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Pickpocket / スリ #1

Contents:

  1. 翼の行方
  2. 風の日
  3. 影絵の調べ
  4. 想いのかたち

翼の行方

 ――もう戻らないと。
 ぼくは空を見あげた。夜明けが近かった。空はまだ暗いけど同じ時間は何度もすごしてきたから気配でわかる。冷えきった空気が沈みこんで地表のすべてを押し包む――いまがその刻だった。
 それはとりあえずの終わりを告げる声だった。
 ぼくは高架道路の下に視線を戻した。何本も横に並ぶ線路のひとつ、ほぼ真下のそれに貨物列車が中途半端な位置で止まっていた。運転手らしき人の騒ぐ声が耳に届いた。
 ぼくは手すりから身を引いた。まさかとは思うけど誰かに目撃されたりしてあとで証言を求められたりするのは避けたかった。関係ないと言えないことはない。けどそんな無責任な態度は失礼だという気がした。
 最後にもう一度だけ列車の下に視線を送るとぼくはすこし早足で高架道路を下りはじめた。

          *

 彼女を見かけたのはガラス越しにだった。
 そのときぼくはコンビニでマンガを立ち読みしていた。ぼくにしてはめずらしいことだった。いつ顔を知ってる人に会うかわからないので普段は人の出入りの激しいところには近寄らないようにしているから。けれど今夜の冷えこみは真冬まではまだ間があるのに意外に厳しくて外を歩きつづける気分にはなれなかった。戻るにはまだ早い時間だった。
 その店の雑誌や本の棚は通りに面したおおきなガラス窓を背にして並べられていた。ぼくは手にしたマンガを気のない態度で読みながらこっちを知ってる人が来ないかちょっとびくびくしながら窓の外の気配をちらちらとうかがっていた。表通りは車も人もほとんど通らなかった。ときおり人の姿が目に映ったときはマンガで顔を隠すようにして通りすぎるのを待った。
 彼女があらわれたのは何度かそんなことをくりかえしたあとだった。
 目の前を横切る姿を一目見たとたんマンガを持ちあげようとした手が止まった。
 どう説明すればいいかわからない。オーラが見えたとかテレパシーが通じたとか言えればぼく自身もっとすっきり納得できただろう。しかし実際にはそんなことはなかった。ただ何故だかわかってしまったのだ。
 ガラスの向こうにいる人がぼくと同じ種類の人間だということが。
 ぼくは息を飲んで呆然と彼女が通りすぎるのを見送った。
 その姿が壁の陰に消えたおかげでわれにかえった。マンガを放り投げぼくはあわててコンビニを飛びだした。
 彼女の背中は道なりに進んで陸橋へと進んでいた。街灯に照らされた姿はいまにも消え去りそうに見えた。ぼくは急いで駆けだした。
「ちょっと待って! ねえ君――」
 声をあげたところで思わず立ち止まった。天をあおぐようにして額に手をあて声をかけた自分の軽率さ加減にあきれかえった。ちょっと考えればすぐわかることなのに。
 続けて投げかける言葉をぼくは持っていなかった。
 しまった、それだけしか頭に浮かばないぼくのことなどおかまいなしに彼女は足を止めてふりかえった。
 同い年くらいに見えた。どことなくぼんやりしたその顔にすこしびっくりしたような表情が浮かんでいた。引き気味の目と顎からは警戒の色がうかがえた。ぼくはあわてて両手を広げた。
「突然声をかけてごめん。でもこわがらないで。何もしないから。ただちょっと――その、話がしたいんだ。君ならわかってくれると思って。だって、ほら、なんていうか――」
 早口でしゃべる声は高くていまにもうらがえりそうだった。
 ひどくうろたえて見えたに違いない。すこし上目づかいで値踏みするようにぼくを見ていた彼女はやがて口元をゆるめ伏せた顔に手をあてて笑いだした。ぼくはほっとしたようなちょっと馬鹿にされたような複雑な気分でただ立ちつくした。
 やがて彼女は顔をあげて涙のにじむ目でぼくを見た。警戒の色は消えていた。
「ああ、おかしい。それってあたらしいナンパのしかた? だとしたらあんまりうまくいかないと思うよ」
「いや、そうじゃなくて」
 ぼくはちょっといらついて首をかしげた。そのとたん言いたかった言葉が喉の奥からすっとこぼれ落ちた。
「君は、君じゃないんだろう? ぼくも、ぼくじゃないんだ」
 反応があらわれるまでがすごく長く感じられた。
 はじめにあらわれたのはあっけにとられたような表情だった。それはすぐにいぶかしむような目の色に変わり(思い違いに過ぎなかったかとその瞬間は本気でそう思った)、それから唐突に理解の色に変化した。
「――わかる?」
 思わず勢いこんで言ってしまったその声ははっきりとわかるくらい明るかった。
「うん」
 彼女の答も同じように明るかった。その笑顔にぼくは心の底から安心した。ぼくはいまはじめて同じ種類の人間と向かいあっているんだ――そう思うと気持ちはどうしようもないほど高揚してきた。
 けれどその感覚は長くは続かなかった。彼女が笑みを問いかけるような表情に変えてこう言ったから。
「でも、なんであなたにも翼がないの?」
 ぼくはあっけにとられて彼女を見つめた。

「ぼくは、自分のことをスリって呼んでた」
 ようやく口から出たぼくの言葉は彼女に声をかけたときよりずっとと落ちついていた。
「私は、自分のことを堕天使だと思ってた」
 しゃがんだ彼女は口元をおおった両手に息を吐きかけた。その様子をぼくはコンクリートの壁に背を持たせかけて見おろしていた。そうしていると小柄な彼女の体はさらにちいさく見えた。
 ぼくらは陸橋の下にいた。顔を見あわせて交す言葉もないまま、どちらともなく歩きだしてここまで来たのだった。細い道路を挟んだすぐ先にはフェンスが、そしてその向こうには線路が何本も並んでいた。静かだった。ときどき風が吹きぬけてぼくの体を震わせた。
「だから、翼なんて言ったのか……」
 ぼくの言葉に彼女は首をまわしてぼくを見あげた。
「なんでそんな変わった呼びかた、思いついたの?」
「……なんで、って……」
 ぼくは視線を線路の向こう側に転じた。それでも目の端には髪を押さえた彼女の顔が映っていた。
「覚えてないよ。ずっと昔のことだから。でもなんとなくぴったしな感じがして、この呼びかただけはずっと忘れないんだ」
「……ぴったしって、どんなふうに?」
 彼女の目はぼくをまっすぐとらえていた。ぼくはなんとなく息をついて足元に視線を落とした。
「……やってることは結局おんなじなんじゃないかって気がするから」
 彼女は首をかしげた。
「もちろんスリなんてやったことないさ。本物のスリみたいに自由自在にできるってわけでもない。けど、そう……かすめとるって感じが同じ気がするんだ。スリは他人《ひと》のお金をかすめとる。ぼくは――他人の体を、人生を、かすめとる」
 ぼくはすこしずつ自分のことを話しだした。うまく言葉にならない想いにもどかしさを覚えながら。

 もどかしさの理由はぼく自身が自分のことをよくわかっていない点にある。なにしろどうやって他人の体を借りるのかさえわからないのだから。
 うっすらと瞼が開いたときにはまだそれとは気づかない。布団から体を出し、あるいはベッドから降り、ときには机に倒れた体を起こして、ほとんど無意識にぼくはスイッチをさがして明かりを点ける。まぶしさに目を細めながら見まわす部屋は常に見覚えのない光景だ。それでぼくはまた知らないだれかとして目が覚めたと知るのだ。
 見知らぬだれかのその日の夜はこうしてぼくのものになる。
 不思議なことに体を借りただれかの記憶はまったくないのに以前にも同じことがあったという感覚だけはいつも強くある。だから次にやるのは日付の確認だ。たしかめるその日はたいてい前の目覚めの記憶から三日から一週間、ときには一月くらいたっている。はっきりとわかる規則性はなく、ということはつまり次に目覚めるのがいつかもわからないということだった。
 同じようにぼくは自分がだれなのかもわからなかった。
 個人的な記憶というものがぼくには欠けていた。いつからこんなことがはじまったのかもまったく覚えていない。ただ目覚めるとスリのぼくがいる。それだけだ。
 過ぎた時間のこと、失った記憶のことを想うといつも軽いむなしさを覚える。
 借りる体はいつも高校生から大学生の男ばかりだから本来のぼくもそれくらいの人間だったんだろう。けれどこうして見当をつけてみたところでなんの手がかりにもならない。時には点けた電気を消しふたたび布団にもぐりこんで自分のことを考えようともする。だけどそのための材料はあまりに少なすぎる。本棚の本を手に取ってぱらぱらとめくっても言葉は頭をすりぬけるだけ。
 だから、というわけではないけれど、たいていの場合ぼくは服を着がえて夜の街に飛びだす。
 なにかを期待しているわけじゃない。部屋の中にじっとしていられないことが理由のほとんど、それに体を借りた人に対する罪悪感がすこし。プライベートなところにいるよりも外のほうが気は楽だ。
 そんなわけだからとりたててすることのあてはいつもない。勢いぼくの夜は街を歩きまわることに費やされることになる。
 住宅街に繁華街、静かな街にさわがしい街。さまざまな街のさまざまな顔をぼくはながめてきた。時にはその雰囲気にあこがれを覚えることもあった。
 けど結局のところ街のざわめきはぼくには無縁のものだ。どんなに陽気にさわいでいてもどんなに自由に思える場所でもぼくの居場所はそこにはないのだから。
 いつもぼくはひとりきりだった。
 だから、彼女を見かけたときは本当にびっくりした。

 こんなにうまくは話せなかった。人と話すことに慣れてないぼくは言葉を続けるだけでせいいっぱいだった。
 そんなぼくの話を彼女は何も言わずにただじっと聞いていた。
 やがてぼくが話し終えて口を閉じるとちいさくぽつんと言った。
「……そうなの」
 ひどくさびしげなつぶやきだった。
「君は?」
 ぼくの問いに彼女は顔を線路の向こうへと向けた。
「……私は替わったことなんてないわ。いつも同じ、この体よ」
 ぼくは息を飲んだ。
「そんな。だって――」
 それ以上言葉は続かなかった。そう言われてもなお彼女が同じ種類の人間だという感覚は疑いようがなかった。
 言葉を失くしたままのぼくをちらりと見、彼女はふたたび口を開いた。
「……夜、目が覚めると、昼と違う自分がいるの。
 昼の私のことは全部知ってる。何をしたのか、何をしたいのか。どんなことが好きでどんなことが気になってるのか。今日した失敗、ともだちと話したこと、欠かさず見ているテレビの番組……なんでも。そう、なんでもよ。
 でも昼の私は私のことをぜんぜん知らない。
 いつもひとりだった。さびしかった。昼の私が楽しんでいることを知ってるから、よけいに」
 彼女はまた両手を口にあてて息を吐いた。
「こんなことがいつまでも続くはずがない。私はずっとそう思ってた。そうでしょ? 何の理由もないのにずうっといつまでもひとりぼっちだなんて、そんなことあったらおかしいもの。
 だから、私は自分のことを翼を失くした天使だと思うことにしたの。いまは地上に堕とされているけどいつか仲間の天使がむかえに来てくれるんだ、って。それまで待っていればいいだけの話なんだ、って」
 言葉を切った彼女はふりかえりぼくを見て微笑んだ。
「あなたに翼がなかったのは残念だわ」
 表情に浮かぶさびしさは見誤りようがなかった。
 ぼくはぎこちなく笑みを返した。なんで彼女がそんなふうに考えるようになったのか、正直云ってよくわからなかった。
 ぎこちない沈黙が二人のあいだに横たわった。
 考えるより早く口から言葉が出た。
「昼間の君はどんな人なの?」
 言った瞬間、しまった、そう思った。彼女の表情がこわばるのを見てその思いはますます強まった。
 彼女はゆっくりと頭を下に向けて膝のあいだに顔をうずめた。ぼくはもうそれ以上声をかけられなかった。
 ずいぶん長いあいだ二人ともただそうやって黙っていた。
 やがて、ぽつん、と彼女はつぶやいた。
「……人気者よ。元気で、明るくて、かわいくって。嫉妬しちゃうくらい」
 そして唐突に立ちあがり体ごとふりかえってぼくを見た。
「すこしつきあってくれない?」
 言うとにっこりと笑って彼女は背を向け線路沿いに歩きだした。
 びっくりしたぼくは彼女の背中が遠ざかっていくのをあっけにとられたまま見ていた。と、陸橋の下から出たところで彼女は足を止めて体を半分だけぼくに向けた。
「行かない? ここでお別れ?」
 その言葉にまだ壁にもたれたままのぼくは心を決めた。
 歩きだすぼくを見て彼女は微笑を浮かべた。ぼくが近づくと彼女はふたたび歩きだした。
「前から一度、やってみたいと思ってたことがあるんだ」
 言って彼女は陸橋を昇りはじめた。声はなぜだか快活に聞こえた。
「どんなこと?」
 ぼくの問いに答はなかった。
 いちばん高いところまで来たところで彼女は立ち止まり両腕の肘を手すりに乗せてよりかかった。遠くを見るその目線にぼくは片肘を手すりにかけた。彼女はぼくのほうを見ようとはしなかった。その横顔をぼくはただ見ていた。
 しばらくしてから彼女はゆっくりと口を開いた。
「……こうして高いところに来ると、自分がどれだけ人と違うかわかるような気がするの」
 ぼくは開きかけた口を閉じた。彼女の言葉は応えを求めてはいなかった。
「いくら昼の私がなじんでいてもここは私の世界じゃない。ずっとそう思ってた。いつか私の本当の世界に戻れるんだ、って。
 でもどうしたらその世界に戻れるんだろう? だれかがむかえに来てくれる、ずっとそう信じてた。けどそれだけ? 失くした翼は待つことでしか取りもどせないの?
 待つ以外にも、できることはあるはず」
 一度ゆっくりとまばたき、それから彼女はぼくに顔を向けた。遠くから鉄のかたまりのきしむ音が聞こえた。
「あなたに会わなかったらきっとずっとこのままでいたわ。いるかどうかわからない仲間を待って、ずっとひとりで。
 そして今日、私はあなたに会った。
 けれどあなたはおむかえじゃなかった。
 だからもう試してみてもいいと思うの。いつまでもいまのままでいるよりも」
 彼女はじっとぼくを見つめた。
 ぼくは息を飲んだ。
 何をしようとしているのか手に取るようにわかった。止めるんだ、理性が心の奥でそう叫んでいた。
 なのに体は動かなかった。
 ぼくのありかたそのものが結果を知りたがっていた。
 警笛がきしむ音を消そうとするように鳴った。
 ぼくの思いを察したのかどうか、彼女はただ微笑んだ。
「あなたのおかげよ。ありがとう」
 言って、手すりを乗りこえた。
 止めるためには動かなかった体が手すりから身を乗りだして彼女の軌跡を追いかけた。彼女は電線のあいだをすりぬけて真下の線路へと落ちた。
 描いた放物線を断ち切るように、貨物列車が線路の上にゆっくりとのしかかった。

          *

 つけたさないといけないことがいくつかある。
 彼女は死ななかった。すくなくともぼくが見届けたかぎりでは。列車に跳ねとばされもしなかったしひきちぎられて血しぶきをあげることもなかった。
 彼女の小柄な体は貨物列車が通過する直前に線路のあいだにすっぽりおさまるように落ちた。
 これは奇跡だろうか?
 ぼくはそうは思わない。彼女がどれほど望んだとしても別の世界に行くことなどできはしないのだから。
 翼を失くした、そう彼女は言った。信じたかった気持ちはよくわかる。けれど、とぼくは思う。そう信じてしまったことが彼女の不幸だったと。
 落ちていく彼女の背中に翼など見えはしなかった。
 そんなものははじめからないのだ。ぼくも彼女も、生きるところはここしかない。高みなどではない、この地上しか。
 ぼくはスリだ。天使じゃない。彼女も。

 出てきた家まで戻ってきたときには空は白みはじめていた。ぼくは閉じた鉄の門に手をかけて空を見あげた。
 夜明け間近のこの時間はいつも普段心の奥底に押し隠している不安を否応なく浮かびあがらせる。いつか慣れてぼくの一部となってしまった不安を。
 それはひとつの問いだった――もう一度目覚めることはあるのだろうか?
 眠りが終わりにつながるとは考えたくなかった。たとえ目覚めがその前と同じ一日のくりかえしを意味していたとしても。自分自身のこともよくわからないまま、あいまいなまま消え去ってしまいたくはなかった。だから、ぼくはいつも次の目覚めがむかえられることを願っていた。
 今日はすこし違った。
 ぼくは彼女を思い浮かべた。同じように孤独な夜を何度も過ごしてきた彼女を。その顔を、姿を、声を、言葉を。
 彼女はまちがいなく同じ種類の人間だった、そうぼくは確信していた。ただ世界の受けいれかたが違っただけで。
 それは、けれどとてつもなくおおきな違いだった。
 そしてそのことによって彼女はある事実を身をもって示した――ぼくらの居場所がここにしかないことを。ぼくらはこうして生きるしかないことを。
 孤独から脱けだすすべはないことを。
 知ったからといってすぐになにかが変わるというわけではなかった。けれどいままで見ないふりをしてきた事実がぼくの心に刺を刺したのはたしかなようだった。
 遠くでカラスが鳴いた。この声を聞くのは今日が最後かもしれないと思いながらぼくは音をたてないよう気をつけて門を開いた。

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風の日

 たぶん、風が教えてくれたんだと思う。

 そのとき、ぼくはいつものように夜の街をひとりで歩いていた。
 街といっても、中心からはだいぶ離れた、郊外の幹線道路の歩道だった。六車線ある車道にはトラックやトレーラーがひきりなしにすごい勢いで行き交っていた。道路の両脇にはとっくに閉まってしまった洋品店やディスカウントストアにまじってコンビニやファミレスが立ちならび、それらが発する光に遠くにそびえ立つ高層住宅街の照明があいまって、夜はすっかり白かった。気分が出ないことおびただしい。おまけに慣れない肩までの長い髪がひきりなしに顔にまとわりついてくるほどの強い風で、およそ深夜の徘徊には向かない日だった。それでも歩き続けたのは陽気がよかったせい、それといつものくせだ。
 けれど、それも一時間ほどだった。行く先のわからない散歩はいつも気の向くままに足を進めるしかない。それが当たって意外な光景を覗くこともあるのだけど、その日ははずれというほかはなかった。なにしろどこまで行ってもどこかで見たような景色しか目に入ってこないのだ。せめて団地を出るときに反対側を選んでいたらと思ったが、もう遅かった。それに、いまさら進路を変えるには風がちょっとひどすぎた。
 しかたない、もう戻るか――そう考えたとき、ふっ、となにかがぼくのまわりをかすめて過ぎた。
 何気なくふりむくと、道路灯に透かされて光る風に乱れた長い髪が目にとびこんできた。
 その上になにかがふりあげられていることに気づくのに、一瞬、遅れた――ゴルフクラブだ。
 次の瞬間、それを支える腕がぼくのほうへと動いた。
「――わあっ!」
 叫んだとたん、膝が崩れてぼくはその場に尻もちをついた。ほとんど同時に頭のすぐ上をゴルフクラブがうなりをあげて通りすぎた。空を切るその音はトレーラーの爆音よりも鋭くぼくの耳を裂いた。
 あわてていたので、ぼくは尻もちをついたままゴルフクラブに、じゃなくてその持ち主に向きなおった。持ち主はゴルフクラブの下がったヘッドをすばやく高い位置に戻した。逆光の道路灯がシャフトを鋭く輝かせた。
「ちょ、ちょっと待って!」
 ゴルフクラブを眼で追いながら必死の思いでぼくは言い、右の掌をまっすぐ前につきだした。
「うるさい! 人殺し!」
 叫び声に、ぼくは目の前にいるのが女の子だとあらためて気がついた。
 その一瞬の空白に、ゴルフクラブが今度は風を縦に切った。
 やられた!――眼をつむり体をちじこまらせながら、そう思った。けれど当然あるはずの痛みは訪れず、かわりにがんという鈍い音がおおきく鳴り響いた。続いて、からからと棒きれが跳ねて転がる音。ぼくはおそるおそる眼を開いて顔をあげた。
 乱れて光る髪の毛の上に、ゴルフクラブはもうなかった。女の子はかすかに震える両の掌を顔の前に広げていた。だんだんと手が下がると、視線はそれてぼくに向いた。うつむき加減の影に隠れていてもはっきりとわかるほど、女の子はぼくをきっとにらみつけた。
 それから、両手で顔を覆うとその場にしゃがみこんでわっと泣きだした。

 そのまま女の子を置いてさっさと逃げだすのが、たぶんいちばん頭のいい方法だったろう。だけどぼくはそうはせず、かといっていつまでも歩道のまんなかにいるわけにもいかず、女の子はといえばいつまでも泣きやむ気配を見せない、いくら夜中とはいえこれはちょっとこまる、というわけでぼくは女の子をなだめすかして(といってもぼくが一方的にしゃべっただけなのだが)たまたま眼についた歩道脇の自販機がいくつも詰まった小屋の中へとなんとか移動した。中に入ると、巻いた風が外よりも激しかった。
 そのころになると女の子もいくらか落ちついたらしく、泣きかたもわめくような調子からすすり泣きに変わっていた。けれど移動するあいだも両手は顔をおおったままで、しかも小屋に入るなり女の子はぼくから離れて壁に背中をあずけ、そのままずるずるとしゃがみこんで両膝に顔をうずめてしまった。しかたなくぼくは反対側の自販機によりかかると、両手をポケットにつっこんで立ったまま女の子を見おろした。
 もちろん、ぼくの知ってる女の子であるはずがなかった。茶色に染めた(脱色した?)腰まであるストレートの髪に黒い肌、体にぴったりした感じの長袖のTシャツにしゃがんでいると中の覗きそうな丈の短いスカート。コギャルだかマゴギャルだかいう言葉を、たしか立ち読みした雑誌でこんな感じの写真といっしょに読んだことがあったような気がする。もっともぼくにとってはどんなかっこでも関係なく、結局はこんなことでもなければ縁のないだれかに過ぎなかった。そのときのぼくは女の子と似たようなかっこをしていたから、たぶん体の知りあいなんだろう――とりあえずはそう考えるしかなかった。
 けど、それでは“人殺し”という言葉の説明がつかなかった。
 夜中に他人をゴルフクラブで殴ろうとするなんていう、およそまともとは思えない行動に見あうだけの響きがあのときの叫びにはこもっていた。あの瞬間ぼくをにらみつけた目つきも、だ。あのとき、女の子はたしかにぼくを殺そうとしていた、はずだ。
 だがその相手は誰だったのだろうか? ぼくなのか、それともぼくの借りているこの体に過ぎないのか? もしぼくだとしたら(知らずしらずのうちにそう願っていたのだが)、この女の子はなぜそれがわかったのだろうか?
 それが知りたくて、ぼくは逃げずにとどまったのだった。
 いつか、女の子の泣き声は聞こえなくなっていた。ぼくはぼんやりとしていた眼をあらためて女の子に向けた。
 声は聞こえなくなったとはいっても、膝をかかえたままの姿勢は変わらなかった。乱れた髪がまるで生き物のように風に舞っていた。その髪と姿勢は、まるで何物をも寄せつかせない意志をあらわしているかのようにぼくには思えた。
 けれど、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
「……なんで、ぼくをあんなもので殴ろうとしたんだ?」
 思いきって言うと、女の子はぱっと顔をあげてぼくを見た。上目づかいににらみつけるその瞳には、ぼくに対する憎しみがあふれていた。
「なんで? しらばっくれるんじゃないよ、この人殺し! あんたが誰だって、あたしにはわかるんだからね!」
 口調の激しさよりも言葉の中身にショックをうけて、ぼくはポケットから出した両手をちいさく広げた。ということは、この女の子にはぼくのことがわかっているのだ。スリのぼくのことが。
「けど――そんなこと、思いあたらない」
 はじかれたように立ちあがると、女の子はぼくにつかみかかってきた。
「ざけんな! あんたのせいで――あんたのせいで!」
 ぼくは女の子の両手をつかんで体から引きはなした。体格のいい男だったことが幸いして、女の子は相手にならなかった。それでもしばらくもみあったが、やがて不意にあきらめたように女の子は力を抜いた。ぼくが手を離すと女の子はふらふらとうしろにさがり、壁によりかかってうつむいた。
 そして、つぶやくようにそっと、唇を開いた。
「あんたがあんな無茶をしなかったら、あんなことにはならなかったんだ……」

 女の子の話をまとめると、次のようになる。
 その日の夜中、女の子の携帯電話に彼(便宜的にこう呼ぶけど、恋人かどうかはわからなかった)からの連絡が入った。すぐ近くにいるから出て来い、という話だった。行ってみると、スクーターに乗った彼は女の子を同じシートに誘った。二人は深夜のツーリングへと出かけた。
 こんなことは別にめずらしくない、いつものことだった。けれど、そのときの彼はどこか雰囲気が違った。話しかければ応えるけれど自分からは口を開かず、ただものすごい速さでバイクを走らせるだけだった。いつもの陽気な彼からは考えられないその態度に、女の子は不審を抱きながらもただしがみついていることしかできなかった。
 彼はバイクを走りまわらせるだけだった。女の子が何度か止まって休もうとせがんでもまったく聞く耳を持たなかった。やがて行く先が帰路にさしかかっていることに気づいたとき、女の子はまだ帰りたくないと言おうとしてヘルメットをしていない彼の耳元に口を近づけた。
 同時に、ゆるやかなカーブを曲がっていたスクーターの前輪が突然外側にすべった。
 バイクから投げだされながら、女の子は彼の姿をまるでスローモーションのように見たと言う。最後に見たその顔は、まるで正気に戻った自分がどうしてここにいるのかわからなくて呆然としているようだった。
 女の子はアスファルトの上を転がった。歩道まで投げだされた彼は後頭部を電柱にしたたかに打ちつけた。

「……この道の、すこし先だよ」
 ぼそっとつぶやくと、まるで現場を見ようとするように女の子は肩越しにふりかえった。
 ぼくは黙ったまま女の子を見つめた。両肩を自分の腕で抱くその姿は、いまも残る傷の痛みに耐えているように感じられた。いや、おそらくは本当にそうなのだ――傷は、眼に見えるものだけではないのだから。
 唐突に、女の子は視線を戻してぼくをまっすぐにらみつけた。
「なんとか言ったらどう? あんたなんだろ? あんたが、他人の体をあのバイクみたいに無茶に乗りまわしたんだろ? ちょうどいまやってるみたいにさ、え? 答えろよ、ほら!」
 女の子の口調には憎しみとともにあからさまな嫌悪があらわれていた。反射的に開きかた口をぼくは閉じた。言える言葉など、あるはずもなかった。
 ぼくを見る女の子の瞳に、はじめて疑念の影が姿をあらわした。
「あんた、もしかして――おぼえてないの?」
 今度の問いにも、ぼくは答えられなかった。
 違う、ぼくじゃない――そう言えれば、どんなに楽だったろう。いや、ぼくにとってみれば、それが真実だった。深夜の暴走もその後の事故も、ぼくの記憶にはまったくなかった。女の子も。
 けれど、そのぼくの記憶は、いったいどこまで正しいのだろう?
 ぼくは、スリだ。眠っている人の体を借りて束の間目醒め、朝までのわずかな時間をうろうろしてすごす、ただそれだけの存在にすぎない。そんな影のような意識の記憶が、どうして信じられる?
 いままで、ぼくはたくさんの人の体を借りてきた。そのほとんどの人のことを、ぼくはまったくおぼえていない。それも無理のないことだと思う。そもそも借りた人が誰かということさえ、ぼくは知らないのだから。名前や部屋の様子や服の趣味や本棚にならぶ本は、すくなくともぼくにとっては、まったく意味を持っていなかった。
 借りた体が誰であっても、ぼくはぼくでしかなかった。
 だが、すくいあげた掌に残るぼくの体験がそれですべてだとどうして言えるだろう? そもそもいつからこんなふうに生きているかさえわからないというのに。指のあいだからこぼれ落ちた数えられない体験の中に、女の子の言う彼になって深夜に暴走したことも含まれているかもしれないのだ。
 あるいは、それはぼくの知らないぼくのしわざかもしれない。
 ぞっとしながら、でもぼくはその思いつきを否定できなかった。自分のことをわからない人間が自分を信じられるはずがない。まして、自分が正しいと主張できるわけがなかった。
「――来いよ」
 不意に聞こえてきた声に、知らずしらずのうちにうつむいていたぼくははっとして顔をあげた。
 いつのまにか小屋の外に出ていた女の子は顔の半分だけをぼくに向けていた。言葉の意味をつかみそこねて立ちつくしたままのぼくをにらみつけると、女の子はいらだたしげに舌を打った。
「連れてってやるよ。忘れてんなら、思いださせてやる」
 それでも、女の子の口調はいくらかは落ちついていた。ぼくは自販機から離れた。知りたかった。このままここでじっとしていたくなかった。
 ぼくが小屋から出ると、女の子はまっすぐに歩きだした。その後をぼくは黙って追いかけた。女の子はぼくがついてきてるかどうかをふりかえって確かめようとはしなかった。けど、ぼくが後を追いかけるのをやめればすぐに気づいて追いかけてくるに違いなかった――女の子にとっては、ぼくはいまだに彼を殺した犯人なのだ。ぼくが逃げだすようなまねをするのを許すはずがなかった。
 そのまま一定の距離をおいて、女の子とぼくはしばらく歩き続けた。車の量は女の子と会う前と変わらなかった。
 突然足を止めると、女の子は強い調子でふりかえってすぐ近くの電柱をまっすぐに指さした。
「ここが、そうだよ。そしてこれが問題の電柱さ。あんたとあたしはあっちから走ってきて、ちょうどあそこらへんですべったんだ。思いだしたかい?」
 女の子は手をふりまわしてあたりを指し示した。まるでこの空間全体が証拠だとでもいうように。ここからはもう逃れることはできないとでもいうように。
 だけど、ぼくの眼には女の子が見せたい景色は入ってこなかった。
 ぼくの視線をとらえたのは、電柱の根元にくくりつけられた花束だった。
 穴をあけた空き缶に、いっぱいの花が生けてあった。花はどれも生きいきとしていて、こまめにとりかえられている様子がうかがえた。花束を用意しているのは誰だろう、とふと思う。女の子か、彼の両親か、それとも別の知りあいか……
 風にあおられる葉や花びらを、ぼくは膜をへだてた先にあるもののように見つめていた。
 死んでなお、女の子の言う彼はぼくよりもずっと生きていた。女の子やこの花を生けた人たちによって、世界につなぎとめられていた。たとえこの花が枯れ、とりかえる人がいなくなったとしても、ずっと生き続けるだろう。多くの人から忘れられ、その心にかけらほどしか残らなかったとしても。
 ぼくのほうが、ずっと死人に近かった。
 横なぐりの突風が吹きぬけた。髪が眼に入り、ぼくは思わず眼を閉じた。
 眼を開くと、ヘッドライトに舞いあげられたような茶色の髪が瞳に映った。女の子の表情は逆光になっていてよくわからなかった。
 次の瞬間、突きとばされたぼくは車道の上に浮かんでいた。ヘッドライトが、女の子にかわってぼくを包んでいた。

 あのあと、二人がどうなったのかは知らない。彼女の言っていたことがどこまで本当だったのかも、いまとなってはわからない。
 ただ、風の強い日にふと、あの日のことを思いだすときがある。

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影絵の調べ

 おや?という感じでぼくを見るその顔は、とても印象的だった。

 その夜、ぼくは手すりに肘をついて歩道橋の上から道路を見おろしていた。
 真夜中近くなのに、銀杏の立ちならぶ道路にはまだたくさんの車がつっかえながら流れていた。右手側の海に面した公園ではたくさんの恋人たちが肌を触れあわせている。電灯はまるで催しものでもあるかのようにあたりを明るく照らしだしていた。たぶん、そういう名所なのだろう。いつものぼくならなるべく近づかないようにしているところだ。
 その日にかぎってそこから離れようとしなかったのは、蒸し暑さのせいだった。じっとしていても汗が流れるんじゃないかと思うほどの湿気があたりにたちこめていて、本当ならコンビニにでも逃げこむのが正解なのだが、ときどき海からすごく気持ちのいい風が吹いてきて、その感触を手放すのがすごく惜しかったのだ。それに、公園内にいるのは遠くから来た人間ばっかりだろうという計算も働いていた。どのみち恋人たちはぼくなんか気にしたりはしない。もっとも公園の中にいるのはぼくのほうが居心地が悪くて、それでとなりの歩道橋で妥協したわけだった。
 車の列は見ていて飽きなかった。すぐ先に信号があって、その色が変わるたびにいくつものヘッドライトやテールランプが明滅したり強弱を変えたりする。しばらくながめているとその全体がまるでひとつの秩序を守る生き物のように思えてきて、ぼくは頭の中に架空の生命体をこしらえその動くさまを想像して楽しんでいた。
 歩道にはほとんど注意を払っていなかったから、むこうが気づかなければぼくはすっかり見落としていたことだろう。
 ひっかかったのは視野の端に映った“おや?”という顔だった。印象的なその表情はその内になにか独特な気づきかたを隠しているようで、一瞬遅れてぼくは視線をそちらに転じた。
 表情の主は立ちどまってぼくを見あげていた。その姿に、ぼくはすこしとまどった――もじゃもじゃの髪に長い髭、全身はくそ暑いというのに黄土色のコートにすっぽり包まれている。わずかに露出している肌は浅黒かった。一言で言えば、季節はずれの浮浪者だ。
 ただ、それにしては右手にぶらさげているちいさな楽器が奇妙だった。
 きっとなんともいえない顔をしていたのだろう。ぼくが半分口を開けて見ていると、浮浪者はにこっとやさしそうな笑顔を浮かべた。そのまま視線を前に戻し、ゆっくりと歩きだす。ぼくはその姿を目で追いかけたが、浮浪者はすぐに歩道橋の陰に隠れてしまった。
 それ以上追いかける気はしなかった。いくら表情が印象的だったといっても、どんな人間かもわからない、どちらかといえば妙な感じのする浮浪者だ。わざわざこちらから関わろうとまでは思わなかい。ぼくは視線を車の流れに戻した。
 すこししてから、歩道橋がちょっと揺れた。
 もしかしてと思い顔をあげると、予感は当たっていた。さっきの浮浪者が歩道橋の縁に立ってぼくを見ていた。
「一曲、つきあわないかい?」
 手に持つ楽器を目の高さまでかかげると、さっきと同じ笑顔を浮かべて浮浪者は言った。

「ほんとうはギターがいいんだけど、ちょっと大きいからね。だから、ウクレレで我慢してるんだ」
 言いながら、浮浪者は細いほうの端のネジをひねりつつ糸をはじいた。何が大きいのか気になったけど、なんとなく聞きそびれた。たぶん音も大きさも、両方なのだろう。
 ぼくたちは公園の中の、海に近い芝生の一角に陣どっていた。やってきたときにはまわりのベンチのカップルたちがうさんくさげな目をちらちらとこちらに向けたけど、浮浪者はぜんぜん気にしない様子でゆったりと腰をおろした。ぼくも浮浪者にならって気にかけないことにした。正直に云えば、それでカップルたちがいなくなってくれればそのほうがいいと思っていた。他人のしあわせそうな姿を見ることにぼくは慣れていない。そんな様子があらわれているとしたら見るほうもいい気はしないだろう。それなら、お互い目に入らないほうがいい。もっとも、ぼくたちが来たからといって席を立ったカップルは一組もなかったのだけど。
 ぼくはと言えば、笑顔に引きこまれてついてきたものの漠然とした不安を感じはじめていた。といっても、機嫌を損ねると殴られるんじゃないだろうかというような具体的なものじゃない。どう説明したらいいだろう、いっしょにいると落ちつかない感じなのだ。かといってついてきたことを後悔したわけでもない。なんだかわからない期待も、また、あった。だからだろう、浮浪者がなにやら楽器をいじっているあいだ、ぼくはひどく所在ない気がしてしょうがなかった。
「さて、と」
 息をつくように声を漏らすと、浮浪者はふたたびぼくを見た。あぐらをかいていたぼくは思わず背筋を伸ばした。と、そんなぼくを見て浮浪者はくすくすと笑った。
「そんなにかしこまることはないよ。そりゃあこんな薄汚いおやじとどういうわけかいっしょに来てしまったんだから警戒する気持ちもわかるけどね。でも、音楽はそんなことにはぜんぜん関係ないんだ。ただ楽しめばいいだけのものなんだよ、文字どおり、音を楽しめば、ね」
 言葉を切ってウィンクすると、浮浪者は胸の前に楽器を持った。右手で細い部分を支え、左手をひょうたん型の本体の穴のあいているあたりの糸にあてる。両目が遠くを見るように細められ、ついに閉じた。
 ちょっと息を吸いこんでから、浮浪者の指が動きはじめた。
 心地よさに、同じように目を閉じてぼくはしばらくメロディに聞きいった。
 明るく、やさしく、それでいて切ない、とても不思議なメロディだった。まるで浮浪者自身のテーマソングのようだ、とぼくは思った。いったいいままで何回この曲を弾いてきたんだろう?
 そんなことを考えているうちに、最後の音がすっとちいさくなって周囲の音にまぎれた。
 ぼくはゆっくりと目を開いた。不安や居心地の悪さ、それに浮浪者をうたがう気持ちはすっかり消えていた。
 かわりに、浮浪者の例のおやという表情が瞳に飛びこんできた。
 ぼくはとまどいを覚えずにはいられなかった。浮浪者の表情に困惑の色が混じっているのがわかったから。なぜだろう? ぼくはただ音を楽しんでいただけなのに。
 どうしていいかわからずにいると、やがて浮浪者の髭がもそもそと動いた。
「……そういうことなのかなあ」
 見事にそのままの意味しかあらわしていない言葉だった。ぼくは反射的に聞きかえした。
「そういうことって、どういうことですか?」
 一瞬きょとんとしてから、浮浪者は照れたような笑みを浮かべた。困惑を表わしたことを恥じているような感じだった。それから、説明するように楽器から離した左手を広げてみせた。
「ごらんよ。なにが見える?」
 そのあけっぴろげな態度に、ぼくはつられて視線を周囲に転じた。
 そして、思わず目をみはった。
 どう説明したらいいだろう? そう、ピンぼけの写真を思い浮かべてくれればいい。ただし輪郭がくっきりとしているやつ、だ。そんな写真あるわけがない。けれどぼくが見ていたのはたしかにそんな感じの――全体はいやというほどはっきりしているのに、中身はひどくあいまいな景色だったのだ。
 しばらくのあいだ、ぼくはあっけに取られてただまわりを眺めていた。
 やがて我にかえると、ぼくはあわてて浮浪者に視線を戻した。浮浪者の笑みに、いまは共犯者めいた色があらわれていた。
「――これは――」
 言葉に詰まりながら、ぼくはもう一度あたりを見まわした。
「まわりばっかり見てないで、自分にも目を向けてみなよ」
 浮浪者の言葉にはっとして、ぼくは今夜の体を見おろした。
 あぐらをかいた足も腹も、ためしに広げてみた腕も、目覚めたときのままだった。まわりの景色のようなあいまいなところはなにひとつない。ぼくは軽い失望を覚えた。
 そしてやっと、浮浪者が言外に言おうとしていたことに気づいた。
 ぼくは目をあげた。浮浪者は笑みを浮かべたまま左手を楽器に戻した。指が動き、短いメロディが風に流れる。それにあわせるようにあいまいな景色がかきまぜられたようにざわざわと乱れる。
 浮浪者の姿は、ぼくと同じように、変わっていなかった。
「……そういうことだよ」
 言って、浮浪者は糸をはじいた。ちいさい、澄んだ音が長く伸びた。
「ぼくも君も、他の人とは違ってるってこと。もっとも、ぼくと君もお互い違うみたいだけどね」
 浮浪者の笑みが、いたずらっぽいような子供っぽいようなものに変わった。まるでないしょ話をうちあけるような感じだった。微妙に、それでいて豊かに、めまぐるしく変化する浮浪者の表情にぼくは驚きを隠せなかった。
 と、浮浪者は今度はくすくすと目を細めて笑った。
「そんなに目をまんまるくして驚いてばっかりいないでさ、そう、すこしは君からも話してよ。ぼくばっかり話してたんじゃ不公平だ。ほら、リラックスしてさ」
 言って、短いメロディをくりかえしくりかえしかなでだした。構えていた心をほぐすような、やさしいメロディだった。
 ぼくはすこし身を引いて息を吸いこんだ。浮浪者は伏せた目を楽器に向けている。その姿は指先がつむぎだすメロディと同じように温かさに満ちていた。ぼくは息を吐きだし、同時にためらいが溶けるのを感じた。
「……ぼくは、スリなんです」
 ぼくは自分のことを話した。スリの自分のこと、決まって夜、見知らぬ誰かとして目覚めることを。ずっとずっと、ひとりぼっちだったことを。心の奥に長いあいだたまっていたことなのに、言葉にしてみるとあっけないほど短くて簡単だった。でもそれは、自分でも信じられないほど素直に話せたということでもあった。
 ぼくが話しているあいだ、浮浪者はちいさな音でずっとメロディをくりかえしていた。やがてぼくが言葉を切るとメロディはしだいにゆっくりとなり、ついに最後の音が長く伸びて止まった。
「……だからなのかな」
 ぽつりと、誰にともなくつぶやくように浮浪者は言った。
「――あなたは?」
 浮浪者をまっすぐ見つめてぼくは言った。ぼくと違うと言うのなら、浮浪者には浮浪者なりの理由があるはずだった。こんな不思議なメロディをかなでることができる理由が。
 えっ?という感じで浮浪者はぼくに視線を戻した。それから、今度は当惑のまじった笑みで首をちいさく横に振った。
「ぼくは、見てのとおりだよ。薄汚い、ウクレレを持ち歩くちょっと風変わりな浮浪者さ」
「なら、どうしてぼくのことがわかったんですか? こんなことができるからなら、それはなんでです? いや、あの、原因なんかわからなくっていいんです。でもはじまりのきっかけくらいはあったはずです。できれば、それを話してください」
 言ってから、ぼくはそれが自分にないものだと気づいた。だから、聞きたいのだと。
「……まいったなあ……」
 苦笑いを浮かべながら、それでもこまった様子を見せずに浮浪者は視線を芝生に向けて左手で頭をかいた。話したくないというよりはどう話していいかわからないという感じだった。人の言葉を引きだすのはこんなに上手なのに。それとも、だからだろうか?
 と、浮浪者は息をついて顔をあげた。笑みは消えていなかったけど、どこか覚悟を決めたような色があらわれていた。
「ご覧のとおり、ぼくは浮浪者だ。いわゆる普通の人生ってやつを踏みはずして、いろんなところでウクレレを弾いてまわっている。君の言うとおり、たしかにそれには原因があった。でもそれが関係あるかどうかはわからないよ」
 言葉を切ると、浮浪者はうかがうようにぼくを見た。ぼくは何も言わなかった。浮浪者の次の言葉を待っていた。
 もう一度息をついて、浮浪者は口を開いた。
「……ぼくは、誰ともかかわりを持ってなかったんだ」
 左手を楽器に戻して指を動かしだした。伏せた目がその動きを追いかける。ちょっと切ないメロディが流れだす。
「もちろん言葉どおりの意味じゃないよ。いまはこうだけど前はちゃんと働いてたし、恋人もいた。友だちと馬鹿なことをして遊んだりもした。家族ともうまくいっていた。いや、そう思っていた。
 でもある日、わかってしまったんだ。ぼくがぼくである必要がないってことに。
 自分で言うのも変だけど、ぼくは普通の人間だった。けど普通の人間ってどういうことだろう? 平凡な、個性のない、平均的なってことなら、その人は実は誰でもいいってことになる。そりゃあいくらかのでこぼこはあるだろうけど、そのでこぼこはその人をしるしづけることにはなってもその人でなければいけない理由にはならないんだ。
 そんなことを考えだしたとき、ぼくはすごく不安になった。彼女に、友だちに、親に、手あたりしだい聞いてみた。みんな口では否定したけど、それが本当だとはぼくは信じられなかった。おかしいよね、いま思えば根拠なんてぜんぜんないのにさ。
 けど、やっぱりそれはまちがってなかったんだ」
 浮浪者の口調はなんだかこっちが不安になりそうなほど淡々としていた。かなでるメロディも同じ調子のものがずっと続いていた。周囲の景色はいまもあいまいなまま思いおもいに中身を変化させていた。
「はっきりわかったのはいまみたいにギターを弾いてたときだった。部屋に父さんが入ってきて、名前を呼んだんだ――知らない名前を。ぼくは一瞬呆然として手を止めた。そしたら、父さんも不思議そうな顔をしてもう一度ぼくの名前を呼んだ。今度は本当にぼくの名前だった。
 それをきっかけに、ぼくはいろいろ試してみることにした。ギターを弾いたり口笛を吹いたり、いろんなやりかたでね。結果はいつもだいたいおんなじで、しかもだんだん変わった。はじめのうちは違う人間にまちがわれたけど、最後のほうではいると思われなくなった――デートのときも、さ。
 かわりに、こんなものが見えるようになった」
 強く糸をはじいて浮浪者は音を切った。あいまいな景色の動きがちょっとだけ鈍くなった。
「結局、ぼくはみんなにとって必要な存在ではなかったってことなんだろうね。向こうにも、ぼくはきっとこんなふうに見えていたんだよ」
 浮浪者はまた指を動かしはじめた。今度のメロディは軽快な調子で、話の中身にあっていなかった。
「でも――」
 なんでです? そう言いかけた言葉を、ぼくは飲みこんだ。理由は聞かなくたってわかる。存在をたしかに認められないところになんて、いられるはずがない。
 かわりに、別の言葉を捜した。
「――じゃあ、どうしてこんなことを?」
 唐突に、浮浪者の手の動きが止まった。表情から笑みが消え、不意をつかれたようなきょとんとした顔に変わる。それから一瞬だけぼくに横目を向けると、すぐに目線を下に向けて何事かを真剣に考えだした。
 ぼくは不安になって浮浪者をのぞきこんだ。悪いことでも聞いてしまったのではないかと思って。と、ちいさくつぶやく独り言がかすかに耳に届いた。
「……そうだよなあ……」
 ぼくは安心すると同時に拍子抜けした。様子から察するところ、どうやら本当にいままで一度もそういうことを考えたことがないらしかった。
 思わずぼうっとしつつ黙って待っていると、やがて浮浪者はふたたび口を開いた。
「……言われてみるまで気づかなかったよ。ずっと手なぐさみだとばっかり思ってたから。けど、それならウクレレじゃなくたっていいはずだよね。なのにどうして、よりによって音楽なのか……
 うん、それにはやっぱり理由があると思う」
「それは?」
 ぼくは身を乗りだした。顔をあげると、浮浪者はぼくを見て微笑んだ。
「だってさ、かわいそうじゃない?」
 思わぬ言葉にあっけにとられると、浮浪者はやさしい笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「ぼくはみんなにぼくだってことを気づかれなかった。おんなじように、ぼくが見ているものもたぶんみんなに気づかれないものなんだ。だったら、だれかが見てあげなくちゃ。気づかれないなんて、さびしいもんね」
 左手が上から下にゆっくりと動いた。音が広がるのと同時に景色が浮浪者を中心に波打つ。
 ぼくはあたりに目を向けた。あいまいな恋人たちはもうぼくたちのことなど気にしてはいないようだった。いや、もしかしたらぼくたちは見えていないのかもしれない。そうぼくは一瞬本気で思った。ぼくたちの見ているものが普通は見えないのと同じように。
 浮浪者がかかわりを持っていないと思ったように。ぼくが本当には存在していないのと同じように。
 いつのまにか、浮浪者の指がまたメロディを奏ではじめていた。ぼくは目を閉じ、メロディに身をゆだねた。海からの心地よい風が頬を、ぼくたちを、そしてあいまいな景色すべてを、やさしく撫でた。

「ほんと言うとね、歩道橋の上にいるのを見かけたときから、他の人とは違うなって思ってたんだ」
 公園を出たところで浮浪者は言った。道行く車はさすがにかなり減っていて、あたりの照明が妙にそらぞらしい光を投げかけていた。
「なんでだろうね? 理由なんかなんにもないのに、その人のことがすべてわかってしまったような気になることがあるのは。不思議だよな、そうは思わない?」
 ぼくは足を止めて浮浪者を見た。言わなくてもわかる。ここが別れの場所だった。
 浮浪者も立ちどまり、首をすこしひねってぼくに向けた。
 いま聞いた言葉のことをよく考えながら、ぼくはちいさくうなずいた。そういう経験はぼくにもあった。そして、それが思い違いにすぎないことがあることも、ぼくは知っていた。
 浮浪者は例の笑顔に照れた色を混ぜてみせた。
「ぼくの音楽、どうだった?」
「素敵でした。本当に」
 この言葉は素直に口から出た。うれしそうににっこり笑うと、浮浪者は楽器を持つ手を軽く上にあげた。
「ありがと。じゃあね」
 言って、ぼくに背中を向けた。
 ゆったりと、しかしまっすぐに去っていく浮浪者の姿をぼくはしばらく見つめていた。浮浪者は違うといったけれど、ぼくには浮浪者はとても近しい存在に思えてならなかった。ただ一点を除いて。
 浮浪者は動ける。ぼくは動けない。
 けれど、それはたいした差ではない気がした。二人とも自分の自由にならないなにか――なんなら運命と呼んだっていい――に捕らえられていることに変わりはないのだから。
 あんなに美しいメロディや人に見えないものを知ることができるならら、それも悪くない気がした。
 浮浪者は横断歩道を渡り、建物の陰に姿を隠した。ぼくをふりかえって見たりはしなかった。ぼくは背中を向けると歩道橋のほうへと歩きだした。まだ夜は――ぼくの時間は、充分残っていた。
 やわらかい風が吹きぬけた。知らずしらずのうちに、浮浪者が聞かせてくれたメロディをぼくは口笛で吹いていた。

 あのメロディのかけらは、いまも頭の片隅に残っている。

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想いのかたち

 なんでまたこんなことをする気になったのか、自分でもそう思わないでもない。でもそんな気分は体を動かすあいだにどうでもよくなっていた。

 きっかけは、目覚めたときの姿勢だった。
 ぼくは椅子に座って机につっぷしていた。額にあたった手の甲が痛かったくらいだから、ずいぶん長いあいだそうやっていたのだろう。いままでずいぶんいろんな人の体を借りて目覚めてきたけど、こんな姿勢は覚えているかぎりはじめてだった。まあ印象的な寝かたなんてそうあるもんじゃないと思うけど。
 体を起こして額を手でさすり、ベッドの向こうの窓に目をやるとやはり外は夜だった。ぼくは夜にしか目を覚ましたことがない。こんな姿勢で目を覚ました記憶がないのも、してみれば夜に机で熟睡する人がそうはいないためだろう。寝る気になったならさっさと布団に入ってしまえばいいのだから、当然といえば当然だ。とすると、ぼくが借りた体の主は何かをしていてうっかり眠ってしまったのかもしれない。
 何をしていて眠ってしまったのだろう?――ぼくは好奇心を覚えて机の上に目をやった。
 飛びこんできたのは一枚の紙。そして、それに描かれた絵だった。
 うまいだとかへただとか、そんなことは正直言ってわからない。ありふれた絵だという気はした。デッサンのようなラフスケッチだったからかもしれない。すくなくとも、ずっと描きこんでいって完成というものでないことだけは素人のぼくにもわかった。たぶん、下絵なんだろう。
 そこまで考えると、ぼくは顔をあげあらためて部屋の中を見まわした。ヒントが見つからないかと期待して。
 あまり広くない、フローリングのワンルームマンションだった。この歳の男にしてはかたづいてるほうじゃないかと思う。ただ目に入るのはマンガやCDのケースばかりで、絵につながるようなものは一見したところではないようだった。マンガの絵とは違う感じなので、その線はたぶんない。とすると、もしかしてはじめて描いてみたものなんだろうか? それとも普段はあまり目につかないところに置いてあるだけなんだろうか?
 とりあえずもうちょっと本棚をよく見てみようと思って体をひねったとき、足の甲になにかがあたった。
 覗いてみると、足元にカバンが置いてあった。すこし開いた口から色とりどりのキャップが頭を出している。スプレー缶だ。
 なにかが頭にひっかかった。ぼくは体を起こして机の上に視線を戻した。
 奥のほうに雑誌の切り抜きらしい写真が一枚投げだされていた。風景写真だ。どこかの壁とそれに描かれたおおきな絵が写っている。ぼくの手の下にあったのと似た感じの絵だった。
「なるほど」
 声に出してつぶやいてみた。これが目的だったのだ。たぶんすっかり準備を整えてあとは出かけるだけにしたところで休んでしまったのだろう。または、ぎりぎりまで手を入れているうちに眠ってしまったか。どちらにしろ、ぼくの体は本番前についうっかりしてしまったことになる。
 ある思いつきが浮かんだのは、このときだ。
 それはいつものぼくならすぐに否定してしまうような考えだった。ぼくはスリだ。他人が眠るあいだにその体を借りる、束の間目覚めてさまようだけの存在にすぎない。だから、借りた体その人の迷惑になるようなことは避けるようにしていた。体を借りたこと自体も、可能なかぎり気づかれないようにして。その基準からすると、そのときの思いつきは馬鹿げていると言ってよかった。
 けれど、今日に限っては捨てる気になれなかった。
 椅子に座ったまま足元のカバンを足でいじくり、しばらく迷った。迷うこと自体がすでにぼくらしくない、そうに気づいてぼくは心を決めた。実のところ、怖れることはぼくには何もない。ぼくはぼくではないのだから。あとは遠慮を捨てられるかという問題にすぎない。
 スリになっておそらくはじめて、ぼくはぼくの体の主に対して遠慮しないことにした。
 スプレー缶をがちゃがちゃ鳴らしてカバンを持ちあげると、ポケットに絵の描かれた紙をつっこみ立ちあがって玄関へと早足で歩きだした。

 ちょうどいい壁を見つけるまでが一苦労だった。
 なにしろ、いつものことなのだが、街をなんにも知らなかった。夜の街に出たとたんそのことに気づいて、ぼくは一瞬立ちつくすとすぐに部屋に戻って地図がないか捜してみた。当然というべきか、そんなものは見つからなかった。体の主はよく知っている場所に描くつもりだったのだろう。それがどこかを知るすべはぼくにはない。目覚めた机の前に立って、ぼくはこの思いつきをあきらめるべきかどうか真剣に悩んだ。
 結局ぼくは妥協してふたたび夜の街に出た。散歩はいつものことだから、スプレー缶と下絵は持っていってもしいい壁が見つかったらそこに描くことにしたのだ。
 すると、今度は壁が気になってしかたがなくなった。
 自分ではいつもと同じように歩いているつもりだったけど、気がつくとこの壁は描けそうだとかこれはさすがに無理だとか、そんなことばっかりに目がいってしまっていた。かといっていちばんはじめに見つけたいい感じの壁に描きだしてしまうわけにもいかなかった。いくらなんでも人の家の塀やデパートの壁など、あとで問題になるのがわかりきっているところは避ける必要がある。遠慮しないことに決めたといっても責任をぼくが取れるわけはないのだから、それは最低限守らなければいけないことだった。
 結局、ちょうどいい壁を見つけるまでにかなりの距離を歩かなければならなかった。
 その壁は細い道路のすぐ脇に垂直に切りたった崖のようにしてあった。かなり高い壁で、途切れた先には目の荒いネットが張ってある。相当年期が入っているらしく、地の灰色はとても濃かったし、黒い縞模様上の汚れも全体に縦に流れていた。
 率直に言えば、これが本当にちょうどいい壁かどうかはぼくにはわからなかった。ただ壁ばかりに目を向けてばかりいて精神的にかなり疲れてきていたし、手ごろであることにまちがいはないので、ここでいいやとばかりに決めてしまったというのが正直なところだ。加えて、大通りから離れた薄暗い路地で人通りがなかったことも都合がよかった。ぼくはカバンを置き、口を開いて中から下絵とスプレー缶をひとつ適当に取りだした。
 あらためて壁に向きなおり、さてこれからどうすればいいのかと考えた。
 なにをすればいいのかはよくわかっている。そのために来たのだから。けれど、それが本当にできるかとなると別問題だ。これもまた例のごとく、どうすればいいのかぼくは知らないのだから。
 まあ、でもこのままつったっててもしょうがない――ぼくはとりあえず試してみるつもりでスプレー缶を壁に近づけて吹きつけてみた。ぱっと広がった濃い水色が灰色を覆い、シンナーの臭いがあたりに広がった。
 あとは体が勝手に動いた。不思議なことに、そうなのだ。はじめてのぎこちなさはあったものの、ぼくはぼくの体が知っているやりかたで下絵を壁に引き写しだした。
 思っていたよりずっと大変な作業だった。灰色を塗りつぶし、缶を近づけたり離したりして塗りかたを変え、下絵をずっと拡大して壁に描いていく。言葉にしてみればこれだけなのだが、なにしろキャンバスがでかい。時には爪先立ちして高いところにスプレーを吹きつけ、時には這うようにして足元の細部を描き加えなければならない。そもそも缶を交換するたびに腰をかがめてカバンをのぞかなければならないのだから、これはもう立派な全身運動だ。はじめてからそれほどしないうちにぼくはもうへとへとになっていた。
 けれど、そんなぼくの感覚とはまるで関係なく、体のほうは着実に絵を描き続けた。
 そのうちに、ぼくは何も考えずに体の動くにまかせるようになっていた。実のところ、ぼくが考えてしなければならないことなんてなかったのだ。体は一定のリズムに乗ってスプレーを吹きつけ、缶を取り替え、すこし離れて全体のバランスを確認し、また近づいてスプレーを吹きつける。その動きはいつか音楽のように心地よくなっていた。ぼくはただそのリズムの流れに身をゆだねた。
 気がつくと、ぼくは道路の向かい側で壁の真正面に立っていた。
 荒い息がぼくを正気に引き戻した。ゆだねていたリズムは消えている。ということは――
 ぼくは正面の壁に目の焦点をあわせた。
 絵は完成していた。さすがに下絵そのままというわけにはいかない。下手になってるといってもいいかもしれなかった。けれど、それはたしかにひとつの完成した絵だった。
 知らぬ間に、ぼくは息を深く吐きだしていた。
 汗まみれの体を風が吹きぬけ、ぼくは思わず体を震わせた。遠くのほうからカラスの鳴き声が聞こえてくる。まだ空は暗いけど、気配で夜明けが近いことがわかった。すっかり我を忘れていたらしい。ぼくはあわててカバンに駆けより、出しっぱなしのスプレー缶や下絵を詰めて帰り支度をはじめた。

 部屋へ戻るまでのあいだ、ぼくは絵のことを、というよりも絵を描いた自分のことをぼんやりと考えていた。
 なんとなく足が地につかないような、うわついた感じだった。カバンは重く、体も疲れきっていたけれど、気分が変に昂ぶっている。それをあらわすように、ぼくは早足でマンションへの道をたどっていた。
 戻り道でこんな気分になることはめったになかった。すこし沈んだ気分で惜しむようにゆっくりと歩くのがいつものパターンなのだ。それでもいつかはぼくのではない家に着く。それまでが、夜明けまでの時間ができるだけ長くなることを、ぼくはいつも願っていた。
 今日は違った。時間がなかったせいもあるけど、早く着いてしまってもかまわなかった。
 もちろん理由はひとつしかない。いつもならやらないことをやってみせたこと。壁に絵を描いてみせたこと。それが、ぼくをすこし興奮させていた。
 なにかを残すことがあるなんて、思ってもいなかった。
 それは、ある意味ではあたりまえのことだった。ぼくは自分にそれを禁じていたのだから。影のようにしか存在しないスリが世界になにかを残せるなんて、どうして考えられるだろう? せいぜい、借りた体の主を不思議がらせるくらいが関の山――いつか、ぼくはそんなふうに思い定めていた。
 今日は違った。日が昇れば誰にでもわかるような、おおきな痕跡を残してみせた。
 それはぼくの描いた絵ではなかった。完成した絵を見て、そう思った。ぼくはただ下絵を引き写すのを手伝ったに過ぎない。ぼくがやらなくても、この体の主は同じように同じ絵を描いただろう。そう確信できるほど、できあがった絵の中にはぼくは存在していなかった。
 けれど、それをしたのは、たしかにぼくなのだ。
 ちょっとでっぱったアスファルトに爪先をひっかけ、ぼくは前につんのめった。立ちどまり、背筋を伸ばして深く息を吸いこむ。ここまで来るとさすがに浮かれすぎだな、と思う。次はないかもしれないのに。もう目覚めることはないかもしれないのに。
 それでも、いまは信じたかった――ぼく自身がなにかを残す日が来るかもしれないことを。
 ぼくの進む先の空に薄明が広がりだした。今度こそ、本当に時間がない。いまの想いを心に刻みつけて、ぼくは駆けだした。

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