13.虚像と戯れ・第3期

『YMOはもうやめようということでした。82年。YMOのかわりに\ENレーベルを細野さんと立ち上げたんです。』 (高橋幸宏。'98 2/10)

さて、ウィンター・ライブ終了後、「YMOを休止しよう」という確認があったその後の彼らの活動について、「YMO」という主体を設定して話を進めることは少々気がひける思いがする。少なくとも、その頃の彼らは、もはやYMOに純粋な意味では新たな可能性を見出すことはできないと思っていた。そして発足当初の強力な求心力は失われていた。勢い各々の興味に導かれるままに他のミュージシャンと交流したり、日本の歌謡界に曲を提供したりと、ソロ活動が多くなる。落合う時は、YMOのメンバーとしてというよりも、親しい演奏者として、あるいは編曲者として共同作業をするという具合。

YMOというバンドに可能性を見出せなかったとはいえ、すぐさまメンバー各自にそれに変わり得るような強力なモチベーションが登場したというわけでもなかったようで、この時期は、まことに宙ぶらりんな状況であったに違いない。しかし、一般論からいっても、様々の幸運な条件が整って、100%充実した時間を過ごす機会は、むしろ極少ない。大半は「待機」の時間だ。

とても察しがよく(よすぎる・・・・)、頭のいい彼らは「待つ」ということが苦手だったのではないか。その並外れた察しのよさが、日本人離れのした洗練された音楽を生み出すことを可能にしたわけだが、それがちょっとした兆候に対しても過敏に反応してしまう、という一種の弱さとして表出する危うさを持ち合わせていたと言えないだろうか。それは全ての前衛の危うさだ。

日本のミュージック・シーンに限ってみても、YMOよりもずっと長く続いたバンドはいくらでもある。そして、彼らも常に高いテンションを維持し得たわけではないだろう。何度も停滞やなかだるみのような時期をやり過ごしたに違いない。適度に流行のフレーズを織り混ぜつつ技量のみで機械的に曲を作ったりして。常に新境地を開くことなど誰人にも不可能なのだから。それでも、そうやってしのいでいると、ある日突然、思いもよらないインスピレーションを受けるなんてこともあるだろう。ひとつのバンドの全アルバムを通して分析的に聴いていくと、しばしばそうしたテンションの波みたいなものが総覧できて興味深いものだ。それにしても、バンドとして求心力を失った時期に、解散してしまうミュージシャンと踏みとどまるミュージシャンでは、何が違うのだろうか・・・・・・ 

とはいえ、あくまで「休止」(この表現に関しては珍しく(笑)メンバーの発言に一致がみられる。)という控えめな表現が示すように、82年初頭の段階では、まだメンバー間には明確なかたちで「解散」の意志は固まっていなかったと思う。(たぶんね。)2度に渡るワールド・ツアーの成功と内面の葛藤を「BGM」「テクノデリック」という傑作に昇華させた余熱が、まだ3人を覆っていた。一方、ほとんどファンはこの時点ではYMOが解散をも想定していたなどと想像だにしてなかった。そういうわけで(どういうわけだか(^^;;・・・・)、81年末に行われたウィンター・ライブあたり以降を便宜上、第3期目と区分したい。このようにYMOの音楽活動を3期に分けるのは慣例だが。

僕としては、実体としては休止状態でありながら、メンバー間の中になお残る余熱やレコード会社との契約上の拘束、そしてファンを含めた受けて側(強大なマーケットなど。)の幻想によってふらふらと中空に漂うようなYMOを「虚像としてのYMO」とイメージしてみた。そして、その「虚像」をしばし演ずることを強いられた当のメンバーは、少々シニカルにしてヤケクソ気味な戯れに興じた。なんだか不真面目にみえるが、チャカしていなければ、当事者の思惑とは無関係に歩き出したフランケンシュタインのような「虚像としてのYMO」にいつ踏みつぶされるとも知れなかったのだ。このような奇怪な状況に置かれたメンバーの奇矯な振る舞いは、今振り返ってみると、これはこれで結構興味深い。めったに見れないものだ。マーケット的に成功したミュージシャンというのは、十中八九、ハナから安手の「幻影」そのものであり、そこからズレまいと自ら勤めるものだから。

●1981年 12/5 ビートニクス 「出口主義」発表。
ビートニクスとは、高橋幸宏と鈴木慶一のユニット名。全曲カッコイイっす。鈴木慶一ってテクノ・ポップな曲やらせてもうまいんだなーとしみじみ思った。94年に「The Beatniks Another High Exit」という変なリミックス・アルバムが出た。特別に面白いものじゃなかったけど。ところで、ムーンライダーズはバンドとしての息の長さは驚異だ

●1982年 2/14 シングル「い・け・な・いルージュマジック」発表。
坂本龍一とRCサクセションの忌野清志朗のユニットによるあだ花的シングル・・・・・・いや、とは言いきれない。僕には、坂本龍一ひいては、YMOの問題点と密接に関係があるように思えてならない。そもそも坂本龍一が忌野清志朗とのユニットを望んだのは、ライブコンサートでの忌野清志朗の自在なライブ・パフォーマンスに強い憧憬の念を抱いたからだ。オーディエンスと一体になって、興の赴くままにステージで暴れ回り熱唱する忌野清志朗。それに比べてほとんど直立不動で、オーディエンスとは一定の距離(隔たり)をおく、YMOの自閉症気味の演奏スタイル。これは、少なからず冷たい印象を与える。坂本龍一が”忌野清志朗のように”、と夢想するのも無理はない。

テレビ画面には、派手な衣装を身にまとい、メイクをして忌野清志朗とオープンなパフォーマンスを試みるビジュアル系(笑)の坂本龍一がいた。しかし、如何せん坂本龍一のエンターテイナーとしての素質は乏しいと言わざるを得ない。正直なところやはり取ってつけたような、不自然な印象は拭い去ることはできなかった。「テクノドン・ライブ」のアンコールで見せた坂本龍一のエンターテイナーらしいアクションは、散開後ステージを繰り返す中で、彼が努力して身につけたものだろう。(ちなみに細野さんは変わってなかったね(笑))

●1982年 5/2 細野晴臣 ソロ・アルバム「フィルハーモニー」発表
●同日   立花ハジメ 「H」発表
これらは、細野と高橋が発起人となって設立された「\ENレーベル」からリリースされた最初のアルバム。このレーベルは、日本では珍しく真にユニークな音楽とミュージシャンをたくさん生むこととなった。日本歌謡界のヒットメーカーとしての細野晴臣は、キャッチーなテクノ歌謡の作り手だが、ソロ・アルバム「フィルハーモニー」では細野個人の音楽的な志向性を追求するものとなっている。(当たり前か。)そこではYMOのメンバーとしての彼とはまた違った顔を覗かせている。さらにニューウェーブの影響が色濃く反映されがちな当時の高橋のソロ・アルバムに比べると、「フィルハーモニー」はほとんど独立独歩か、もしくは視線が「周縁」の方に向いているといった印象だ。

アルバム中の曲では、「テクノデリック」で開眼したサンプリングもより高度に多用されていてる。しかし、それは現在よく耳にする使い方とは違って、まるでコラージュのようだ。たとえば「Birthday Party」などは、耳慣れないためどこがいいのかわからなかったが、聴いているうちに彼のねらいが次第に了解されてくる。すると断然面白く感ずるようになった。(これはいわば音楽のコラージュだと思う。教授のエスペラントとかも。)お気に入りの曲の「約束された快楽」を反芻するのもいいが、こんな時は、深いところでその音楽家と心を通わせることができたような大きな喜びが伴うものだ。「フニクリ・フニクラ」は、ワールド・ツアーの移動中のバスの中でみんなでたびたび合唱したという思い出の曲。「Sports Men」・・・・・これはみんな好きだよね。このアルバムも面白いことが盛りだくさんで、思いつくまま話すと長くなっちまうので、この辺で・・・・・

立花ハジメについて。良く言えば切れ者、悪く言えば観念先行、理屈っぽい。そして、ともかく器用な人。作曲・編曲、サックス等の楽器演奏、CG、ビデオクリップ、造詣美術、評論などなど・・・なんでもこなす。(NHKの料理番組に出演したことがあったが、料理もうまかった!)バンドとしての海外進出もYMOより早い。下手すると器用貧乏。でも、現代ではマルチクリエイターやらパフォーマー(ヨーゼフ・ボイスのような)として、彼のような存在形態を認めるむきがあるので、いいじゃんという気もする。当時としては、YMOのよき理解者にして無類のYMO批評家だったと思う。サンストにゲスト出演しては、教授にチャチャ入れられるのにもめげず、自作についての薀蓄をとうとうと垂れたものだ。


●1982年 6/21 高橋幸宏 ソロ・アルバム「ホワット・ミー・ウォリー?」(\EN)発表。

●同日  坂本龍一 ロビン・スコット 12インチシングル 「ザ・アレンジメント」発表。

●同日(土屋昌巳 アルバム「ライス・ミュージック」発表。/ゲルニカ アルバム「改 造への躍動」発表。)

ニューウェーブな高橋幸宏。
”ぼく、だいじょうぶ”のレコーディングは、ロンドンで行われた。前作の「ニウロマンティック」(ネーミングがストレートっす(^^;;)といい、この頃の高橋のソロ・アルバムは、ニューウェーブ(これも漠然としたカテゴリーだけど)の本拠地の息吹を胸いっぱい吸って制作されたものだ。実際当時もっとも最先端をいってたのはUKだったと思う。YMOきっての粋人である高橋が80年代初頭までのUKのミュージックシーンに惹かれるのも当然といえる。その上YMOはUKの玄人ミュージシャンからは特別な尊敬を勝ち得ていた。相思相愛で居心地がいいのだ。このアルバムでは、ザイン・グリフ、ビル・ネルソン、トニー・マンスフィールド、ロニーが参加している。教授が提供した曲「フラッシュバック」は、反則気味(@@)

ロビン・スコットと教授のユニットによる「ザ・アレンジメント」。ロビン・スコットは、エイドリアン・ブリューらと共に坂本龍一のソロ・アルバムに参加したミュージシャン。そんでもって12インチシングル「ザ・アレンジメント」に収録された曲は、サ・アレンジメント以外は「左うでの夢」からピックアップし、リメイクしたものだ。こちらは英語のヴォーカルが入っている。このヴォーカルがこれといって冴えたところのない脳天気な出来映え。などとストレートに文句を言っちゃうのは、坂本自身がサンストで「サ・アレンジメント」の仕上がりに苦言を呈していたからだ(笑)殊に「ザ・アレンジメント」の方は、立花ハジメに提供したヴァージョンの方がいいと明言していた。おそらく、こちらの方は、専らロビン・スコット主導で制作されたのだろう。現在では「アレンジメント+シングルズ」などというタイトルでCDが販売されてる。この組み合わせ、無茶苦茶ですがなぁ〜〜

一風堂の土屋昌巳。「センプテンバー・ラブ」で大ブレイク。アルバム「ライス・ミュージック」では、教授が作曲・編曲を手がけた。ジャパンの最後のワールド・ツアーでは、ギタリストとして参加。現在も活動拠点はUK。現在の彼の活動の詳細については、よく知らない。レコード店行くと元ジャパンのメンバーなんかと制作したアルバムを発見したりする。今度聴いてみっかな。ゲルニカ・・・・・・苦手(^^;; 細野さんが一時大変な入れ込みようで、戸川 純は天才とか言っていた。アルバム「改造への躍動」も細野さんがプロデュース。

●1982年 6/22 「高橋幸宏TOUR1982」スタート
ソロとしては最初の全国規模のツアー。全国主要都市を含む15ヶ所で公演された。教授なんかも不定期にB2-Unitライブをやっていたらしいが、全国ツアーを立ち上げたのは高橋が最初だ。参加メンバー。細野晴臣(ベース&キーボード)。立花ハジメ(ギター&サックス)。土屋昌巳(ギター)。スティーブ・ジャンセン(ドラムス)。豪華メンバーであり、この頃の高橋幸宏には非常に勢いがある。で、どうもいよいよドラム離れが進んでいたように思う。そこには単なるいちドラマーでは終わりたくないという意識が働いていように感ずる。(体格的に向いてない、という高橋自身の言い訳にはあまり説得力がない。)ところが、はっきり言ってしまえば、高橋幸宏が細野や坂本ほどメロディー・メーカーとしての資質をもっているとは言いがたい。

そして、人は自分自身の資質に殉じて初めて、何ものかたり得るのではないだろうか。僕は、例えば、故・大村憲司氏のように自分の資質をよくわきまえ、一生をギター演奏の向上に捧げた人の方が、華やかさはなくとも音楽家として深さがあり、幸福だったのではないかと思う。僕には、ドラムを疎かにし始めた高橋幸宏のその後の音楽活動は、どうも中途半端な気がしてしょうがない。「なによりもまずオレはドラマーだ」と覚悟を決めるべきだったように思えてならない。まあ、これは僕の勝手な世迷い言だが・・・・・・

●1982年 8/21 坂本龍一、戦場メリの撮影のためクック諸島のラロトンガ島へ出発
大きな運命の分岐点だ!
ここから教授の映画音楽作曲家としてのキャリアが始まる、そして「浮気なぼくら」のジャケットの彼はなぜに角刈りなのか?という謎も解ける(^^;;

●1982年 9/5 坂本龍一、デヴィッド・シルビアン シングル「バンブー・ミュージック」発表。
「バンブー・ハウス」でのスティーブ・ジャンセンのパーカッションのプログラミングの緻密さは一見(一聴)に値する!CDで入手可。

●1982年 9/15 NHK-FMで「高橋幸宏TOUR1982」をオン・エア
7月26日、東京厚生年金会館の模様。坂本龍一、鈴木慶一、加藤和彦、デヴィッド・シルビアンがゲスト出演した日だ。観客の喚声が一層大きくならざるをえないメンバーだ。

YMO休止とは言え、各メンバーとも実によく働いている。ここに書いているイベントは、エポック・メーキングなものをピックアップしたものに過ぎない。データベースを仔細に見ていくとその活動量の多さ、多様さに驚かされる。さぞかし超多忙なスケジュールをこなしていたのだろう。

\ENレーベルでの新しい才能の発掘、アイドルへの曲提供など一番ヴァリエーションに富んでいた細野晴臣のフットワークの軽さ。UKのニューウェーブやその残党らとのセッションに余念のない高橋幸宏。未だ音楽家志望への必然的な動機不在という感覚を引きずっていた坂本龍一は、矢野顕子や大貫妙子など玄人ミュージシャンに「プロデュース」という場を与えられてはじめて、自由自在な楽想の奔放を誇っている。
(第1稿 '99 3/11脱稿)

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