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01/05/08
『Africa Note』のある場所 2


リアルな社会的生の回復 〜『無力感』から『先鋭意識』へ〜 

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前項の『<問題>の認知をめぐって』を試しに印刷してみたら、A4版で5枚もあった(^^; たとえ奇特な人でも、これはいくらんなんでも読みにくいだろうと思ったので、複数のページに分割しようとしたが、1ページに収まった方がオフラインで読むとき便利だよな〜と思い返して、そのままである。改めて読み返してみると、それは、さながらポスト55年体制の政治意識のステレオタイプのひとつといったところのようである。それは僕だって、先進地域に限ってみても、21世紀中は、現実には、今まで通り、常に政治的リーダーシップが要求され、歴史教科書は<政治的>問題とその解決や挫折が中心を占めることだろうと思っていることに変わりはない。連日報道される内外の情勢の混迷を鑑みれば、いっそうその意を強くせざるを得ない。南北における富の格差は一向に解消されないし、冷戦構造の終焉は、即ち民族問題噴出の開始である。

さりとて、僕は画餅のような夢想に耽ったつもりはさらさらない。従来の政治権力をひっくり返して、またぞろ巨大な政治機構を構築するという社会変革上の悪循環から脱却して、『政治的課題の影響力が必要最小限へ向かって徐々に減衰していく』(前項より)という反対を向いた系を同時並行に思考しなければ、とりわけ先進国に関する限り、今後は、内外の情勢とその展望を見誤るだろうことは必至であろうと思う。(無論、それは<社会>問題が減るということではない。)近年、先進地域では、『政治』や『経済』を中心に据えることで、立ち現れてくる旧来の世界象・社会像に拠った政治的力学では捉え切れない変化の兆しがそこかしこに現れはじめている。従来の市民運動とは異質のNGOやNPOのあり方などは、その一例であろう。それらは、政治的力学の磁場の及ばぬ場所で発生し、独立した力学を働かせて現実に難題を解決し始めている。むしろ『政治』が、その後を追うというケースも珍しくない。それは外在的な変化に終わらない。旧来の世界像・社会像の修正という内在的な変化をも迫るものである。こうした変化(の兆候)は、われわれの社会的なレベルの生にとって何を意味するのか?

70年代、いわゆる学生運動における挫折の季節を経たあと、たいていの日本人は、政治運動から身を引き、高度経済成長の担い手として企業体に取り込まれ、ささやかなマイホームを目標に経済最優先でがむしゃらに突っ走った。そこでは学生運動時代のディスクールや問題意識は青臭い理想主義として回顧された。いきおい専ら生活の物質的豊かさにのみ目が向けられることになり、目先の実利的思考の持ち主がリアリストと見なされた。そして、80年代、日本経済の好調はピークに達し、日本人はバブルに浮かれた。さらに社会主義陣営の悲惨な実態が明らかになると、欲望の原理としての資本主義の恐るべき柔軟性が肯定的に捉えられ、歴史主義的な政治理念や倫理は忌み嫌われ、懐疑する風潮が強まり、浅田彰や中沢新一らを旗手とするニューアカが流行ったりした。

90年代に入って、バブル経済がはじけると、日本経済の神話は崩れ、社会に楽観的な雰囲気は失せた。しかし、高度な経済システムの行き届いた緩衝機能は、国民にかつてのような不況の深刻さを体験させはしなかった。不況には違いないが、オイルショック時のような騒動が勃発することもなければ、まして江戸時代の飢饉のように餓死者がでるわけでもない。経済危機がおとずれたことは間違いないのだが、後進国のような貧困に比べれば、基本的には差し迫った変化は現れない。日本人は、世界の終末もやってこなければ、さりとて革新的事象も起こらないという宙吊り状態にさらされせる。それは永遠に続くかのようである。すると次第に現実感覚が稀薄になってくる。加えて戦後民主主義の綻びが、教育現場とその周辺で本格的に表面化し、ある種ニヒリスティックな状況を現出した。宮台真司はこれを「終わりなき日常」と表現した。(←記録的なスピードの精神史概観・・・いいのか?(^^;)

ここで決定的だと思われるのは、日本経済の神話の崩壊がもたらした敗北感ではない。むしろ、敗北感が稀薄にしか感得されないことこそが決定的な経験であったと思う。人間というものは、考えている以上にしぶとい生き物であって、戦争のような極限的な惨禍を体験しても、数年も経ればケロっとして、なんらそこに教訓を見出さないことなどはザラのようである。まして、バブル経済破綻の波紋による諸々の経済的実害のごときは、日本人の世界像に根本的な変革を迫りはしなかっただろう。より本質的だと思われるのは、むしろ出口のみえない不況に見舞われながら、それを後進国的な貧困問題ほどには、実感できないことだ。そこのことは、われわれの所属する『社会』というものが、すっかりわれわれの手の届く範囲をはるかに超えたところで、勝手に自律的に機能しているかのような眩暈の感覚を催させはしなかっただろうか。日本人は、今や完全に『社会』から切り離されたように感じたのではないだろうか。

個というものを稀薄化して、専ら人間をひとまとまりの集団として統計的に扱う『政治』や『経済』の際限のない複雑化及び影響力の肥大化は、その恩恵の代償として、われわれの社会的生に甚だしい虚構性や抽象性をもたらした。その成員たる個々の人間は、複雑な社会システムへの働きかけの実効性についてまるっきり自信を失い、無力感にとらわれがちである。その結果、めいめいの人々が、めいめいの自己幻想や小規模な共同体の中に閉じこもり、みずからの社会的生の成熟を怠るという傾向を顕著に示している。そうしたなか、近年、新しいセンスをもって発生し、流入してくる諸々の社会参加の模索は、旧来の世界像、社会像からの脱却を促し、我々の社会的生に再びリアルと充実感を取り戻しうる期待感を抱かせるものとして映じつつある。手応えの稀薄な社会的生の虚構性や抽象性に耐えながら、そのリアルの回復を模索することは、先進地域の人々にとっては、最も重要な社会的命題だといっていい。これは紛争や貧困といった直接的な(=前近代的な)政治的、経済的問題を克服せねばならない段階にある後進地域では、とうてい想像すらできない未知の命題である。

この未知の命題がもたらす困難に関して、いわば政治運動世代とポスト政治運動世代とでも分類すべき世代間には、しばしば認識上の大きなギャップがあるようだ。旧来の世界像に縛られた政治運動世代の世界認識や倫理観の限界は、先進地域の人々が社会的生にリアルを回復しようと模索するよりも、飢餓や紛争状況といった後進地域特有の課題の方が文句なしに困難であり、悲惨であるとしか認知できないところにある。しかし、本当はどちらがより困難であるか、比べようがない。むしろ、飢餓や紛争状況について、解決案や倫理的な言論を並べるのは、人類にそれについての豊富な経験や教訓が蓄積されてある分、容易である。わかりやすいのだ。さらにお粗末なことには、多くの政治運動世代は、リアルな社会的生の回復についても、政治運動でもってそれを成就すべきだという一元的な発想しかもち得ないことだ。

たとえば、こういう事態に似ている。今現在、日本では不況にともなうリストラなどの社会不安によって、働きざかりの壮年のうつ病が増えている。うつ病のやっかいさは、無意識の次元では、劇的な変化が起きているのだが、傍からみれば普段と変わらないところだ。うつ病の知識のない人には、つまらない理由で怠けているようにしか見えない。一方、癌患者はどうだろう。癌細胞がひろく転移しておれば、日常生活を送ることができずベットに伏せ、なにやらものものしい医療機器が患者を取り巻き、患者は、力なくうめき声をあげる。いかにも悲壮感漂う光景である。こうした光景に同情を寄せない人はいないだろう。うつ病患者はいよいよ肩身が狭い。しかし、うつ病は怖い。うつ病は、自殺念慮をともなうが、それが実行にうつされてしまうこともあるのである。すなわち、人間の同情心は見た目に左右されやすいという、いい加減な側面がある

先進地域の未知の命題がどれほど認識し難いものか。実は、ここには先進国の人々が、政治制度や経済システムの立ち遅れた経済後進国に支援活動におもむく隠された動機が存在する。それははっきり言ってしまえば、村落共同体の原初的な親和感へのノスタルジーであり、先進国の社会的生の虚構性や抽象性からの<亡命>、<脱出>にほかならない。海外援助の最も欺瞞的な場面では、<贅沢>な生活を捨て、敢えて後進国の社会的困窮に身を投ずるという美談を装いつつ、教師やリーダーとなるために(つまり先進国で見出せなかった自己の存在証明を得るために)近代的な技術や知識に無知な人や地域(つまり、既に処方箋のわかりきった諸問題)を捜し求め、なおかつ直截で素朴な人間らしいコミュニケーションへ回帰することを渇望している。(先進地域では、すっかり耐用年数の過ぎたイデオロギーに固執する過激派が、中東地域などへ亡命し、傭兵となって紛争地域を転々とするのも表裏一体で同じ構造である。)

僕は、ここで海外支援の欺瞞的構造を暴露し、冷笑を浴びせようとしているのではない。つまり、先進地域特有の問題はあまりにも見えにくいため、先進地域の慈善家をして、彼らの善意と献身的行為を傾けせしめる対象を、自国内では容易に発見することができないほどだ、ということが言いたいのである。たとえ治安の悪い国で、テロの脅威にさらされながらの支援であっても、処方箋のわかりきった問題に取り組むことよりも、輪郭のはっきりしない、まだ解答を与えられていない先進国の諸問題に取り組む方がより困難なのではないか。例えば、見えにくい問題のしわ寄せを被った最も悲惨な箇所では、小学生がいじめで自殺へ追い込まれてる。想像を絶した地獄絵図だ。しかも、この場合、われわれは全くの部外者として、そのような惨劇に同情することを許されない。なぜなら、度合いの違いこそあれ、必ずなんらかの意味で、われわれ自身の振る舞いにも責任があり、従って苦い自戒をともなうからだ。

ジャーナリズムやマスコミによって、無批判に決定されている社会問題のプライオリティに幻惑されなければ、自然のうちに実感されてくる、本当に深刻な問題郡に関して、専らわれわれの物質的生活にのみを扱う『政治』や『経済』に何を期待できるだろうか。後進地域における貧困や民族主義の噴出による紛争という問題が解決しても、複雑な社会システム下におけるリアルな社会的生の回復という命題はヘタすると最後まで残ってしまうという悪夢にとらわれがちなのは、僕だけだろうか。極端なことをいえば、貧困問題や民族紛争は、当事国や国際社会にその気があれば、『経験』を頼りに少なくとも解決の手立てに関する見当をつけることができるだろう。つまり、いかに悲惨であったも、何か解決へ向けての取っ掛かりがあるのである。しかし、米国や日本で起こっている凶悪な少年犯罪など先進国で起こっている奇怪な問題の数々は、いざ、その気になっても、『経験』の教えるところは極少ない。

精神医学の提示する古典的な因果関係を、昨今の少年犯罪にあてはめることは、はなかなか容易ではない。古典的な凶悪殺人事件を分析した場合、殺人犯の生育史を調べてみれば、確かにそこには<異常>がみられたのである。殺人犯は、必ず不幸な生育環境をバックグランドにもっており、人々は、彼の心のうちに非人間的な感情が芽生えていくプロセスを明瞭に見出して、狂気に到った経緯を納得することができた。しかし、現在の日本で犯罪を犯す少年達の生育環境に、いわゆる<異常>は認め難い。彼らが育った生育環境を<異常>だというならば、日本のほとんどの家庭は<異常>だということになってしまう。(実際、そうなのかもしれないが。)犯罪心理学者は、ワイドショーの求めに応じて、部分的な正論を述べ、視聴者を安心させることはできるかもしれない。しかし、彼らが、マクロなレベルで精神病理学的な因果関係について述べるとき、それは主観性の強い仮説にならざるを得ない。

今や経済後進国の抱える問題と先進国の抱える問題の困難さの間には絶望的なほどの断層が横たわっている。両者の抱えるめいめいの諸問題を並置して語ることはもはや不可能だ。まずこの決定的な差異点を弁別しなければ、何もはじまらない。頭脳がすっかり硬直して時代の変化に全くついていけないにも関わらず、やたらに世情を古臭い切り口で論評したがる輩がよくやらかす過ちがある。曰く「当節の教育問題は、子供たちがぜいたくをして、甘やかされて育ったのが原因だ。世界にはまだ毎日の食事にも事欠く貧しい国があるというのに・・・・。」といった風。彼らは平気で両者を並置して勝手に得心する。全くいい気なものである。そうして、渋谷あたりにたむろするコギャルとアフリカで飢えやせ細った乳児を<対照的な光景>としてイメージする。あるいは、実際に映像化してみせる。なんと救い難いがさつな思考であり、倫理的退化であろう!しかし、これらの倒錯的な平面思考は未だに支配的なのである。そして、この種の平面思考の横行が、先進諸国が直面している諸問題の解決をいよいよ遅らせるというわけだ。僕は、先進地域と後進地域の、決定的な差異線に横たわる断層の深さをわきまえない国際問題の言説を信用することができない。

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