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01/02/03
『Africa Note』のある場所 1

<問題>の認知度をめぐって  〜ポスト政治運動世代の課題〜

正月明けの週末は、年末年始の特別番組をビデオテープへ録画してためておいたのを観ながら過ごした。本当にビデオは最高。リモコン片手に、うざうざな箇所は飛ばして、完全にこっちのペースで番組を観れる。僕は作り手の意思を尊重すべきであるようなテレビ作品以外は、なるべくビデオに録画してから、斜め読みならぬ、斜め視聴をすることにしている。録画した番組の中には、田原総一郎が司会役をつとめるテレビ朝日系の『朝生』もあった。缶ビールをやりながら、しなやか行政の田中康夫がやたらに怪気焔だなぁ〜と思ってみていると、出演していた経済学者ら一部の知識人が、観覧の学生に向かって、日本の政治の凋落ぶりについて、なんで怒らないんだとけしかける一幕があった。傍観者的言論を弄するばかりで、具体的な社会参加ひとつしていないことに密かに引け目を感じていたのか、おおかたの大学生がバカ正直にひるみ、かつ口ごもる。馬鹿げている。一人ぐらい、はっきりと『政治や経済なんかもう問題じゃないんだよ!』と言い放てばいいものを。

結局のところ、観覧の学生からして、社会参加といえば、従来型の政治運動の形態を指し示すものだという先入観から自由ではないのだ。(もっとも、『朝生』観覧を希望する人を、日本の平均的な学生と見なすのは早計だろう。やっぱちょっと勘が悪いのかな(笑))そりゃー連日、大新聞で物々しく論説され、テレビのニュース番組では、しかつめらしい表情のアナウンサーによって繰り返し『政治』や『経済』について報道されれば、誰だって考えてみる前に、世界を決定づけるのは、なにはさておき『政治』や『経済』だと思い込んじゃうだろう。僕だってそうだ。でも、実際には、それって案外、<惰性>の部分が大きいかもよ。無批判な『惰性』って『権力』を発生させるから怖い。少なくともそうした常態を無批判に受け入れるのではなく、疑ってみる価値はありそうだ。右だろうが、左だろうが関係ない、僕は、まず、社会参加といえば政治運動だとか、政治がよくなれば全部うまくいく、みたいな先入観(妄想?)を捨てたいと考える。ポスト政治運動世代(←例によって怪しい造語登場)という自覚のもとに社会参加について模索していくべきだと思っている。

結果として、ある人が政治運動にのめり込むにせよ、現代において、ポスト政治運動世代の課題をくぐらないわけにはいかないだろう。ソ連崩壊という思想上の大事件を目前にしながら、厳しい総括をくぐらないままの市民運動のリーダーが、十年一日の如く、耐用年数の過ぎた新左翼的な社会批判モデルを使って、不平不満の塊のような学生達のうっぷんを仮想の外敵へ扇動して、まるっきり見当違いな騒動を起こすという椿事はいまもって絶えない。小さなことでは、僕が大学生の頃、マイカー通学をして、ぜいたく三昧の裕福な知人が、頑強にNHKの受信料の支払いを拒むというケースがあった。彼の愛読書は、本多勝一であった。僕なんかが大学生の頃は、とうの昔にNHKが、殊更に騒ぎたてなければならないような偏向報道などはしてなかったのである。つまり、NHKの受信料支払い拒否というのは、教条化された無意味な政治ごっこ以外のなにものでもなかった。定年過ぎて、やっと職を見つけたような年老いた集金員が、若造の下宿を訪問して、おずおずと敬語で頼むもんだから、僕などは哀れの感をもよおしたくちだ。

社会参加の契機は、あくまでも嘘偽りのない自分自身の生活実感から出発し、そこから社会性の要素を析出したり、あるいは普遍性へ昇華するなかに見出されるべきだと思う。その際、かつて新左翼が提供してくれた社会批判モデルのチャートに囚われてはならないことは言うまでもないだろう。社会参加のあり方は、時代を見極め、対象とすべき情況に密着して、変幻自在に生み出していくものだと思う。現在、庶民大衆、殊に青年層の『こんちくしょー!』という激情を、もはや従来型の政治運動が取り込むことは不可能だ。なぜ、旧タイプの知識人は、こんなに当たり前のことがわからないのだろう?それに観覧の学生達は、なぜ自身の日常感覚から問題を設定しようとしないのだろう?先入観とは怖いものだ。今、現在、日本社会の病根に対して、妙な言いかただが、忠実に<反応>しているのは、10代の少年少女達の無意識だけだ。様々な悲劇を生みながら、我々に訴えかけている。

有体にいって、今の日本人にとって、『政治』や『経済』などは副次的な課題でしかない。例えば、『政治不信』といった言葉ひとつとっても、それは単に政治現象を中心にすえて世界をみるという先入観からつくり出されたものだ。従来型の政治運動などは、そういうことが根っから好きな者が、勝手にやればいいと思う。なにも、公権力の監視を怠っても構わないと言っているのではない。今のところ、『政治』や『経済』を、かつてのように社会的関心事のプライオリティの頂点に据えるのは、見当違いであるといいたいのだ。従来型の政治運動の社会批判の方法などいくら応用したところで、とてもじゃないが、現在の先鋭的な諸問題には太刀打ちできない。次々と優秀な人材を投入すれば、それに比例して『政治』や『経済』は無限に進歩するものだ、というのは妄想に過ぎない。また、『政治』が対象としてきながら、目的達成に到らない懸案事項を、別のアプローチで解決していく道筋を模索すべきだとも思うのだ。

日本は、90年代に入って、出口の見えない不況に突入してしまったが、国民の貯蓄は意外に潤沢であることは、よく知られている。そのような現象に象徴されるように、日本の場合、不況といっても、餓死者がでたり、暴動が勃発するような経済的な後進国の不況とは意味合いがまるっきり違う。不況だ、不況だと騒いだところで、決して食うに困るわけじゃなく、思い余って暴動を起こすほどの絶対感情も湧いてこない。さすがにぜいたくはできなくなったが、誰も衣食住に困ってはいない。不思議な気分である。我々は実に抽象的な生活を強いられているのである。日本人がこのような状況を経験するのは初めてらしい。経済の悲観的な展望がささやかれるさなか、テレビ番組では、無銭旅行をしたり、タレントをモノのない部屋に隔離することで、衣食住の欠乏状態に退行し=擬似的な『貧困』をつくりだし、ひとつひとつのモノの有り難味を再確認するという風変わりな企画が高視聴率を獲得している。原始的な経済の具体性、身体性へのノスタルジーとでもいったらいいだろうか。

昔の日本や現在でも貧しい国ならば、凶作ともなれば、自分の身内が何人か倒れたり、さらに頭のおかしい豪族なんかが、農作物をほとんど一人占めにしちゃったりして、直に社会構造の歪みが民衆に具体的かつ身体的に自覚される。そこから革命状況にもちこむ可能性もあるだろう。しかし、そのような社会構造の不備や欠陥を、西欧近代化を端緒に、さらに大戦後は経済が戦争の引きがねにならぬよう、(より本質的な変化は、やっぱり90年代以降?その辺が判然としない・・・)さんざっぱら改善したあげく、先進国の経済構造はそこらじゅうに緩衝体や危機管理装置をもった複雑なシステムに発展し、さらに多国籍企業のアウトソーシングなども媒介して、不況などの災厄の打撃が、国民の生活にもろには及ばないようなものへ移行した。その結果、現在の我々の生活は、万事に実感の薄い抽象的なものへと変貌したといっていいだろう。言いかえれば、先進国に共通した生活の抽象性の不快は、社会システムが高度で安定したものであることの証明だといえる。

従って、不景気だとか、なんだとかいいながら、家に帰ると相変わらず安価な発泡酒を飲みながらテレビを観たり、ビデオ・ゲームに興じたりしてる。たとえ、運悪く失職したって、職を選ばず勤労意欲さえあれば、日本ではホームレスにはならない。(日本のホームレスは受動的な反体制的態度みたいなもんだ。)アメリカに目を転ずれば、ヘッジファンドがパソコン画面上で、貧しい国の国家財政に匹敵するような巨額の資金を操っている。こんなことは凶作で人死が出るような国の人にはまず想像もできないだろうと思う。かくまで社会システムが複雑怪奇だと、人間はそれに対して容易には感情移入できない。当然である。古い倫理観も、社会システムの隅々まで、その射程がいきわたらない。だから、マイクを向けられれば、国民は、久米宏だか、筑紫哲也だかのマスコミの受け売りをしゃべる他ない。まったくカフカの『城』さながらにわけがわからない。このような情況の渦中にある青年に向かって、藪から棒に60年代のノリで『政治』や『経済』に腹を立てろというのがどだい無理な相談なのだ。物事の順序としては、まず日本人がかつて1度も体験したことのない奇怪な経済構造にシフトしたことに目を向け、さらにポスト政治運動世代の自覚に立つことが先決である。

確かに、日本経済の崩壊を予測をする経済人や学者の言説にはそれなりの説得力がある。しかし、むしろ、そのように常に優秀な頭脳によって危機感をあおられ続け、けんけんがくがくの議論がわきおこり、さらにさかんに政治闘争がなされている限り、今後も日本経済は致命的な崩壊を免れるのではないだろうか。僕は『朝生』を見た限りでも、むしろその意を強くした。おお!頭のいい学者や政治家がしっかり専門的に批判検討してくれてんじゃん、と。反経済学的なことを言うと、微細な現象を無視すれば、幸か、不幸か、日本は、不可逆性の極めて強い、ある新しい経済安定の構造にシフトしたと考えざるを得ない。たとえば坂本龍一が、今や天文学的数字にのぼる日本の財政赤字について、diaryの中で驚嘆の声をあげていたが、これについて殊更に騒ぐのは、僕のみるところ、大抵、経済学部の学生や一向に予測の当たらない冴えない経済評論家を含めた素人である。

彼らは家計簿の赤字と財政赤字を同等に扱っているが、やはり超資本主義国家の財政ともなれば、素人目には理解しがたい諸々の概念変化が勃発するのではないだろうか。家計簿の赤字と日本の財政赤字が、違いは規模だけであって同じ原理に基づくならば、日本は明日にもさながら敗戦直後のような極貧国に凋落するはずだ。しかし、そうなってはいない。確かに、わかりにくいことこの上ない。ここで我々はヒステリックになるべきではない。我々素人が本当に知りたいのは、天文学的な数字にまでふくれあがった財政赤字自体のことではなくて、なぜ路頭に迷わないで、相変わらず中流レベルの生活を維持できてるの?ということだ。野党の政治家ならば、官僚や政府が平気を装って、国民を騙してるからだ等とアジるだろう。しかし、考えてもみよ、いくら官僚がクレバーだからって、魔法使いならともかく、あれだけの財政赤字をゴマかすのは無理だ。本当の経済の専門家ならば、財政赤字にヒステリックな反応を示して終わるのではなく、この妖怪じみた現代の経済の仕組みについてクールに分析してくれるだろう。その時、はじめて適切な批判なり、弁護なりが成立する契機が生じるだろう。

欠陥を探したらきりがないが、ピューリタニズム的な理想郷か天国を求めない限り、政治も経済も、俯瞰的にみれば、そこそこうまくいっていると見なすべきじゃないだろうか。この見解自体が、ラディカルに聞こえてしまいそうだ。しかし、要は、先入観の有無である。だって、本当には困ってないでしょ?大新聞の政治部記者よろしく、『政治』、『経済』について無理して深刻ぶるのはやめよう。現状において、平均的な日本人の胸のうちに、森某首相め、ぶっ殺してやる!国家を転覆してやる!なんて絶対感情なんかとうてい湧きっこないんだから。強いて『政治』的な義憤を燃やそうとしたところで、三文芝居の役者じみた空虚な気分になるのがオチだ。しかし、日々の日常生活の中で鬱積されつつある『こんちくしょー!』、『これはどう考えてもおかしい!』という激情は誰にも厳然とあるはずだ。それをどう言葉にして、行動に示せばわからないとしても。ただそのほとんどは耐用年数の過ぎた従来型の政治運動が取り込むことはまず不可能だろう。

『政治』や『経済』に分類される問題群は、先達者の苦労の甲斐あって、大なる<権威>を獲得している。従って衆人の注目度も高く、ゴルバチョフのような天才改革者は少なかろうが、現存する人間の中でも、とりわけ知力、行動力共に優れた人材がすでに充分に投入されている。そこは人口過密なぐらいで、いわば人材の放蕩といってもいい状況を呈している。しかも、さんざっぱら専門性のたかい、高度な議論がなされ、政治行動がとられたあげく、結局、理想通りの抜本的な改革には到らない。政治論議の進路の果てには、必ず人間存在の摩訶不思議が横たわっているからだ。そこで、論者、政治家諸氏一堂、口を揃えて<意識改革>が必要だと息巻くが、次の瞬間には、皆一様に押し黙ってしまう。だいたい、それの繰り返しである。それなら、そんなにたくさんの人が参加する必要もなかろうと思う。

理由なく、必要もなかろう、といっているのではない。『政治』や『経済』なんかよりも、現時点においては、ずっと重大であり、優秀な人的労力が注がれるのを今や遅しと待っている問題群は、他に山ほどもある、といいたいのだ。坂本龍一が注目している地球環境問題もそのひとつだろう。 そういう意味では、なんでそこまでというぐらいヴァルネラビリティーを発する人物だが、かつて社会学者・宮台真司らが広範なフィールド・ワークをもとに、ブルセラや援交について、おざなりのモラルで一蹴するのではなく、世に本格的な論議の機運をもたらしたのは、ひとつの快挙であったと思う。そのように、今現在、本当に取り組むべき問題は何なのか、実感に根ざして、ひとつひとつきちっと見定めていくべきなのだ。いざ我々の足元に目を転ずれば、あまりにもたくさんの危急切迫した問題群が、優秀なる人的労力を傾けられることもなく、放置されたままであることを発見するだろう。

それなのに、『政治』『経済』中心の世界像が、いつまでも頭から抜けない旧タイプの知識人達が、古典芸能のような政治運動で全てが解決するのだと言わんばかりに、学生達をけしかけるのは是非ともやめてもらいたいものだ。人材配分のアンバランス状態にいっそう拍車がかかってしまうではないか。ただ、かつての60年代の学生運動には、まがりなりにもマルクス主義という指導理念が存在した。"まがりなりにも"と断ったのは、当時、相当な幹部クラスの学生運動家でも、その多くは資本論すらまともに読んでいなかったことが回想録などで自嘲気味に暴露されているからだ(西部邁など)。しかし、とにもかくにもマルクス主義という錦の御旗は、当時の大衆、学生を連帯させ、個人の能力ではなかなか到達できないレベルに達した体制批判の方法を与え、運動の推進力のかなめとなったようだ。そして、その運動の規模は、一時、自由主義陣営の最高権力者たちを恐れさせるほどに拡大された。現在のところ、一般論としては、当時のマルクス主義に相当するような指導理念は存在しないようである。

さて、僕が言おうとしていることを要約すれば、およそ次のようになる。

1)『政治』『経済』といった領域は、既に社会に充分に認知された『問題』なので、常に衆目の集まるところとなり、優先的に取り上げられる。よって優秀な人材が集まり、諸言説はいよいよ深化され、かつまた、絶え間なく対策が模索され、精力的に講じられている。しかし、『政治』や『経済』に軸足をおくことによって、立ち現れてくる『社会像』『世界像』から導き出された従来型の政治運動が、現在の社会問題に対応することは不可能である。 多くは<政治的>な課題ではないからだ。

2)ところが、我々の日常感覚に最も切実に感じられ、真に危急逼迫した問題群の多くは、未だ充分に社会(大衆の自覚、政府、マスコミ、アカデミーなど)に認知されていないため、満足な人的労力を投入されることもなく、ほとんど放置状態であり、多くは悪化の一途をたどっている。『政治』『経済』が、それら充分に認知されていない『問題』に社会的関心事におけるプライオリティの王位を譲ることで、全く別の『社会像』『世界像』が構築され、啓蒙されたり、論議されるべきではないか。『政治』『経済』は、そこから派生される必要性として機能すればよいのではないか。そのうえ民主化というのは、政治的課題の影響力が必要最小限へ向かって徐々に減衰していく過程なのだから。

3)さらに事態を難しくしているのは、現今の運動形態の諸相を考慮した場合、一般論として、かつてのマルクス主義に相当するような重厚な指導理念が存在しないことである。いきおい、めいめいが、天才でもないのに、手に余る課題を前に、独力でユニークな知見を求めるはめになる。またポスト政治運動世代にふさわしい指導理念の不在は、個々の運動体の連帯を困難にしたり、連帯したにせよ、さながら烏合の集でしかないデモ行動といった表面的協力に終わり、事態の本格的な打開にこぎつけるだけの持続的で高度な組織的行動の実現を難しくしている。

少々長い前フリになったが、僕は、坂本龍一と全く無関係の話をしてきたつもりはない。坂本龍一が<音楽>の<内部>にひきこもっていては捉えきれない存在になってしまった以上、僕にとっては当然必要な手続きだったのである。とはいえ正直ややこしいなぁ〜と思うこともまた事実である。坂本龍一がポストモダン的な感性主義に留まっていてくれたら、もっとやすやすと筆を進めることができただろう。さて、坂本龍一という人は、学生運動の季節が終わりかけていた頃に学生時代を送っているので、学生運動世代特有の社会批判モデルの抜けていない部分があることは確かであろう。しかし、『LIFE』前後から、坂本龍一が抱え込んでいる問題意識は、従前のエコロジー思潮にリンクしつつも、そこに留まってはいない。彼の発言は、雑然たるように感じられるほど多岐にわたっており、全体としては、極めてユニークなものである。そこもやはり、未だ人材豊富とは言いがたい、見通しの悪い朦朧とした場である。

というわけで、現今、坂本龍一が直面している困難というものは、まさにこれまで記述してきたようなたぐいのものだと推察される。坂本龍一の抱えている一見種々雑多な問題意識は、充分に認知されていない方に属する『問題』なのである。さながらパ・リーグの野球中継のように注目度が低い(笑)さらに、未だ市民権を得ていない問題について、独力で理念の体裁を整え、運動体を起こすのは、並大抵の苦労ではないだろう。はたして、それぞれの問題群は、一見バラバラにみえるようで、実はより深い位相の共通項で結ばれるのか、それともやっぱり個別の問題として扱うべきなのか、坂本龍一の思考はまだそうした命題について、まとまりのあるカタチで解答できていない。だから、彼は、今のところ、個別にその場限りの発言をしたり、行動をしているだけで精一杯のようにみえる。

そんな中、近年の坂本龍一が、現在なお支配的な西欧式の分析的思考よりは、自他を対象化して対立させるのではなく、自他の関係性に重点をおいて、世界を直観的に把握するアジア的英知(仏教思想や合気道、整体など)の知見に活路を見出そうとという傾向を強く示していることは興味深い。しかし、暗中模索の中でのアジア的英知への接近は、坂本龍一自身にとっては、ほとんど違和感はなかったはずだ。なぜなら、彼が折々に言及するビート・ジェネレーションの思想には、もともと今でいうところのエコロジー思想があり、西洋人による西洋文明批判という文脈を通じて、東洋思想への傾倒が顕著にみられるだからだ。僕は、どうしたって、首に大きな数珠を下げたアレン・ギンズバーグの人なつっこい笑顔や瞑想に耽るゲーリー・スナイダーの質素な姿と、現在の坂本龍一を重ね合わせてしまう。つまり、彼らが、現在の坂本龍一の遠い祖形なのではないか。

追記
僕は、ここで『政治』『経済』より優先されるべき『問題』について、具体的に特定していない。なぜなら、そこまで立ち入るのは、このwebページ運営上の方針から不適切と判断したからである。また、僕個人としては、指導理念に相当するものをもっているが、一般論とはいえないので、公表しなかった。これらは、アクセス者各自の問題意識にこそゆだねられるべきと考えた。

ソ連崩壊と東欧の民主化の頃にピークに達した、理念を忌み嫌う感性中心主義の風潮は、バブル経済崩壊を経て、90年代にいたり、戦後民主主義の形骸性が無惨なかたちで露呈してゆくにしたがって、転換されつつあるように思う。今や社会参加の潜在的な機運は、青年層を中心に意外に強く高まっているのではないだろうか。柄谷行人のような有名人(?)がNAMといった運動体を結成すると、賛否に関わらず、浮き足だつ人がやたらに出てくる(笑)みんな、何かやらなければ、と思っているのだろう。いくらひねているとはいえ、現代の青年も、何か大きな目標に向かって、生を燃焼させたいと願う点は、今も変わらないのだとつくづく思う。

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