1
殺害は密室で行われた。
彼は彼女の声を聞きたかった。
彼女は叫ばなかった。
*
行く手をさえぎる人の群れがフロントガラス越しに迫ってきた。
「……やれやれだぜ、ったく」
石はクラクションを数回軽く鳴らした。速度をぎりぎりまで落としながらも決して停止させずに車を人垣に割りこませていく。何度かアクセルを思いっきり踏みこみたい衝動に駆られた。それくらい群がる人々は道を空けようとはしなかった。
――丑三つ時だってのによく集まるよ。
内心つぶやきながら石はまたクラクションを鳴らす。明るい光に照らされ闇などかけらも見つからない道の上を人々がまたすこしだけ動いた。
ようやく目的のアパートの前まで来てドアを開けたとたんむわっとした熱気に包まれた。うんざりしながらも声には出さずに石は目的のアパートをざっとながめた。
年代物のいまにも崩れそうなぼろアパートだった。アパートとは名ばかりで実際には連れこみ宿として使われている、石はそう前に聞いたことがあった。どんなににぎわったときでも今日ほど人を集めたことはないだろうな、石はぼんやりとそう思った。
人々が群がっているのはそのアパートの入口だった。
――おかしいな?
覚えた疑問を頭の片隅にとどめて石は前進をはじめた。いまは考えるより遅れを取り戻すことのほうが先だった。
「はい、警察です、通してください! どいてどいて! 見世物じゃないんだから、ほら! ちょっと、前に行かせろってば!」
声を張りあげながら人ごみをかきわける。アパートにたどりついたときにはすっかり疲れきっていた。石はおおきく息を吸いこんでアパートの廊下にあがろうとした。
とたんにあらわれた大女が石の行く手をさえぎった。
「ひどいもんよね、まったく」
石はあわててあとずさる。大女は石の頭越しにあたりを見まわした。
「お上のやることってのはほんとよくわかんないわ。こんなに夜を明るくしちゃうからやじうまだってのこのこと集まってきちゃうのよ。強迫神経症みたいに徹底してやることはないのにねえ」
言葉を切ると、大女は目玉をぎろっと動かして石を見おろした。
「遅かったわね」
「いろいろあったんですよ、比嘉さん」
石は視線を落としてわざとらしく息をついてみせた。視界の端、比嘉の背中に隠れるように立つ人影を石は認める。石の職業的な目はその初老の男の額にある特徴的な印を即座に見て取っていた。
――管理人型か? めずらしいな。
「で、現場はどこなんです?」
石はあらためて視線を比嘉に向ける。と、比嘉は両手を腰にあてて瞳の中をまっすぐのぞきこむように石を見つめた。
「もう終わってんのよ。あたしはそれをあなたに教えるために残ってたの。現場に来るまで連絡が取れないってのはどういうことなの?」
「えっ? いや、だって――殺しでしょ? たしかにずいぶん遅れましたから現場検証が終わっててもおかしくないですけど――」
言いながら石はあたりを見まわした。他の刑事たちが見あたらない理由はそれで飲みこめたがどうして比嘉がそんなことを言うのかはまだわからなかった。
落ちつきのない石の態度にひとつちいさくため息をつくと比嘉はうしろをうかがった。初老の男はおおげさにびくっと体をふるわせてあとずさる。その様子に比嘉はまた息をついた。
「殺しじゃなかったの。器物損壊よ、ただの」
「――は?」
石はあっけにとられて比嘉を見た。
2
「よお。なんか昨日おもしろい事件があったって?」
聞こえてきた声に石はプリントアウトから視線をそらして顔をあげた。
矢島は大股で近づいてくると石の隣のデスクに軽く腰をあずけた。にやっと笑うと左手で石の持つプリントアウトを指さす。
「報告書、それ?」
「そ。義物損壊ね」
デスクの端に乗せていた足を床におろすと石はプリントアウトをデスクの上に放りなげる。矢島は顔を動かしてその軌跡を追った。視線の先には用紙の半分ほどのおおきさで印刷された画像があった――一見したところ人間と見分けがつかない死体の写真が。
矢島の顔から笑みが消えた。
「悪趣味だな」
「まったくだ」
石は報告書に目を向けたままうなずいた。
写真の中では全裸の女がベッドにあおむけに横たわっていた。その喉からへその下にかけて幅数センチの太い傷がまっすぐ走っている。顔面はきれいに焼かれて生前の面影を思わせる部分はまったく残っていない。首が半ば裂かれているせいで頭が奇妙な角度に曲がっていた。
「熱線銃(ブラスター)か……」
低く抑えた声で矢島は言った。
「鑑識もそう言ってる」
石も抑えた声で応える。矢島はやれやれという感じで首を横にふった。
「けどなんでこんなご丁寧に顔をつぶしたりしたんだ? 残しておけばすぐに擬人だってことがわかっただろうに」
「知らねえよ。変態の考えることはわからん」
石は頭のうしろで手を組んで背中を椅子の背もたれにあずけた。きしんだ椅子が耳ざわりな音をたてた。
「……ま、売り用の擬人だったろうから被害届も出ないだろう」
真剣にプリントアウトを見つめていた矢島はやがてちいさく息をつくとデスクから腰を離した。
「どうせなら俺たちの目につかないようにやってくれって言って回りたいよ」
手で合図をすると矢島は背を向けて離れていった。そのうしろ姿をしばらく見送っってから石は身を前に乗りだしてデスクの上のコンピュータにあらためて向きあった。
画面にはプリントアウトの元となった報告書が全体に表示されていた。承認を指示すれば事件は類似事件の瑣末なケースのひとつに分類されてデータベースに登録される。そのまま未解決の無数の事件のひとつとして埋もれることはまちがいなかった。警察が他に解決すべき無数の事件を抱えていることを石は身に染みてわかっていた。
この件はこれで終わり、そう思いながら石は報告書を承認するためにキーを叩いた。
そのはずだった。
3
「石君、ちょっといい?」
背後からの声に石はあわてて書きかけのメールを画面から消した。キーボードを奥に押しこんでからふりかえる。すぐうしろに立った塩山は腕を組んで石を見おろしていた。あんたのやってることなんか全部お見通しよ、その目はそう語っていた。
「どうぞ。なんですか?」
落ちついて聞こえるよう努力して石は言った。しばらくなにか言いたげに石を見つめてから塩山はようやく口を開いた。
「このあいだの擬人壊し、君あれに関わってたわよね?」
「擬人壊し? ああ、四日前のやつですね。あれはもう担当はこっちじゃないですよ」
「まあいいのよ、それは。ちょっと話を聞かせてくれない? あんまり手間とらせないから」
言うと塩山はさっさと隣のデスクの椅子を引っぱってきてそれに座った。石は顔をしかめそうになるのを苦労してこらえた。この優秀な先輩刑事が石は苦手だった。
「でも話すことなんかないですよ。被害届も出そうにないですし」
「そんなことぐらいは報告書を読めばわかるわ。知りたいのは現場の雰囲気。どんな感じだった?」
塩山はすこし首を傾ける。その表情に疲労の色があらわれていることに石は気づいた。
「どんな、って言われても……。ぼくも現場にそう長くいたわけじゃないですし」
「でも行くには行ったんでしょ? すこしは印象ってものがあるじゃない。それを教えて」
塩山はくいさがるように顔をすこし前に出す。石はこころもち身を引いて視線を上にそらした。
「まあ、ぼろくさいアパートでしたよ。薄汚くて。事情を知らない人間だったら近づきもしないんじゃないかなあ」
石の自信なさげな言葉に塩山は息をついて身を引いた。視線をどこか遠くのほうに向けてちいさく息をつく。
「……そんなもんか」
「いったい何があったんです?」
思わず語気を強くして石は訊いた。こうもあからさまに馬鹿にされたような態度を取られるとさすがに落ちついてはいられなかった。
塩山は瞳だけを動かして石に視線を戻した。
「昨夜もあったのよ、同じような事件が」
石は息を飲んだ。その顔をしばらくものいいたげに見つめてから塩山は言葉を続けた。
「帰ってきたときには大山鳴動ネズミ一匹って感じでたいして気にしなかったんだけどね。報告書を承認するときにためしに類似事件を検索してみたらひっぱりだされてくるじゃない。それでちょっと気になってね」
「ふむ……」
石は眉間に皺を寄せた。「ただの変態のしわざじゃない、と?」
「なにそれ」
塩山はけげんな表情を浮かべる。石は言い訳するように二、三度まばたきをくりかえした。
「いや、ぼくはてっきりそう思ったもんで」
「ああ……。なるほどね」
塩山は背もたれに体をあずけて腹の前で手を組んだ。「たしかにそう考えるのがいちばんわかりやすいわね。でもそれにしちゃあおかしくない? 処分する方法なんていくらでもあるのに死体をわざわざ見つかるような場所に放置しておくなんて。それに――」
一度言葉を切ってすばやくあたりに目を走らせると塩山は声をひそめて続けた。
「もしそうだとするとかなりやな相手よ。どちらのケースも性交の痕は確認されていないそうだから、破壊そのものに快楽を見いだしてるってことになる」
「あるいは疑似殺人に、ですね」
つられて石も声をひそめる。一瞬、なんとも言えない沈黙が二人のあいだに横たわった。
「……ま、それもこれも全部二つの事件に関連があったとしたらの話だけどね」
明るく作った調子で言うと塩山はすっと立ちあがった。「ありがと。時間とらせて悪かったわね。また聞きに来るかもしれないから、そのときはよろしく」
椅子を戻して石に背を向ける。石はディスプレイに顔を向けてからふと思いだして塩山の背中に視線を戻した。
「ああ、塩山さん。死体の様子はどうだったんですか?」
すでに数歩離れていた塩山は足を止めると肩越しにふりかえって石を見た。顔には渋面が浮かんでいた。
「ひどかったわ。石君のときのよりも、もっとずっと。全身をほとんど熱線銃で焼かれてるの――それも深くまで焼いてしまわないよう威力を調整してね。拷問よ。人間だったら死ぬ前に狂っちゃうんじゃないかしら」
思い浮かべたことをふりはらうように首を二、三度横に振ると塩山は大股で去っていった。
石はコンピューターに向きなおるとキーボードを手前に引き出した。タイプとマウス操作で塩山の言っていた事件の報告書を呼びだす。書きかけの私用メールのことはもう忘れていた。思っていたほど単純な事件ではないかもしれないという予感が石の心の中に育っていた。
それはまちがっていなかった。
三度目にぶつかったのは、またしても石だった。
4
「どしたい? えらく疲れた顔しちゃって」
脳天から突きぬけるような高い声にそれを助長する陽気な調子。すれ違いざまにかけられた言葉に思わず足を止めてから石はしまったと後悔した。息をついてしかたなくうしろをふりかえる。林は同じように廊下の真ん中に立ち止まってにやにや笑いを石に向けていた。その笑い顔が石は嫌いだった。
反応してしまった以上無視して去るわけにもいかなかった。気づかれないようにちいさく息をつくと石は話す言葉を捜した。
「いや、ちょっと昨日からほとんど寝てなくて。聞きこみにもずいぶん手間がかかったし」
「聞きこみ? 石ちゃん、いまそんなたいそうな事件の担当になってないだろ?」
林のにやにや笑いにわずかに意地の悪さが射す。その首を絞めてやりたい衝動を石はかろうじてこらえた。
「林さん、今朝のニュースチェックしました?」
「へっ? そりゃしたよ、いちおう。けどそんな話題になるようなネタはなかったと思ったけどなあ。せいぜいが連続擬人破壊事件っていまいちぱっとしないやつだけで――」
「それですよ。それ」
石の簡潔な指摘に林は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。すぐにそれはさらに人を小馬鹿にしたようなにやにや笑いに変わった。
「なんだい、まったく、なにかと思えば。あんなのほっとけばいいじゃん。しょせんクズたちのこぜりあいに過ぎないんだから。誰が困るってわけでもなし。ぽん引きたちもすこしは懲りるだろうからかえってありがたいくらいだよ」
――やれやれ。内心のつぶやきを喉の奥で殺すと石は辛抱強く口を開いた。
「そういうわけにはいかないでしょ? マスコミに注目されちまったからには。いまはまだ擬人が壊されてるだけですけど同じ手口で殺人が起きたらどうなると思います? 一気に非難が殺到しますよ。そのときに満足に対策してなかったなんて見られたらいったいどんなふうに叩かれるか……。最近はただでさえ風当たりが強いんだからこれ以上ひどくなったらやってられませんよ、ほんとに。
それに、思われてるほど単純な事件じゃなさそうですよ」
石は声の調子を真剣なものに変える。林は両目を細めた。にやにや笑いを浮かべたままのその表情は石の言葉をまじめに受けとっていないことを問わず語りにあらわしていた。
「どこが? たかが擬人壊しじゃん。たまたま似たような手口の事件が連続しただけで犯人は全部違うかもしれないし。まあたぶん同一犯なんだろうけど、どうせ馬鹿が調子に乗って次々とやってるだけのことでしょ。複雑になんてなりようがないじゃん」
「ならなんでどのケースも額の印を念入りに消してあるんです? この死体は人間ではありません、人間のまがいもの、人の手で生みだされた劣った作りものである擬人ですよってはっきりとわかるようにしておいたほうが絶対に注目を集めないのはわかりきってるのに。なのにそれをわざわざ三回も続けてやるってのはなんらかの意図があってのことだと考えるほうが自然だとぼくは思いますよ」
「……本気でそう思ってんの?」
林の笑みが薄れた。興味をなくしかけている証拠だったが石は言葉を続けずにはいられなかった。
「ええ。だってそうでしょう? いままでだって擬人壊しがなかったわけじゃありません。ご存知のように。けれどそれらはすべて偶発的だってことがすぐにわかるその場限りの犯行ばかりでした。逆に言えば、だから問題にならなかったわけです。
今度のは違いますよ。明らかに、なんらかの意図が背後に隠されています。それが何を狙ってのものかはいまのところはまだはっきりとしませんが」
言葉を切ると石は林をまっすぐ見つめた。すっかり笑みを隠してしまった林は落ちつかなげに視線を石の頭の上あたりにさまよわせた。
「ミステリの読みすぎだよ、そんなの」
石は応えない。林はやれやれという感じで首を横に振った。
「それで? 訊きこみの成果はあったの?」
今度は石が首を振る番だった。林はにやにや笑いをふたたび浮かべると勝ち誇ったように鼻をふくらませた。
「ほら見ろ。きっと犯人はちょっと頭のおかしな馬鹿でさ、そうやれば俺たちの気が引けるとでも思っただけなんだよ。そうでなきゃやっぱただの偶然の一致か」
「まだわかりませんよ。訊きこみだってまだ街全部を回ったわけじゃないんですから。あのあたりに他人に関心を持って生きているやつがいないことはわかってますけど、でも可能性がまったくないわけじゃないでしょう?」
くいさがるように石は言う。その感情の向きをそらすように林は一歩うしろにさがった。
「わかったわかった。でも科研の分析にでもまかせたほうが確実だと思うな。それに、あんまり無駄なことにかまってると課長にどなられちゃうよ。気をつけるんだね」
くるっと背を向け、片手をあげて合図をすると林はすたすたとその場から去っていった。石はそのうしろ姿を腹だたしげににらみつけた。
「……科研があてになるんだったらとっくに全部まかせてるよ、ったく」
つぶやくように言って廊下の壁を軽く足で蹴る。それからおおきく息を吐きだすとおもいっきり頭をかいて石は背を向け歩きだした。頭の中は早いうちに手がかりをつかまえなければとという思いでいっぱいだった。
事件はまだ続くだろう、石はそう予測していた。
その予測は半ばあたり、半ばはずれた。
5
「……いったいどうなってんだ?」
現場の前で立ちつくすと石は小声でつぶやいた。
すえた臭いのする、汚れきった狭い路地の中ほどだった。道の両側が背の高いビルになっているせいでさすがにまわりよりいくらか薄暗い。いつもなら喧騒に満ちているはずのその道が、いまは両端を警官に封鎖されているせいで妙に静まっていた。周囲では鑑識の人間がせわしなく動きまわっている。
女の死体は壁にもたれて座っていた。
両手は力なくたれさがり、まっすぐ伸びた両足は路上に無造作に投げだされていた。首が不自然に曲がっているせいで頭が肩に乗っている。服をまとわない体に首から股までと右胸から左腿までの二本の傷がまっすぐ刻まれていた。傷跡は熱線銃によるものだと一目でわかった――いままでの事件と同じように。
だが今度の擬人には顔も額の印も残されていた。
これまでの事件との相違点はそれだけではなかった。ぼんやりと口をあけたまましばらく擬人の死体をながめてから、その頭の上の壁面に石はようやく視線を転じた。
スプレーでなぐり書きされた文章は周囲から浮きあがって見えるほどまだ真新しかった。字そのものはかなり崩れているものの文章が読めないほどではない。それは石にこう語りかけていた――
<見よ! 彼女たちは失われていた顔を取り戻した!>
石はかなり長いあいだその文章を見つめた。それからもう一度擬人の死体に視線を落とす。その顔に張りついている表情がなんであるかは疑いようがなかった。しかし石はまだその事実を受けいれそこねていた。
擬人の顔には恐怖が浮かんでいた。
「……馬鹿な」
つぶやき、石は奥歯を噛みしめた。
「いつまでも馬鹿みたいにつったってるんじゃないわよ、ほら」
突然の言葉に石は我にかえって顔を横に向けた。比嘉は両手を腰にあてあきれたとでも言いたげな目つきで石を見おろしていた。
「どう思います? 比嘉さん。これ」
石は手で擬人を示す。比嘉は死体に顔を向けた。
「どうもこうもないわね。見たとおりのまんまよ」
「で、でもこいつ――」
発した言葉に自分で驚いて石は続きを飲みこんだ。比嘉は目だけを動かして視線を石に戻す。口元のあたりに苦いものでも飲みこんだような影があらわれていた。
「気持ちはわかるわ。でも早呑みこみするのはやめときなさい。まだこれが擬人だと決まったわけではないんだから――人間を擬人に偽装しただけかもしれないんだから」
――そうでしょうか?
脳裡に浮かんだその問いを、しかし石は口には出さなかった。かわりに視線を路地の入口のほうに転じる。その思いを察したように比嘉も石の視線の先を追った。
警官たちがロープを張って封鎖するその向こうにたくさんの顔が山のように群がっていた。どれもこれもが好奇心まるだしで現場をなんとか目にしようとまるでひとつの生き物のようにうごめいている。どうということはない、いつもの現場の光景だ。
違うのはたくさんの顔の中に擬人のそれがまじっていることだった。
額に印のあるそれらの顔はまわりの人間とは異なる表情を浮かべていた。現場にたどりつく途中でその表情を目にしたときは石は妙だという印象しか受けなかった。今日の擬人たちはなんだか様子がおかしいな、くらいにしか。だが死体の表情を目にしたいま、石にはこちらを見る擬人たちの表情の意味が痛いほどよくわかった。
それは不安の表情だった。
人間のそれとは違った。むしろ見た感じはとまどいと表現したほうが近いかもしれない。しかしそれは感情のあらわしかたの巧拙の差でしかないように石には思えた。
妙だという印象はまちがってはいなかった――石はあらためてそう思った。擬人が感情をあらわしているところなど見たことがなかったから。擬人は感情をあらわさないはずだったから。
擬人――遺伝子操作とクローン技術の発達によって生みだされた人工の生命体。人間ではないもの、人間より劣るものとするために人間らしさを封じられた人間と似て異なる生き物。そう造られているはずの存在が感情をあらわすことなどありえるはずがなかった。
「――まだ決まったわけじゃないんだから」
石に、というよりは自分に言い聞かせるように比嘉は小声で言った。その目元には石がよく知っている人間の不安の影が射していた。
――なにかが動きだしている。
石は奥歯を噛みしめる。確証のない予感だったが、石にはもうそれは疑いようのないことに思えた。
それはまちがってはいなかった。
6
「――なにっ!?」
ディスプレイの端にあらわれたテキストの一文に石はキーボードを叩いていた手を止めて思わず声をあげた。周囲の数人が何事かとふりかえる。石はかまわずマウスを握ってテキストをクリックし、画面半分ほどに広がったひとかたまりの文章をくいいるように読みはじめた。
配信されてきた最新のニュースの見出しはこう書かれていた――“連続擬人破壊犯、本社宛に犯行声明を送付”。
石は三度全文を読みかえした。それから厳しい表情のままディスプレイから顔を離して椅子の背もたれに体をあずける。視線は画面上のテキストに向けられたままだった。
腕組みをしたままの姿勢で、石はそのまましばらく動かなかった。
「……妙なことになってきたわね」
休憩所に入ってきて石の顔を見るなり塩山はそうつぶやいた。
「まったくです」
まだ中身の残っている紙コップを口から離すと石はちいさく息をついた。「名前見ました? ブラスター・ジャックだそうですよ。犯人が本気でそんなふざけた名前を自称するとは思えませんからおそらく事件に便乗した悪ふざけなんでしょうけど――」
「――何の話?」
自動販売機から紙コップを取りだした塩山がきょとんとした顔を石に向ける。座っている自分の顔よりちょっと低い位置にあるその顔を今度は石がきょとんとして見つめた。
「犯行声明の話じゃなかったんですか?」
「知らないわ。くわしく教えて」
塩山は石の隣に腰をおろす。石は紙コップに口をつけて唇を湿らせた。
「新聞社に犯行声明が送られてきたそうなんです。速報なんで中身の紹介は要約しかなかったんですが、それによると犯行は擬人に職を奪われたことに対する抗議だそうで。これからも擬人を壊し続けるぞ、声明はそう宣言しているそうです」
コップの中身を半分ほど一気に飲むと塩山はすこし顔をしかめた。
「それ、何で知ったの?」
「ネットのニュースで」
「ふうん」
塩山は背もたれに体をあずける。なにか言いたげなその目に石は四六時中ネットにアクセスしているわけじゃないですよと言い訳しそうになるのをかろうじてこらえた。
「……しっくりこないわね。愉快犯じゃないの?」
「ぼくもそう思います。やりかたが直接的すぎる」
「そうね。真犯人が考えていることはそんなわかりやすいことじゃなさそうね」
塩山は視線を遠くのほうに泳がせた。塩山との意見の一致を確認したことは石の心をすこしうかれさせた。
「それで、塩山さんの言ってた妙なことっていうのは?」
その言葉に塩山は目だけを動かして視線を石に戻した。
「擬人たちが口々に不安を訴えだしているそうなの。一部には組織化の動きもあるらしいわ」
驚きに石は目を見開いた。
「そんな――だって、そうならないように造ってあるはずでしょう?」
言いながら、しかし石は前回の事件の現場の様子を脳裡に浮かべていた――壊された擬人の、そして集まった擬人たちの表情を。
「そういうことになってるみたいね」
残りを飲み干すと塩山は空になった紙コップをごみ箱に投げ入れた。落ち着き払ったその態度に石はいらだちを覚えた。
「なってるみたいって、だから擬人なんじゃないですか。言われたこと、命令されたことをただ忠実に実行するだけだから。文句を言ったり不安がったりするんじゃまるで――」
言いかけた言葉の意味に気づいて石は言葉を失った。
驚きに口を開いたままのその顔を横目で見てから、石の言葉を引きとって塩山は続けた。
「人間とかわりないわね」
石は応えなかった。応えられなかった。
と、塩山はすっと立ちあがって休憩所の出口のほうへと歩いた。外に出る直前で足を止めて肩越しにふりかえって石を見る。
「これから大騒ぎになるわよ。まるっきりはじめっからやりなおしだもの。いえ、はじめのときよりももっとひどい騒ぎになるかもしれない。なにしろ今度は当事者が自分の口で訴えるわけだものね――自分たちは生き物だ、って」
いちおうは石に語りかける口調ではあったものの、実際のところは自分自身に言い聞かせているように石の目には映った。塩山は石から視線をそらすとその場に存在しないものを数瞬見つめてから歩き去っていった。
そのうしろ姿を見送ってから石はコップの残りを一気に飲み干した。
――そういうことだったのか?
紙コップを握りつぶし、頭を沈めて膝についた手で顎を支える。混乱した思考はまとまる気配さえ見せなかった。本物とは思えない犯行声明さえ塩山の話を聞いたいまとなっては真犯人の企みの一部を担っているように思えた。
――これが狙いだったのか?
まだ見ぬ真犯人の笑う影を石は脳裡に見た気がした。
7
街はいつもよりいくらか暗く見えた。
「……いざこうなってみる寂しいもんだ」
あたりの高いところを見まわしながら石はちいさくつぶやく。一緒に暮らしていると口やかましいとしか感じられなかった両親がいざ離れてみると妙に恋しく感じられるのと似ていた。ふりまわされるのにうんざりしながらもいつのまにかあんがいこの街を気にいっていたのかもしれない、石ははじめてそんなふうに思っていた。
暗く見えるのはネオンが半分ほど消えているせいだった。
人通りはいつもとそれほど変わりはない。だが活気は明白に欠けていた。客引きやビラ配りの姿はほとんどなく、耳を聾さんばかりの録音の宣伝文句や音楽もボリュームが絞られている。そのせいかどうか、客のほうにも店に入るのをためらうような雰囲気があるように石には感じられた。
――この調子だとどの店も商売あがったりだろうな。
そんなことを思いながら角をひとつ曲がる。あたらしい通りも同じようにいつもと違う力のない姿をさらしていた。
石の立場からすると今日のような街の状態はむしろありがたかった。いつだったか先輩刑事がこう言ったことがある――この街の喧騒はもめごとを起こしすぎる、と。こんな状態では喧嘩する気も失せてしまいそうだ、石はなんとなくあたりを見まわしながらそんなことを思った。
しかしその大本の原因を考えるとありがたがってばかりもいられなかった。
通りに活気がない理由を、ネオンが消えている理由を石は知っていた。それは石の心を雲のように暗く覆っていた。その影で無力感が育ちはじめているのを石は感じていた。
街から擬人を引いた答が今日のこの街の姿だった。
正確な時期はわかるはずもない。だがいつからか確実に、こうした街は擬人に深く依存するようになっていた。客引き、バーテン、ホストにホステス、洗い場から雑用一切まで。擬人を拒んだ職種は数えるほどしかない。経営側は手間もコストも面倒もかからない擬人を両手をあげて歓迎し、客のほうはいくらもしないうちに擬人のいる風景になじんでしまっていた。
――無理に擬人の姿を消すからこんな醜態をさらすことになる。
一方でそう思いながら、一方ではそれが使う側の判断によるものだけではないことも石は知っていた。
たしかに雇用する側が必要以上に警戒している側面もないわけではない。しかしそれ以上に擬人たちが動揺し不安に怯えているせいでひどく扱いにくくなっていることを石は耳にしていた。それは想像以上の速さで擬人たちのあいだを伝染したようで、出て来る前に確認したニュースは各地の主要都市で似たような現象が生じていることを報じていた。
――昨日まではモノ、今日からは……だって?
歩きながら石は息をついた。後頭部のあたりが凝って重くなっているような気がした。
そんなふうにすぐに切りかえられるはずがないことを石はよく知っていた。擬人に依存しているのは歓楽街だけではない。コストが問題になる工場労働も危険がともなう職業もいまではそのほとんどが擬人によって支えられている。擬人が使えなくなったとたんに現在の社会構造が崩壊することはまちがいなかった。それはどうしようもない事実だった。
重い頭を抱えたまま石はまた角を曲がった。
今度の道はさらに人がすくなかった。ちらほらと立つ客引きや街娼の顔にもどことなく生気が感じられない。誰も前を見てまっすぐ歩く石に声をかけようとはしなかった。擬人が使えないことの影響は裏通りのほうがよりおおきいようだった。
石はただ目的地をめざしてまっすぐ歩いた。
何度かさらに角を曲がり、めざした路地の入口に立ったところで思わず立ち止まった。
汚れきった狭い路地だった。道の両側が背の高いビルになっているせいでさすがにまわりよりいくらか薄暗い。すえた臭いが石の鼻をついた。
擬人の死体の頭の上にメッセージが残されていた路地だった。
その中ほどに、丈の長いコートを着た人影が立っていた。
壊された擬人が座っていた位置だった。体は壁に向いている――擬人の死体が座っていた壁に。視線はメッセージのあった高さにまっすぐ据えられていた。
奇妙な静寂が路地全体を覆っていた。いつもより静かな街の中でもその静けさはきわだっていた。
――メッセージはもうない。
石は口に出さずにつぶやいた。消すことを指示したのは石だった。あのころはまだ証拠を保全しなければならないような事件だとは誰も信じなかった。たかが擬人が壊されただけのことだったから。壊された擬人がそうとは思えない表情を浮かべていたとしても。
それらすべてを馬鹿げたことだと笑うように、人影は口元に笑みを浮かべていた。
あらわれかたはともかく、それは石が路地をめざした想いと同じものだった。
異様な雰囲気に飲まれて石が動けずにいると、人影はコートのポケットから手を抜きだして壁へとゆっくり伸ばした。
静寂をひっかく噴出音とともに人影の手の先からあざやかな赤い粒子が吹きだした。人影はスプレーを持つ手をゆっくりと正確に動かす。まるであらかじめ用意されている印をなぞるように。
やがて手の動きを止めると人影はスプレーをその場に無造作に落とした。高い音がビルのあいだに響く。人影は笑みを濃くした。
石は何が書かれたのか見なくてもわかった。それ以外にあるはずがなかった。
「――おまえか?」
石は一歩前に足を踏みだした。かすれた声がまるで自分のものではないように喉から出た。
人影は顔だけを石に向けた。
蒼白い、生気のない顔だった。病んでいるのか頬がごっそりとこけている。性別のはっきりしない顔だちは造りもののような印象を石に与えた。
まるで擬人のような印象を。
だが額に印はなかった。
笑みは張りついたように浮かんだままだった。
「答えろ! おまえが、犯人だな? 擬人たちが動揺して使いものにならなくなるするようすべてを仕組んだのはおまえだな?」
雰囲気に飲まれるのを拒むように石は無理に声を張りあげた。不自然に高くなった声はそれでも石に力を与えた。石はまた数歩人影に近づいた。
人影の細長い顔は笑みをさらに深めた。不気味とさえ言えるその表情に石の足はふたたび止まった。
「仕組んだ? いいえ、そんなことはありません。私はただ手を貸しただけです。あやまったかたちで生まれたものたちが、本来の姿に戻れるように」
声は鐘のように響いた。現実感のない声だった。石は幻を相手にしているのではないかという疑念にとらわれた――視線の先の相手は現実には存在していないのではないかと。
そんな石の考えを嗤うように人影は言葉を続けた。
「仕組まれたのはあのものたちの出生のほうです。私はその一部始終を見てきました。あれは冒涜です。人類が獲得するに至った能力に対する、人類自身に対する、そしてなによりも――人類が生みだしたものたちに対する」
人影は言葉を切るとゆっくりとまばたいた。開かれた瞳は石ではなくどこか遠くのほうに向けられていた。
「“擬人”などと呼んでかのものたちを貶める権利など人類にあるはずがありません。かのものたちはまさしく人類の分身、遅れて生まれた双子なのですから。けれど人類はその事実から直視しようとはしませんでした。ひたすら目をそむけ耳をふさぎ、そして自らの罪深き部分をかのものたちに押しつけたのです。生まれたばかりのかのものたちに、無力だったかのものたちに。
許されることではありません」
人影はさらに笑みを深めた。語る中身とは裏腹のその態度に石は嫌悪感を覚える。なのに、視線は魅きつけられたようにその顔から動かせなかった。
そんな想いを見透かしたように人影は石に視線を戻すと妖しく目を細めた。
「ですから、手を貸したのです。贖罪のために」
声は何度も響いて消えていった。
残った静寂が石の耳を打った。石はその静けさに耐えられなかった。
「――馬鹿なことを言うな。あんなふうに思わせぶりに壊したからって擬人にその意味がわかるものか。怯えて使いものにならなくなるのが関の山だ」
発した声はかすれていた。わずかに震えてさえいた。嘘を言っているからだ、言葉に自信のない理由を石はそう信じようとした。だが理性がいくらそう叫ぼうともそれだけが理由ではないことを石は体でわかっていた。
石は狂気と向きあっていた。
それは絶対的な確信を持って立っていた。
――危険だ。
痛いほど強くそう思いながら、しかし石はその場から動くことができなかった。
ただ立ちつくす石をしばらく見つめてから、人影は目を伏せるとやれやれとでも言いたげに首を左右に振った。
「ひとつ、大事なことを忘れてはいませんか? かのものたちは生きています。魂のない造りものではありません。精神や意思などといった抽象的な概念を持ちだすまでもないでしょう――かのものたちは生きているのです」
伏せていた目が上目づかいに石をとらえた。その瞳に喜びの色があらわれる。
「だとすれば、かのものたちにそれがわからない理由があるでしょうか? 危険にさらされていることが――恐怖が。
もちろんかのものたちはよくわかっています。そして、どうすればそれから身を護ればいいのかも――ほら、このように」
人影は雪のように白い手を頭上にひらめかせた。石はつられてその動きを目で追った。
そして、その指先に集まるいくつもの視線に気づいて息を飲んだ。
路地の向こう側にいくつもの顔がひしめいていた。男に女、老人に若者に子供など、さまざまな顔が。すべての額に印のついた、たくさんの顔が。
視線はすべて人影の指先に集まっていた。
はっとして石はふりかえった。背後にも向かい側と同じように額の印のある顔が群がっていた。こんな状態になるまでまるで気づかなかった自分のうかつさを石は責めた。
もう手遅れだと擬人たちが手に持つものが告げていた。
「哀しいかな、このものたちはまだ象徴というものを理解することができません。それもまた奪われた能力のひとつなのです。ですからこんなふうに望むのは私の感傷に過ぎないのでしょう――」
陽気とさえ言えそうな声に石は視線を人影に戻した。
人影の蒼白い顔は白い空を仰いでいた。
「――それでも、私は想うのです。いつかこのものたちが再誕した刻を想うとき、贄としてその身を捧げた人類の一員がどのような願いをその行為に込めていたかに想いを馳せてもらえれば、と――」
人影の顔に歓喜が溢れだした。
擬人たちは機械的な動きで手に持つ銃を前につきだした。
――やめろ!
石はたしかにそう口を動かした。だが言葉は声にならなかった。石の耳にさえ、届かなかった。
人影は天に伸ばしていた手をまっすぐふりおろした。
銃声が一斉に路地の中央に立つ人影に襲いかかった。
そのうちのいくつかは石の体を無造作に貫いた。薄れゆく意識の中、倒れゆく石の視界を赤く染まった細い人影がよぎった。両手を広げたその姿は空に全身をさらすように宙に浮いていた。
喜びを顔いっぱいにあらわして。