4.「初期の傑作群。初の海外公演。」

●1978年10/18 芝の郵便貯金ホールで初のLIVE
これは公開録音されたらしいが、今日に至るまでその音源は発売されていない。 ただ、同時期にあたる12月の紀ノ国屋ホールでのLIVEは1993年にアルファレコードから発売された。そのライナーノーツには、 結成まもないバンド特有のメジャーバンドへのややこしい道程について詳細に書かれている。 ピンクレディーのヒット曲「ウォンテット」なども演奏された。しかし、録音状況があまりに劣悪。

CDジャケットの帯に「全てはここから始まった」という文句が記してあり、僕はなにもためらわずに手にとってレジへ。いつもながらのアルファのカモぶりである(^^;; ちなみにこのLIVEの正式名は「アルファ・フュージョンフェスティバル」とある。

●1978年11/25 ファーストアルバム「イエローマジックオーケストラ」(オリジナル版)発表
レコーディング中にメジャーレーベルA&Mの販売権が、キングレコードからアルファレコードに変わり、 海外発売実現のチャンスがめぐってくる。


●1979年7/25 「イエローマジックオーケストラ」(US版)全世界発表
7/25というのは日本での発売日。1stアルバムは2種類あるが、完成度はUS版の方が高い。 アル・シュミットがミックスダウンをし直したものだが、むしろ、 メンバーの音楽的な意図が一層よく実現されていると思う。 オリジナルヴァージョンもしくは日本版とよばれる音源は,ちょうど推敲段階の原稿のようであり, 音響面への配慮が稀薄である。 当時は、要領よく音響面をまとめる技術に関してアメリカ側レコーディングスタッフに分があった。ただ, オリジナルヴァージョンの生硬さがいいという意見もあるが、そういうのってなんかあまのじゃくって気がする(^^;;

先行ヴァージョンは、僕がYMOを聴き始めた頃には既に入手困難(プレミアものだったのか?)であったが、この音源は現在ではCD化されている。 僕は,当時は、いわゆる「オリジナルヴァージョン」を聴くことができなかったくちだが、 音が悪いことは知っていたので我慢ができないほどほしいとは思わなかった。 もともと「コレクター」魂もなかったので、完成度の高いUS版で充分だった。

のっけから(1STアルバムから)YMOの突然変異ぶりを明示している。 つまりは根本的に当時のいかなる音楽状況とも無縁の、 全編から新しい音楽の誕生の息吹を放出している。 しかも、当時の日本の音楽シーンを思い浮かべれば、いっそう不思議の感に打たれざる得ない。 当時のメンバーの新しい音楽を産み落としつつある異様な熱狂が伝わってくるようだ。

当初よくクラフトワークやDEVOの名前が引き合いに出され、その影響がどうのこうのなどと評論家がまことしやかに論評したものだが、 単になんらかの蘊蓄を披瀝しなければ評論家としての役割を果たしたことにならない、 といったような思い込みによるたわごとにすぎない。なんで素直に新しい音楽の誕生を喜べないのかねぇーまったく!

やはりまず第一に「耳」を頼りにしなければ、 あるがままの音楽の実体というものはみえてこない。知識は、 「耳」の作業を一層正確にするための補助にすぎない。 ミュージシャンの動向を決定する最大の動機は、やはり「音」と「リズム」だからだ。 二流三流の音楽評論家というものは、 自身の音楽的知識の影響の強さに「耳」が負けているためアーティストにトンチンカンなレッテルを貼って困らせる誠にやっかいな存在である。

「ファイアクラッカー」「東風」。これらは、やはりいつまでも古くならない名曲と言うほかない。わかりやすいので、 軽視されがちなこともあるが愚かなことである。(この点については、次の機会により詳細に語ろうと思う。) また、これらはLIVEの度に違うアレンジをされてきたが、僕にはそれぞれに思い入れがあり、 それらをオリジナルと同じぐらい大きな存在として愛聴してきた。 こうした重いは僕に限らずYMOファンに特有のことであろう。こんなにライブのアレンジを楽しむ音楽ファンも珍しいのではないだろうか。

「ファイアクラッカー」は、一見下手すると能天気な印象を与えかねないが、 前後三回の「サビ」の部分の和声はかなりの胸キュンものだ。 その哀感は、特に2度目のワールドツアーにおけるアレンジで遺憾無く発揮されている。 ああした「ファイアクラッカー」における哀感の強調とは、メンバーのうち誰の趣味だろうか。「ファイアクラッカー」がまた一段と深みを増して迫ってくる。 「Mad Pierot」は、なぜか地味な存在ということになっている。でも実際にはこの曲が好きな人は多い。なぜライブで取り上げなかったのか不思議。

●1979年8/2 ロサンゼルスのグリークシアターで初の海外公演
海外でいきなりメイン !
,,,,,,,,のはずはなくて、チューブス(チューブスって何物?(^^;;)の前座として出演。 聴衆を沸き上がらせ、しまいには、アンコールを求められるほどの大成功をおさめる。 YMOファンの間では伝説的なLIVEだ。 外国人プレスから,少々の「誤解」に基づく質問があったりして, メンバーが神経質になるという局面もあったようだ。欧米人の日本に対する無知ってのは並大抵でない。

それは事件だった。この模様は、テレビのNEWS番組で報道される。当時の日本人には、単なる音楽情報ではなかった。 僕は偶然そのNEWSを視た。 「赤い人民服」に身を包んだYMOのメンバーの演奏を、遠い海の向こうの「外国人」達が熱狂的に迎えていた。 ほんの数十秒の映像だったが、妙に印象に残っている。 「おい!おい!大変だよ。日本のバンドがアメリカで受けちゃってるよ。」 といったような驚きと誇らしさの入り交じったような不思議な雰囲気の報道だった。 当時ほとんどの日本人がYMOの存在を知らなかったのではないかと思う。

なぜ、このLIVEの成功が重要なのかと言えば、YMOがメンバーの自己満足でなく、 聴衆とりわけ耳のこえた海外の聴衆に「受ける」という事実が確認できたからだろう。 メンバーにとっては、海外進出への確かな手応えを得ただろう。日本でも既にLIVEを行っていたが、 日本の聴衆は、どちらかと言えば戸惑うことが多かったことを思えば、 グリークシアターでの成功は一層重要な意味をもっていた。 YMOは最初に海外で火がついて、日本でも注目されるようになるという典型的な逆輸入型バンドなのだ。

グリークシアターでのLIVEは、その一部が「イエローマジックオーケストラ」というビデオ(CSMV 0043)で視ることができる。 また、つい最近(97年)その音源がCD化された。(ALCA-5150) YMOの楽曲の前衛性に比べて、映像の編集は実にお粗末なものである。 あれでも当時としては、”進んでいた”のだろうか。LIVEの模様の他にプロモーションビデオのようなものも収録されているのだけれど、 演出といい、映像処理といいかなり恥ずかしいものである。(^^;;;; 日本では、ヴィジュアル面が、ようやく楽曲に追いついて来れたかなと思えるまでには、 ウィンターライブ’81まで待たなければならない。

Live中エンターテイナーらしく振る舞っているのは、高橋幸宏、アッコちゃんとギターリストの渡辺香津美。 高橋のドラムをたたく姿はいかにもシャープで洗練されていてホントにカッコイイ。アッコちゃんはリラックスして演奏を楽しんでいる。 渡辺のギターソロの超絶技巧を見たアメリカ人は、東洋人がギターをあまりにうまく弾きこなしたことに、驚いたのではないだろうか。 細野晴臣は、いつものようにマイペース。松武秀樹はひとりだけ聴衆に背をむけて、EfectRackの機材やらMC-8のツマミをいじっている。 一番エンターテイナーらしくないのは、坂本龍一。芸大生に衣装を着せてそのまま誰かに連れて来られたよう。 奏でられている音にばかり気が行く様子で、キーボードの鍵盤ばかり見ている感じなのだ。 「千のナイフ」の演奏中、突然すっくと立ち上がる。トイレに行こうとしたわけではない(^^;;;坂本がキーボードソロをやる出番が来たのだ。 演奏する姿は、そんな具合だけれど、教授のキーボードプレイから繰り出される即興は、 どんなステップの上手なエンターテイナーのダンスより軽快で、閃きに満ちていた。 とりわけ、Cosmic Surfin'はYMO演奏史の金字塔のひとつといえる文句なしの名演奏。 聴く度にこれが本当に15年以上前の日本人の演奏だろうか,と驚かされずにはいられない。

今ふと思ったのだけれど、僕は大学生になった時にこのビデオを買ったので、初回の発売がいつなのかわからない。値段は\9,200。結構高い。 いずれにしても、それは僕が小学生か中学生の頃であったろうから、発売されていたとしても買えなかっただろう。 それにしても、小中学生の頃は、プラモデル一つ買うのにも,両親に対して,実に長時間にわたる説得を要したものだが、 なぜかYMOのアルバムや生テープなどは買ってもらえたのである。今考えても不思議だ。 アルバム以外にシングルも発売されたが、それらのB面にはアルバムとは別アレンジの曲が収録されていることが多かったので、 ほしいのだが全てを買うことはできない。そこで一計を案じて、友人と手分けして買い、ダビングしあったりした。 オレが「フロントライン」買うから、Sくんは「ナイスエイジ」買っといて、といった具合。なかなか、したたかだったなあ(^^)


●1979年9/25 アルバム「ソリットステイトサバイバー」発表
YMOの名声を不動のものとしたアルバム。1stアルバムより一層重厚になった和声。主旋律の独創性もさることながら、 あの機知に富んだ装飾音の素晴らしさ!!! なんという鋭い閃きだろう。 こうした変化は、細野や高橋に比べてプロとしてのキャリアの少ない、 一介のスタジオミュージシャンに過ぎなかった坂本龍一のYMOにおける役割の広がりを示している。 (もしかしたら、メンバーにとっては、ちょっと意外な立場の逆転だったかもしれない。) ほとんどの収録曲のなかに、歩く音楽辞典のような坂本龍一によるアカデミックな作曲技法がほどこされている。

はっきり言ってしまえば、僕としては、世界的な成功をも見込め得る音楽的な体裁を整えたのは、 とりもなおさず坂本龍一の天才的なアレンジであったと考えている。これは、例えば、「ライディーン」の和声的な完成度の高さや巧みな副旋律はどこからくるのか?、という問いに対してどう判断を下すかで、見解の別れるところだろう。

坂本龍一の西洋音楽や民族音楽などあらゆる作曲技法に関する膨大な知識とそれを自在に援用する才能は、 細野や高橋にとっても非常に便利なものだった。 細野や高橋が、音楽的な理想はあるが、具体的な旋律や音色にすることができないとき、 坂本にそれを言葉で伝えれば、彼はキーボードをいじりながら「こんな感じ?」といった具合に大抵見事に具現してみせたからだ。

高橋『(アルバムを制作する際)各人三曲ぐらいづつ作曲してきたら、それを教授がアレンジして譜面にしてくださいます(笑)』
坂本『ハイ、ハイ。それを四人目のYMO(笑)である松武氏に渡して、コンピュータにプログラミングしていただくのです。』(カセット・ブックより)


ちなみに,コンピュータを使って自動演奏させる場合,初期のYMOにあっては、まだ音符をある種のコンピュータ言語に変換してプログラミングしていた。 これらの作業は,専ら,芸大で電子楽器を研究していた坂本龍一とコンピュータープログラマーである松武秀樹によって行われた。 YMOの場合,純粋な作曲作業の他にこうした技術面でのノウハウの開発という作業も不可欠であった。新しいノウハウの発見は,新しい音楽の誕生へ繋がった。 いわゆる「打ち込み」の原型は,その功罪はともかく,彼らによって築かれたのだ。

坂本龍一の「教授」というニックネームは、彼が芸大大学院出身であり、とりわけYMO内で前記のような役割をはたしていたことに由来するのは周知の通り。 ただ、同時に、こうした状況が、 ミュージシャンとして人並み以上のプライドをもっていたはずの細野や高橋(事実彼らは一流のミュージシャンだ。)と坂本の関係に光ばかりでなく、 微妙に影を投げかけていたとしても不思議ではない。

収録曲について。 当時のシンセの音は、まだピコピコしていて陰影に欠けていたので、旋律はしばしば二つ以上の音色を重ねて鳴らされている。 また、フォルテシモ等の「強調」についても、通常の楽器ならば強く弾いたり、はじいたりすればいいわけだが、 当時のシンセでは不充分なので、 要所要所に「バーン!」というような効果音みたいなものを重ねてインパクトをだすという職人芸(?)を披露している。 そうした苦肉の策によって、当時としては信じられないような重厚な和声を実現している。

ボコーダーを通した音声による「TOKIO!」で始まる曲「Technopolis」は、LIVEでは、アンコールによく演奏された。 最初は、東京駅で雑踏の音と駅員が「東京ー!」とアナウンスする声を録音して使うという案もあったそうだが(^^;;「Absolute Ego Dance」沖縄(琉球)民謡が、世界に通用するカッコイイ音楽であることにいち早く着目したところがすごい。 沖縄の民謡をハイテンポのビートに乗せるとおいしいことを最初に発見したのは,この曲が最初ではないかと思う。 泣く子も黙る「Rydeen」。当時はどこへいってもこの曲が流れていたものだ。 ついにはストリップ劇場でも流れる始末だったとか。(北野たけし談) 原宿の歩行者天国で、竹の子族なるおにいちゃんやおねぇちゃんなんかがよくこの曲にあわせて踊っていたようだが、 僕はその踊りがあまりにダサイので、正直なところ彼らがYMOで踊るのは嫌だった。 「Day Tripper」大のビートルズファンである高橋幸宏の趣味の反映。

さて、「ファイアクラッカー」や「東風」、そしてこのアルバムに収録されている「テクノポリス」や「ライディーン」は初期のYMOにおける傑作であるが、 時としてそのわかりやすさ故に、軽々しく思われるふしがある。僕は、それは実に愚かなことだと考える。 下手をするとメンバー自身まで、それらを自嘲しかねなかった。 (この辺に作曲者自身の自意識と創作時における無意識の乖離というややこしい問題があるのだが)

YMO初期の傑作に共通するのは、旋律の展開の豊穣さと自然さともいうべきものだ。 すべては実に自然に生起して流れ、旋律群の接続部に隙間ができてしまったり、 それを埋めるためだけに付け加えられた贅肉のような間奏部分は皆無である。 名曲に触れた時はいつもそう感じるものだが、「最初から全体があった」という印象を与えるほどの完璧さだ。曲想の貧困な場合は、いくら手練手管でゴマかしても、どうしても聞き手に伝わってしまうものだ。その意味においては、YMOの創作力のピークが、1stと2stアルバムにあるという、 極論を唱えるひとがいても不思議ではない。

現在の細野、坂本、高橋に「イエローマジックオーケストラ」や「ソリッドステイトサバイバー」のような傾向の曲を作ることはできないだろう。 それが可能であったなら、”再びわかりやすい曲をつくる”と称して、 「浮気な僕ら」のような、数曲を除いては、駄作ぞろいのアルバムを作ることはなかったはずだ。 (Technodelicのようなアルバムならば、現在でも制作可能かもしれない)

やはり、「ファイアクラッカー」や「東風」「ライディーン」などの種類の傑作というものは、 作曲している当人がいくら自覚的意図的なつもりだった気でいても、 日常の個人の自意識を越えた何か異様な力を借りて生まれるものなのだと思う。 また、そのように生成された曲はいつまでも古くならない。 「Technodon In Tokyo Dome」で演奏された「東風」の懐かしく,同時になんと新鮮なことだったろう !!!

(97/11-12月 第一稿 脱稿。)

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