6「公的抑圧!?」

第一回目のワールドツアーを終えて帰国してみると、彼らは、 専ら歌謡曲を聴いていた聴衆、つまりは当時の大多数の日本人からも熱狂的に受け入れられるバンドのひとつになっていた。 具体的には、ヒットチャートの上位をYMOのシングルやアルバムが占めるようになっていた。 アルバム「ソリット・ステイト・サバイバー」なんかも、尻上がりに売り上げを延ばして、 ついには80年に日本で一番売れたレコードとなったのだ。(この尻上がりというところが味噌である。)

なにしろ、この年YMOのアルバム全体としては、 引退フィーバーに湧く国民的な人気を誇っていた山口百恵を抑えてのレコードセールストップであるから、その加熱振りを察して余りある。 80年こそは、YMOが最も「大衆」と共にあった年である。 ただ、この年の初め既に彼らの複雑な胸中を示すかのような題名のアルバムが発表された。 (しかもジャケットに映し出されたメンバーの写真は、逆さまになっていて意味ありげ。) 「Public Pressure=公的抑圧」である。

public presure
●1980年3月21日:アルバム「PUBLIC PRESSURE・公的抑圧」発表。
YMOが直接関わったLiveアルバムは、再生YMOを除けば、これと「アフターサーヴィス」の二枚だけ。 昨今、充実してきたYMOのLIVE音源のほとんどが、 YMOブーム再燃に煽られるかたちで発売されたのものだ。再放送時にやっと受容されるテレビ番組みたいで、 面白い。とは言え、このアルバムもヒットチャート一位に輝いた。

公的抑圧、その心は?、「少々不本意ながら、請われるままに作ってみました。お気に召しましたかな?」さらにマジで受け取り、僕なりに読み解けば、 大衆という巨大な意識の総体が「YMOはかくかくしかじかのものである。」という単純で固定した共同イメージを生み出し、 彼らにそうしたイメージに沿うように振る舞うことを期待(←抑圧?)し始め、一方、メンバーの方では、それを苦痛に感ずるようになった、といったところだろうか。 その鬱屈は、ついにはアルバム「BGM」に始まる大転換(大衆のYMOに対するイメージへの肩すかし)となって噴出するが、 それはもう少し後の話。

『一位か,,,,,,,,,,。今まで、こうゆう状態に縁がなかったからなあ。すごいなあと思うだけで、つかみどころがなくて。 もちろん売るつもりでやったことだから、こうなるのは本望ですけど。』細野晴臣。

『好きなことやって、今まで売れたためしがなかったのに今回は売れた。すると、 もしかして知らないうちに好きじゃないことをやったんじゃないかという疑問が湧いてくる。 そこでそうじゃない。やっぱりやりたかったことで売れたんだと思おうとする。(中略) もっと感激があると思ってたけど,,,,,,,,,,,。』
高橋幸宏。(共に80年3月)
ナイーヴ。20代特有の矜持と過敏さというか。

当時の彼らに近い年齢となった僕の率直な感想としては、そうした大衆によるレッテル貼りみたいなことは、 毎度のことである程度はしょうがないんだから、適当に受け流したらいいのにと思う。 淡々とマイペースで行ったらいいんで、彼らは情況に対して少し過敏に反応しすぎたのではないだろうか。

現在のメンバーにはこうした情況への過剰反応というものはあまり見られないように思う。 教授なんかも今では、中心はデンと構えながら、めまぐるしい時代の変化と積極的に関わるのを楽しんでいるような余裕を感じる。 年の功かな。オトナになった? そんなわけで、今の僕は当時のYMOの情況への一連の慨嘆についても特別に深刻には受け取ったりはしない。 とにかくいい音楽をください、という感じだ。

「PUBLIC PURESSURE」発表直後の3月にフジカセットのポスターにYMOが初めて起用されている。 YMOがフジカセットと契約を交わしたのはこの前後だろう。

周知のように、この第一回目のワールドツアーにギターリストとして参加した渡辺香津美の 在籍レコード会社(日本コロンビア)の許可がおりなかったためにギターのチャンネルがカットされている。 その空隙を埋める形で、坂本龍一のキーボードプレイがスタジオで録音されて付けくわえられた。 ライブ感は、稀薄であるが、キャチィーなフレーズが次から次ぎへと出てくるので、 初めから抵抗無く受け入れられるし、熱狂できる。 殊に「The End Of Asia」のソロは圧巻である。 しかし、すぐに好きになった心地いいだけの音楽は、往々にして飽きがくるのも、また早い。 (ライブ感が稀薄で、とってつけたような感じを否めないことも災いしたように思う。)

僕としては、レコーディング時にあまりいじってなさそうな「Cosmic Surfin'」を1番の名演として挙げたい。 「Cosmic Surfin'」という曲は、不思議な曲で、アルバム「イエローマジック・オーケストラ」でその原形が発想されて、 Live時のアレンジで完成したみたいな印象がある。
【註】これは誤りであった。「Cosmic Surfin'」の初出は、1978年に発表された初期のフュージョン・アルバム『Pacific』で、これがその後YMOのライブで演奏される「Cosmic Surfin'」の原形と捉えるのが妥当のようである。むしろアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』に収録されたものが異色すぎたのだ。この事実はメールで、ご指摘をいただくことによって明らかになった。現在、このアルバムは、CD選書シリーズに収められ、入手可能である。

●1980年3/21:初の全国ツアー『テクノポリス2000-20』開始
4/15まで、全国主要都市で公演。 日本でもすっかりメジャーバンドとして定着したYMO。この日本向けのコンサートでは、 1978年の紀ノ国屋LIVEのような戸惑いは見られなかっただろう。「凱旋コンサート」というムードもあったかもしれない。 YMOのゲストとしては、ここで初めて大村憲二登場。 さらに、現在教授ラインの情報でとみに名前が出てくるキーボーディストの橋本一子。 僕の知見の限りでは、このツアーに関する音源は皆無。ほしいなり。しかし、YMOって国内ツアーより先に世界ツアーやったのかぁ。変わってるよなぁ―。

〜 全国ツアー・スケジュール 〜
1980年 3月21日:愛知県民勤労会館
3月31日:宮城市民会館
4月 1日:秋田県民会館
4月 4日:広島郵便貯金会館
4月 5日:福岡市民会館
4月 7日:大阪毎日ホール
4月 8日:大阪毎日ホール
4月 9日:神戸国際ホール
4月11日:京都会館
4月12日:東京NHKホール
4月15日:札幌厚生年金会館

〜 イベントとの合体で行われたLive 〜
4月23日:「YMOサーカス/写楽 IN 武道館」
5月26日:「FM東京開局10周年記念コンサート」新宿厚生年金ホール

【演奏曲目】
1.(曲名不明)/2.ビハインド・ザマスク/3.中国女/4.ライディーン/5.ラジオ・ジャンク/ 6.ナイス・エイジ/7.ソリッド・ステイト・サヴァイバー/8.デイ・トリッパー/9.ファイヤー・クラッカー/ 10.キャスタリア/11.テクノポリス/12.ジ・エンド・オブ・エイジア/13.シチズンズ・オブ・サイエンス/14.千のナイフ/ 15.東風/16.コズミック・サーフィン/17.コア・オブ・エデン/ 18.2声のインヴェンション(曲順は、神戸国際ホールの場合。)

こうしてみていくと、第一回ワールドツアー(79年11月)以降より、 第2回ワールドツアーまでは、選曲はもとより演出を考慮した演奏曲目の並べ方も大差はない、 と言っていいのではないだろうか。 第一回ワールドツアーで試行されたスタイルを演奏を繰り返すごとに熟成していき、 二回目のワールドツアー(とりわけ武道館でのLive)で高度に完成させたとみることも可能かもしれない。 アルバムBGM以前のYMOを「第1期」と規定する場合があるが肯けるところもある。 確かに、Liveスタイルひとつをとっても、ひとかたまりの活動として括れる印象があるからだ。

( 第1稿 )

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