つめる瞳に浮かぶ色がぼくをためらわせた。挑むような、すがるようなその瞳が。
 ためらいながら、けれど目を逸らすこともできなかった。
 そうやって二人、ずいぶん長いあいだただ立ちつくした。
 彼女は微動だにしなかった。

 やがて意を決してぼくはポケットにつっこんでいた手を出した。手を伸ばして彼女の手を握る。意外なことにちいさな手には確かな感触があった。
 次の瞬間、とてつもない重さが体にのしかかった。
「――!?」
 思わず膝をついてから、ぼくは懸命に力をふりしぼって顔をあげた。
 鬼のような形相で彼女はぼくを見おろしていた。
「いっしょに逝って。お願い。もう独りはいやなの。このまま誰にも気づかれずにここにずっと立っていたくはないの――
 もう彼を待つのに疲れたの。
 だから、お願い。いっしょに逝って。あたしといっしょに。あたしと――」
 加わる力が何倍にも増してぼくは頭をあげていられなくなった。
 歯を食いしばって耐えた。
 けれどそう長くは持たなかった。
 雪に覆われた道路にぼくはうつぶせに倒れ伏した。

 他には意識をなくしたあとの記憶などないのだから、あるいはただの思い違いかもしれない。けれどぼくにとってこのときの記憶は次の場面で途切れていることになっている。
 地面に横たわる、そのとき借りていた体の横で、彼女は泣いていた。両手で顔を覆い、いつまでも。いつまでも。

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ぬけがらの影法師

 笛の音はいつまでも長く続いていた。

 湿った風がふわりとまわりを通り過ぎた。
 ふと足を止め、ぼくは風上に顔を向けた。
 匂いはまだあたりにただよっているように感じられた。
 ――下世話な匂いだ。
 思わずぼくはにやりと笑った。
 ソースやらバターやら水飴やらの混じった匂い。縁日の出店の匂い。元は相当濃かっただろうその匂いは、蒸し暑い夏の夜にいかにもふさわしかった。
 足は自然に匂いが運ばれてきたほうへと向いた。
 夏祭りの記憶なんてものはなかった。そんなものあるはずがない。スリのぼくに。でも雰囲気の感触のようなものは心の奥にたしかにあって、それがぼくを歩かせていた。
 ――宴のあと、ってのも悪いもんじゃないさ。
 そんなふうに思ったのだから常になく浮かれていたのはまちがいない。気づいてみると足どりはいつになく軽く、ぼくは苦笑いを浮かべて歩を抑えた。夜は長い、あわてることはない、と。
 そのとき、やわらかな風がまたぼくをくるんで行き過ぎた。
 足を止め、笑みを消してぼくは顔をあげた。
 そのまましばらく耳を澄ました。
 空耳ではなかった。たしかに聞こえていた。
 ――?
 ぼくは首をひねった。
 笛の音だった。かすかだが、まちがいなかった。
 警戒すべきかどうか、すこし迷った。
 行こうとしているところから聞こえてくるような気がしたから。
 もちろん誰がいたっておかしくはない。しかしまだはっきりとは聞こえない笛の音は、それゆえにか、どこかあやしい響きをともなっているように感じられた。
 けれどそのもの悲しい調子が宴のあとという雰囲気にあっていたこともまたたしかだった。
 すこしのあいだぼくは立ちどまったまま笛の音に耳をかたむけた。
 それからまた歩きだした。おおぜいではないだろう、おそらくは一人。なら充分注意すれば危険はない、そう判断して。
 それに、こんな真夜中に笛を吹く人間なんてちょっと興味深かった。
 しかし人のいない夜の道を歩きながら聞くにしてはその笛の音はすこし寂しすぎた。さっきまで浮かれていた気分がだんだん沈んでいくのをはっきりと感じながらぼくは歩いた。
 やがて進む先に開けた空間が見えてきた。  車道一本はさんだところでぼくはいったん足を止めた。
 低い生垣とそのすこしうしろにきれいに等間隔に並んだ木々が手前と奥とを区切っていた。
 木々はどれも幹が細く葉もそれほど茂っていなかった。植え替えられてから日が浅いのだろう。それでも新興住宅地の人工的な公園をまわりからさえぎる役目は充分果たしていた。
 そんなことをぼんやりと考えたのは、ここまで来てさらに前に進むかどうかまた迷いが生じたからだった。
 笛の音はさっきよりもずっとはっきりと聞こえていた。
 それとともにあやしい響きはいまでははっきりとわかるほどに強まっていた。
 危険はないだろうとはもう思えなかった。
 ――引きかえすならいまのうちだ――
 そう思うぼくの脇を、と、なにかがさっと駆けぬけて追い越した。
 生垣に飛びこんだそれはすぐに頭だけを出して光る目でぼくを見た。
 猫だった。
 すこしのあいだぼくを見つめると猫は興味をなくしたようにふりかえってふたたび生垣の中に消えた。もう顔は出さなかった。
 ぼくはあっけにとられて一連の出来事をただながめていた。
 そして自分がへんなふうに緊張していたことにあらためて気づいた。
 そうして肩の力が抜けてみると、進むことも戻ることも同じようにとらえられた。
 あやしい感じは消えてはいない。危険がないわけではないことも変わらないだろう。けれどそちらに向かってもいいというふうに気が変わっていた。
 ――猫のおかげだ。
 軽く笑い、ぼくはまた歩きだした。
 猫なら生垣に飛びこむこともできるが人間の体ではそうもいかない。道路を渡り入口を探して生垣沿いに歩きだしたぼくはずいぶん遠まわりをしてからようやく公園内に足を踏み入れることができた。入ってすぐのところで立ちどまり、とりあえずぼくはざっとあたりを見まわした。
 けっこうな広さの公園だった。まわりを囲む生垣と木々の下には芝生が植えられ、その内側を舗装された道がぐるりとまわっている。さらにその内側は明るい色の土のグラウンド。遊具などは端に寄せられていてフットサルぐらい余裕でできそうな感じだった。
 水銀灯の冷たい光が照らすそのまんなかに、組まれたやぐらが立っていた。
 その脚のひとつにもたれて、人が一人立っていた。背中をすこしまるめ、うつむかせた顔の唇に笛をあてて。
 聞こえていた笛の音はその手の動きにあわせて高く低く変わった。
 他に人影はなかった。その場に立ったままぼくはしばらく見知らぬ人が笛を吹く様子をながめた。
 そうして吹くのを見ながら笛の音を聞いているとそれがいわゆる音楽ではないことがよりいっそうはっきりとわかった。そもそもメロディらしいメロディがない。テーマを印象づけるようなくりかえしもないしテンポも自在に変わる。長く短く、高く低く、自在に変化するその調べはこの世ではないどこかへ向けられた言葉に代わるメッセージのように感じられた。
 その音が高いところで長く長く続き、
 不意に途切れた。
 いつのまにかぼんやりとしていたらしい。われにかえったぼくはあらためて公園のまんなかを見た。
 笛吹きはぼくを見ていた。背筋を伸ばし、笛を持つ手を脇におろして。
 視線が正面からぶつかった。
 これで逃げるわけにはいかなくなった。ぼくは足を一歩前に踏みだした。
 ゆっくり近づきながら笛吹きを観察した。
 男にも女にも見えた。暗いせいか年をとっているようにも子供のようにもどちらにも見えた。体つきは中肉中背。人ごみにまぎれたら十秒で見分けがつかなくなりそうだ。顔つきと体つきだけなら。
 近づくにつれてそんな心配は無用だということがはっきりしてきた。
 夜目にもはっきりとわかるほど色とりどりの派手な服を笛吹きは着ていた。どこで見つけてくるんだろうと思うくらいの、見失う心配はなさそうな。
 それに、その雰囲気――
 大股で五歩くらい離れたところで足を止めた。
 ぼくが近づくあいだ、笛吹きはずっとまっすぐぼくを見つめていた。
 立ちどまってあらためて見てはじめて気づいたが、その顔には軽い笑みが浮かんでいた。
 その口元がわざとらしいくらいにおおきく動いた。
「やあ。こんばんは」
「……こんばんは」
 陽気でうちとけた口調は予想外だった。おかげでぼくのほうの緊張と警戒がそのまま言葉に出てしまった。しまった、そう思ったときには笛吹きの笑みは心持ち深くなっていた。
「こんな時間にこんなところでなにしてるの?――一人で」
 そう言う笛吹きの態度には余裕が感じられた。相手のペースに巻きこまれちゃいけない、そう思ったぼくはうまく次の言葉を出すことができなかった。
 かわりに心持ち顎を引いて上目づかいで笛吹きの顔を見つめた。
 笛吹きはすこし意外だとでも言いたげな表情を浮かべた。口元がなにかを言うように開きかけて閉じる。まばたきを二、三度くりかえし、笛吹きはあらためてぼくを見た。
 その瞳をぼくはまっすぐ見かえした。
 笛吹きの顔から笑みが消えた。
 同じようにぼくをまっすぐ見つめた。
 そのまま、しばらく互いに相手の顔を見つめつづけた。
 やがてそれとわからないほどちいさく息をつき、笛吹きは視線をわずかに横にそらした。
「……こまったな……」
 ひとりごとのつもりだったろうそのつぶやきは、しかしぼくにもはっきりと聞こえた。そうでしょう、ぼくは心の中でそう応えた。
 言葉を待っているように感じられたから声には出さなかった。
 そのぼくの意志を感じとったかのように笛吹きは視線をぼくに戻した。
 思わず身を硬くした。
 余裕も陽気さも跡形もなく消えていた。笛吹きはすべてを見通すかのような瞳でぼくを見据えていた。
 動揺は表に出さずに済んだ。と思う。とにかくぼくは相手から目をそらさずにいることができた。それだけでもぼくにしてみればたいしたものだという気がした。
 そしてはっきりと悟った――
 これは勝負だ。隙を見せてはいけない。
 そんなぼくの想いを推し測るかのように笛吹きはまっすぐぼくを見つめていた。
 そして、今度はちいさく、口を開いた。
「率直に言って、どうしたらいいかわからない。本当に。こんなことははじめてで――すくなくとも私にとっては。正直なところ、想像もしてなかった――……つまり、その……」
 あいまいに語尾を濁すと笛吹きはこまった顔をしてみせた。「――わかるでしょ?」
 ぼくはただちいさくうなずいた。
 そう、気配ならずっと感じていた。笛吹きをはじめて見たときから、ずっと。
 手を持ちあげ、唇に笛をあてて、笛吹きは短いパッセージをいくつか連ねた。
 笛吹きのまわりの気配たちが身震いするようにざわめいた。
 笛を顔から遠ざけ、笛吹きはふたたびぼくを見つめた。
 ぼくもその目を見つめかえした。
 自分から口を開く気はなかった。聞きたいことはあったが、それも自分から口にする気はなかった。
 まわりの気配たちが息を詰めてぼくたちを見ているような気がした。
 気配はたくさん、たくさん感じられた。数え切れないほど。
 どうしてそんなに集まっているのかは考えたくなかった。
 そんなぼくの想いを見透かしたかのように笛吹きは言った。
「聞きたいことがあるんじゃないの?」
 ぼくは迷わず応えた。
「――どこへ連れていくんですか?」
 笛吹きは目を伏せ軽く肩をすくめた。
「君が心配するようなことじゃない。けれど、あえて言葉にするならこうかな――あるべきところへ」
 言って顔をあげ、
 表情を消した。
 ぼくの敵意に気づいたからに違いなかった。
 気配のひとつにされてあるべきところへ連れていかれる気などぼくにはなかった。
 ぼくたちは微動だにせずに対峙した。あいだに緊張を孕ませて。
 やがて、笛吹きはぽつりとつぶやいた。
「……そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがある」
 ぼくは内心身がまえた。
 笛を吹かせてはいけなかった。
 体の動きで感づいたのだろう、笛吹きはあげようとしていた手の動きを止めた。
 ふたたびぼくたちは微動だにせずに対峙した。
 そのときふと、脳裡を疑問がよぎった――とるに足りないスリの自分は、はたして守るに値するものなのだろうか?

 と、なにかがさっとぼくの脇を駆けぬけて追い越した。

 思わずそちらに目を奪われた。はっとしてあわてて視線を戻すと笛吹きも同じようにぼくから視線をはずしていた。その動く先をぼくはあらためて追いかけた。
 そのときにはなにかはもうやぐらの脚を駆けのぼって二段目の床に達していた。ぐるりとまわって顔をこちらに向け、光る目でぼくたちを見おろす。
 あの猫だった。
 何度かぼくたちを交互に見くらべた猫はやがて興味を失ったようにおおきな鳴き声をあげてその場にうずくまり目を閉じた。
 その平和そうな様子にぼくはつい笛吹きを見た。
 笛吹きも同じようにぼくを見ていた。毒気を抜かれた顔をして。たぶんぼくと同じように。
 なんとなく視線があい、二人して中途半端に苦笑した。
 さっきまでの緊張はもう影もかたちも見あたらなかった。
 やがて笑いが空々しくなったころ、笛吹きはどこか遠くのほうに目を向けてひとりごとのようにつぶやいた。
「……まあ、私がどうにかするようなことでもないか」
 そのままうしろの柱、やぐらの脚によりかかって目を閉じた。
 その姿をすこしのあいだぼくは見つめた。
 それから背を向けて公園の入口へと歩いた。厚意に従って。
 正直に言えば、ちょっとほっとしていた。
 だから、公園を一歩出たところでつい足を止め、肩越しに振りかえって去ってきたところを見た。
 笛吹きは笛を唇にあてようとしているところだった。音が聞こえ、それにあわせてまわりの気配たちが踊るように舞った。
 そうして見る笛吹きの姿は心なしか薄れて色あせかけているように思えた。
 すこし見とれていたのだろうか。脇を通りぬけるなにかの気配にぼくはわれにかえって足元を見た。
 さっきの猫がぼくを見あげていた。
 ちょっとのあいだぼくを見つめ、それから背を向け道の向こうへ走り去っていった。
 そのうしろ姿をぼくはすこしあっけにとられて見送った。
 ――助けてくれたのかな?
 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。ぼくは肩をすくめ、とりあえずなりゆきが自分の思いどおりに進んだことを感謝した。誰にともなく。
 そして歩きだした。あてもなく。

 笛の音はいつまでも、いつまでも長く続いていた。

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