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『友よ、また逢おう』 ― 90年代突入の頃 (前編)

村上龍と坂本龍一の書簡集『友よ、また逢おう』は、(不毛の?)90年代突入直後に月刊『カドカワ』に連載された一連の書簡を纏めたものである。書簡は、1990年3月から1992年5月まで、ほぼ2年あまりの間、ほぼ毎月一回のペースで交わされている。これは坂本龍一が、まさに音楽活動の拠点をNYに本格的に移した頃にあたり、作品的には、ソロアルバム『BEAUTY』『Heat Beat』、サントラ『シェリタリング・スカイ』『ハイヒール』『嵐が丘』の時期である。また解説は浅田彰が書いており、これも見方によってはなかなか興味深い見解となっている。まさに80年代トリオ・ザ・ポストモダン揃い踏みという感じである(なんじゃそりゃ)僕は敢えてポストモダンと規定しているのである。本人達の意向に反するにも関わらず。

坂本龍一と村上龍がお互い気のおけない知己であることは周知の通りである。坂本龍一などは、村上龍を同時代人とまでいっている。(僕らの世代で同時代という言葉は有効だろうか?)彼らの親交は、一説によると坂本の芸大在学時から始まっている。現代音楽系の某掲示板で、村上龍がテクストを書き、坂本龍一作曲の現代音楽と実験的なコラボレーションを行って、音楽批評家に酷評をくらったというエピソードを、実際にその曲聴いた人が投稿したのを僕は以前読んだことがある。なんだか猥雑な言葉がばんばん発せられるようなものらしいが・・・・はっきりとは覚えていない。なかなか緻密な記述だったのでログを保存しておけばよかったのだが。まあ、ともかく昨日今日に始まったことじゃないってことですな(笑) ←なげやり

ところで、この頃の僕は、相変わらず坂本龍一の音楽を愛聴しながらも、その「言葉」には冷めていた。このようなラフな「言葉」=手紙すら積極的には読む気がせず、図書館に立ち寄ったついでに、気がついた折りだけさっとななめ読みするといった具合だった。サンストを卒業して、自分なりの認識を形成しつつある生意気ざかりの僕は、はっきりいって言説面に関する限り、坂本龍一を馬鹿にしていたと思う。坂本龍一は、音楽に関してのみスペシャルな存在である、と簡単に規定して済ましていた。

『坂本龍一アンサンブルの「オキナワ・ソング」の演奏だけが、確然と日仏両方の演奏と歌と企画そのものを圧倒して、淡々と高度な官能性を発揮していた。(中略)坂本龍一はつまらない教養主義の発言をさせると駄目だが、作曲家・音楽家としては掛値なしに世界的なレベルにあるのだなとあらためて納得した。』(1989年5月初出。「情況としての画像」吉本隆明著 河出文庫)

上の引用は、『友よ、また逢おう』連載と同時期、当時の様々なテレビ番組を『マス・イメージ』『ハイ・イメージ』の文脈で吉本隆明が批評したさいの言動である。連載中この回では『夜のヒットスタジオ』(3/29 フジテレビ)が取り上げられており、坂本龍一もこの番組に出演していたためにたまたま言及されたわけで、論の展開上特別に重要な箇所でない。わざわざ思想の巨人の言動を引用する必要は全くないのだが、ただ、こうした入り組んだ感想、すなわち「言葉」はだめだが「音楽」は世界的な水準であるといった類の感想は、当時の僕ももっていたし、のみならず誰もがもちうるものだろう。おそらく解説を担当した当の浅田彰も。

通俗的な意味におけるポストモダンな頃の坂本龍一の言説は実にありふれていた。時折みせる驚くほど無垢な自己表白はともかく、ちょっと構えたときの坂本龍一の言説は、彼の世代にありがちな安直な擬似アナーキズムやディレッタンティズムに終始する場合がほとんどだった。如何にラジカルやアナーキズムのポーズをとろうとも、ポストモダンな、あまりにポストモダンな気風の凡庸さの枠内に留まるのが常だった。すなわち「言葉」の坂本龍一は極々平凡人だった。発言と芸術表現の間に単純な連関しかみようとしない人達にとっては、坂本龍一の言説は彼の音楽の評価を貶める機能しか果たさなかったかもしれない。

さて、僕は連載当時、どうせまた悪友同士の無内容なくだけた内輪話だろうぐらいに思っていたので、単行本も購入せず、6年ほど前に文庫本化されたのものを本屋で発見し、廉価に誘われて買うという有様だった。そして僕は一読してから書架に置き、そのまま内容と共にその存在を忘れてしまった。ところが、先日、「follow up ryuichi sakamoto」上で坂本龍一の言説面をおおまかに検討し、僕の考えを記しておきたいと企図し、手始めに『友よ、また逢おう』を手にとった。

で、これが意想外に面白く、集中して一気に読んでしまった。もともと面白い本だったのだが、連載当初は僕の方でそれを受けとめる感受性の用意がなかったのだ。こうしたことはいたしかたないことである。作品と個々の受け手側の状態との関係の不思議である。また、これは坂本龍一の音楽をずっと聴きついできた者の特権だが、本書に曲名が登場するたびに、頭のなかにその曲のフレーズが流れてきたし、坂本龍一が『シェリタリング・スカイ』のサントラ作曲に苦闘し、疲労困憊するくだりには、実際にその美しい旋律を再生装置で聴くこともできる。 実際のところ、僕は『LIFE』以後、『smoochy』以前の坂本龍一のアルバムにはすっかり興味を失っていた。siteZTYにおける坂本龍一のコンテンツの中で一向に進行しないものがあるのはそのためでもある。こうした精神状態はしばらく続くだろうなと構えていた。それが今回本書を読みすすむうち、坂本自身の告白に促され、久しぶりに新鮮な気持ちで『Heart Beat』などのアルバムを聴くことができた。

さて、この本の成功のカギはどこにあるのか。それは図らずも書簡という形式をとったところにあるように思う。全体にくだけた話し言葉で書かれているが、対談と違うのは、何を伝えようか、どのように伝えようかという内省の時間がさりげなく与えられている分、交わされる話の内容にはより深い陰影がもたらされ、両者のコミュニケーションの間に一種独特のフォルムが成立している点である。

このフォルムの感覚は、両者の親密さに導かれるように形成され、共有されていき、書簡が進むにつれ知らぬ間にひとつの物語性へと近づいていくようにみえる。これは読み手の側からすれば、両者のやり取りにひきこまれていくうちに、あたかも坂本龍一も村上龍もある物語の中の架空の存在のように錯覚してしまうかたちで感受される。いいかえれば書簡形式で創作された美しい文学でも読んでいるような気がしてくるのだ。さらに常に世界中を移動し続けるという一般市民とはかけ離れた彼らの特殊な生活形態は、交通手段の発達によって地球全体に拡大された行動範囲を誇る現代的な小説の作中人物といった趣が付与され、いっそう虚構性や物語性をたかめている。

さらにそのように錯覚しながらも、随所に虚構性の継続を中断する実在性の重力をおびた自己表白が突出するため、読者は再びリアリティへ引き戻される。が、またすぐに世間ばなれしたブリリアントかつ絶望のほの暗さの虚構性への沈潜がはじまる。これが交互に絶え間なく繰り返されることで、そこにある幻想の調和が生まれ、全体としては、やはり行動的なアーティストを主人公とした一個の現代的な文学作品として読むことができる。それは実人生を物語として鑑賞してしまうのだから、読者にしてみれば、なかなか贅沢な読み物であるといえよう。それがこの不思議な書簡集の大きな魅力であり、実在の人物の近況報告として読むよりは、そのような文学作品として読まれる方が、この書簡集にとっては幸福な読まれ方のように思える。そして、この文学作品はまぎれもなく悲劇に属するだろう。

もしかしたら実際、諸々の日本社会的なるものへの帰属を頑強に固辞しつづけながら、亡命者のように移動し続けるふたりのアーティストは、現実の中には生きていなかったのかもしれない。僕は多少アイロニーをこめてそう言おうと思う・・・・・と、ここで含みを残しつつキレイに終わりたいところだが、やはりもう少しつっこんで、次回では具体的に印象に残ったことを書き連ねたいと思う。

ところで、今頃なぜに『友よ、また逢おう』?(笑)

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