15.『散開』宣言
『浮気なぼくら』発表後もしばらくは、YMOとしては、「アイドル」ポーズで当時の歌番組に頻繁に出演した。こうなると、何かしらサディスティックな快感すら芽生えてくるというものじゃないだろうか。それにひとしきり稼げば、どうせ解散だ、という不埒な意識も頭にあったかもしれない。どんな歌番組かといえば、「ザ・ベストテン」(TBS)、「ザ・トップテン」(日テレ)、そして今聞くとかなり恥ずかしい番組名の「レッツ・ゴー・ヤング」・・・・・いかにも日本の80年代の香りプンプンでございます。
「『浮気なぼくら』とかのPOP路線は、お遊びだったので、あまりやる意味がなかった。しかし、あの時点ではああでもしなかったら、息がつまりそうだった。無理に遊ぼうとしていたんだ。」(坂本龍一。98年。コンパクトYMO。)
一方、まさかYMOの解散が近づいているというムードは、受けて側には依然として伝わって来なかった。確かにYMO解散説はあったかもしれないが、それはあくまでワイドショーの芸能ニュース的な取り上げ方で、内実とは程遠かった。僕も当時は、単純にまだまだずっとYMOは続くものだと思っていた、というか解散という発想そのものがなかった。しかし、当のメンバーの意識の中では、すでに解散は秒読み段階だったのだ。すべては、後年の彼らの証言によって明らかになったことである。かくの如く「他者」というものは、不可解なもので、偶像化は虚しいばかりである。

●1983年06/20 坂本龍一 アルバム「アベック・ピアノ」(思索社)発表
「戦場のメーリークリスマス」のピアノ編曲版。カセットのみで発売。やはり坂本龍一という人は、基本的にピアノ(鍵盤楽器)から音楽を発想するミュージシャンである。ギターをかかえて、コードをいじりながら曲を作っていくロック・バンドとは違う。そこが、基本的にはバック・グラウンドにロックをもつニューウェーヴ諸派とYMOの決定的な違いだ。
【註】画像はLP盤のもの。
●1983年6/25 高橋幸宏 シングル「前兆」(\EN)発表
僕はYMO散開後の作品より、\ENの頃の彼の作品が好きだ。完成度が高い。すっかり彼独自のテクノポップを確立した安定感がある。時折行われる昔のニューウェーヴな連中とのコラボレーションには、少し面白みを感じるが、やはり一種の懐古趣味かもしれない。

●1983年7/27 シングル 「過激な淑女」発表
●同日 アルバム「浮気なぼくら〜インストルメンタル」発表
「過激な淑女」はデモの段階で中森明菜側に提示するも、ボツ。果たして、中森側スタッフの判断は正しかったのか。YMOとしては、シングル「君に胸キュン」に続く、アイドル路線第2段というわけだが、優良な定番テクノ歌謡だ。しかし、早くも大衆はこの遊戯に冷めつつあった。ちなみに、YMOのテクノ歌謡を正統的に継いだのは、テイ・トウワぐらいだろう。「ナウロマンティック」、「デュエット」など....。「ナウロマンティック」という曲名は、明らかに高橋幸宏のアルバム「ニウロマンティック」のパロディーだし、「デュエット」のベース・ラインは意図的に幸宏ベースだ。
●1983年8/1 細野晴臣作曲の松田聖子のシングル「ガラスの林檎」初登場1位
細野晴臣は、正統派アイドルだった頃の松田聖子や中森明菜の全盛期を支えた主要な作曲家である。当時を知らない人には意外に思えるかもしれないけど、ホント。同月10日には中森明菜のアルバム(NEW AKINA〜エトランゼ)を作曲している。しかも、純然たるテクノ歌謡じゃない。ここでは、日本的な歌謡曲作曲家の感性を持ち合わせた細野の別の顔が覗いている。彼は鬼才ではない。
●1983年6/13 『YUKIHIRO TOUR 1983』スタート
ツアー・メンバーとして、鈴木慶一(キーボード)、立花ハジメ(サックス)、ビル・ネルソン(ギター)、そして散開コンサートにゲスト出演することになるデビット・パーマー(ドラムス)らが参加。
「ツアー・スケジュール」
6/13 箱根自然公園
6/15 東京渋谷公会堂
6/16 東京渋谷公会堂
6/18 大阪城野外音楽堂
6/20 東京渋谷公会堂
●1983年6/25 高橋幸宏 ソロ・アルバム「薔薇の明日」(\EN)発表
\ENレーベルは専用のスタジオをもち、所属のミュージシャンならいつでも音楽作業をすることができた。これは、細野晴臣の発案によるものであった。
●1983年9/1 加藤和彦 アルバム「あの頃、マリーローランサン」発売
高橋幸宏プロデュース。
●1983年9/21 坂本龍一、作曲・編曲による飯島真理のアルバム「ロゼ」発売
●1983年9/28 YMO シングル「以心電信」(\EN)発表
現役のYMOとしては、最後のシングル。
●1983年10/11 坂本龍一のサウンド・ストリートで、初めて「散開」がほのめかされる。
僕は、今ひとつなんのことやらピンとこなかった・・・・・。「散開」という言葉は、軍隊などで使われる言い回し。YMOのそもそもの始まりが、従来のバンドの概念とは違った、むしろセッションに近いものであったことから、集散を激しく繰り返して作戦を遂行する様子にちなんで、この言葉が冠された。僕なんかは、「散開」が軍事用語なら、軍隊の鉄の団結があるはずじゃん、とツッコみたくなるけど(笑)
●1983年10/15 雑誌「GORO」のインタビューでYMO散開に言及。
●1983年10/19 高橋幸宏のオールナイト・ニッポンにメンバーが集結し、「散開」を宣言。
僕もそうだったが、たぶんこの放送でYMOファンの多くがやっと事態を飲み込めたのじゃないだろうか。一連の「散開」表明での3人は、妙にはしゃいでいて、軽い躁状態のように見受けられた。しかしながら、複雑さをはらんだはしゃぎ振りだった。「散開ってなんですか?」「開散(解散)の反対じゃないですか?(笑)」などとおどけたり、あるいは、高橋幸宏が「なんでも無くなると悲しいもんです。たとえば、ここにコップがあったとする。それを隠すと・・・・」すると細野、坂本が「おお!なんか悲しい。」と大げさにリアクションしてみるといった具合で、とにかく深刻になれない人達だった(^^;;解散の仕方もYMOだった。
例えばである。日本のバンドの解散によくある風景・・・・ライブ・コンサートも佳境を越えたところで、照明が落とされ、熱狂していたオーディエンスが何事かと見守るなか、舞台中央でピンスポに照らし出されたボーカリストがおもむろにマイクをスタンドからはずして握りしめる.....しばし会場全体が重い沈黙に覆われる....意を決したようにボーカリストが解散を告げる、オーディエンスのどよめき、そしてファン達の悲鳴にも似た叫び「やめないでー!」、バンドは告別の言葉の代わりにバラードを熱唱!涙の大合唱・・・・・・・・
あなたは、そんなYMOを想像できるだろうか?ど〜ん!
YMOは決してそうのように振舞わない、それはYMOの「美学」に反するものである。それならば、その「美学」みたいなものを支えていたのは、どんな時代精神だったのか?・・・・・
さて、YMO散開に際して、当時の彼らは極めて平静だった。いや平静を装っていた。実際には、言葉では表現できないような動揺や葛藤をそれぞれの形で内に秘めていたと思う。そうした内面での動揺や葛藤が大きければ大きいほど、表向きは、ことさらに平静さを強調する発言となった。YMOというビックネームをこともなげに手放して、ケロリとした顔をしてみる。それは、青年らしいダンディズムだし、なにより内面の危機に対する心理的な防衛だったと思う。『僕は、散開に関してなんの思い入れもないの。』(83年12月)と語っていた細野晴臣が、93年の再生YMOでは、『(再生YMOは)YMOを本当に終わらせるための儀式だった。』と感想をもらし、如何にYMOの呪縛が長いものであったか、を告白することになる。
たぶん、一番最初にYMOを客観的に評価できた、つまりはYMOから自由になったのは、才能に抜群の飛翔力をもつ坂本龍一だったと思うが、その彼ですら次のようにコメントした。
『YMOがあった時間は、ぼくのソロはアンチテーゼとしての意味から、ある種の過激さを刻み込むのを楽にできた。YMOの解散以降は、アンチテーゼの対象を失って、宙ずりの状態になった。その苦しみから「音楽図鑑」をつくった。』(98年。コンパクトYMO)
重みのある言葉である。「アンチテーゼ」とは、如何にも坂本龍一らしい関わり方で、細野晴臣のようなストレートな執着とは違う。しかし、YMOを失って初めて、それが如何に巨大な存在だったか、いやというほど知らされたという点では変わりない。僕が一貫して思うのは、当時、発言の上では如何にも冷静にYMOをドライブしているかのような3人のメンバー自身も、強力な現象としてのYMOに巻き込まれていたのだ、ということだ。そこでは、彼ら特有のけなげな個人主義的な抵抗も解消され、飲み込まれてしまっている。なんだかそら恐ろしいが、しかし、同時にそれはYMOが、業界自作自演の陳腐な出来合いのストーリーではなく、本物の「新体験」であったことの証しでもある。我々は実に幸運であった。心底酔うに足る「体験」などそうやすやすとあるものじゃない。
●1983年10/21 坂本の作曲・編曲による大貫妙子のアルバム「シニフィエ」発売
こういうアルバムは、僕にとっては、もうほとんど教授のソロ・アルバムのようだった。「プロデュース」という位置からやる時の坂本龍一の音楽は、純然たるソロとはまた違った、解放感があって素敵なのだ。
●1983年10/26 細野晴臣プロデュースによる越美晴のアルバム「チュチュ」(\EN)発売
●1983年11/1 大村憲司 アルバム「外人天国」(EPICソニー)発表
坂本龍一プロデュース。大村憲司氏は、YMOファンに最も愛されたギタリストだったが、98年11月18日逝去された。命つきるまで、ギタリストとして精進された姿はミュージシャンの鏡である。とかくマスコミ的な派手さとは無縁の場所にこそ真の深さをもったミュージシャンがいるものだ。我々は注意深くなければ、彼らを見失う。それは大変な損失だ。
●1983年11/12 細野晴臣、映画「居酒屋兆治」に俳優として出演
役柄は市役所の役人。確か、幸宏のオールナイト・ニッポンだと思うが、「誰かさんみたいに最初から主役なんてやらない。」と冗談めかして言っていた(笑)
●1983年11/18 高橋幸宏 ビデオ「ボーイズ・ウィル・ビー・ボーイズ」発売
『YUKIHIRO TOUR 1983』のビデオ化。
(5/2 '99 第1稿 脱稿。)
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