強烈な陽差しが照りつけていた。ホワイト・アウト寸前の、現実感の喪失した光景。影とのコントラストさえも世界を浮きあがらせてはくれず、むしろ平面に閉じこめてしまう。
かがんでいた体を立ちあがらせると、上半身が不安定に揺れた。まるでたちくらみのようだ。なんとか踏みとどまり、背筋を伸ばして直立する。
短く濃い影をしたがえた巨大な建造物の骸がいくつもそびえたっている。どれもが一目で機能を失っているとわかるほど破壊されている。地表には建造物のもと一部であったものが瓦礫となってうず高く積みあがっている。動くものはない。生命の影さえ、ただのひとつもない。
以前見た光景と、何も変わっていなかった。
都市は、朽ち果てていた。だがまだ新たな息吹きを生みだすほど風化してはいなかった。
足を前に出すと、踏みつけた破片が音をたてて崩れた。ここは静寂の世界だ。わずかな物音も調和を乱す。動くものであれば、なおさら。
歩きだすと、物音は気にならなくなった。彼方は陽炎に揺れている。空はどこまでも碧い。白と、黒と、碧の世界。
そよとも動かない空気の底を、分けいるように進む。
しばらく歩いても、何の変化も見られなかった。一キロ四方の周囲にも注目すべき状態の変化はない。当然のことだ。変化のあろうはずもない。
ふと立ちどまり、見あげるとビルがおおいかぶさるように傾いて立っていた。七階層あたりより上部が完全に失われている以外は比較的原形をとどめている。
必要な情報はほぼ収集していた。他にしなければならないことはない。誰に監視されているわけでもない。ならば、寄り道も許されよう。
瓦礫を蹴ってビルに向かう。
ビルの内部も外と同じように死に絶えていた。構造から居住用のものと推測できるが、生活の痕跡はどこにも残っていない。傾いた通路を歩き、もはやまったく意味のないエレベーターの正面にある階段をのぼる。
三階層分のぼったところで足を止めた。通路の奥を覗く。同じドアが横一列にずっと並んでいる。ほとんどは閉じたままだが、開いたままのものもいくつかある。
通路に足を踏み入れた。埃がいっせいに宙に舞う。経た時間を思わせるだけの、盛大な量の埃。体中に埃をまとわりつかせながら、いちばん近いドアの中に入る。
部屋の中は意外に明るく、受光部の感度を落としたほどだった。元は窓であっただろう四角い穴から太陽の強い陽差しが差しこんでいるせいだ。影に埋もれた部屋の中で、そこだけが白い。
ここも、外と同じだ。非現実的な、あまりに現実感のない光景。
調度類はすべて跡形もなくなっていた。すべて溶けるか壊れるかしたのだろう。むきだしの壁と床に推積した瓦礫がいまのこの部屋のすべてだった。
窓際に近よろうと歩を進めたとき、瓦礫の山にもぐった足先になにかがひっかかった。軽い、しかし硬いなにか。瓦礫のそれとはちがう感触だ。こしを落とし、手で瓦礫をかきわけ、つかみとる。
出てきたそれは、なんということはないカップだった。変形してはいるものの、もとの面影をだいぶ残している。このまま使うこともできそうだ。
よくもまあ無事に残っていたものだ――
そう思った瞬間、視界が乱れた。色のついたノイズが激しく混入する。接触回線の不良か? 全身各部の状態をチェックしながら顔をあげる。
とたんに、めまいのような感覚に襲われた。
ノイズがあざやかな映像に収束した。モノトーンの室内に淡い色彩のあたらしい景色が重なる。
テーブルがある。食器棚がある。開いた窓から吹きこむ風でカーテンが揺れている。コンロの上では鍋から湯気が立っている。そして、テーブルには男と女が席についていて、楽しげに言葉を交わしている。
それは、そうであったはずのこの部屋の、あるいはここと同じような部屋の光景だった。
なんということだろう――封じられているはずの記憶野から情報が流れこんでいた。誰のものともわからない、しかしたしかにあったはずの、幸せな日常の記憶。それが、こんなときに漏れだしてくるなんて!
束の間、夢に酔った。
一瞬だったのか一分だったのか、それとも一時間だったのか。色あせるようにして重なっていた光景は消えた。白黒の廃墟だけが映る。
いまの記憶がどこから漏れてきたのか、それを見ていたのはどれだけのあいだなのか、調べるのは簡単だった。けれどもそんな気にはなれなかった。かわりに、手に持つカップをただじっと見つめる。
時は残酷だ。すべてを彼方に押し流してしまう。
だが、醜い姿を晒しながらも、都市は残っていた。そして、思い出も。
手の内で、カップが音も立てずに粉々に崩れた。
太陽はまだ天空高くに位置していた。変わらずにじりじりと地表を焼きつけさせている。
七階層の高さから見る都市も、地表から見るそれとそれほど変わりなかった。ただ、遠くに崩れかけた大きな壁が見える。都市の内と外を分ける、いまとなっては何の意味もない、境界。その外には――沙漠。遥かな果てまで続く、石と砂の世界。
この、力を失くした惑星の上に、ふたたび生命のよみがえることはあるのだろうか。人でなくてもいい。緑があふれ、空には鳥が舞い、地上には獣が走りまわる。そんな日が、また訪れるのだろうか……
いまは、まだ駄目だ。しかし、いつかは。それを見届けることができなくても――
風が、かすかにそよいだ。
探査ユニットとの接続を断つと、闇の中に引きもどされたような気分になる。いや、事実そうなのだ。あれだけの多種多様な情報をモニターすることは、衛星軌道上からでは望むべくもない。
今回の探査も結果は予想通りだった。地上はまだ人の住める環境ではない。放射能も毒性レベルもあまりに強すぎる。その他の条件もまだ生物の生息を許すものではなかった。
これまで何度地上探査をくりかえしてきただろう? 回数記録はとっくの昔に開放して別の用途に転用していた。いまとなっては確かめるすべもない。
ただはっきりしていることは、いつも帰還の許可を出せなかったこと。今回と同じように。
月には体を持った人間が数百人、情報存在に移行した人間が数万人、目醒める日を夢見て眠っている。存在するかもしれない新天地を目指して星の海に旅立つのではなく、自ら徹底的に汚しつくした星に残ることを選んだ人たち。その人々のために、私はこの星を監視している。いつか人がもう一度地上に降り立つときのために。
だが、無機生命体=機械も永遠に作動しつづけるわけではない。すでに機能不全の徴候はあらわれはじめている。我々が機能を停止したら、人間たちも目醒めることはない。それまでに地上は生命の力を取り戻すだろうか?
そんなことはないかもしれない。けれども、夢見ることはできる。あのあざやかな光景がいつの日かまた現実となることを。それが、かつて人間であった私――この惑星を観測し、月の人々の生命を維持するシステムの調停役である情報人格――にできる唯一のことだろう。
処理時間を無駄な思考に割りあてすぎた。整理しなければならない情報はまだたくさんある。私は意識を長期記憶野に押しやり、膨大な観測データの処理に専念した。
「――どうだ?」
耳元に届いた高田裕二二尉の声はノイズまじりでざらついていた。
「見えてるんだろ?」
足を止めヘルメットの側面に手を当ててぼくは応えた。ヴューカメラのスイッチは切ってない。いまぼくが見ている光景はカーゴポッドのメインスクリーンに映しだされているはずだった。
「いや、だからそうじゃなくて」
舌打ちする音が聞こえた。
「おかしな様子はないよ」
ぼくは応えた。他に言うべき言葉は見つからなかった。
気配を察したのか、高田二尉もそれ以上問いを重ねようとはしなかった。
しばらくそのまま立ちつくし、ぼくは眼前の光景をただ見つめた。
シャトルは月面の砂漠にその身を静かに横たえていた。
やがてふたたび高田二尉の声が聞こえた。
「――どう思う?」
ぼくは正直な感想を口にした。
「信じられない」
「信じられない? 着地させたんじゃないと思ってるのか?」
ぼくは応えなかった。
「まさか。そんなことがあるもんか。偶然着陸姿勢で墜落するなんて」
ぼくは応えなかった。
沈黙が、今度は気づまりをはっきりとただよわせて、続いた。
先に口を開いたのはまたしても高田二尉だった。
「……呼びかけてみろよ」
それが無駄なことはわかっていた。周回軌道に達したときから何十回も行った呼びだしに対する返答は一度もなかったのだから。
それでもぼくは緊急時用の通信回線をチャンネルに追加した。
「土師礼子三尉、聞こえるか? こちらは小森一彦二尉。聞こえるなら返事を」
言葉を切り、しばらく待った。
返事はなかった。
ぼくは緊急通信回線を切った。
「接近する」
そう言って歩きだした。
シャトルは細部まで鮮明に見えた。翼端の立ったデルタ翼に太陽光が反射してこの静寂の世界に異質なアクセントを作りだしている。垂直尾翼のない小型の機体はこうして月面にぽつんと存在するとひどくちっぽけに見えた。
それでも側面にたどりつくとシャトルはやはり宇宙服を着た自分とは比較にならないほどおおきかった。
軽く跳んでデルタ翼の端に手をかけた。勢いを利用して体をよじのぼらせる。どうということのない動作だが宇宙服を着てやるとなると勝手が違った。なんとか立ちあがってバランスを取りなおすとぼくは息をついた。
と、地平線のすこし上に浮かぶ地球が瞳に映った。
眼を細め、しばらくその姿を見つめた。
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
ぼくは視線をそらしてデルタ翼の上を胴体へと歩いた。
ハッチは使用された気配はなかった。ぼくはかがんでハッチ脇下部にあるちいさなパネルを開いた。
中にあるレバーを握る前にもう一度緊急時用の通信回線をチャンネルに追加した。
「土師三尉、こちらは小森二尉。いまからシャトルのハッチを開く。強制排除のおそれがあるので宇宙服を着用するように。着用したら連絡を」
時計を見て正確に五分待った。
答はなかった。
手を伸ばしてパネルの中のレバーを握った。
「……生きてるのかな?」
不意に聞こえた高田二尉の声にはそれまでにはなかった不安と恐れがあらわれていた。
ぼくは応えないでレバーを引いた。
最初の一段でハッチは反応した。空気を吸い出すはたらきがかすかな震動となって腕に伝わる。彼女をこの手で死に至らしめる機会がひとつ減ったことにぼくはすこしほっとした。
やがてハッチは内側にひっこんで横にスライドした。
赤みがかった照明に照らされた中に入り、操作パネルに触れた。
ハッチはすぐに閉じ、かすかな音とともに空気がエアロックにふたたび満たされはじめた。
ぼくは眼を閉じて深く息を吸った。
「気をつけろよ。もし生きてて起きてるとしたら何をしでかすかわからないからな。思いどおりにいかなくてやけになってるかも――」
ぼくはポッドとのすべての通信を断った。
空気の満たされるかすかな音だけが残った。
照明が一段明るくなり、内側のドアが開いた。ぼくは床を軽く蹴って中に進んだ。
宇宙服を着た身には決して広いとはいえない通路を、まずはコクピットヘと向かった。
コクピットに人影はなかった。わずかに斜めを向いた機長席がそこに人が座っていたことを示していた。彼女がそこに座って操船している姿をぼくは思い浮かべようとした。うまくいかなかった。
背を向けて客室に進んだ。
着地のショックのせいかすこし乱れた様子のそこにも彼女の姿はなかった。
残された場所はペイロードしかなかった。
すべて予想していたことだった。
ぼくは重い足を引きずるようにしてペイロードに向かった。
閉ざされた連絡用のドアに向かい、操作パネルに手を伸ばしたところで、ためらいを覚えた。
彼女が誰の訪れも歓迎しないことは明らかだった。
――だが、それを承知でぼくは追いかけてきたのではないのか?
ぼくは操作パネルに手を触れた。
ドアが開き、連動してともった明かりが闇を淡く照らしだした。
足を踏み入れ、数歩進んだところで足を止めた。
そのまま床に置かれたベッドをひとまわりちいさくしたくらいの金属製の箱を見つめた。
底のあたりから伸びたケーブルが床に空いた穴にもぐりこんでいることに気づかないわけにはいかなかった。箱の側面にいくつかのちいさな指示灯が点灯していることにも。
しばらく動けなかった。
やがて自分の意志とは関係なく足が動いた。
箱の側面に立ち、ゆっくりとかがんで表面をおおっている白い霜を手ではらった。
ガラス窓の下に両目を閉じた彼女の顔が見えた。
その顔をぼくはただ見つめた。
脇のコントロールボックスは正常動作を示していた。それが信じられるなら、彼女は世界初の冷凍睡眠者になったのだった。このカプセルを待つ者を押しのけて。
――それが望みだったのか?
声に出さずにぼくは問うた。だが彼女の寝顔からは何も読みとることができなかった。
いつか、つぶやきがひとりでに口から漏れた。
「……なぜ?」
言ってようやく気づいた。
この問いのために、ここまで来たのだと。
*
彼女をはじめて意識したときのことはよく覚えている。そのとき、なにかのきっかけでぼくは彼女と官制室で二人きりになっていた。彼女がまだステーションに来てまもないころだった。
それまで彼女と話したことはなかった。軌道ステーションの広さなどたかが知れてるから人の顔などすぐ覚えてしまう。ちょっとしたことで言葉をかわしたこともあったろう。けれど仕事上の関係がなくどちらかが社交的でないとなれば近づく機会はない。管制官のぼくは彼女のことをステーション勤務者の一人としてしか知らなかった。
彼女はたいした関心もなさそうな目でモニターをながめていた。その様子は声をかけられるのを暗に拒んでいるようでもあった。だからはじめのうちぼくは何も言わずにいた。
けれどそうしているとこっちのほうが息が詰まった。それほどいそがしくなかったこともあり、前回接舷したシャトルの軌道データのチェックを終えるとぼくはつい口を開いていた。
「こんなところに来て、たいへんじゃありませんか?」
聞くまでもない、つまらない質問だった。
だが彼女の答は他の誰とも違っていた。
「そんなことありません。地上を離れるのは昔からの夢だったもの。軍に入ったのもそれがいちばん確実だったから。こうして念願がかなったいま、たいへんなことなんてひとつもないわ」
彼女はぼくを見もしないで硬い声でそう言った。
ぼくはあっけにとられて彼女の横顔を見つめた。
モニターを見る彼女の表情からは、しかし言葉にみあったよろこびはすこしも見いだせなかった。
ちょうどそこで連絡が入り、彼女は官制室を出ていった。ぼくはなんとも言えない気分でその姿を見送った。
ぼくはそれとなく彼女の様子を聞いてまわった。そうでもしないと強烈な彼女の印象をやわらげられそうになくて。
すぐにわかったのは誰も彼女のことをろくに知らないということだった。
たしかに彼女はめだつタイプではなかった。容姿は十人並み、仕事は優秀にこなすが愛想はそれほどよくはない。人づきあいもよくはなかった。話に聞くかぎり彼女はごく地味な存在だった。
そうやって語られる姿とあのときかいま見せた表情や言葉はぼくの中でどうしてもうまくいっしょにおさまらなかった。
ぼくはこう考えざるを得なかった――彼女は注目されたり話題になったりすることを徹底的に避けようとしているのではないか?
しかしもし仮にそうだとしてもその理由はまったくわからなかった。
そのころからあらわれはじめた、世紀が変わってから三度目の代替りの予兆は思わぬかたちでステーションに影響を及ぼした。冷凍睡眠カプセルの製造が最優先で取り扱われることになったのだ。
冷凍睡眠そのものはすでに研究室レベルでは実用段階に達していた。だが実用化にはどこも二の足を踏んでいた。いちばんの理由はカプセルの製造および維持に莫大な費用がかかることだった。ことに一部の低温維持デバイスは信頼性の面から無重量製品を使わなければならず、それがコストの低下を決定的に妨げていた。
当然のことながら今回の場合コストは問題ではなかった。
それにステーションほどカプセル製造に最適な場所はなかった。これほど隔絶したところはないのだから。情報が漏れる恐れもテロに逢う確率も地上よりずっとちいさいことはまちがいなかった。
数人の専門家があらたに地上から到着した。彼らはただちにステーションに長期滞在していた技師たちと協力して活動をはじめた。DNAレベルで発生する手のつけられない病を未来に送りつけるわけだな、などど言いながら技師たちは聖なる身体を横たえるカプセルの作製に没頭した。
ステーションには緊迫した空気が張りつめるようになった。
そんななかで彼女はなぜかそれまでよりずっと張りのある表情を見せるようになっていた。
ぼくは彼女についてのわからないことリストに項目をひとつ追加した――冷凍睡眠カプセルなどというおよそ自分とは関係のないものがどうしてあんなに彼女をいきいきとさせるのだろうか、と。
項目のたてかたがまちがってたことに気づいたのはカプセルの完成が近づいたころだった。
彼女がカプセルの稼働試験の被験者に志願したのだ。
とたんにいくつかの噂がステーションに流れた。彼女がカプセルの製造課程にすごく興味を持っていたこと、暇さえあれば様子をうかがいに行っていたこと、そのうちに技師たちとかなり親密になっていたこと、当初の予定に軌道上での試験は含まれていなかったが彼女が担当者を説きふせて行うようになったこと、などなど。
どれが本当でどれがそうでないかぼくには見当がつかなかった。
彼女は噂も周囲の視線も気にしていないようだった。
試験そのものは何の問題もなく終了した。
彼女の様子は試験後も試験前と変わらなかった。冷凍睡眠を体験することになにか特別な意味を見いだしているのではないか、そう想像していたぼくは肩透かしをくったような感じを覚えた。ほっとしたような失望したような気分だった。
いまから思えばぼくはまったく見当外れのところを見ようとしていたのだった。
そしてあの日が来た。
ぼくは官制室でシャトルの発信準備をしていた。すこし緊張していた。完成したカプセルを送り返すともなればそれもおかしくはないだろう。
主モニターにはシャトルの前半分が、副モニターのひとつにはそのコクピットが映しだされていた。
実際のところ接舷時とは違って出航時に管制官がしなければならないことはほとんどない。官制コンピューターにすべてまかせてしまってもいいくらいだ。それでもぼくは入念なチェックを何度もくりかえした。同席していた管制官の海野浩三尉が半ば笑い半ばあきれるくらいに。
率直に云えば、ステーションの雰囲気を元に戻すためにカプセルにはさっさと地上に帰ってほしかった。
だが出航時刻まではまだしばらくの間があった。
「もういいかげんにしたらどうですか?」
苦笑まじりの海野三尉の言葉に何度目かのチェックを終えたぼくは手を止めて顔をあげた。
副モニターによぎった影が目に入った。
宇宙服を来ているらしいその姿はどこか様子がおかしかった。
反射的にぼくは職業的な正確さでシャトルとの通信回線を開いていた。
「そこにいるのは誰だ? 何を――」
相手は動きを止めてモニター越しにぼくを見た。
彼女だった。
ぼくは絶句した。
あの瞳をぼくは忘れることができないだろう――
憎しみ・怒り・恐れ・絶望、その他あらゆる負の感情すべてを浮かべた瞳を。
彼女は、しかしなお強固な意志を失わないでぼくを凝視していた。
その目はモニター越しに見えるすべてのもの、モニター越しに広がるすべてのものを拒絶していた。
ほんの数瞬の出来事をぼくは永遠のように感じていた。
海野三尉が行動を起こした瞬間、副モニターの映像が消えた。
警告音が鳴り響くのと同時にステーションが揺れた。
主モニターの中ではアクチュエーターをフルに作動させたシャトルがステーションから急速に遠ざかっていた。
すぐにその姿はモニターの視界から外れた。
数日後、シャトルの月面への落下が観測された。
どんな議論があったのかは知らない。上は意見が割れてずいぶんもめたようだがそれはぼくには関係のない話だ。とにかく最終的には今後の方針を決めるためにもとりあえず月まで人を送ってみようということになった。開発が最終段階に入ったカーゴポッドの運用試験も兼ねて。
ぼくは調査員に志願した。
普通に考えれば管制官がそんな任務に選ばれるわけがない。だからぼくは関係がありそうで話のできる人全員にありったけの言葉を費やして頼んで回った。彼女の最後の目撃者だというのが切り札だった。それしかなかった。
どうしてそう思ったのかはわからない。けれどぼくはどうしても彼女ともう一度会わなければならないと感じていた。
自信はなかった。けれど、とにかくぼくはたった二人の調査隊の一人に選ばれた。
*
そしていま、ぼくは彼女の前に立っている。
ぼくは黙ったままただ彼女の顔を見おろした。
固く閉ざされた瞳はどんな問いにも応えてくれそうになかった。
――眠り姫なら、王子さまのキスで目覚めるところだ。
ふとそんなことを思わずにはいられなかった。
それは彼女がもっとも避けたかった事態に違いなかった。
軌道修正の過程から読みとれるかぎりでは彼女は月の重力を利用してのフライ・バイをめざしていた。計算されたその行く先を見て誰もが絶句した。中には怒りだす者さえいた――愚か者が何をしているのか、と。
彼女の進もうとした先には何もなかった。
そこは現在の人類には行くことはできても決して戻ることはできない遥かな深淵だった。
彼女は生きたまま人類に永遠の別れを告げようとしたのだ。
だが彼女はその想いをとげることはできなかった。ぼくに見つかったために航路プログラミングを更新する前に出航せざるをえず、そのためその後の進路変更も手動でやらざるをえなかったために。当然のことながらまったくの素人の彼女に何度もやりなおしを許すほどにはシャトルの燃料は多くはなかった。
結果彼女の願いはほんのすこしでさえかなえられることはなかった。
けれど――……
「――なぜ?」
同じ問いをもう一度、ぼくは声に出してつぶやいた。
カプセルに入る前に彼女は知っていたはずだった。シャトルが月に落下することを。自分が望んだ彼方へと至ることがないことを。
それを知っていてカプセルに入ったのだろうか?
それともこうしているいまも人類から離れていると信じているのだろうか?
わからなかった。
彼女がめざした深淵は、いまここに、ぼくと彼女のあいだに、すでに在った。
いつまでもこうしてはいられないことはわかっていた。いずれ高田二尉がシャトルまでやってくるだろう。それまでには決断を下さなければならなかった。
目覚めさせるか。
事故を装って殺してしまうか。
このままにしておくか。
どれを望んでいるのか自分でもよくわからなかった。
どれを選んでも自分の一部を殺してしまうような気がした。
ただいまは黙って彼女を見つめていたかった――うかがい知れない夢に沈む彼女の寝顔を。
そして、かなうことなら彼女にかける言葉を見つけたかった。
深淵を越えて届く言葉を。
(To Alice, wherever you are.)
夕日が沈もうとしているころに、タビビトがまたダンチにやってきた。
見つけたのはタロだった。夕方、シキチの端のいまは誰も暮らしていないいくらか傾いたトウで追いかけっこをしていたときに駆けおりたオドリバで突然逃げるのをやめ背伸びして外をながめたのだ。そのあまりにそっとした動きにぼくたち全員追いかけっこをやめておんなじように外をながめた。
動くものはひとつしかなかったからすぐにわかった。長い影を供に引きつれた人がハイキョをゆっくりとダンチにむかって進んでいた。
歩きにくいのか疲れているのか、足元はひどく頼りなくていまにも転んでしまいそうだった。けれどもふらつくたびに揺れる体はどういうわけか倒れる寸前で持ちこたえ、今度は反対側に傾いてまた倒れそうになった。そんなことを何度もくりかえしながらタビビトはずいぶんゆっくりとではあったけれども確実にダンチに近づいていた。夜になるころまでにはなんとかたどりつきそうだった。
どれくらいのあいだ息を殺してその姿を見つめていただろう。やがてぼくたちの中でいちばん年上のキヨシがカイダンをおりていった。何も言わなかったけれどジチカイチョーにタビビトが来たことを知らせるためだということはみんなわかっていた。ぺたぺたと響くその足音を聞きながらぼくはまだしばらく遠くのタビビトの姿を見ていた。黒い外套をすっぽりかぶったその姿はべつだんいつものタビビトと違っては見えなかった。
退屈したのだろう、いちばん年下のマヤが声をあげた。それをきっかけにしてぼくたちはふたたび追いかけっこをはじめた。
年に二、三度、こうしてタビビトがやってくるのがこのダンチの決まりだった。それもなぜかかならず夕暮れどきにあらわれるのだ。
タビビトは女のこともあったし男のこともあった。どちらの場合もひどく疲れていてそれでいて望みはまだ捨てていないとでも言いたげな独特な表情は変わらなかった。カイチョーに出迎えられたタビビトは誰も住んでいないトウで一晩休むことを許され、たいてい翌日陽が昇るころにはいなくなった。タビビトとダンチのかかわりはそれだけだった。
いや、もうひとつある。タビビトはカイチョーにかならずこう尋ねるという話だった――“バベルはどこですか?”、と。
カイチョーの答は知らない。だいたいぼくたちはタビビトには興味がなかった。近づいてはいけないとオトナたちに強く言い聞かされていたせいもある。しかしそれ以上にねだっても何ももらえそうにないのがおおきかった。なにしろこれまたお決まりでタビビトときたらダンチの誰よりもひどいかっこなのだ。これじゃ興味の持ちようがない。それに薄気味悪さも手伝って、タビビトのことを話題にしようとするものずきは一人もいなかった。
ぼくだってあんなことを聞かなければさっさと眠ってしまいタビビトのことなんか二度と思いださなかったに違いない。
話が出たのはご飯を食べているときだった。いつもは父さんと母さんの話はあまりちゃんと聞いていない。コウサクチがどうしたとかセイイクが悪いとかいったことはぼくにはよくわからなかったし、それに下手に口を出すとどなられるのでおとなしくするようにしているのだ。父さんも母さんもぼくに話をするときはちゃんと名前を呼んでからするのでそれで問題はなかった。
だからなんでそんな話題になったのかはわからない。ぼくの耳にはその言葉だけがすっと耳に飛びこんできた。
そういえば、今度のタビビトはバベルのことを聞かなかったんだって。
ぼくはぱっと顔をあげた。母さんはへえ、とかそう、とかてきとうにあいづちをうっただけだった。そのまま会話は別のところに移っていった。ぼくが顔をあげたことは二人ともたいして気にしていないようだった。
ぼくだって自分がなんで顔をあげたのかよくわからなかった。でも父さんが言ったその言葉はなぜか心に残った。
ソウデンが止まってダンチが夜に飲みこまれた。
静けさの中、ぼくは布団にもぐってずっと考えていた。すぐにでも飛びだしていきたかったけどまだ父さんか母さんが起きているかもしれなかった。だから、じっと待った。そのあいだじゅうぼくはずっと同じことを考えていた。
ついにがまんできなくなって布団から抜け出ると、ぼくはそっとマドを開けてベランダに出た。
空はよく晴れていた。半欠けだけど月も出ている。これなら明かりにはこまらなくてすみそうだった。
ぼくはテスリに乗っかると三つ先のイエまでそろそろと体を進めた。
真っ昼間ならいつもやっている遊びだけど夜だとさすがに勝手が違ってちょっとどきどきした。ベランダに降りるとそのどきどきが床を通じてウチまで伝わるような気がして手で心臓をおさえた。
しばらくそうしてから、ぼくは割れたマドのスキマからイエに入った。このカイにはぼくたち一家しか住んでいなかったしこれだけ離れていれば父さんも母さんも気づかないだろうと思ったけどやっぱりなんとなくばれそうな気がしてそっと歩いた。ドアを開けてロウカに出るときもできるかぎりそっとした。でもやっぱりドアは閉めるときにきいきいと金切り声をあげた。その音が静まるまでぼくはその場に立ちつくしたまま動けなかった。
気をとりなおしてそろそろとカイダンをおり、トウの外に出るとぼくはあたりを見まわした。
いくつもならんだダンチのトウが月明かりに照らされてフクザツな影をかたちづくっていた。昼間とは違ってそれらはいまにも倒れそうに見えた。寒々としたその光景にぼくは風もないのにちょっと震えた。
――さあどうしよう。
ぼくはあらためてその場で腕組みをした。
とりあえず出てきてはみたものの、タビビトがどのトウに泊まっているのかぼくは知らなかった。カイチョーなら知ってるだろうけどもちろん聞けるわけなどない。とするとトウを全部しらみつぶしにあたっていくくらいしか手はなさそうだった。トウの数を考えるとそれにはものすごく時間がかかりそうだった。
「ま、いいか」
つぶやいて腕組みを解き、ぼくはてきとうに歩きだした。どうせちょっとした思いつきではじめたことなんだから会えなくてもいいやという気分だった。左右のトウをながめながらぼくはとことこと歩いた。ときどきつま先で蹴ったガレキがころがってからからと音をたてた。
どれくらいそうやって歩いただろう。ダンチのシキチの端に近づいたところでぼくはふと足を止めひとつのトウを見あげた。
半分ほどが崩れた、ダンチの中でもかなり状態のひどいトウだった。そのいちばん上の階のベランダに人の姿がひとつぽつんとあった。月明かりが星空を見あげるその姿をとてもはっきりと照らしだしていた。
――タビビトだ。
あんな危ないトウに住むものずきはダンチにはいない。ぼくは息を飲んでその姿を見つめた。
と、上を向いていたその顔がぼくのほうを向いた。
その手が招くように動いた、ように見えた。
ぼくはしばらくその場に立ちつくした。なんで誘われたのかわからなかったから。そんなぼくをタビビトはずっと見つめていた。表情がわからないくらい離れているその顔をぼくはただ見つめかえした。
結局ぼくはタビビトのいるトウへと小走りに駆けだした。なにか悪いことをされるかもしれないと思わないでもなかったけど、ここまで来たんだからという思いのほうが強かった。
そのトウのカイダンはダンチの中でももっとも登りにくいもののひとつだった。そのひどさといったらぼくたちが遊ぶときにもめったに近づかないくらいで、あちこち骨組みがむきだしになっているしところどころ下の階が見えるくらいの穴まで空いている。明るいうちでさえ危ないのだから夜ともなるとこれはもうゆっくりそろそろとでなければ進むことさえままならなかった。なんだってまたこんなところに泊まったりするんだろうといらいらしながらぼくはカイダンを登った。
ようやくたどりついたいちばん上の階のロウカはカイダンよりずっとしっかりしていた。崩れてしまっているおかげで夜がぽっかりと口をあけている向こうの端までドアが四つ残っている。そのうちの奥から二番目のドアが開いたままになっていた。ぼくはどきどきする心臓といっしょにそのドアに近づいてイエの中をそっとのぞいた。
ベランダで空を見あげるタビビトの背中がまっすぐ目に飛びこんできた。
夜と同じくらい暗い外套をすっぽりとかぶっていた。輪郭が月明かりで蒼白く縁どられている。ぼくがじっと見つめるあいだその姿は微動だにしなかった。
一晩中ああやって空を見あげているつもりだろうか、そんなことを思ったとき、唐突に声が耳に届いた。
「お入りよ。いっしょに星を見よう」
深くて低い声にぼくの体はこわばった。もうひと押しあったらぼくは声をあげて走って逃げだしていたと思う。そこまではいかなかったものの、ぼくは前にもうしろにも進めずただタビビトの背中を見ていた。
と、タビビトの頭が肩越しにふりかえってぼくのほうに向いた。
「こわがらなくたっていいじゃろ? ここまで来たんじゃから。あとはちょっと勇気を出して中に入ってみるだけさ。君にその気があればの話じゃがね。さて、どうする?」
表情は暗くてよくわからなかったけど口元には笑みが浮かんでいるようだった。その顔をたしかめてみたい、そう思ったときにはもう体はこわばっていなかった。ぼくはイエに入りベランダへとまっすぐ歩いてタビビトの横に立った。
タビビトは視線を空に戻していてぼくが見あげても動かそうとはしなかった。ぼくも同じように顔を上に向けて空を見た。たくさんの星が夜空にちらばっていた。半分の月がぼくたちを見おろしている。雲がかけらもなくてとてもきれいな星空だったけど、でもそれは別にめずらしくもなんともなかった。なんでこんなものをずっと見ていられるのかぼくは不思議でしょうがなかった。
「星はきれいかい? ぼうや」
いきなりの質問にぼくはびっくりしてタビビトに視線を戻した。タビビトは空を見あげたままだった。ぼくがうんと声に出して言うとタビビトは満足げに首をちいさく上下に動かした。
「そうか。わしの目はもうガタが来ていてひとつの星が五つにも六つにも見えるんじゃよ。それはそれで別の美しさがあると言えるかもしれんが、なに、星空というものはあまり星が多すぎてもつまらんもんでな」
言葉を切るとぼくを見おろしていたずらっぼく笑った。思っていたよりずっと年寄りなのに笑い顔はぼくたちと同じだった。
その顔をずっと見つめていると、タビビトは笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「さて、この年老いたタビビトに何の用かな? たいして役にたてるとは思えんが、答えられることなら何でも教えよう」
鳶色の瞳がまっすぐぼくを見つめる。ぼくはごくりとつばを飲みこんだ。胸の中で質問がふくらんだ。けど本当にタビビトに会えるとは思っていなかったぼくはそれをうまく口にすることができなかった。
そんなぼくをじっと見ていたタビビトの顔に、不意に理解の色が広がった。
「ははあ、わかったぞ。君はこう聞きたいんだろう?――行く先を知っているんですか、と」
心臓が飛びだすかと思った。ぼくは目をまんまるにしてタビビトを見つめた。タビビトはにやりと笑うと顔をコウサクチが広がるダンチの外へと向けた。
「そうさなあ……。知っているとも言えるし、知らないとも言えるかな」
「――でもバベルの場所を聞かなかったんでしょ?」
勢いこんでぼくは尋ねた。タビビトのあいまいな言葉はぼくの聞きたかった答ではなかった。
タビビトは瞳だけをぼくに戻した。
「聞かなかったのは、それがあることを知っているからじゃよ。どう行けばいいのかはわからん、が、最後にそこにたどり着くことは知っている。じゃから聞く必要はないんじゃ。知っているとも言えるし知らないとも言えるというのはそういう意味じゃよ」
「じゃあなんで他のタビビトはバベルの場所を聞くの?」
いつのまにかぼくはタビビトの外套の裾をつかんでいた。タビビトはちょっとこまった顔をして視線をコウサクチのほうに戻した。
「さてなあ……他のタビビトには会ったことがないからなあ……」
そう言ったきりタビビトは口をつぐんでしまった。遠くを見つめるその顔をぼくはじっと見つめた。
やがて、タビビトはぽつんとつぶやいた。
「たぶん、バベルが本当にあるかどうか、自信がないんじゃろう」
その言葉はぼくが本当に聞きたかったことを教えてくれた。裾を離して一歩さがるとぼくはおおきく息を吸いこんで言った。
「バベルって、何なんですか?」
タビビトはぼくに顔を向けた。驚きが顔いっぱいにあらわれていた。ぼくは胸をふくらませて答を待った。バベルがなにかを知っているからこそタビビトはそんなに驚いたに違いなかった。
けれどタビビトはなかなか口を開こうとはしなかった。
やがて、両手でテスリをつかむとそのままうしろにさがってタビビトは頭をうつむかせた。ふんぎりがつかないようにつま先で床をうしろに何度も軽く蹴る。その様子をぼくはただ見ていた。答を聞きたかったけどそんな態度を取る人にどうやって言葉をかければいいのかわからなかった。
と、耳をすましていないと聞こえないくらいちいさな声でタビビトはつぶやいた。
「……バベルってのは、トショカンなんじゃよ」
「……トショカン?」
ぼくはきょとんとして聞きかえした。聞いたことのない言葉だった。タビビトは上半身を揺らしながら言葉を続けた。
「そう。ただし、ただのトショカンじゃない。セカイジュウのありとあらゆるモノガタリを集めたトショカンなんじゃ。そこに行けばどんなモノガタリだって見つけることができる。誰でも知っているものからまだ誰も聞いたことのないものまで、すべて」
顔をあげるとタビビトは遠くを見つめた。その視線はコウサクチなんかよりもっとずっと遠くに向かっていた。
それからぼくに視線を転じると照れたような笑みを浮かべた。
「想像できないかな? 無理もない。タビビト自身がそうなんじゃからな。だから立ち寄る先々でたしかめないことには安心できんのじゃよ。
だってそうじゃろう? この世のモノガタリがいくつあるのかわかる者は一人もおらんのじゃから、ましてやそれを納めるものがいったいどんなものなのか誰にわかろう? とてつもなくおおきいのかもしれんし、目で見てもわからんくらいにちいさいのかもしれん。そんな得体の知れんものを目指していて不安にならんほうがおかしい。しかもおそらくいまのトショカンは壊れている。もしかしたら以前訪れたことがあるものでもわからなくなってるかもしれん。だからこそわしらが求められているというのに……」
言いながらタビビトは視線を足元に落としていった。最後のほうはひとりごとだった。タビビトの言おうとしていることがぼくにはほとんどわからなかった。でもタビビトが大事なことを言ってるんだということだけははっきりと伝わってきた。
だから、たしかめたかった。
「どうしてタビビトはバベルを目指すんですか? バベルはどうしてタビビトを求めているんですか?」
タビビトは顔をあげてぼくに向けた。真剣なまなざしがぼくをまっすぐ射した。
「なぜなら、タビビトは自身がひとつのモノガタリだからじゃ。
バベルはいま、おそらく壊れてしまっている。モノガタリはサンイツしてしまっているじゃろう。じゃから、はじめからもう一度やり直さなければならんのじゃ。
タビビトはそれぞれひとつのモノガタリを知っておる。どんなモノガタリかは重要ではない。知っていることが大事なんじゃ。そして、知っているからこそ、タビビトはバベルを目指さなければならん。バベルを元に戻すために。失われた世界を取り戻すために」
タビビトは視線を空に向けた。決意が顔にあらわれていた。ぼくは目を細めてその姿を見つめた。
その顔を見ていると、言葉が自然に口から漏れた。
「じゃあ、あなたのモノガタリは?」
ぼくの質問にタビビトは空を仰ぎ見たままふっと笑った。すごく寂しそうな笑顔だった。
「……もう、話したよ。いまのがわしのモノガタリなんじゃ。
だからわしはバベルの場所を聞く必要がない。かならず最後にたどりつくことを知ってるんじゃからな。
もっとも、わしのモノガタリはそこで終わってるんじゃがね」
タビビトは息を深く吸いこんで瞼を閉じた。片方の手がぼくの肩にそっと触れた。
「さあ、もうお帰り。わしももう寝るよ。行く先はまだ遥か遠くじゃ。明日もまた朝早く旅立たなければ」
タビビトの手がぼくをドアのほうへと軽く押す。しわだらけの手はあたたかかった。うながされるままにぼくはドアへと歩いた。
イエを出たところでぼくは一度足を止めてふりかえった。タビビトはベランダで空を見あげたままだった。月明かりに浮かぶその背中はぼくの記憶にたしかに焼きついた。
目を覚ましてごはんを食べるとぼくは母さんの怒りの声を無視してシキチの端へと走った。
太陽に照らされたトウのベランダにはもう人影はなかった。ぼくはタビビトが見つめていたコウサクチの向こうをずっと見つめ続けた。タビビトがそっちに去っていったとはかぎらないけどそんなことはどうでもよかった。
本当のことを言うとああ言ったタビビト自身バベルとはなんなのかよくわかってないんじゃないかという気がした。
でも一方でこんな予感も心の中に芽生えていた――いつかぼくもバベルを探しに行くことになるのかもしれない、と。
その予感にはタビビトの笑顔と手の温もりがくっついていた。