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<響き>の音楽=<耳を澄ます>作曲家へ
『LOST CHILD』は、室内楽の装いをもった曲である。同じテーマがピアノ五重奏、チェロ・ソナタ、そしてピアノ・ソロ(これは器楽曲ということになるが)といった楽器編成で奏でられる。曲の構成もシンプルなソタナ形式ということで、聴くものに露骨に古典的な形式感を与える。さりとて、もちろん、古典主義への回帰ではない。BTTB的な模索が依然として続いているものかもしれない。ピアノ五重奏、チェロ・ソナタ、ピアノ・ソロへと自由にアレンジされていく感じは、いわゆるREMIXのノリである。是が非でもこの楽器編成でなくてはならないという類の作曲家の執着はないといっていい。また、楽器編成からいえば、ピアノ五重奏曲に相当する一曲目のアレンジも、ちょっと主役の座を占有しすぎなくらいにピアノが曲を先導し、弦楽器郡は伴奏役に終始している。
僕はこの機会に有名な2曲のピアノ五重奏曲、シューベルトの「ます」(D667)とショスタコーヴィッチのそれ(Op.57)をCDラックから引っ張りだしてきて、久々に聴いてみた。参った。『LOST
CHILD』がやけに下手くそな気がしてきたのだ。まず第一に合奏におけるピアノの扱いが明白に違う。わかりやすく言えば、これらの古典的名曲の場合、主旋律が独占的にピアノのみで奏でられることはなく、交互に曲の主人公が巧みに入れ代わりながら展開している。僕には楽器編成を十二分に活かすというテクニックのレベルにおいて、坂本龍一には単純に熟練が足りない気がした。こういうのは理論よりも経験量の多寡がものを言う問題であるから致し方ないのだ。実際に鳴らしてみたらどんな風に鳴るか、どうかというクラシカルな合奏に対する勘というものは、ひたすら日々の試行錯誤の蓄積によって磨き上げられるのだろう。もちろんジャケットにはSQ&Pと表記されており、いわゆるピアノ五重奏(Piano
Quintet)ではないことが断ってある。しかし、せっかくなのだからピアノ五重奏的な豊かさに挑戦してもらいたいという贅沢な気持ちもわいてくるというもの。
シンセなら坂本龍一は誰にも負けないんだが・・・・などと、テクニカルな勝ち負けにこだわるのは筋違いであることは充分承知しているが、僕にはここには小さからぬ問題があると思えるのだ。およそいかなるジャンルにおいても気後れを感ずることのない音楽における万能者のような坂本龍一だが、ことクラシカルなオーケストレーションに関する限り、凡庸をまぬがれるのは、至難であったように思う。すなわち管弦楽を駆使して映画音楽を作曲するという局面は、坂本龍一にとって、初めてハンディキャップを背負った戦いであったように思う。その困難さが坂本龍一の闘志に火をつけたかもしれないが。アカデミー賞に輝いた『ラストエンペラー』、そのテーマは、印象派風の管弦楽の贅をラベル的こらした豪奢な大曲であったが、その基本的な素描は、坂本龍一によるものに違いない。でも、管弦楽の外装の構築は、アシスタント的な共作者に負うところ大きいのではないかと思う。
いくらか具体的に指摘すれば、坂本龍一の管弦楽法に欠けているのは、金管、木管等の管楽器の豊かさだ。しかも気合の入ったソロ・パート的なそれではなく、曲の展開の中で自然に奏でられるような管楽器の魅力に欠ける。いきおいアンサンブルの重点が弦楽器に偏ってしまうところがある。もしかしたら、それはシンセでスケッチをする場合、弦楽器はシミュレートしやすく、管楽器はシミュレートしにくいからではないか。坂本龍一のひたむきな探求心は、『嵐が丘』のような傑作を得たが、クラシカルな管弦楽が、彼の深遠に充分に届き得る表現手段でないことに代わりはないように思える。何かもどかしさが残るのである。極限的に発言すると、『ラストエンペラー』なら坂本龍一でなくとも、いつか誰かが作曲するだろう。
『確かに今、普遍的というか、自分にしかできない音楽を作りたいって気持ちは強くなってます。もちろんクラッシック的な、ピアノソロのスタイルにこだわるつもりはまったくないし、次ぎのアルバムでも必然性があればヒップポップ的なものもやるかもしれない。でも坂本がそれをやる意味には敏感になってますね。オペラをやったことで、そういう気持ちはさらに強くなってるみたいです。』("オリコン"ウィーク
ザ・1番 5.29 「永遠の仔」関連のインタビューから)
坂本龍一には、彼にとって最も有利なところで音楽をやってほしい。誰も真似のできないものを。そして、近年ついにひとつの光明が差した。『LOVE
IS THE DEVIL』('98)に始まる新しい試みである。『LIFE』を度外視すれば、『LOVE IS THE DEVIL』は坂本龍一の近作中もっとも重要な作品である。これは、電子楽器のポテンシャルを引き出すことにかけては、他の追随を許さない坂本龍一による電子音楽の印象派ともいうべきものだ。無論、この手法は、『御法度』においても踏襲されたのである。近年の坂本龍一の音楽表現の中心命題は<響き>である。但し、『最近僕はバッハでさえも「音響」的に聴いています。』(『LOVE
IS・・・』 ライナー・ノーツより)という意味における<響き>である。坂本龍一の言う<響き>は、作曲者の意志を能動的に外へ爆発させるというよりは、じっと<耳を澄ます>ことに精神を集中させる行為そのものだ。そこでは音楽は作り出すものというよりは、外から、いや外も内もない深遠からやってくるものだ。
実のところ、『LOST CHILD』も古典様式に準じながら、対位法も最小限度に留められ、構築感を弛緩させた<響き>の音楽なのである。というよりも、現在の坂本龍一の音楽はみんなそうだ。かつての坂本龍一が、時に偏執狂的とも言い得るほど、対位法へのこだわりを示していたことを思うと、驚くべき変化である。坂本龍一がひたすら<響き>の作曲家に徹するとは思われないし、その必要もないと思うが、今現在の坂本龍一が<耳を澄ます>ことを大事に考える作曲家であることは間違いないだろう。すると、どちらに表現の重心を置くかによって、すべての音楽を<響き>の音楽と<構築>の音楽というニ分法をもとにわけることも可能だろうと思う。近代は、音楽のみならず、その思考も外へ向かって<構築>していく時代であったということが言えないだろうか。一方、<響き>=<耳を澄ます>という姿勢は、少し想像力を働かせれば、そのまま自然環境への気遣いや東洋的な心身論へ必然的に結びつくことがわかる。
『われわれは、自分たちのまわりにある自然の無数のもの音を聴きませんし、この自然が限りなく提供するひじょうに変化にとむ音楽を狙うことはありません。その音楽はわれわれを包みこみ、われわれはその自然のなかで、これまで気づかれなかったような生を生きるのです。私の考えによれば、これが新しい道です。』(ドビュッシー)
『まず聴くという素朴な行為に徹すること。やがて、音自身がのぞむところを理解することができるだろう。』(武満徹 ライナー・ノーツより)
『LOST CHILD』が、REMIXに近いノリで、割と自由に3つのアレンジをほどこされていることは既に記述したが、さりとて室内楽の範疇を逸脱することはちょっと考えられない。僕にはこの時期、坂本龍一が室内楽的なアプローチを試みることは、いかにもふさわしいことのような気がしている。また個人的にひどく嬉しい。それは単に僕が室内楽自体を好きだからということではない。僕は室内楽というスタイルと作曲家の意識との関連に根ざして、今現在の坂本龍一の、例えば弦楽四重奏あたりを聴きたかったのである。僕は、(削除されることだけがはっきりしているとは知りながら)しきりにsiteSakamoto宛てにe-mailで催促したものである。ちなみに僕はかなり頻繁にファンメールなるものを送る。べつに実際に坂本龍一読まれようが、読まれまいが一向に構わないのである。それは完全に自己完結した儀式的な行為なのだ。ややこしい内容のものを送る場合もあるが、たいていは、「o(^o^)oワオ !」やら「ヽ(´▽`)/エへへっ」といったレベルの誠に無内容な、下手するとイタズラと見なされ兼ねない(つーか、イタズラ?)迷惑なメールなのである(^^;
e-mailって気軽過ぎ!
一般論的かつ概括的に言えば、室内楽は、古典主義初期には、オーケストラ(現在のような大規模な編成が確立されたのはワーグナー以降であるが)の原型みたいなものである。小規模な編成に楽器が倍増され、さらに新しい楽器も加えられ、やがてオーケストラへ発展していくという構図である。厳密な歴史過程というよりはメタファーとしてだが
、この時期、室内楽とはオーケストラのちっちゃいやつ、あるいはサロンなんかでBGMを提供してくれるお手軽な編成というぐらいの認知である。弦楽四重奏など近代室内楽の形式を確立したのは、交響曲同様ハイドンである。しかし、音楽表現における室内楽の独自の存在意義を明確にしたのは、やはりベートーヴェンだろう。彼はオーケストラにはオーケストラにふさわしい音楽(交響曲、協奏曲、管弦楽)を、室内楽には室内楽にふさわしい音楽を誕生させた。交響曲の作曲は、ベートーヴェン以後の音楽家にとって、用意周到な準備の果ての大事業であり、自身の音楽的理想の究極を花咲かせる晴れの舞台である。そこでは作曲家は、スーパーマンであらねばならない。
対照的に、近代室内楽、とりわけ弦楽四重奏などは、いわば作曲家の日記の如き存在であるといえる。我々は、大舞台を降りた作曲家が、等身大に戻って人間臭い告白(時には弱音や呪詛を・・・)を切々と歌い上げるのを聴くことが出来る。交響曲は、絢爛豪華だが、全体として美しいハーモニーを実現しておればよいので、個々の演奏家の心情や技量はあまりみえてこない。一方、室内楽の場合、個々の演奏家、たとえばヴァイオリンならヴァイオリンで、弓を弦に押しつけ、上げ下げする運動の強弱、遅速などあらゆる微妙なニュアンスが聴衆にダイレクトに伝わってくる。この緊張感や個々の演奏家と聴衆の心情的な距離の親密さは、告白的な音楽を演奏するうえで、非常に雄弁な表現環境である。間違えたらすぐバレるしね(^^;
さらに20世紀に到って、シェーベルクら新ウィーン楽派、バルトーク、ストラヴィンスキーといった、現代音楽への橋渡し的役割を担った革新的な音楽家が登場すると、室内楽は、彼らの格好の実験場となった。実際、もうやりたい放題という感じで試行錯誤している。管弦楽と違い、身軽な分、物理的な制約から自由で、リズム的にもかなりのアクロバットを見せてくれるし、とんでもない音色を出したりする。ソ連という閉域で独自の道を歩んだショスタコーヴィッチなども弦楽四重奏でオルガンみたいな音を出すからねー、びっくりしたのなんのって。20世紀初頭の音楽家って、なぜか室内楽では、やたら過激なのだ。車のハンドルもったら性格変わるにみたいなもん・・・・って違〜〜う!室内楽は、見た目の地味さに反して、とてもスリリングなスタイルである。もうわくわくなのである。
近年の坂本龍一の音楽表現の命題とこれらを踏まえたうえで、『LOST CHILD』を聴いたら何が読み取れるだろうか。大作『LIFE』の作曲者・坂本龍一の密やかな告白だろうか、はたまた過激な実験だろうか。ところで、主題にあたる旋律については、少々通俗的な印象を拭えないきれない。下手すると、昼のメロドラマの愁嘆場の臭い演技の場面に流れるBGMっぽく聞こえかねない。通俗性をヴィルトーゾで持ちこたえるみたいなところがちょっとある。それはともかく、弦楽器が加わるとやっぱりいい。これは僕の勝手な願望に過ぎないが、できれば坂本龍一の弦楽四重奏曲を聴いてみたい。妥協のない、凛とした厳しいやつを・・・。
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