2.「三人の出会い」

●1968年 当時大学3年生だった細野晴臣と高校一年生だった高橋幸宏が、 軽井沢でのダンスパーティで出会う。
二人は,各々のバンドのメンバーとして会っている。 細野晴臣には独語癖があって、この頃すでにぶつぶつとやっていたという。「こんなとこまで自転車できっちゃった。」とか、 集まったメンバーでお茶漬けを食べようということになった時、 お箸がなくて代わりにスプーンが用意されると「ぼくスプーンでご飯食べるの初めて・・・・・」などと誰に言うともなく、 つぶやいていたそうである。

必死で自転車をこいで高橋家の別荘に向かう大学生の細野晴臣を想像すると思わず吹き出しそうにならないだろうか。しかも、軽井沢という土地で。高橋幸宏の父は、味の素の容器を製造する会社の社長だった。彼は、いわばハイソな環境で育った。彼が19歳の時、会社 がのっとられ、翌年には母が急死する。相次ぐ不幸から心労が重なったこともあり、高橋幸宏は一時、不安神経症になる。その時分に気晴らしに始めたのが、釣りだった。

●1975年 芸大大学院生だった坂本龍一と高橋幸宏が出会う。
この時、高橋幸宏は既にいわゆる「業界人」であり、サディスティックミカバンドのドラマーとして、 海外のツアーに参加するというキャリアの持ち主であった。 一方坂本龍一は、まだアルバイト程度にスタジオミュージシャンをやったりする一介の院生にすぎなかった。 ヒッピー坂本の方は、当時からファッショナブルだった高橋のなりを見て「音楽をするものがあんなちゃらちゃらしやがって」と思い、一方、高橋は、長髪で薄汚く、いつも難しそうな本を小脇に抱えて登場する坂本を「むさくるしい奴だ」と思う。 好対照なふたりだった。

●同年 細野晴臣と坂本龍一が、大滝詠一のレコーディングで出会う。
後に坂本龍一の奥さんとなり、 YMOのツアーにも度々参加していた矢野顕子ともっともつき合いが古いのは細野である。 彼が他の二人に矢野顕子を紹介したのだ。 こうして運命的とも言える三人の出会いは始まり、 各々のソロアルバムの制作にお互いに携わるなど音楽活動を共にすることが頻繁になる。 細野晴臣の「はっぴえんど」解散後の一連の作品や坂本龍一の「千のナイフ」、 高橋幸宏の「サラヴァ」などがそれだ。

そして、これらのアルバムに共通した音色面での特徴は、 当時としては珍しく、電子楽器を多用している点である。 「千のナイフ」などはもう完全なる電子音楽だ。 さらにアルバム「千のナイフ」中の「千のナイフ」や「The End Of Asia」などは、 民族音楽や西洋の古典音楽の技法を坂本龍一にしかできないような形で取り入れた野心作だが、 この2曲こそはクラフトワークとも富田勳やヴァンゲリスなどのどんな電子音楽にも属さない全く独自のスタイルの完成、 すなわち「Techno Pop」の誕生の瞬間をもたらした曲であると僕は思う。 そうした意味でもこの2曲は記念碑的な名曲なのだ。

このアルバムの制作課程では、細野晴臣も深く関わっているが、彼もこの体験を通して、新たな可能性を予感したのではないか、と思う。この2曲は初期のYMOの方向性をも決定づけたに違いない、というが僕の持論だ。無論、「千のナイフ」以前にも彼らによる電子楽器を使った新しいアプローチはあるが、この2曲ほど曲作りの発想が初期YMOに近似しているものはない。 大まかに言って、YMOは前後二回のワールドツアーを行っているが、 「千のナイフ」と「The End Of Asia」の2曲は毎回必ず演奏された。

無論、「千のナイフ」制作時においては「Techno Pop」と言う言葉まだ存在しない。 後年世に広く使われるようになる「Techno Pop」と言う言葉は,日本のさる音楽評論家の造語らしい。ところで、テクノポップという言葉は国外では通じない。むしろ欧米ではSynthPop、シンスポップと読むのか?、という言い方が一般的のようだ。

ところで、YMOの四人目のメンバーと言われた松武秀樹と三人がどのような経緯で出会ったかという点だが、 これが判然としない。「千のナイフ」では既にComputer Operationで参加している。 当時の三人をとりまく人脈をみてみると、山下達郎、渡辺香津美、松任谷正隆、加藤和彦、後藤次利、松本隆、 といった具合にヒットーメーカーが多数散見されなかなかの賑わいだ。 山下達郎は「千のナイフ」の制作にも参加している。でも、カスタネットで。バックコーラスならわかるが、カスタネットて(笑)

3.「Yellow Magic Orchestra結成」

●1978年2/19 細野晴臣が坂本龍一と高橋幸宏を誘ってYellow Magic Orchestraを結成。
細野宅のコタツで暖まりながら、坂本と高橋が細野から構想を聞く。その場で意気投合。 その内容は、 「ファイアクラッカー」をシンセサイザーによるエレクトリックチャンキーディスコにアレンジして売り出し、 世界的な大ヒットをねらうというもの。当時の日本の音楽事情を考えれば、誇大妄想のような話だが、 ホントに実現してしまったのだから凄い。

結成時のスローガンは、「下半身モヤモヤ、みぞおちワクワク、頭クラクラ」 これは有名。 そのほかにもいろいろなスローガンがあるようだけれど、 ミュージシャンの発言というものは、実際の創作活動の実態と必ずしも符号しないのが常だから、 深い意味はないと受け取るのが妥当だろうと思う。 Yellow Magicの語源についても、よくライナーノーツなどで二元論の弊害を廃すみたいなことになっているが、 いちいちメンバーの創作上の理念になっていたとは、ちょーっと考えられない。

細野自身が例のカセットブックで、 「Yellow」は「単なるこじつけ」と発言している。 何事かを起こすときは、そうした理屈づけがあると意気があがるとかそういう事情だろう。 いずれにせよ、「Yellow Magic Orchestra」というのは、いいバンド名だ。

まだこの頃は、パーマネントグループではなかった。細野晴臣は、 一見シャイで無口に見えるが、なかなか行動力のあるひとで、 YMO以前にもたくさんのバンドを組んでいる。 「はっぴいえんど」「キャラメルママ」「ティンパンアレイ」などはいずれも細野が音頭をとって結成された。 これらはいずれもアルバムを1枚程発表して(はっぴいえんどは3枚)解散しているから、 YMOに関しても当初はこうした細野の活動形態の延長線上のひとつに過ぎなかったのではないかと思われる。 固定したバンドというよりも、むしろユニットに近いといった結成当時の事情が1983年の「散開」という言い回しの複線となっている。

僕がリアルタイムで聴いたYMOのアルバムは、「ソリットステイトサバイヴァー」からだ。 (もっとも「ソリッド・・・・」にしても,レコード発売日にレコード店にかけ込んだわけではないので, 発売から随分経っていたに違いない。) すっかり「ソリッド・・・・」でYMOに心酔した僕に、前出の友人が、 アルバム「イエローマジックオーケストラ」をこれまたテープにダビングしてくれたのだ。

(97/11-12月 第1稿 脱稿。)


preview next