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『タナトス的、「がん告知」的、Diary』(3)

スローガンにせずというよりは・・・・・・

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ソシュール以降の言語学の概念が一般に流布された現在になってみれば、旧世代から日本語の乱れへの憂慮が提起される時、その表面上の無作法さや醜悪さからもたらされる不快は表層の動機にすぎず、ほんとうは旧来の共同体を成立せしめていた諸々の共通了解が壊滅することへの危機感に端を発しているのだという推測は、誰にでも容易なことだといえる。<言葉>の機能のうちで、人間の社会生活にとって最も重要で日常的なものは、共同体を形成するという働きであろう。日常生活において、大半の人間は、もっぱらその機能を十二分に発揮するために<言葉>を使っているのであって、なにも真実を言い当てるために<言葉>を使っているのではない。むしろ、ほんとうの意味で、何事かを正確に言い当てるために<言葉>使うことの方が例外的なケースである。

学問的な言説ですら、一見、探求の装いをもって<言葉>を使うようにみえても、その多くはやはり論者をアカデミーや何々学派といった共同体の成員に位置づけるべく使役されている。さらにそうした言語の共同体形成機能が、容易には自覚できないほどの深層意識において支配的に機能する場、そのある種の地勢図のようなもの指して、パラダイムやらディスクールと呼ぶのかもしれない。ところでファンというのは共同体である。たった独りでファンということはあり得ない。そこで展開される言語コミュニケーションの諸相は、言語の共同体形成機能を端的に示してくれる。ファンという共同体内で、特別な役回りを要請されているスターやアイドルのある振る舞いは、それがたとえありふれた性格的要因によるものであろうとも、ファンやそれを取り巻くメディアは、そこに無理矢理何か神秘な解釈を与える。 

僕が坂本龍一のことを彼のニックネームである『教授』と呼ぶとき、僕は積極的に有形無形の教授ファンという共同体に帰属することを望んでいる。そういう心的な事実は誰でも少し注意してみれば気づくだろう。『教授』と言った時、僕は、有形無形の教授ファンという共同体に帰属することで得られる諸々の快感を(たとえ一人でモニターに向かっているときでも)享受している。そして、僕は半無意識的になるべく共同体の形成に寄与するような<言葉>を探している。そこから逸脱しまいと勤める。ところが、ひとたび坂本龍一をいくらか『批評』に近い俎上にのせ、容赦のない吟味をしたくなった途端、面白いことに自然と『教授』と呼ぶことに抵抗を感ずるようになっていった。もっとも、それは単純に<客観>世界へ彼を引きずり出したことを意味しない。(近代的な意味における素朴な客観世界などない。)また、他者の視線への配慮も消えていない。

僕には矛盾したふたつの欲望がある。あくまで教授ファンという共同体にいたいということと、そこから逸脱して僕の信ずる坂本龍一像を立ち現したいというふたつの欲望が。おおまかに言ってしまえば前者における言説の適当・不適当の基準は、教授ファンという共同体に依存しており後者における言説の妥当性は、僕個人が到った確信に依拠している。坂本龍一は「ファンは黙ってついてこい。」(decod20)などと言ったりしていたが、近年は、彼自身がファンという共同体の成立を拒むような存在になってしまった。今までならまた別のファン共同体を再建することも可能だったが、ファン共同体の形成自体が不可能になってきている。従って、現在、いわゆる教授ファンという共同体は余程欺瞞に欺瞞を重ねない限り成立が難しくなっているように思う。僕自身は敷居をまたいで複数の場を移動するというズルイ(笑)方法をとっている。坂本龍一のフォロワーでいるには、このやり方が一番快適なようである。ところでマーケット的には、ミュージシャンがファンという共同体を形成しやすいようなキャラを保持し続けた方が、戦略を立てやすいことは言うまでもないだろう。


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今、現在、日本国民全体の3分の1でも繋ぎ得る<言葉>というものは存在するだろうか。共同体形成機能としての<言葉>が乱れる時、まずまっさきに乱れるのは、倫理とその周辺の<言葉>である。現代の日本人の精神病理は余程深刻であって、喩えれば分子か原子のレベルで壊れているように思われるが、あらゆる倫理の<言葉>は空虚に響いている。これは何も大衆に限ったことではない。インテリだって無茶苦茶である。(というよりも現代のインテリは大衆の一変種である。)彼らは、真正面から倫理の<言葉>を扱うことを忌避し、その代わりに、ひたすら失効と見なされている<言葉>に親近しないこと、似ていないことにばかり腐心している。無数に張りめぐされた蜘蛛の糸に足をとられまいということだけでエネルギーを使い果たしてしまう。彼らは皆ただ次ぎのことを言うだけで精一杯である。即ち、「諸君!見給え、私はどんなヘマも犯さなかった!」

高度情報化社会だ。我々は足の爪の先から頭のてっぺんまでマスメディアにどっぷりつかっている。オピニオン・リーダー達の忌避と留保を重ねただけのガランドウのネガティブさと警戒心だけがマスコミを通して大衆に満遍なく流布される。誰も自分の頭で考えやしない。あたかも自分の日常生活や社会生活にまでテレビカメラが侵入していると妄想を抱く精神病者のよう、国民大衆の大半が、やはりヘマを犯さないように、無様に見えないように、そのことばかり気にしている。つまり倫理の<言葉>が崩壊しているので、どのように見えるかだけが、唯一の基準ならぬ基準なのだ。たまに生活実感から思考を立ち上げようと思い立っても、<先進国>の社会生活は何だか抽象的だ。自然の贈与から見放され、財布のひもばかり気になる日本のレジャーは、泥臭い自然に取って代わって、万般に渡って予め周到に仕立てられた娯楽機械に頼る他ない。アウト・ドア派?一体、管理の行き届いたキャップ場サービスのどこがアウト・ドアだって?

共通了解が崩壊する一方の<先進国>日本では当たり前の話や常識を確認すること自体が「癒し」となり得ている。たとえばことわざの中に息づいている古人の知恵のような意味における<常識>の<言葉>を発すると、現代社会では、どんな風に響き、本来の意味をまともに吟味されることもなく、しまいにどこへ滑り込んでしまうだろうか。おそらく単なるネガティブな相対主義に堕している戦後民主主義の担い手としての新左翼、進歩派文化人、市民社会主義者あたりの同類と見なされるだろう。そして、観覧者からは「なーにタテマエ言ってやがんだ」と冷笑を浴びせられるに違いない。現代社会で<常識>が猜疑心をかわして、ストレートに人々の心に届くには、周密な計算と仮装が必要である。例えば、あいだみつをや326といった人達がやるように。彼らのようなポエットを仮に<常識確認系>としよう。彼らの<言葉>は世間ではラフだと評価されているが、その実、少しもラフじゃない。ほんとうにラフならば、誤解されるはずである。

彼らのような<常識確認系>のポエットから多くの日本人が癒されざるを得ないという現象自体が、日本人の精神が分子・原子レベルでひびがはいっている証左のひとつとも考えられる。そのポエットらの言っていることは、(彼らほど巧みに表現することはできないかもしれないが)本来なら誰もが弁えていた知恵、つまり<常識>である。すれっからしの人間不信にみちた現代の若者達も、いくらかかつての<常識>の痕跡を胸中深くに残している。そして、<常識確認系>のポエットの愛読者達は、<常識>がタテマエとして軽んぜられる現在の奇怪な言語環境に密かに違和感を感じていたのだ。そこへ、326といったポエットが、当たり前のことを、現代人の猜疑心を巧みに交わしたイラスト入りの詩語で表出してみせる。すると彼らは自分の中に残存している<常識>の妥当性を確認し、さらには自分と同じように感じていた読者を多数発見して安心する。見様によっては、かなり情けない末期的光景なのである。しかし、またそうした確認行為が必要なら恥も外聞も捨ててやっておくにこしたことはない。別の凶悪な方法で確認行為をする少年達まで現れてしまっている始末なのだから。

先日、来日したダライ・ラマ14世も、一般公演ということもあってか、某大学における公演と質疑応答、テレビ取材におけるインタビューに関する限り、やはり「あたりまえ」の言説を繰り返していた。もちろん、前回触れたようにその内容は、はじまりに過ぎない<常識確認系>よりずっと深く立ち入ったものであり、仏教思想に裏打ちされてもいよう。それに「あたりまえ」のことを忘れ、あるいは馬鹿にしている日本人に対しては、「あたりまえ」の話をすれば事足りたのであって、殊更に新奇な言説を弄する必要は全くなかったのである。むしろダライ・ラマ14世自身も<先進国>特有の哀れな病理現象をよく察知しているように思える。それでも、同じ内容を、もし日本人がストレートに日本社会で表出したらどうだろう?やれ人権派の空説だ!などと罵られるに違いない。無茶苦茶である。さらにやっかいなのは、「あたりまえ」の話へ浴びせられるこうした一連のリアクションが、今やパブロフの条件反射さながらであり、思考停止していることだ。いや思考停止などはまだよい。むしろ問題は精神を病んでいることである。

ダライ・ラマ14世の「あたりまえ」の話が、日本人に受け入れられるためには、やはり荘厳な来迎図的な舞台演出が必要だった。発言者としてのダライ・ラマ14世の強みは、まず第一に<外部>からやってくるというイメージだ。さらに、合理主義や能率主義に支配され、そのうえ従前の教会や寺院が利益追及と偽善にまみれているという抜き差しがたい先入観をもっている<先進国>の人間からみれば、質実剛健ながらもエキゾチックな僧衣にたくましい肉体を包み、円満な微笑をたたえて登場するダライ・ラマ14世は、まさに本格的な深い精神性の象徴のように思われたに違いない。もちろん、チベット仏教僧にしてみれば、いつものように伝統的なしきたりに則った衣装と所作を敬虔な信仰心から忠実に守っているという以上の意味はないのだろ。来迎図的舞台演出の必要は、こちら側の事情である。


- 3・1 -

暗黙の共通了解が気狂いのようにバラバラに分散し、小さく融合してはたちまち分裂していく現今の言語環境を踏まえた時、『LIFE』のスーパーヴァイザー浅田彰が、『Document LIFE』の『「LIFE」への序』の中で、2000年の人類の歩みそのものに想像力を働かせたり、認識の灯火を照射してみるというよりは、もっぱら彼の習性ともなっている論壇<内>的警戒心を働かせて、単線的な歴史観の幣を教訓し、『LIFE』が単一のイデオロギーの現実化を目指す<スローガン>となることをしきりに懸念してみせ、否定する姿は、いささか滑稽にみえてくる。僕はよし望んでも<スローガン>になんかになりようがないよ、と思う。ああした彼の言説は、彼の思想的立場から言って妥当であるという独り善がりはあっても、もっとも生々しい現実社会の動静とはほとんど無関係で見当違いな関心事だといえる。 浅田彰の世界史=俯瞰的な切断面は、一見まことしやかに似せられてはいるが、一種のシミュレーション世界みたいなものである。

もっとも、それはあらゆる世界史=俯瞰的な切断面の宿命的な空しさである。そして、この切断面の説得力は、そもそも世界史の俯瞰図の作成がほとんど不可能であるのだから、切断面そのものへダイレクトに批判の矛先を刺し込むのは、半永久的に不可能だという欺瞞性によって保証されているのだと言っていい。ひとつも自前の切断面をもたない頭脳にとっては、『LIFE』における浅田彰のそれを決定的な切断面と思い込むほかないかもしれないが、「共生」の必要性を世界の諸要素の再編集から立ち現れた別の切断面によって論証できる者らにとっては、自説ともども宙ずりの手ごたえのない知的生産だということになる。この一種のニュートラル状態に終止符を打つには、合意形成の議論を繰り返す他ないが、この浅田ケースに関しては、そうした正攻法に骨を折ることは、ピントはずれである。

『しかし、言葉でそういってしまえば、人はまたしても単一の原理と目的をもつ単線的な歴史観に、その安直なスローガンに舞い戻ってしまいかねない。』(『「LIFE」への序』 浅田彰)

より本質的な問題だと思われるのは、なぜかくも執拗なまでに浅田彰は、この種の言説を繰り返すことに終始したのかということである。我々は、額面通りに、世界史がめいめいの独善的かつ排他的な正義の名のもとに行われた戦争の連続であり、それを繰り返すことを憂慮しているのだ(だから、複雑系、共生系への道筋という手続きを取るわけだが。)と受け取るべきだろうか。しかし、いくらかなりともテクストの論理構成のみならず論理構成の裏側、ニュアンスをも読解し得る者は、言説全体の疲労感や厭世的なトーン、具体的には散見される奇怪なフレーズの数々に、何か不純な、狭量なたくらみを感じないではいられまい。よく出来た俯瞰的切断面形成のための、彼の編集作業の密室には、ある意図が、「子羊」らしい底意が秘匿されていはしまいか。僕には、それが美しい『LIFE』を理念上において奇形物にしてしまったように思える。巨人は手足を縛られたのだ。

ついでに付け加えると、浅田彰のロジックには、なぜ人々がめいめいの「正義」を信ぜずにおれなかったのかという内部からの人間理解の苦闘の痕跡から醸し出される含みというものがまるでない。単に昔の人が愚鈍だったのだろうという程度の認識しかない。これでは、まるで、かつての西欧人が近代化されていない地域の住人を未開人としか見れなかったのと同程度の人間理解である。これは世界史を要約的に語らなければならなかったという実際上の必要からそうなったのではないだろうと思う。なぜなら、浅田彰がB級アニメじみた単純な大衆理解を借定した上で、文明・社会批判の難解なロジックを組み立てることはままあることだからだ。ソ連崩壊という20世紀最大の思想上の実験の失敗を見る羽目になった我々にとって、単線的な歴史観、単一の超越的な目的は失効した云々を言うのは無責任かつ非情の容易である。外野席から野次るのと同じで、子供にでも言えることだ。なぜ、現代人と比しても、決して愚鈍ではない彼らは「正義」を信じずにいられなかったのか、そこから思考しなければ、ほんとうの教訓も超克もあり得ない。

さて、こういう問い方をしてみたらどうだろうか。即ち、万一『LIFE』が<スローガン>として実効し、現実的な諸力を奮うようになったとしたらどうだろう?浅田彰にせよ、坂本龍一にせよ、すっかりビビってしまうだろう。例えば、何かしらの社会変革にまでこぎつけるだけの器量と見識が、彼らにあるとは誰もちょっと思えないだろう。(ただ坂本龍一の場合は、思い込んだら一途に突っ走る怖さ、野蛮さを秘めているが。)まずこの仮定(僕にはほとんど動かしがたい真実だと思われるが)を明示し、確認しておこう。そして次ぎの点に注目すべきだ。浅田彰は決して"<スロ−ガン>として実効したら怖いし、面倒くさいんだもん"とは白状しない。で、"我々の明察は、世界史の教訓を踏まえ、敢えて<スローガン>を避けるのだ"とカッコイイ言い方をする。この体のいい言説のほんとうの底意は、「やろうと思えばできるけど、私は利口で正しいからやらないのだ。」といった自己欺瞞のロジックにろう城して、自分の臆病さや小人性を隠蔽することにあるのではないか・・・・・そう、僕は今あの有名な心理学に言及しているのである。

『ここに<反感>(ルサンチマン)というのは、本来の<反動>(レアクシヨン)、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の<反感>である。』(「道徳の系譜学」から第一論文。ニーチェ著 岩波文庫)

『子羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうとおもえばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている。だから鷲も私と同じようにしてもらいたい・・・・・」』(「ニーチェ」から哲学。 ドゥルーズ著 ちくま学芸文庫)

当コンテンツの『LIFE体験』の中で、僕がその直感的な反発を表明した「救済のないことを発見することこそが救済」(ベルトリッチ)もしくは「救済の不在という救済」(浅田彰)といった奇怪なフレーズも同類である。これらを結語とする論展開は、一見世界史の現実をつぶさに総覧した上で教訓されたかのような体裁をとっているが、その実、ありふれたニヒリズムであり、さらに真意は、臆病をさとられずに諸々のレベルや形態の<行動>を嘲笑的に禁止することにある。そこには、<行動>に不可避的に伴う諸々の<危険>― 失敗、混乱、浪費、苦痛、恐怖、誤解などを典型的な終末人としての近代人さながらに忌避する浅田彰の小人性がよく反映されている。まさしくニーチェの言うところの「奴隷道徳」の心理類型を現出している。無論、ニーチェが指摘したように、こうした自己欺瞞の命ずるところは常に<反自然>である。一方で地球環境を共生系として捉えるヴィジョンに共鳴してみせながら、そしてこのヴィジョンが知的操作や芸術に完結する性質のヴィジョンでないことが自明にも関わらず、あらかじめあらゆる<行動>の契機を摘み取っておくこと、それが『LIFEへの序』における浅田彰の企ての真の目的である。知や芸術の自己限定という文脈も補足されてはいない。

こうしたコンテクストで『Document LIFE』の浅田彰の文章(LIFEへの序、LIFEの語るもの)を注意深く読んでみれば、彼のほんとうの心配がどこにあったのか明瞭である。僕は『LIFE』開演前のほの暗い会場のシートに座りながら『Document LIFE』の浅田彰の文章を目で追った時点で、既に我慢ならない気持ちだった。しかし、あの頃『LIFE』が、問題外の冷笑に埋没しかねない状況を苦慮すると、僕は自分の弱小ページの中ですら、その不快に詳細に言及する気になれなかった。また白状すれば、いつものことだと、あまり深刻に受け取ってなかったこともまた事実ではある(^^; しかし、今となれば断言させてもらう。「救済の不在という救済」やらアンチ<スローガン>の言説といった、『LIFE』における浅田彰のロジックの組み立ては、彼の臆病を隠蔽するための詐術に過ぎない。あれらの文章の代わりに、前出のドゥルーズの著作からの引用文を反復列記した方がずっと誠実である。哀れな坂本龍一は、小判鮫・浅田彰の周密なルサンチマンの言説に翻弄されたのだ。

浅田彰は有能な学者である。 ドゥルーズの思想の良き解読者である。(浅田自身はちっとも生成変化的ではない。)浅田彰のチャート式ガイドブック『構造と力』なかりせば、僕なんぞにドゥルーズ=ガタリの独特に難解な思想の、その一端すら理解できたかどうか疑わしい。にも関わらず、ニーチェとベルクソンを引き継ぐドゥルーズの有能な解読者であることは、ニーチェが暴露したあの心理的構図におさまらない理由にはならないのである。僕の見る限り、浅田彰は、有能な学者としての学問的営為以外では、映画や音楽などの文化的な催しのシンポジウムの招きに応じて、いそいそと出かけ、博識ぶりを披露し、通説とは一味違うけれども、結局は当り障りのない話におさまる、といったそつのない芸風で文化的な催しに花を添えるのが相応な役回りのように思える。弁護ならぬ弁護をすれば、『LIFE』において、彼にその器量と見識を超えた役割を与えてしまったことで、否応無く彼の限界が露呈されてしまったともいえるかもしれない。

- 3・2 -

『LIFE』構想段階における坂本龍一の呻吟とラジカルな探求は独創的かつ豊かなものであった。それはありふれた現代的教養に留まっていない。地球環境をギリギリの共生系、複雑性として捉え直すこと。生命誕生からの膨大な記憶を蔵した知恵と全生命を繋げるものといった遺伝子観。健康問題に端を発した死生観への深い思索ではアジア的な英知への接近があった。しかし、これら『LIFE』の基本理念の豊穣さも、その結語に到って、共生系時代の<行動>の解明というポジティブな挑戦は回避され、貧乏臭い浅田臭の検問の前で足踏みしている始末だ。

『物質と生命が織りなす複雑性に少しでも近づくこと、それをスローガンにすることなく、体験すること。それがオペラ「LIFE」だ。』(坂本龍一)

坂本の『LIFE』受容のあり方の提起における、このアンチ<スローガン>の立場は、坂本龍一自身が現代的な教養人であり、また『LIFE』構想の段階で、スパーヴァイザーである浅田彰を中心とした識者との対話を繰り返す中で、かたまっていったものであろうと推察される。一方で、これは理念性に対し、認識に先だって嫌悪感を催しがちな現代の通俗的な耳に心地よい響きをもつおもねりとも受け取れうる。なによりこれまで述べてきたように、表向きの洗練された理路とは裏腹に、ニーチェ的な価値評価の観点を援用すると、この姿勢の中には、致命的な<反自然>の自己欺瞞が秘匿されているのではないかという疑義が浮上してくる。

「単一の原理」によるある種の独善的な運動の幣を繰り返さぬために、その新しい理念性を打ち出すために、<スローガン>から「体験すること」へという転換が試みられているわけだが、二者間は本当に対立関係になっているだろうか?あるいは対立関係を持続しうるだろうか?その実、二者間の対立関係は極めて緩慢であって、生成にあっては常に結合する契機を孕んでいる。なぜなら、強力な「体験」の後に、なんらかのレベルの<行動>が勃発するということは、健康な人間にとっては必然だからである。そしてそれは<自然>である。これは即座に坂本的分裂へ接続されかねない。というよりも現にそうなっている。実感の薄いまま捨てきれない現代的な教養と強健な野蛮は、かつてないほどの大きさで分裂している。

ここらあたりが、専ら生成変化を知に特化して論ずることで、すっかり満足して収まりがついてしまう、うらなり先生・浅田彰と、ダイナミックな生成変化そのものの坂本龍一との決定的な違いである。坂本龍一と浅田彰の交流に関して、僕がいつも懸念しているのは、この相違を両者がしっかり弁えていない点である。浅田彰は、小人然たる学者風情に相応の関心事という他ない、横目使いの論壇<内>完結の穿鑿癖と警戒心の貧相を持ち込んでくる。極端な言い方をすれば、生の誹謗者、<反自然>の子羊が『LIFE』の理念形成を通して、鷲の大きな翼と屈強な足をもいでしまったといえる。坂本龍一の真実の実感は、diaryの中で表出されるような環境破壊や児童虐待への激しい憤激にある。そこで彼は真の反作用(レアクシヨオン)としての<行動>を起こしかけるが、今や彼の行く手には、あの<反自然>的なペテン=アンチ<スローガン>という遮断機が四方八方から嘲笑を絶やさぬ顔で待ちかまえている。無様な失敗に対して、それ見たことか、とあざ笑うのを楽しみにしている。坂本龍一は、ひたすら内向し、呪詛をぶちまけるより他にやりようがない。

<スローガン>・・・・・・。 なるほど教養人を気取る通俗的な現代人なら誰でもその言葉を耳にしただけで、いろいろマイナス・イメージを沸かせるに違いない。ペテン師は、言葉の選択が巧みである。浅田臭のする『LIFE』の理念後段から言えば、この<スローガン>という言葉は、そのまま<行動>と言い換えてもかまわない。穏健な控えめなNGO活動は、到底、坂本龍一の激しい憤激の受け皿とはなり得ていない。diaryからは、内向した坂本龍一が、どんどん不健康になっている様子が伝わってくる。彼はどんどん屈折している。持病に対する食事療法だと推測される彼の菜食は、自らの去勢でもあるのだろうか。動物性の食物を避けて、菜食に徹することは、彼を<精神的>にして、いくらか<行動>への欲望を抑制し、彼の苦痛を鎮静しているかもしれぬ。もちろん、ニーチェが「賤民は<精神的>である」という意味におけるそれであるが。

僕はここでいわゆる冒険主義を宣揚するものではない。また、ニーチェを援用しはしたが、ニーチェの近代やニヒリズムの超克の容赦のなさをそのまま持ち込もうとも思っていない。(実は、僕はニーチェの本義の過酷さにはついていけないのだ。)そうした前提を踏まえたうえで、僕がここで強調したいのは、<健康>や<自然>についてである。それを臆病から遮断したり、回避したら、どんな貧相な退嬰が待っているか、という問いかけである。新しい芸術作品としての『LIFE』の終結部は、坂本龍一の音楽家としての直観の確かさから、終末人の穿鑿にも関わらず、真の反作用(レアクシオン)と言い得る蛮行=バッハ風のコラールという豊かな宗教性をたたえた美しい旋法を断行し得た。これは幸いであった。しかし、基本理念においては、その大河の流れは小人の築いた堰に阻まれ、淀みには汚れた泡が無数に浮かび、悪臭を放ち始めている。

■ところで、浅田彰のみが一貫して狡知な「子羊」扱いされているというのは、やっぱり僕が坂本龍一びいきだからなんだろうなぁ・・・・。 実は、坂本龍一だって、もともと、坂本的命題の淵源を推察すれば・・・・ねぇ。坂本よ、人間憎悪はどんな理由があっても不毛だし、災いを呼び込み身を滅ぼすぞ!自然治癒力も減退するのでは?・・・・

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