5.「東洋の国からの突然変異体。〜第一回ワールドツアー〜」
『1980年、長い間息をとめていた一年でした。』(高橋幸宏、CD「World
Tour 1980」のライナーノーツより。)
大まかに言って前後二回にわたるワールドツアーの最中、YMOのメンバーは様々な発言を残しているが、 この高橋幸宏の言葉が、ツアー中に彼らを取り巻いていた状況と彼らの心境を端的にまた適切に表現しているように思う。
ワールドツアーのスケジュールを見るとよくわかるのだけれど、 彼らは実に驚くべき短期日でアメリカとヨーロッパの主要都市を回っている。 ワールドツアー中のメンバーの発言には、
勤めて自身の置かれた状況を冷静に客観視ししようというものが多い。無理もない。 巨大な社会現象の猛威の中で、それは、 必死に自分自身を見失うまいとする彼らのけなげな抵抗の痕跡なのだ。
それはまるで一夜のうちに、一生の出来事を体験する夢でもみているような感じだったかもしれない。 そして、それは名声や喝采の常として、事実つかみどころのない「夢」のような出来事だったのかもしれない
YMOは、結成当初から明確に「全世界へ」という志向性を持って生まれたバンドだ。 79年2月に結成されてから、
はやくも半年後の8月ロスのグリークシアター公演で最初の一歩が踏み出され、 間隙を置かず二ヶ月後、一回目のワールドツアー(トランスアトランティックツアー)へ突入する。
さらに、翌年には再びワールドツアー(ワールドツアー’80)を行う。 この頃のYMOの活動のテンポたるや、(不眠不休?)電撃的な速力である。
いろんな国の聴衆やミュージシャンとの触れ合いは、大きな喜びとインスピレーションを彼らにもたらしたことだろう。
YMOは、海外(専ら欧米を指す)でも「ウケた」た。だからエライということにはならないけれど、単に騒がれただけではなくて、 海外の多くのミュージシャンがYMOから「明日の音楽」へのヒントを与えられ、
海外の多くの若者がYMOに触発されて優れたバンドをつくった。(YMOは玄人好みなのだ。) この点は、結構エライのでは。 こうした種類のバンドが日本のミュージックシーンから出現したのは初めてだ。
また、もう一つの視点からみると、YMOは、海外でウケたからすごいというよりも、 海外でこそウケてしまうタイプのバンドだったという言い方もできる。
例えば、サザンやユーミンのような一流のミュージシャンは、 USやUKのヒットチャートの上位を占めているミュージシャンと実力において全く遜色ないどころか、
USやUKの凡百のへなちょこミュージシャンよりずっと優れている。
しかし、サザンもユーミンも海外では受け入れられないだろう。(その必要も感じてないだろうが) それは、SOUNDの表層部分の手触りがあまりに日本人好みにつくられていて,海外の聴衆には合わないからだ。
ところが、YMOの場合、 日本の「大衆」のSOUNDの手触りの好みみたいなものにあまり気を配らなかったように感じられる。
この点が日本におけるYMO受容に、単純ならざる齟齬が生じた原因のひとつともなったわけだが。
●1979年10/13 「トランスアトランティックツアー」(一回目のワールドツアー)に出発
メンバーのみならず、日本人側の技術スタッフにとっても本格的なワールドツアー初体験。 しかも、シンセやコンピュータを中心とした電子音楽バンドの。機材の数たるや百点以上。
手本はない。ノウハウは自ら発明していかなければならなかった。
心配のタネはつきなかっただろう。 この冒険的な欧米行脚に踏み切ったのは、若さのなせるわざだろうか。
ツアースケジュール
1979年
10月12日:新東京国際空港を出発
10月16日:イギリス、ロンドン〜ヴェニュー公演
10月18日:フランス、パリ〜ル=パレス公演
10月20日:フランスのTVショー「コーラス」に出演
10月22日:ドイツ〜ラジオ=ルクセンブルクで公開Live
10月24日:イギリス、ロンドン〜ヴェニュー公演
10月30日:アメリカ。リハーサル
11月 1日:アメリカ、ニューヨーク〜ハラー公演(二回)
11月 不明:アメリカ、フィラデルフィア〜ホット=クラブ公演中止
11月 4日:アメリカ、ワシントンDC〜ザ=バイユー公演
11月 5日:アメリカ、ボストン〜パラダイス=シアター公演
11月 6日:アメリカ、ニューヨーク〜ボトムライン公演
11月 8日:ニューヨーク発。翌日帰国。
12月29日:日本,中野サンプラザ公演
超過密スケジュールである。 さらにLiveの合間には、絶え間なく襲来してくる外国人プレスの取材に対応したり、 各地でミュージシャンや名士のパーティーに出席したりと休む間もなく次々とスケジュールをこなさなければならない。
また、シンセ中心のバンドがコンサートをやることは稀であったため、 各会場でも不慣れで、 電圧が足りなくて機材がちゃんと起動してくれないなど技術面でのトラブルも続出し、
スタッフの苦労も並大抵ではなかった。全てが初めてづくし。 Live自体はもとより、YMOとスタッフ一丸となって、 様々な障壁を乗り越えてワールドツアーを成し遂げていく過程そのものに熱きドラマを感じないではいられない(感涙)
海外各紙の反応。総じて「誤解」しながらも騒いでくれている。(無視されなかった。) 新しいものを認知しようとする時、人がいつもそうするように、
海外のマスコミもYMOを「既存の」バンドとの関連や差異において理解しようとしている。 また、日本の文化に対するいかにも紋切り型の知識をもとに、YMOを認識しようと勤めているところが散見されて興味深い。
ここでは、とりあえずYMOを絶賛した記事はおいといて、面白いもの、困ってしまうものをピックアップしてみよう。
米ニューヨークタイムズ紙。10/5 '79
「アメリカのポップ音楽にとって最近の日本は非常に好ましい市場になっている。 しかし、それに比べて、日本のポップスターを輸入することが大幅に遅れているといえる。
ピンクレディーは日本ですごい成功をおさめている女性デュオだが、 (中略)ディスコ向きにされたアバのように英語でピーピーふたりがさえずっている感じだ。
イエローマジックオーケストラの方が、チャンスが大きいかもしれない。 というのも、このグループが主にインストルメンタルだということが大きく関係している。」
この後YMOは、富田勲のポップ版という話になっていまっている。
英音楽雑誌サウンズ 10/13 '79
「そしてYMOは、たとえ、誰かが4回続けて彼らのコンサートに行ったとしても、 絶対に退屈しないと約束している。 コンサートに行く度にだんだん深いところでコンサートを楽しめるようになるのだという。
仏陀の元で育ったほとんどの日本人にとって、こういった意識の流れは、 わりに自然に出てくるものなのである。」 さらに記事はどういうわけか昨今のヒッピー文化による風俗の乱れに言及、
それに比べて東洋人バンドの意識の流れ(謎?)への自然なアプローチは素晴らしいみたいなことになってくる。
仏ル=モンド紙。10/23 '79
「イエローマジックオーケストラはフランスに登場した最初の日本のロックの代表であったので、 とても期待していた。しかし異国情緒、特異性への期待はすべて裏切られてしまった。」
フランスとYMOの相性は、ほぼ一貫して悪い。 (フランスは、ミッキーマウスとも相性が悪い。そういう御国柄。) フランスのNewMusic関係者は、常にYMOに伝統文化の直接的な反映を要求してきた。
YMOびいきの僕としては、つい「わかっちゃないぇ、君たちは。」と言ってやりたくなる。 この方面では、フランスは実に遅れている。 フランスでは、NewMusicが、ローリングストーンズ的なロックの概念から一向に進展していない。
ここ数年ドイツが、双璧たるイギリスとアメリカに急激な追い上げを見せ、進展めざましい一方で、 未だにフランスのNewMusicが野暮ったいのは、
こうした発想の後進性がひとつの原因といえるかもしれない。 ドビュッシーを生んだ国なのに!英雄は疲れた?
以上三つのケースを挙げてみたけれども、 当時は(今でもだが)欧米諸国にとって日本はまだまだ遠い国だったんだなあ、 という感慨を改めて抱かずにはおれない。「極東」ということなんだ。
現在では、西洋も東洋も先進諸国では、音楽的環境に大きな違いはない。 アメリカ人も日本人も韓国人もロシア人もマイケル=ジャクソンの話をできるという御時世だ。
殊に、日本では、 「ビートルズ」来日よりずっと前から西洋のNewMusicを受容する環境は既に整っていたのに、 そういうことを想像することは、欧米人には難しいかもしれない。
僕なんかの世代は、欧米のポップミュージックを求めた、というよりも生まれたら、既にそこにあっただけだ、というのが実感ではないだろうか。
それはともかく、実は、もっとも悲劇的なことがある。 それは日本人自身のYMO海外進出成功に対する奇怪な反応だ。「ジェラシー!」
日本人のくせに欧米でウケるとはなにごとだみたいな、 いじけきった発言を僕自身聞かされたことがある。 なんという卑屈さだろう。嘔吐!嘔吐! 次世代の日本人の少年少女が、
こうした西洋コンプレックスの極致のようないじけた心性を受け継がぬことを祈らずにおれない。
さて、我々YMOファンにとって、Liveでの最大の関心事は、 演奏される曲がどんなアレンジをされているかであろう。 音色、リズム、テンポの変更。その場ノリに合わせて形をかえていくメロディー。
装飾音の追加等々。オリジナル曲が新しい命を吹き込まれて生まれ変わる瞬間だ。 YMOの場合まず絶対に同じアレンジで演奏するということはない。
各公演で違うのだ。 Liveの模様が、FMラジオやTVでオンエアーされる度にかなりワクワクさせられたものだ。
トランスアトランティックツアーでのアレンジについて。最初聴いた時はすごく大胆だなという印象を受けた。 なにが大胆かといえば、YMOの曲は和声の重厚さが重要な要素となっているわけだが、
そうした部分を、曲の品位を保つ範囲で、バッサリと切り捨ててしまっている点だ。 彼らは、「Live空間での演奏」ということをよく留意していて、「軽快さ」を基調に全てが変更されている。
この潔さが、大胆だと思うのだ。なかなかこんな風にはできない。 やはり、精魂込めて作り上げた和声は可愛いのが普通ではないだろうか。 そこを執着せずに、実に潔く「軽快さ」に徹するとはなんと柔軟な感性の持ち主だろう。
そして、そんな風に才能の出し惜しみをしないとは、なんという才能の充実だろう。
当時の技術的な制約から、あのように軽いアレンジになったのだ、と説明する場合があるが、僕はそれは違うと思う。技術的な制約は確かにあったが、かといって妥協の産物をやむなく提示するということがYMOに関してありうるだろうか?ネガティヴな理由で、申し訳程度にオリジナルの再現を行うだけのライブ公演など、彼らが承服するだろうか?
もし彼らが、あくまでもオリジナルの完全な再現を求めたなら、ちょうどクラフトワークの初期のライブのように、流れを無視して一曲演奏するたびに機材の設定に多くの時間をかける、クラッシックのコンサートのような一種の鑑賞会の形態をとっただろう。
しかし、YMOは、「テクノポップ」なのだ。
ゲストにしちゃあ目立ちすぎると嘆いたファンもいたという渡辺香津美のギターは、 シンセ中心の音楽にはまだ耳が慣れてなかった聴衆のために、当時としては、ぜひとも必要だったろう。
僕個人は、渡辺香津美のギターは嫌いではない。
当時もっとも知られていた、トランスアトランティックツアー時の音源としては、 FM東京でオンエアーされた「ボトムライン公演」とアルバム「パブリックプレッシャー」だろう。
この二つなら僕ももっていた。 当時は専らこのふたつの音源が、トランスアトランティックツアーの全体のムードをつかむ数少ない手がかりだったと思う。
ボトムライン公演についてオンエアーされた曲目をあげてみよう。 キャスタリア、ライディーン、ビハインド・ザ・マスク、レイディオ・ジャンク、ソリット・ステイト・サバイバー、
在広東少年、東風、デイ・トリッパー、中国女、コズミック・サーフィン、ジ・エンド・オブ・アジア以上。
オンエアーされたLiveは、カセットテープに録音するわけだが、デッキによって随分音質に違いがでたものだ。 録音環境の悪さ故に、逆に、妙に面白い演奏に録音されてしまったりもした。
例えば、ボトムラインの東風は、僕にとっては、オンエアーを録音したテープのものが未だにベストだ。 (あと、この頃のYMOのLIVE音源と思われるもので、「サウンドスリート」で流された演奏があるが、
どこの公演やらわからない(^^;;)
【註】
サンストで流された知るひとぞ知るあの一風変わったRydeenや在広東少年の演奏は、 79年パリのものだそうです。メールで教えてくださったKayukawaさん、ありがとう。3,27’98付
90年代のYMOブーム再燃のさなか「Faker Holic 」(ALCA-137〜8)なるアルバムが発売された。 これがトランスアトランティックツアーに関する最新の音源。
二枚組。一枚目は、パリ、ロンドン公演から、二枚目は、ニュヨーク公演から演奏を収録。 全くの初耳というのは少ないけれど、 こうしたものが出るとつい買ってしまうのが元YMOキッズのさがだろうか。(ちなみに、YMOのアルバムはCD化された時全部買い直したなり。アルファレコードよ。
こんな僕にせめて表彰でもしてくれ!)
( 第一稿 )
|