16.散開コンサート
「解散コンサート」、それはセレモニーである。専らミュージシャンが対外的に解散の意思を表明したり、ファンの愛惜の念への配慮などが主な目的で行われるものだろうと思う。従って、ミュージシャン側からみれば、必ずしも自発的な音楽活動とは言い難い。そう、それは「サーヴィス」なのだ。
YMOの場合は強力な自意識をもったバンド・メンバーの性格上、彼らの解散コンサートは、いっそう儀礼性が際立ってしまった感がある。演奏曲のアレンジ、舞台演出ともにゴージャスにも関わらず、同時にその根底においてなにかしらシラケた意識が漂うのを意識しないでいることは難しい。
とりわけ2度目のワールド・ツアーのように、何物かに憑かれたようなメンバー自身の熱狂みたいなものは、「散開コンサート」にはない。もっともそれは全ての解散コンサートに共通の矛盾であるから、いちいちこだわってもしょうがない、その場にあっては、無条件にライブを楽しむべきだし、彼らも「プロパガンダ」に続く「東風」など少なからず名演奏を残した。
ちょとひっかかる・・・・・
問題は、なぜYMOはあのような姿で僕らの前に現れたのだろう?ということだ。ステージは、徹頭徹尾演出しつくされていた。なによりも異様なのは、ステージ・デザインだ。それは、ナチスの党大会の巨大な演壇を模したもので、彼らは親衛隊風のステージ衣装を身にまとい、能面のように無表情な顔で現れた。そして最初に流れた曲の題名が「プロパガンダ」。全体に聴衆を威圧するようであった。なんとも突飛で首をひねりたくなるような演出だ。演出家をはじめとしたスタッフの言われるがままに彼らが動くことは、まず考えられないから、そこには何かしらのメッセージが託されていたハズだ。(ちなみに舞台美術を担当したのは、日本におけるその道の第一人者、妹尾河童。この人はどちらかというとクラッシックの歌劇やミュージカル方面の舞台美術を手掛けることが多い。)
これは僕に限らないと思うが、「散開コンサート」のステージ・デザインには非常に違和感を感ずる。だからアルバムで音だけを聴くのが好きだ。ナチス的なファシズムとは具体的には無関係だったとは言え、これは、現在の彼らが最も忌み嫌っている世界だ。(坂本龍一は、嫌いな楽器としてスネアを挙げている。理由は、軍楽隊を想起させるからだ。)ただ、純粋に表現上の問題として取り上げれば、右翼青年のロマンチシズムというのは、よくよく考えれば表層的で愚かしいものの、なかなか抗し難い誘惑である。また、ナチの将校の軍服は、単に服飾として見た場合、美しい。現に当時の僕もわけのわからないままに、そうした虚構の勇ましさに酔った。
そして右翼青年のロマンチシズムは、その終局に英雄的な死というカタストロフィーが待っていなければ完結しない。むしろ、そのロマンチシズムにおいては、全てはそこへ到るためのお膳立てなのだ。散開コンサートの最後に演奏されたファイヤー・クラッカー(もちろんアンコールは別だよ。)の終わりの破裂音、いつもなら中国の祭儀の爆竹や花火よろしく威勢がよかったものだ、それが散開コンサートでは、まるで堅牢な建築物が瓦解していくような長く余韻をひく不気味な音である。さらに映画「プロパガンダ」では文字通り巨大な演壇は激しく燃え上がり、焼尽した。
ひとつの仮説
YMOは、日本で孤独だった。YMOの存在は、常に日本的なミュージック・シーンに対するある種のアンチテーゼだったからだ。メンバーが意識的にそうした部分もあるが、彼らは真にある時代の到来を告げるひとつの兆候そのものだった。アイドル・バンドにありがちな体制側(=オトナ)への反抗みたいなポーズは、それこそ業界マニュアルに組み込まれた人畜無害なものだが、YMOの場合は本当に従来的な日本のポップを解体し得る可能性を秘めていた。実際に、YMOは危険だった。80年代初頭の日本人は、無意識のうちに理解を拒んだ。
80年代初めの日本で、そんなYMOは、日本のミュージャンや業界そして聴衆と幸福な関係を築けたかと言えば必ずしもうまくいかなかったことは、僕の拙劣な文章でも示してきた通りである。彼らは栄光の影で、常に、押し寄せる誤解、非難、悪意ある無視と格闘しなければならなかったろう。結局、後半のYMOの振る舞いは、それならば、いっそのことズレを自ら進んで楽しもう、という冷めたものだ。そうした背景を考慮すると、彼らが、マスに受容を拒まれ、圧殺された前衛という一種のヒロイズムにとらわれたとて不思議ではない。映画「プロパガンダ」の場合、そのモチーフは、ずばりYMOの英雄的な死であったと思う。
やっぱりどうかしてる
YMOの悲劇は事実だし、充分共感できる。しかし、それでもやっぱりあの演出は軽率だ。そして、現在は彼らもあのステージ・デザインに苦笑していることだろうと思う。あれは、根底においては、やはり解散コンサートらしい矛盾がもたらした過ちなのだ。内部が空虚であればあるほど、外観を威容に見せるというありふれたパターンが繰り返されたにすぎない。さらにまずいことには、あのナチまがいの不自然な馬鹿げたハリボテのせいで、孤立無援の前衛=英雄的な死というStoryは、かえってリアリティを奪われてしまった。散開コンサートのファイヤー・クラッカーは、YMOを完全には焼尽することができなかったのだ。誰の気持ちも整理されなかった。
もっとも、あの時点では、いずれにせよ、どうにもやりようはなかったと思う。(しかし、それでも、せめてもうちょっと気持ち良く回顧できるような「サーヴィス」をしてほしかった。)散開直後に出版された記念写真集「シールド」はともかく、その後、演壇ステージについてストレートに触れたYMO本やインタビューはないように思う。その他のツアーに比べれば、散開コンサートのステージの全景を明らかにした写真の掲載も極少ない。さりとて、YMOの歴史の最大の汚点として禁忌しているというようにもみえない。
いつまでもナチス的なイメージがYMOに結びついて誤解を生むことが、みんな単純に鬱陶しかったし、散開当初の一種異様な興奮状態を過ぎた今になってみれば、メンバー自身の心境と演壇ステージがなじまなかったことがはっきりしたということだろう。YMOブーム再燃の中で、イーノのMIXによる『コンプリート・サーヴィス』が発売された。なんだかこれは一種の厄払い(笑)みたいな感じで、散開当初のまがまがしいモチーフから楽曲が解放されたような気がしたものだ。
●1983年11/23 『1983 YMO ジャパン・ツアー』スタート
【ツアースケジュール】
11/23 札幌・ 道立産業共進会館
11/28 名古屋・愛知県体育館
11/29,30 大阪・大阪城ホール
12/3 郡山市総合体育館
12/12,13 日本武道館
12/19 福岡国際センター
12/22 日本武道館
【演奏曲目】(12/22 日本武道館)
プロパガンダ/東風/ビハインド・ザ・マスク/ソリッド・ステイト・サバイヴァー/中国女/音楽/ フォーカス/シャドー・オン・ザ・グラウンド/バレエ/パースペクティヴ/ワイルド・アンビションズ/マッドメン/リンボ/チャイニーズ・ウィスパーズ/希望の河/邂逅/シー・スルー/キー/以心電信/ファイヤー・クラッカー/過激な淑女/君に、胸キュン/テクノポリス/ライディーン
ツアー最後の公演、12月22日の日本武道館でのコンサートは世界コミュニケーション年記念のチャリティー・コンサートだったらしい。僕は幸運にもこの日のチケットを入手できたので、この公演を観る機会を得た。しかもアリーナの最前列から七番目というシート。右側だったので、細野さんの前だ。NHKのカメラ・クルーがアリーナ後方の中央に陣取っていた。
無論のこと、その当時の僕は、ナチスの演壇云々についての苦言を呈したりはしなかった。(つーか、ナチスって何?という感じで基本的に事情を飲み込んでなかった。まだ中学校では習ってなかったと思う。)照明が消されて、会場内を揺るがすような爆音が響いた時、正直足がガクガク震えた。東風の演奏開始とともに緊張を解かれ、一気にギアをトップに入れて疾駆するようなオープニングだった。
演奏曲目や曲順に関しては、92年に発売された『コンプリート・サーヴィス』と同じである。ソリッド・ステイト・サバイヴァーまで一気にたたみかけ、アナウンスの後、ステージ中央がミーーとせり出してきて、そこにデヴィット・パーマーとドラム・セットが乗っかっているという仕掛け。ライブ中盤は、アルバム『浮気なぼくら』や『サーヴィス』からの曲が中心に演奏されたが、なんとなく中弛みという感じがした。その理由はいろいろあげられると思うが、やはり根本的には3期にあたる時期の曲の役不足のせいだろう。
初期の傑作の力というものは、やはり偉大なもので、エンディングのファイヤー・クラッカーでは、さすがに盛り返した。さらにファイヤー・クラッカーの最後の長い爆音でYMOの英雄的な死というストーリーはひとまず完結したわけだ。一応のケジメがついた後のアンコールは、無条件に楽しいヒットパレード!テクノポリスからライディーンへはメドレーで演奏するという憎い演出もあって、ファンは大喜びだった。
(99/05/16 第一稿 脱稿。)
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