1998年7月

 ここ数日、喉が痛い。別に風邪をひいたわけではないし、喉を使いすぎたわけでもない。数日前に、都立大学の研究室でちょっとしたトラブルがあったからだ。いくつかの問題が重なって起きた事故だったのだけれど、その問題がすべて十分に避け得た、つまり人災であったことがくやしい点である。

 研究室のドラフトの排気モーターが故障した。ドラフトの修理が完了するまで、研究室ではドラフトを必要とする実験はできないことになる。安全面からいって当然のことなのだが、これを守らなかった人間がいた、というのが問題の第一点。排気も換気もできない状態で、有機溶媒、樹脂を用いた実験をしただけでなく、廃液をドラフト外のポリのタンクに捨てていた、というのが問題の第二点。この二点目の結果どうなったかというと、しばらくしてタンクが廃棄された樹脂と溶媒によって溶けだし、床に内容物がぶちまけられ、床材も溶けて煙が発生し、強いガスが研究室三つにまたがって蔓延した。最初は、学生が「なにかへんな匂いがする」と言い出したのがきっかけで、「誰かドラフトが動かないのに電子顕微鏡の樹脂を使っているだろう」ということでその始末をしようとした時に丁度タンクが崩れてガスがでた、という次第。幸い、その場にいた人間の喉がしばらく痛んだ程度ですんだが、理学部はまかりまちがえば恐いところだ、ということを再認識した結果となった。とりあえず、災害としては大事にいたらなかった、とはいえる。

 まあ、大学としては、あるいは研究室としてはささやかな問題を後に残してしまったことにはなる。と、いうのも、この「故障しているドラフト」で、「溶けるような素材に廃液を捨てて放置していた」のが学生ではなく教員だった、それも、電子顕微鏡を本業としていた最も責任と知識をもっているべき人間だった、からである。学生が命を落とすようなミスを起こす前に(今回だってまかり間違えばあぶなかった)、なんとかシステム的な解決が討議されればよいのだが、大学という環境の性質を考えればダメかもしれない。何人か学生が死ねばなんとかなる、だろうかというところだろう。これが、「学生の人権」の事例に登場したこともある、「生物電子顕微鏡室の管理者」でもある教員である、という現実もまた雄弁なものだったわけだ。

 結果的に、学生が誰一人健康を害さなかった(入院せずにすんだ)、死ななかった、という今回の結果は、当事者である被害者たる学生にとっては幸運であった。しかし、こういった問題教員(彼が近いうちにとりかえしのつかないトラブルをおこすであろうことは彼を知る人間の間では一種の共通了解であった)が、結局は研究室で内部的に処理されてしまった今回のできごとでは大学から放逐できない、という点では、大学、学科、研究室の構成員にとってははなはだしい不幸といわざるを得ない。最悪の事態が生じてからでは手後れなのだが、最悪の自体が生じない限り問題は「ないこと」にされる、というのもまた日本の大学の現実であるから。そして、にもかかわらず、これでまた定年まで公務員としての自らの身の安泰を労せずして手中におさめつづけることに成功した教員当人にとっては、実に、幸福な結果となったということになる。事後処理をしながらも、気味の悪い薄笑いをうかべつづけたこの教員は、なにごともなかったかのようにwebを堪能した後、そのまま帰宅し、大いなる日常を謳歌しているのだから。もっとも、何人かの学生が入院したところでこの教員にとっては痛くもかゆくもなかったかもしれない。それほどに大学というところは「やったもんがち」の性質があるものであり、立場の弱いものほど精神的肉体的金銭的に出費を強いられるところだからである(でなければ、教育業績も研究業績もない彼が何十年も公務員を続けられる道理がないのだ)。

 構造主義生物学対ネオダーウィニズムといった趣の、岩波「科学」五月号の書評についてのコメントを出して以来、このコーナーへのアクセス数は相応に増加した。ついで、いろいろな掲示板等でこのコメントの存在がひろまっている、ということも知った。ありがたいことである。もちろん、そのほとんどはきちんとしたもので、相応に面白がってもらったり、応分の話題提供にはなっているようだ。中には、あんなコメントを公開すると私のところに直接に非難や批判、嫌がらせといった反応が殺到しているだろう、とこちらの状況を心配して下さる方もいる。

 たしかに、いろいろみていくと私の書いたものについて、具体的な指摘もなにもせずに、「あれはゴミだ」とか「あれはクズだ」といった書き捨てをしていくような人間も掲示板によっては登場しており、実にオヤクソクな展開に微笑みを禁じ得ない。気にしてくださる方を安心させる、という訳ではないが、関連して私に連絡をくださる人は一人の例外もなく、このコメントをどこそこに紹介した、あるいはしてもよいか、という内容なのであり、一通たりとも品性卑しい輩からのものはないし、少し残念なことに(案の定予測通りではある、けれど)内容についての批判もない。ようするに、あれを読んでカチンとくるような類の人間は本人に直接意見する、意見できるようなモノはもっていない、ということなのだろう。オヤクソクという由縁である。

 もっとも、自分の言葉、自分の考えでコメントするものを持っていない、ただヒヒョーカを気取りたいだけだったり、ブンカジンを気取りたいだけだったりする類の人間にとっては、とりあえず良識ぶって私のコメントに対して説明なしの頭ごなしの否定だけを「人の目のあるところ」でだけやっておく、というのがパターンだろうし、だとすると私のところには一通もその手のメッセージがこない理由も明白ということだ。そういう連中にとっては別に佐倉を擁護しようとかいう動機があるわけですらなく、単になにかいいたいだけなのだろうから。

 と、いうわけでそれはそれでよい。今日、書店で京都大学の「高等教育」研究のチームの報告書を見た。教授法、学生による評価の方向を模索するための実験授業の報告である。こういう活動と比較してしまうと、やはり「高等教育フォーラム」の甘さ、青さは惜しい。東大という特殊な環境ですらきちんと道を見据えることのできる指針を模索できる、という実例こそが求められているのではないのか。駒場の内部で指導教官の不興をかってしまった学生が理由もなく一方的に「キミは中退ね。ボクがそうきめたから」というかたちで中退を強要されている時に、学科の他の先生達は学生の相談を受けても、「気の毒だけど仕方がないねえ。よその研究室のことだしねえ」という反応しかできない、という自治のスタンス(これは、本郷もまったく同様であることから、もしかすると東大の独自性なのかもしれないが)あたりから改善できれば、高等教育はまだ未来があるだろうとは思う。松田代表にそこまで求めるのは酷だろうけれど。