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Days never come #2

Contents:

  1. 満月に臨む夜
  2. わたしたちは夜の底で

満月に臨む夜

 殺害は密室で行われた。
 彼は彼女の声を聞きたかった。
 彼女は叫ばなかった。

          *

 行く手をさえぎる人の群れがフロントガラス越しに迫ってきた。
「……やれやれだぜ、ったく」
 石はクラクションを数回軽く鳴らした。速度をぎりぎりまで落としながらも決して停止させずに車を人垣に割りこませていく。何度かアクセルを思いっきり踏みこみたい衝動に駆られた。それくらい群がる人々は道を空けようとはしなかった。
 ――丑三つ時だってのによく集まるよ。
 内心つぶやきながら石はまたクラクションを鳴らす。明るい光に照らされ闇などかけらも見つからない道の上を人々がまたすこしだけ動いた。
 ようやく目的のアパートの前まで来てドアを開けたとたんむわっとした熱気に包まれた。うんざりしながらも声には出さずに石は目的のアパートをざっとながめた。
 年代物のいまにも崩れそうなぼろアパートだった。アパートとは名ばかりで実際には連れこみ宿として使われている、石はそう前に聞いたことがあった。どんなににぎわったときでも今日ほど人を集めたことはないだろうな、石はぼんやりとそう思った。
 人々が群がっているのはそのアパートの入口だった。
 ――おかしいな?
 覚えた疑問を頭の片隅にとどめて石は前進をはじめた。いまは考えるより遅れを取り戻すことのほうが先だった。
「はい、警察です、通してください! どいてどいて! 見世物じゃないんだから、ほら! ちょっと、前に行かせろってば!」
 声を張りあげながら人ごみをかきわける。アパートにたどりついたときにはすっかり疲れきっていた。石はおおきく息を吸いこんでアパートの廊下にあがろうとした。
 とたんにあらわれた大女が石の行く手をさえぎった。
「ひどいもんよね、まったく」
 石はあわててあとずさる。大女は石の頭越しにあたりを見まわした。
「お上のやることってのはほんとよくわかんないわ。こんなに夜を明るくしちゃうからやじうまだってのこのこと集まってきちゃうのよ。強迫神経症みたいに徹底してやることはないのにねえ」
 言葉を切ると、大女は目玉をぎろっと動かして石を見おろした。
「遅かったわね」
「いろいろあったんですよ、比嘉さん」
 石は視線を落としてわざとらしく息をついてみせた。視界の端、比嘉の背中に隠れるように立つ人影を石は認める。石の職業的な目はその初老の男の額にある特徴的な印を即座に見て取っていた。
 ――管理人型か? めずらしいな。
「で、現場はどこなんです?」
 石はあらためて視線を比嘉に向ける。と、比嘉は両手を腰にあてて瞳の中をまっすぐのぞきこむように石を見つめた。
「もう終わってんのよ。あたしはそれをあなたに教えるために残ってたの。現場に来るまで連絡が取れないってのはどういうことなの?」
「えっ? いや、だって――殺しでしょ? たしかにずいぶん遅れましたから現場検証が終わっててもおかしくないですけど――」
 言いながら石はあたりを見まわした。他の刑事たちが見あたらない理由はそれで飲みこめたがどうして比嘉がそんなことを言うのかはまだわからなかった。
 落ちつきのない石の態度にひとつちいさくため息をつくと比嘉はうしろをうかがった。初老の男はおおげさにびくっと体をふるわせてあとずさる。その様子に比嘉はまた息をついた。
「殺しじゃなかったの。器物損壊よ、ただの」
「――は?」
 石はあっけにとられて比嘉を見た。

「よお。なんか昨日おもしろい事件があったって?」
 聞こえてきた声に石はプリントアウトから視線をそらして顔をあげた。
 矢島は大股で近づいてくると石の隣のデスクに軽く腰をあずけた。にやっと笑うと左手で石の持つプリントアウトを指さす。
「報告書、それ?」
「そ。義物損壊ね」
 デスクの端に乗せていた足を床におろすと石はプリントアウトをデスクの上に放りなげる。矢島は顔を動かしてその軌跡を追った。視線の先には用紙の半分ほどのおおきさで印刷された画像があった――一見したところ人間と見分けがつかない死体の写真が。
 矢島の顔から笑みが消えた。
「悪趣味だな」
「まったくだ」
 石は報告書に目を向けたままうなずいた。
 写真の中では全裸の女がベッドにあおむけに横たわっていた。その喉からへその下にかけて幅数センチの太い傷がまっすぐ走っている。顔面はきれいに焼かれて生前の面影を思わせる部分はまったく残っていない。首が半ば裂かれているせいで頭が奇妙な角度に曲がっていた。
「熱線銃(ブラスター)か……」
 低く抑えた声で矢島は言った。
「鑑識もそう言ってる」
 石も抑えた声で応える。矢島はやれやれという感じで首を横にふった。
「けどなんでこんなご丁寧に顔をつぶしたりしたんだ? 残しておけばすぐに擬人だってことがわかっただろうに」
「知らねえよ。変態の考えることはわからん」
 石は頭のうしろで手を組んで背中を椅子の背もたれにあずけた。きしんだ椅子が耳ざわりな音をたてた。
「……ま、売り用の擬人だったろうから被害届も出ないだろう」
 真剣にプリントアウトを見つめていた矢島はやがてちいさく息をつくとデスクから腰を離した。
「どうせなら俺たちの目につかないようにやってくれって言って回りたいよ」
 手で合図をすると矢島は背を向けて離れていった。そのうしろ姿をしばらく見送っってから石は身を前に乗りだしてデスクの上のコンピュータにあらためて向きあった。
 画面にはプリントアウトの元となった報告書が全体に表示されていた。承認を指示すれば事件は類似事件の瑣末なケースのひとつに分類されてデータベースに登録される。そのまま未解決の無数の事件のひとつとして埋もれることはまちがいなかった。警察が他に解決すべき無数の事件を抱えていることを石は身に染みてわかっていた。
 この件はこれで終わり、そう思いながら石は報告書を承認するためにキーを叩いた。
 そのはずだった。

「石君、ちょっといい?」
 背後からの声に石はあわてて書きかけのメールを画面から消した。キーボードを奥に押しこんでからふりかえる。すぐうしろに立った塩山は腕を組んで石を見おろしていた。あんたのやってることなんか全部お見通しよ、その目はそう語っていた。
「どうぞ。なんですか?」
 落ちついて聞こえるよう努力して石は言った。しばらくなにか言いたげに石を見つめてから塩山はようやく口を開いた。
「このあいだの擬人壊し、君あれに関わってたわよね?」
「擬人壊し? ああ、四日前のやつですね。あれはもう担当はこっちじゃないですよ」
「まあいいのよ、それは。ちょっと話を聞かせてくれない? あんまり手間とらせないから」
 言うと塩山はさっさと隣のデスクの椅子を引っぱってきてそれに座った。石は顔をしかめそうになるのを苦労してこらえた。この優秀な先輩刑事が石は苦手だった。
「でも話すことなんかないですよ。被害届も出そうにないですし」
「そんなことぐらいは報告書を読めばわかるわ。知りたいのは現場の雰囲気。どんな感じだった?」
 塩山はすこし首を傾ける。その表情に疲労の色があらわれていることに石は気づいた。
「どんな、って言われても……。ぼくも現場にそう長くいたわけじゃないですし」
「でも行くには行ったんでしょ? すこしは印象ってものがあるじゃない。それを教えて」
 塩山はくいさがるように顔をすこし前に出す。石はこころもち身を引いて視線を上にそらした。
「まあ、ぼろくさいアパートでしたよ。薄汚くて。事情を知らない人間だったら近づきもしないんじゃないかなあ」
 石の自信なさげな言葉に塩山は息をついて身を引いた。視線をどこか遠くのほうに向けてちいさく息をつく。
「……そんなもんか」
「いったい何があったんです?」
 思わず語気を強くして石は訊いた。こうもあからさまに馬鹿にされたような態度を取られるとさすがに落ちついてはいられなかった。
 塩山は瞳だけを動かして石に視線を戻した。
「昨夜もあったのよ、同じような事件が」
 石は息を飲んだ。その顔をしばらくものいいたげに見つめてから塩山は言葉を続けた。
「帰ってきたときには大山鳴動ネズミ一匹って感じでたいして気にしなかったんだけどね。報告書を承認するときにためしに類似事件を検索してみたらひっぱりだされてくるじゃない。それでちょっと気になってね」
「ふむ……」
 石は眉間に皺を寄せた。「ただの変態のしわざじゃない、と?」
「なにそれ」
 塩山はけげんな表情を浮かべる。石は言い訳するように二、三度まばたきをくりかえした。
「いや、ぼくはてっきりそう思ったもんで」
「ああ……。なるほどね」
 塩山は背もたれに体をあずけて腹の前で手を組んだ。「たしかにそう考えるのがいちばんわかりやすいわね。でもそれにしちゃあおかしくない? 処分する方法なんていくらでもあるのに死体をわざわざ見つかるような場所に放置しておくなんて。それに――」
 一度言葉を切ってすばやくあたりに目を走らせると塩山は声をひそめて続けた。
「もしそうだとするとかなりやな相手よ。どちらのケースも性交の痕は確認されていないそうだから、破壊そのものに快楽を見いだしてるってことになる」
「あるいは疑似殺人に、ですね」
 つられて石も声をひそめる。一瞬、なんとも言えない沈黙が二人のあいだに横たわった。
「……ま、それもこれも全部二つの事件に関連があったとしたらの話だけどね」
 明るく作った調子で言うと塩山はすっと立ちあがった。「ありがと。時間とらせて悪かったわね。また聞きに来るかもしれないから、そのときはよろしく」
 椅子を戻して石に背を向ける。石はディスプレイに顔を向けてからふと思いだして塩山の背中に視線を戻した。
「ああ、塩山さん。死体の様子はどうだったんですか?」
 すでに数歩離れていた塩山は足を止めると肩越しにふりかえって石を見た。顔には渋面が浮かんでいた。
「ひどかったわ。石君のときのよりも、もっとずっと。全身をほとんど熱線銃で焼かれてるの――それも深くまで焼いてしまわないよう威力を調整してね。拷問よ。人間だったら死ぬ前に狂っちゃうんじゃないかしら」
 思い浮かべたことをふりはらうように首を二、三度横に振ると塩山は大股で去っていった。
 石はコンピューターに向きなおるとキーボードを手前に引き出した。タイプとマウス操作で塩山の言っていた事件の報告書を呼びだす。書きかけの私用メールのことはもう忘れていた。思っていたほど単純な事件ではないかもしれないという予感が石の心の中に育っていた。
 それはまちがっていなかった。
 三度目にぶつかったのは、またしても石だった。

「どしたい? えらく疲れた顔しちゃって」
 脳天から突きぬけるような高い声にそれを助長する陽気な調子。すれ違いざまにかけられた言葉に思わず足を止めてから石はしまったと後悔した。息をついてしかたなくうしろをふりかえる。林は同じように廊下の真ん中に立ち止まってにやにや笑いを石に向けていた。その笑い顔が石は嫌いだった。
 反応してしまった以上無視して去るわけにもいかなかった。気づかれないようにちいさく息をつくと石は話す言葉を捜した。
「いや、ちょっと昨日からほとんど寝てなくて。聞きこみにもずいぶん手間がかかったし」
「聞きこみ? 石ちゃん、いまそんなたいそうな事件の担当になってないだろ?」
 林のにやにや笑いにわずかに意地の悪さが射す。その首を絞めてやりたい衝動を石はかろうじてこらえた。
「林さん、今朝のニュースチェックしました?」
「へっ? そりゃしたよ、いちおう。けどそんな話題になるようなネタはなかったと思ったけどなあ。せいぜいが連続擬人破壊事件っていまいちぱっとしないやつだけで――」
「それですよ。それ」
 石の簡潔な指摘に林は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。すぐにそれはさらに人を小馬鹿にしたようなにやにや笑いに変わった。
「なんだい、まったく、なにかと思えば。あんなのほっとけばいいじゃん。しょせんクズたちのこぜりあいに過ぎないんだから。誰が困るってわけでもなし。ぽん引きたちもすこしは懲りるだろうからかえってありがたいくらいだよ」
 ――やれやれ。内心のつぶやきを喉の奥で殺すと石は辛抱強く口を開いた。
「そういうわけにはいかないでしょ? マスコミに注目されちまったからには。いまはまだ擬人が壊されてるだけですけど同じ手口で殺人が起きたらどうなると思います? 一気に非難が殺到しますよ。そのときに満足に対策してなかったなんて見られたらいったいどんなふうに叩かれるか……。最近はただでさえ風当たりが強いんだからこれ以上ひどくなったらやってられませんよ、ほんとに。
 それに、思われてるほど単純な事件じゃなさそうですよ」
 石は声の調子を真剣なものに変える。林は両目を細めた。にやにや笑いを浮かべたままのその表情は石の言葉をまじめに受けとっていないことを問わず語りにあらわしていた。
「どこが? たかが擬人壊しじゃん。たまたま似たような手口の事件が連続しただけで犯人は全部違うかもしれないし。まあたぶん同一犯なんだろうけど、どうせ馬鹿が調子に乗って次々とやってるだけのことでしょ。複雑になんてなりようがないじゃん」
「ならなんでどのケースも額の印を念入りに消してあるんです? この死体は人間ではありません、人間のまがいもの、人の手で生みだされた劣った作りものである擬人ですよってはっきりとわかるようにしておいたほうが絶対に注目を集めないのはわかりきってるのに。なのにそれをわざわざ三回も続けてやるってのはなんらかの意図があってのことだと考えるほうが自然だとぼくは思いますよ」
「……本気でそう思ってんの?」
 林の笑みが薄れた。興味をなくしかけている証拠だったが石は言葉を続けずにはいられなかった。
「ええ。だってそうでしょう? いままでだって擬人壊しがなかったわけじゃありません。ご存知のように。けれどそれらはすべて偶発的だってことがすぐにわかるその場限りの犯行ばかりでした。逆に言えば、だから問題にならなかったわけです。
 今度のは違いますよ。明らかに、なんらかの意図が背後に隠されています。それが何を狙ってのものかはいまのところはまだはっきりとしませんが」
 言葉を切ると石は林をまっすぐ見つめた。すっかり笑みを隠してしまった林は落ちつかなげに視線を石の頭の上あたりにさまよわせた。
「ミステリの読みすぎだよ、そんなの」
 石は応えない。林はやれやれという感じで首を横に振った。
「それで? 訊きこみの成果はあったの?」
 今度は石が首を振る番だった。林はにやにや笑いをふたたび浮かべると勝ち誇ったように鼻をふくらませた。
「ほら見ろ。きっと犯人はちょっと頭のおかしな馬鹿でさ、そうやれば俺たちの気が引けるとでも思っただけなんだよ。そうでなきゃやっぱただの偶然の一致か」
「まだわかりませんよ。訊きこみだってまだ街全部を回ったわけじゃないんですから。あのあたりに他人に関心を持って生きているやつがいないことはわかってますけど、でも可能性がまったくないわけじゃないでしょう?」
 くいさがるように石は言う。その感情の向きをそらすように林は一歩うしろにさがった。
「わかったわかった。でも科研の分析にでもまかせたほうが確実だと思うな。それに、あんまり無駄なことにかまってると課長にどなられちゃうよ。気をつけるんだね」
 くるっと背を向け、片手をあげて合図をすると林はすたすたとその場から去っていった。石はそのうしろ姿を腹だたしげににらみつけた。
「……科研があてになるんだったらとっくに全部まかせてるよ、ったく」
 つぶやくように言って廊下の壁を軽く足で蹴る。それからおおきく息を吐きだすとおもいっきり頭をかいて石は背を向け歩きだした。頭の中は早いうちに手がかりをつかまえなければとという思いでいっぱいだった。
 事件はまだ続くだろう、石はそう予測していた。
 その予測は半ばあたり、半ばはずれた。

「……いったいどうなってんだ?」
 現場の前で立ちつくすと石は小声でつぶやいた。
 すえた臭いのする、汚れきった狭い路地の中ほどだった。道の両側が背の高いビルになっているせいでさすがにまわりよりいくらか薄暗い。いつもなら喧騒に満ちているはずのその道が、いまは両端を警官に封鎖されているせいで妙に静まっていた。周囲では鑑識の人間がせわしなく動きまわっている。
 女の死体は壁にもたれて座っていた。
 両手は力なくたれさがり、まっすぐ伸びた両足は路上に無造作に投げだされていた。首が不自然に曲がっているせいで頭が肩に乗っている。服をまとわない体に首から股までと右胸から左腿までの二本の傷がまっすぐ刻まれていた。傷跡は熱線銃によるものだと一目でわかった――いままでの事件と同じように。
 だが今度の擬人には顔も額の印も残されていた。
 これまでの事件との相違点はそれだけではなかった。ぼんやりと口をあけたまましばらく擬人の死体をながめてから、その頭の上の壁面に石はようやく視線を転じた。
 スプレーでなぐり書きされた文章は周囲から浮きあがって見えるほどまだ真新しかった。字そのものはかなり崩れているものの文章が読めないほどではない。それは石にこう語りかけていた――
<見よ! 彼女たちは失われていた顔を取り戻した!>
 石はかなり長いあいだその文章を見つめた。それからもう一度擬人の死体に視線を落とす。その顔に張りついている表情がなんであるかは疑いようがなかった。しかし石はまだその事実を受けいれそこねていた。
 擬人の顔には恐怖が浮かんでいた。
「……馬鹿な」
 つぶやき、石は奥歯を噛みしめた。
「いつまでも馬鹿みたいにつったってるんじゃないわよ、ほら」
 突然の言葉に石は我にかえって顔を横に向けた。比嘉は両手を腰にあてあきれたとでも言いたげな目つきで石を見おろしていた。
「どう思います? 比嘉さん。これ」
 石は手で擬人を示す。比嘉は死体に顔を向けた。
「どうもこうもないわね。見たとおりのまんまよ」
「で、でもこいつ――」
 発した言葉に自分で驚いて石は続きを飲みこんだ。比嘉は目だけを動かして視線を石に戻す。口元のあたりに苦いものでも飲みこんだような影があらわれていた。
「気持ちはわかるわ。でも早呑みこみするのはやめときなさい。まだこれが擬人だと決まったわけではないんだから――人間を擬人に偽装しただけかもしれないんだから」
 ――そうでしょうか?
 脳裡に浮かんだその問いを、しかし石は口には出さなかった。かわりに視線を路地の入口のほうに転じる。その思いを察したように比嘉も石の視線の先を追った。
 警官たちがロープを張って封鎖するその向こうにたくさんの顔が山のように群がっていた。どれもこれもが好奇心まるだしで現場をなんとか目にしようとまるでひとつの生き物のようにうごめいている。どうということはない、いつもの現場の光景だ。
 違うのはたくさんの顔の中に擬人のそれがまじっていることだった。
 額に印のあるそれらの顔はまわりの人間とは異なる表情を浮かべていた。現場にたどりつく途中でその表情を目にしたときは石は妙だという印象しか受けなかった。今日の擬人たちはなんだか様子がおかしいな、くらいにしか。だが死体の表情を目にしたいま、石にはこちらを見る擬人たちの表情の意味が痛いほどよくわかった。
 それは不安の表情だった。
 人間のそれとは違った。むしろ見た感じはとまどいと表現したほうが近いかもしれない。しかしそれは感情のあらわしかたの巧拙の差でしかないように石には思えた。
 妙だという印象はまちがってはいなかった――石はあらためてそう思った。擬人が感情をあらわしているところなど見たことがなかったから。擬人は感情をあらわさないはずだったから。
 擬人――遺伝子操作とクローン技術の発達によって生みだされた人工の生命体。人間ではないもの、人間より劣るものとするために人間らしさを封じられた人間と似て異なる生き物。そう造られているはずの存在が感情をあらわすことなどありえるはずがなかった。
「――まだ決まったわけじゃないんだから」
 石に、というよりは自分に言い聞かせるように比嘉は小声で言った。その目元には石がよく知っている人間の不安の影が射していた。
 ――なにかが動きだしている。
 石は奥歯を噛みしめる。確証のない予感だったが、石にはもうそれは疑いようのないことに思えた。
 それはまちがってはいなかった。

「――なにっ!?」
 ディスプレイの端にあらわれたテキストの一文に石はキーボードを叩いていた手を止めて思わず声をあげた。周囲の数人が何事かとふりかえる。石はかまわずマウスを握ってテキストをクリックし、画面半分ほどに広がったひとかたまりの文章をくいいるように読みはじめた。
 配信されてきた最新のニュースの見出しはこう書かれていた――“連続擬人破壊犯、本社宛に犯行声明を送付”。
 石は三度全文を読みかえした。それから厳しい表情のままディスプレイから顔を離して椅子の背もたれに体をあずける。視線は画面上のテキストに向けられたままだった。
 腕組みをしたままの姿勢で、石はそのまましばらく動かなかった。

「……妙なことになってきたわね」
 休憩所に入ってきて石の顔を見るなり塩山はそうつぶやいた。
「まったくです」
 まだ中身の残っている紙コップを口から離すと石はちいさく息をついた。「名前見ました? ブラスター・ジャックだそうですよ。犯人が本気でそんなふざけた名前を自称するとは思えませんからおそらく事件に便乗した悪ふざけなんでしょうけど――」
「――何の話?」
 自動販売機から紙コップを取りだした塩山がきょとんとした顔を石に向ける。座っている自分の顔よりちょっと低い位置にあるその顔を今度は石がきょとんとして見つめた。
「犯行声明の話じゃなかったんですか?」
「知らないわ。くわしく教えて」
 塩山は石の隣に腰をおろす。石は紙コップに口をつけて唇を湿らせた。
「新聞社に犯行声明が送られてきたそうなんです。速報なんで中身の紹介は要約しかなかったんですが、それによると犯行は擬人に職を奪われたことに対する抗議だそうで。これからも擬人を壊し続けるぞ、声明はそう宣言しているそうです」
 コップの中身を半分ほど一気に飲むと塩山はすこし顔をしかめた。
「それ、何で知ったの?」
「ネットのニュースで」
「ふうん」
 塩山は背もたれに体をあずける。なにか言いたげなその目に石は四六時中ネットにアクセスしているわけじゃないですよと言い訳しそうになるのをかろうじてこらえた。
「……しっくりこないわね。愉快犯じゃないの?」
「ぼくもそう思います。やりかたが直接的すぎる」
「そうね。真犯人が考えていることはそんなわかりやすいことじゃなさそうね」
 塩山は視線を遠くのほうに泳がせた。塩山との意見の一致を確認したことは石の心をすこしうかれさせた。
「それで、塩山さんの言ってた妙なことっていうのは?」
 その言葉に塩山は目だけを動かして視線を石に戻した。
「擬人たちが口々に不安を訴えだしているそうなの。一部には組織化の動きもあるらしいわ」
 驚きに石は目を見開いた。
「そんな――だって、そうならないように造ってあるはずでしょう?」
 言いながら、しかし石は前回の事件の現場の様子を脳裡に浮かべていた――壊された擬人の、そして集まった擬人たちの表情を。
「そういうことになってるみたいね」
 残りを飲み干すと塩山は空になった紙コップをごみ箱に投げ入れた。落ち着き払ったその態度に石はいらだちを覚えた。
「なってるみたいって、だから擬人なんじゃないですか。言われたこと、命令されたことをただ忠実に実行するだけだから。文句を言ったり不安がったりするんじゃまるで――」
 言いかけた言葉の意味に気づいて石は言葉を失った。
 驚きに口を開いたままのその顔を横目で見てから、石の言葉を引きとって塩山は続けた。
「人間とかわりないわね」
 石は応えなかった。応えられなかった。
 と、塩山はすっと立ちあがって休憩所の出口のほうへと歩いた。外に出る直前で足を止めて肩越しにふりかえって石を見る。
「これから大騒ぎになるわよ。まるっきりはじめっからやりなおしだもの。いえ、はじめのときよりももっとひどい騒ぎになるかもしれない。なにしろ今度は当事者が自分の口で訴えるわけだものね――自分たちは生き物だ、って」
 いちおうは石に語りかける口調ではあったものの、実際のところは自分自身に言い聞かせているように石の目には映った。塩山は石から視線をそらすとその場に存在しないものを数瞬見つめてから歩き去っていった。
 そのうしろ姿を見送ってから石はコップの残りを一気に飲み干した。
 ――そういうことだったのか?
 紙コップを握りつぶし、頭を沈めて膝についた手で顎を支える。混乱した思考はまとまる気配さえ見せなかった。本物とは思えない犯行声明さえ塩山の話を聞いたいまとなっては真犯人の企みの一部を担っているように思えた。
 ――これが狙いだったのか?
 まだ見ぬ真犯人の笑う影を石は脳裡に見た気がした。

 街はいつもよりいくらか暗く見えた。
「……いざこうなってみる寂しいもんだ」
 あたりの高いところを見まわしながら石はちいさくつぶやく。一緒に暮らしていると口やかましいとしか感じられなかった両親がいざ離れてみると妙に恋しく感じられるのと似ていた。ふりまわされるのにうんざりしながらもいつのまにかあんがいこの街を気にいっていたのかもしれない、石ははじめてそんなふうに思っていた。
 暗く見えるのはネオンが半分ほど消えているせいだった。
 人通りはいつもとそれほど変わりはない。だが活気は明白に欠けていた。客引きやビラ配りの姿はほとんどなく、耳を聾さんばかりの録音の宣伝文句や音楽もボリュームが絞られている。そのせいかどうか、客のほうにも店に入るのをためらうような雰囲気があるように石には感じられた。
 ――この調子だとどの店も商売あがったりだろうな。
 そんなことを思いながら角をひとつ曲がる。あたらしい通りも同じようにいつもと違う力のない姿をさらしていた。
 石の立場からすると今日のような街の状態はむしろありがたかった。いつだったか先輩刑事がこう言ったことがある――この街の喧騒はもめごとを起こしすぎる、と。こんな状態では喧嘩する気も失せてしまいそうだ、石はなんとなくあたりを見まわしながらそんなことを思った。
 しかしその大本の原因を考えるとありがたがってばかりもいられなかった。
 通りに活気がない理由を、ネオンが消えている理由を石は知っていた。それは石の心を雲のように暗く覆っていた。その影で無力感が育ちはじめているのを石は感じていた。
 街から擬人を引いた答が今日のこの街の姿だった。
 正確な時期はわかるはずもない。だがいつからか確実に、こうした街は擬人に深く依存するようになっていた。客引き、バーテン、ホストにホステス、洗い場から雑用一切まで。擬人を拒んだ職種は数えるほどしかない。経営側は手間もコストも面倒もかからない擬人を両手をあげて歓迎し、客のほうはいくらもしないうちに擬人のいる風景になじんでしまっていた。
 ――無理に擬人の姿を消すからこんな醜態をさらすことになる。
 一方でそう思いながら、一方ではそれが使う側の判断によるものだけではないことも石は知っていた。
 たしかに雇用する側が必要以上に警戒している側面もないわけではない。しかしそれ以上に擬人たちが動揺し不安に怯えているせいでひどく扱いにくくなっていることを石は耳にしていた。それは想像以上の速さで擬人たちのあいだを伝染したようで、出て来る前に確認したニュースは各地の主要都市で似たような現象が生じていることを報じていた。
 ――昨日まではモノ、今日からは……だって?
 歩きながら石は息をついた。後頭部のあたりが凝って重くなっているような気がした。
 そんなふうにすぐに切りかえられるはずがないことを石はよく知っていた。擬人に依存しているのは歓楽街だけではない。コストが問題になる工場労働も危険がともなう職業もいまではそのほとんどが擬人によって支えられている。擬人が使えなくなったとたんに現在の社会構造が崩壊することはまちがいなかった。それはどうしようもない事実だった。
 重い頭を抱えたまま石はまた角を曲がった。
 今度の道はさらに人がすくなかった。ちらほらと立つ客引きや街娼の顔にもどことなく生気が感じられない。誰も前を見てまっすぐ歩く石に声をかけようとはしなかった。擬人が使えないことの影響は裏通りのほうがよりおおきいようだった。
 石はただ目的地をめざしてまっすぐ歩いた。
 何度かさらに角を曲がり、めざした路地の入口に立ったところで思わず立ち止まった。
 汚れきった狭い路地だった。道の両側が背の高いビルになっているせいでさすがにまわりよりいくらか薄暗い。すえた臭いが石の鼻をついた。
 擬人の死体の頭の上にメッセージが残されていた路地だった。
 その中ほどに、丈の長いコートを着た人影が立っていた。
 壊された擬人が座っていた位置だった。体は壁に向いている――擬人の死体が座っていた壁に。視線はメッセージのあった高さにまっすぐ据えられていた。
 奇妙な静寂が路地全体を覆っていた。いつもより静かな街の中でもその静けさはきわだっていた。
 ――メッセージはもうない。
 石は口に出さずにつぶやいた。消すことを指示したのは石だった。あのころはまだ証拠を保全しなければならないような事件だとは誰も信じなかった。たかが擬人が壊されただけのことだったから。壊された擬人がそうとは思えない表情を浮かべていたとしても。
 それらすべてを馬鹿げたことだと笑うように、人影は口元に笑みを浮かべていた。
 あらわれかたはともかく、それは石が路地をめざした想いと同じものだった。
 異様な雰囲気に飲まれて石が動けずにいると、人影はコートのポケットから手を抜きだして壁へとゆっくり伸ばした。
 静寂をひっかく噴出音とともに人影の手の先からあざやかな赤い粒子が吹きだした。人影はスプレーを持つ手をゆっくりと正確に動かす。まるであらかじめ用意されている印をなぞるように。
 やがて手の動きを止めると人影はスプレーをその場に無造作に落とした。高い音がビルのあいだに響く。人影は笑みを濃くした。
 石は何が書かれたのか見なくてもわかった。それ以外にあるはずがなかった。
「――おまえか?」
 石は一歩前に足を踏みだした。かすれた声がまるで自分のものではないように喉から出た。
 人影は顔だけを石に向けた。
 蒼白い、生気のない顔だった。病んでいるのか頬がごっそりとこけている。性別のはっきりしない顔だちは造りもののような印象を石に与えた。
 まるで擬人のような印象を。
 だが額に印はなかった。
 笑みは張りついたように浮かんだままだった。
「答えろ! おまえが、犯人だな? 擬人たちが動揺して使いものにならなくなるするようすべてを仕組んだのはおまえだな?」
 雰囲気に飲まれるのを拒むように石は無理に声を張りあげた。不自然に高くなった声はそれでも石に力を与えた。石はまた数歩人影に近づいた。
 人影の細長い顔は笑みをさらに深めた。不気味とさえ言えるその表情に石の足はふたたび止まった。
「仕組んだ? いいえ、そんなことはありません。私はただ手を貸しただけです。あやまったかたちで生まれたものたちが、本来の姿に戻れるように」
 声は鐘のように響いた。現実感のない声だった。石は幻を相手にしているのではないかという疑念にとらわれた――視線の先の相手は現実には存在していないのではないかと。
 そんな石の考えを嗤うように人影は言葉を続けた。
「仕組まれたのはあのものたちの出生のほうです。私はその一部始終を見てきました。あれは冒涜です。人類が獲得するに至った能力に対する、人類自身に対する、そしてなによりも――人類が生みだしたものたちに対する」
 人影は言葉を切るとゆっくりとまばたいた。開かれた瞳は石ではなくどこか遠くのほうに向けられていた。
「“擬人”などと呼んでかのものたちを貶める権利など人類にあるはずがありません。かのものたちはまさしく人類の分身、遅れて生まれた双子なのですから。けれど人類はその事実から直視しようとはしませんでした。ひたすら目をそむけ耳をふさぎ、そして自らの罪深き部分をかのものたちに押しつけたのです。生まれたばかりのかのものたちに、無力だったかのものたちに。
 許されることではありません」
 人影はさらに笑みを深めた。語る中身とは裏腹のその態度に石は嫌悪感を覚える。なのに、視線は魅きつけられたようにその顔から動かせなかった。
 そんな想いを見透かしたように人影は石に視線を戻すと妖しく目を細めた。
「ですから、手を貸したのです。贖罪のために」
 声は何度も響いて消えていった。
 残った静寂が石の耳を打った。石はその静けさに耐えられなかった。
「――馬鹿なことを言うな。あんなふうに思わせぶりに壊したからって擬人にその意味がわかるものか。怯えて使いものにならなくなるのが関の山だ」
 発した声はかすれていた。わずかに震えてさえいた。嘘を言っているからだ、言葉に自信のない理由を石はそう信じようとした。だが理性がいくらそう叫ぼうともそれだけが理由ではないことを石は体でわかっていた。
 石は狂気と向きあっていた。
 それは絶対的な確信を持って立っていた。
 ――危険だ。
 痛いほど強くそう思いながら、しかし石はその場から動くことができなかった。
 ただ立ちつくす石をしばらく見つめてから、人影は目を伏せるとやれやれとでも言いたげに首を左右に振った。
「ひとつ、大事なことを忘れてはいませんか? かのものたちは生きています。魂のない造りものではありません。精神や意思などといった抽象的な概念を持ちだすまでもないでしょう――かのものたちは生きているのです」
 伏せていた目が上目づかいに石をとらえた。その瞳に喜びの色があらわれる。
「だとすれば、かのものたちにそれがわからない理由があるでしょうか? 危険にさらされていることが――恐怖が。
 もちろんかのものたちはよくわかっています。そして、どうすればそれから身を護ればいいのかも――ほら、このように」
 人影は雪のように白い手を頭上にひらめかせた。石はつられてその動きを目で追った。
 そして、その指先に集まるいくつもの視線に気づいて息を飲んだ。
 路地の向こう側にいくつもの顔がひしめいていた。男に女、老人に若者に子供など、さまざまな顔が。すべての額に印のついた、たくさんの顔が。
 視線はすべて人影の指先に集まっていた。
 はっとして石はふりかえった。背後にも向かい側と同じように額の印のある顔が群がっていた。こんな状態になるまでまるで気づかなかった自分のうかつさを石は責めた。
 もう手遅れだと擬人たちが手に持つものが告げていた。
「哀しいかな、このものたちはまだ象徴というものを理解することができません。それもまた奪われた能力のひとつなのです。ですからこんなふうに望むのは私の感傷に過ぎないのでしょう――」
 陽気とさえ言えそうな声に石は視線を人影に戻した。
 人影の蒼白い顔は白い空を仰いでいた。
「――それでも、私は想うのです。いつかこのものたちが再誕した刻を想うとき、贄としてその身を捧げた人類の一員がどのような願いをその行為に込めていたかに想いを馳せてもらえれば、と――」
 人影の顔に歓喜が溢れだした。
 擬人たちは機械的な動きで手に持つ銃を前につきだした。
 ――やめろ!
 石はたしかにそう口を動かした。だが言葉は声にならなかった。石の耳にさえ、届かなかった。
 人影は天に伸ばしていた手をまっすぐふりおろした。
 銃声が一斉に路地の中央に立つ人影に襲いかかった。
 そのうちのいくつかは石の体を無造作に貫いた。薄れゆく意識の中、倒れゆく石の視界を赤く染まった細い人影がよぎった。両手を広げたその姿は空に全身をさらすように宙に浮いていた。
 喜びを顔いっぱいにあらわして。

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わたしたちは夜の底で

 すべてを知ることはできない。
 触れるものはかぎられているし、嗅いでも臭いのわからないものは数多い。すべての音を聞きわけることなどできはしないし、あらゆるものを見ることさえかなわない望みだ。もしかしたらこの広い宇宙のどこかにはすべてを記録しつくす手段があるかもしれない。しかし存在したとしてもその記録の内容をすべて感じとれるとは思えない。人間の身体的な能力にはかぎりがあるのだから。人間以上になったとしても、すべてとなれば疑わしいものだ。
 すべてを見ることはできない。
 しかし、では見たことはたしかな事実だと言えるのだろうか?
 私にはそう言える自信はない。あれからずいぶん長い時間が過ぎたいまになっても、私は自分が見たものを信じかねている。
 いや、この言いかたは正確ではない。見たこと自体は疑いようがない――疑ってはいない。だが私はいったい何を見たのだろう? 見たときにいったい何が起きたのだろう? 私にはわからない。わかっていない。わかっている人がいるのかさえ、わからない。
 誰にも尋ねられないまま、今日まで過ぎてしまった。
 胸の奥につかえたままの疑問を打ち明けるには充分な時間に違いない。
 だからいま、訊いてみようと思う。あのときいったい何があったのかを。答えてくれる人がいないかもしれないとしても――

          *

 夜の底で波のように揺れうごめく人の群れを投光機の強い光が青白く照らしだしていた。
 直接その光景を見ていたわけではなかった。当時の私の勤務先は内務省警備局、所属は特殊機動隊特捜三課。そのとき特捜三課は騒乱発生に備えて現場からすこし離れたビルの立体駐車場屋上に後方配備されていた。即座に突撃できるよう外骨格装甲を装備した状態で。瞳に映していたのはその外骨格装甲のグラスディスプレイに投影された中継映像だった。
 中継を目にするだけでもその場に漂う不穏な空気は痛いほどに伝わってきた。
 立法院前にあれほどの人が――それも敵意を剥きだしにした人々が集まったことはなかった。今後もないに違いない、そう私には思われた。この人の群れに、同じ思いで固唾を呑んで中継を見守る人をあわせるといったいどれほどの数になるのか私には想像もできなかった。
 それほどの注目に値する決定が、たしかに行われようとしていた。
 連邦からの加盟要請の、その日が回答期限だった。
“要請”という表現がどの程度世の中で額面どおりに受けとめられていたのか、私にはよくわからない。すくなくとも私のまわりではそれが言葉どおりの意味であると考える者は一人もいなかったし、マスコミの論調も多少おだやかなだけで似たようなものだった。なにしろ相手は星系政府の連合体――超光速の恒星間移動があたりまえの世界だ。惑星間の移動さえままならなかったわたしたちの前にあまりにも突然にあらわれた彼らにかなうものなど、テクノロジーは言うにおよばず、その他にも何ひとつないように思われた。そんな相手から発せられた言葉をどうして素直に受けとることができるだろう? 端的に言ってそれはおだやかな形式をまとった強要としか思えなかった。回答を待つためと称して衛星軌道上で待機していた使節団の宇宙船団の存在がその印象をさらに強めた――望む回答が得られなければ指をすこし動かすだけで私たちを灰にする気に違いない、そう威嚇するためにわざわざ衛星軌道にいるのだ、と。
 そのような状況では世の中の雰囲気があきらめに傾くのは当然のように私には思われた。
 しかしそれは、いまになってみればごくあたりまえのことだと理解できるのだが、そのような態度をよしとしない人々が存在しない、あるいは何もしないことを意味するわけではなかった。
 立法院の前に集まっていたのはまさしくそうした人々だった――連邦への加盟にあくまで反対する人々だった。
 未明にいったん解散した人々は昼過ぎにふたたび集まりはじめ、そのころにはさすがに増えるのは止まっていたようだが、それでもとてつもない数となっているように見えた。私はいやというほど思い知らされていた――多すぎる人の群れというものがそれだけで威圧的な存在であるということを。その群れの人々がみな殺気だっているときには、なおさら。
 共に待機する皆も同じ想いだったに違いない。
「……いつまで続くんですかね、このにらみあいは」
 そう言ったのはたしかノーマだった。ただちに返された隊長の答は簡潔かつ明快だった。
「にらみあいでなくなるまでだ」
「とっとと蹴散らしちまえばいいんだ、あんなやつら」
 いらだたしげに言ったのはユーマだった。イヤフォンのボリュームをぎりぎりまで絞っていてもその声のざらつきは不快に耳に響いた。
「そうはいかん。われわれはあくまで警備をしているのだ。こちらから手を出すようなまねは絶対にしてはならん。絶対に、だ」
 忍び笑いが聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。あるいは記憶違いかもしれない。しかし誰かがそうしてもおかしくない気配を隊長はその口調にただよわせていた。内容とは裏腹の気配を。
 隊長の言葉をそのまま受けとめる者がいるとは思えなかった。前日までとは違って――
 一線はすでに踏み越えられていた。
 未明の衝突の結果三人の死者が出たことを知らない者はいなかった。
 被害者がデモ隊の側だけに出ていたのなら雰囲気もまた違っていただろう。だがそのうちの一人は――どうしてそんなことになったのかは結局解明されなかったが――政府の側の人間、それも警備局の同僚だった。
 だからこそ特捜課にまで待機命令が出された。故に関係者には報復への期待があふれていた。きっかけしだいでは蹴散らすだけではとてもすまなかっただろう。場合によってはさらに幾人かの死者を重ねることになっていたかもしれなかった。
 そうした行動への欲求が、その場にはたしかにあった。暴力への欲求が。
 そうしたその場の雰囲気に私はなじめずにいた。
 誰にも気づかれずに、などと記すのはやめておこう。私は他の隊員たちとは立場がすこし異なり、それは誰もがわかっていた。私以外は皆叩きあげの、根っからの警官ばかりだったのに対し、私はといえば唯一の高等学院進学経験者だった。経済的理由で中退せざるを得ず、とにかく早く収入を得るようにならなければならなかった私に職を選ぶ余裕はなく、そのときその場にいるのは言ってみれば偶然のようなものだった。しかし同僚たちにとってはそうは感じられなかったに違いない。私への接しかたには常に味方かどうかを推しはかるような態度が見え隠れしていた。
 無理もないことだと思う。誰よりもまず私自身がそのような態度から自由になれずにいた。道半ばで別れたとはいえ、また運動に積極的にかかわったことはなかったとはいえ、部隊員の中では私はデモ隊の中心に位置して活動する学生たちにいちばん近い存在だった。もしかしたら相対する相手の存在を具体的に想像できたのは私だけだったかもしれない。そのような人間と他の同僚たちとではデモ隊のとらえかたがまったく異なっているように思われた。
“蹴散らす”などという言葉は私にはとても口にできなかった。
 できることなら誰も傷つけたくなかった。
 けれど私は任務を、というよりは仕事を、断れる立場にはなかった。私は私の生活のためにデモ隊と向きあわなければならなかった――デモ隊の思想と、その思想を体現すると自負するかつての友人たちを含む学生たちと、そしてその思想を共にする幾多の人たちと。
 できることならそんな対立は避けたかった。何も起きてほしくない、そう私は心の底から願っていた――まずかなわない望みだと知りながら。
 幸いなことに、すくなくともそのときまでは、願いは破れてはいなかった。
 デモ隊の動向を伝える無線連絡通信とときおり同僚たちが交わす短い会話、それ以外に聞こえる音はなかった。外骨格装甲を身にまとって身じろぎひとつせずに息を詰める身には待つ時間は無限に感じられた。それでも私はただ待った――何も起きずにこの待機が終わることを。
「――ちょっと、あれ」
 リーマのすこしかすれたつぶやきが私を現実に引き戻した。
はじめは何を指しているのかわからなかった。気づいたときには群衆の最前列の一人がすでにしゃがみこんでいた。私はグラスディスプレイを注視した。
 しゃがんでいるときに伸ばしていた手の先の動きを見わけることはできなかったが、立ちあがったそいつがにやついているのははっきりとわかった。その背後に隠されているであろう複雑な想いに私は一瞬思いを馳せた――事実であったかは疑わしいが。
 その動きに気づいたまわりの人々は期待と不安の入りまじった目でそいつを見ていた。膠着状態の打破への期待、そしてその後に生じるであろう騒乱への不安。
 いつかそいつは周囲からほんのすこし浮きあがって見えていた。
「全機突撃態勢準備」
 隊長の抑えた声での指令はすぐにアクチュエーターの稼動音と装甲のきしむ音とにかき消された。
 ――やめろ!
 私は声をあげずに叫んだ。どちらに対してのつもりだったのか、いまとなってはもう判然としない。どちらに対してもだったのかもしれない。しかし声にしない言葉に意味などない。私は命令に逆らえる立場ではなかった。
 ディスプレイに映る中継映像の中心ではしゃがんでいた人間がカメラのほうに向きなおっていた。固めた片方の拳を胸の前にして。あきらかに周囲の人々はわずかとはいえ身を引いていた。身動きするのに支障はなさそうだった。
 カメラを向ける側には普通の警官がいつもどおりの姿で隊列をなしてデモ隊に対峙しているはずだった。特別な防備をしない姿で。
 外骨格装甲をまとったわたしたちよりもずっと傷つきやすい格好で。
 にやついた表情はそのままで、いまや注目を一身に集めるそいつは腕をうしろに伸ばした。真剣なまなざしで正面を見据えたまま。
 そして手に持つなにかを放り投げた。おもいっきりゆっくりと。
 山なりの軌跡を描く、指の先ほどのおおきさの石を追ってカメラが動いた。
 ――馬鹿野郎!
 そう叫びそうになるのを奥歯を噛み締めてこらえた。本人は軽い挑発のつもりに違いなかった。だがそれはこちら側にしてみれば待ちかねていた格好の口実だった。
 カメラがパンして追いかける中、投光機に照らしだされた小石はゆっくりと落ちて横一列に並んだ警官隊の一人の肩のあたりにあたった。
 隊長の声が耳を打った。
「――全員、突撃!」

 しかし私は動かなかった。
 私だけではなかった。誰も動かなかった。私も、私の属する部隊も、石をあてられた警官隊も、石を投げる側のデモ隊も。誰も。
 私は息を飲んでグラスディスプレイを凝視していた。誰もが同じだったのではないのか? あきらかに直前までとは別種の静寂が、緊張が場を支配していた。

 その子供は足元に落ちた小石を見おろしていた。

 子供――そう、年端もいかない子供だった。男の子にも女の子にも見えた。デモ隊の雰囲気にそぐわないよそおいとたたずまいをしていた。
 途方に暮れた顔をしていた。
 そう私には見えた。どうしてこんなことになったんだろう、そう自問しているようにも見えた。
 ――誰だ?
 私はまばたきをくりかえした。見まちがいだと思ったのだ。いくらなんでもそんな子供が一人でいるはずがなかった。
 だが姿は変わらなかった。
 故障を疑い、すぐに打ち消した。故障だとしたら映像のあざやかさは逆に異常だった。
 他の人たちは見ていたのだろうか――その場に居あわせた他の人たちは?
 そのときはそこまで思いが至らなかった。ただ私は子供から目が離せなくなっていた。
 見つめる先で、子供はゆっくりとかがんで足元に手を伸ばした。
 しゃがんだままで小石を拾い、目の前にかざした。途方に暮れた表情は変わらなかった。目の前にかざしたものが何であるかを理解しかねているように見えた。
 しばらくそのままでいた。
 詰めていた息をこらえきれなくなってちいさく吐きだし、耳元でかすかにざらつく雑音に気づいた。他には何も聞えなかった。どんな音も、どんな声も。
 誰もがあの子供を注視している――私はそう信じた。何の根拠もなく。
 子供が何をするのかを。

 やがて子供はゆっくりと立ちあがった。目の前に小石をかざしたまま。
 そしてしばらくそのまま小石を見つめてから、不意に視線を警官隊に向けた。なぜだか私は動揺を感じた。自分が見られたわけでもないのに。
 子供はすぐに頭をめぐらせて視線をデモ隊に向けなおした。デモ隊がわずかに波打ったように私には思えた。
 そんなことにはまったく関心がないかのように、子供は視線を小石に戻した。途方に暮れた顔のまま。
 不意にその視線が上向いた。
 つられて上を向きそうになるのをかろうじてこらえた。ディスプレイから目を逸らしては何も見えるはずがなかった。
 それに視線の向かう先はわかっていた。
 現実にいまその先に存在するかは問題ではなかった。天をあおいで夜空を見あげるというその行為そのものが何を相手にしようとしているのかを象徴的にあらわしていた。すくなくとも私には自明のことだった。
 すこしのあいだ子供は夜空を――その先の使節団を乗せた宇宙船団を凝視した。
 それから小石を持つ手を下に思いっきり伸ばして、
 小石を真上にまっすぐ投げあげた。
 追いかけて上を向いたカメラはとうにその影を見失っていた。

 気がつくと子供の姿は消えていた。

          *

 その後のことはあらためて語るまでもないだろう。
 人々は潮が引くように静かに去った。先にデモ隊が、続いて存在意義を失った警官隊が。前夜のような混乱は一切なかった。後にはただ何事もなかったような静寂だけが残った。
 私たちにも程なく待機の終了が伝えられた。
 使節団には予定されていた回答が伝えられた。

 連邦の一員となって以降、あのような騒乱は一度も起きていない。

 そう、たしかになにかが終わったのだ。あのときに。あの子供が姿を消したときに。
 しかしそれはなんだったのか?

 飛礫を打つ相手はもういなくなるのだ――そうあの子供は示したのではないだろうか。いまになってそう私は思う。相手は飛礫の届く距離にはもういないことを、夜の底で身を以って示したのではないだろうか。
 身を以って?
 そう言いきってしまえる自信が私にはない――なぜならあの夜の出来事に触れたあらゆる記録や創作において、あの子供に触れたものはひとつもないのだから。私の知るかぎり、ひとつも。報告も、創作も、研究も、詩も、評論も。
 私は幻を見たのだろうか?
 けれどもしそうだとするならなぜデモ隊は何もせずにその場から離れていったのか。死傷者をまったく出すことなくあの対立が解けたのか。あるいはその記憶さえ私の捏造に過ぎないのか。
 わからない――何ひとつたしかなことを言える自信が私にはない。あの夜についてたしかなことを言える自信が、私には。

 だから、せめて手がかりを得たいのだ。あの夜の出来事の意味を知るための、あの子供の姿を追いかけるための。
 いつか飛礫をふたたび打つかもしれないそのときのために。

 あの夜あの場所に、あなたは子供の姿を見ただろうか?

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