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『御法度』 ラベルな坂本から武満な坂本へ
映画館に行くということは、かつてのように、ポピュラーな庶民の娯楽とは言い難い。それでも、僕の父には、週末や祭日には映画館に行くという慣習が生きていたらしく、幼少の僕はよく両親に連れられてETやスターウォーズといった娯楽映画を観に行ったものだ。その帰途にレストランに寄って、少しばかり贅沢な食事をすることは、僕にとって大変な楽しみだった。如何にも平均的な中流家庭のささやかな幸福の瞬間という感じである。しかし、今、とりたたて良き映画の鑑賞者とは言えない僕は、余程の話題作でない限り、日常、映画館に行きたいという欲求をあまり感じない。半ば偏見だろうが、僕には、映画館に行けば、文化・芸術的な枯渇を癒してくれるだろうという期待感はほとんどない。こうした事情は、僕だけではあるまい。
坂本龍一と同世代以前の文化人の映画に関する造詣は深い。そして、彼らは、映画に対して、並々ならぬノスタルジーをもっている。彼らの青年時代には、ヒッピーまがいのむさ苦しい姿で名画座のはしごに興じることも多かったに違いない。坂本龍一も僕も映像と音楽の世代という点では一致するのであって、活字と絵画の世代ではない。しかし、同じ映像と音楽の世代であっても、主に触れてきたメディアの種類が違う。(幼少期からインターネットにのめり込むという、これまた僕らとはまた違った世代が生まれつつあるが。)現代の青年も映画鑑賞自体はなかなか盛んだ。但し、レンタル・ビデオで。僕らは映画という芸術を不相応に軽々しく扱っているのだろうか。一般論として、映画に対して特別な郷愁をもつ世代と僕らの間には、映画への情熱に関して温度差があることは確かなようだ
映画『戦場のメリークリスマス』の評価は芳しくない。映画批評家や文芸批評家らの評価は、坂本龍一、北野たけし、デビット・ボウイといったいずれ劣らぬ鬼才の存在感と映画音楽だけでもっている作品という点で、ほぼ一致している。映画に関する眼力はすこぶる貧弱だが、正直なところ僕も映像表現としての映画戦メリを特別面白いと思ったことはない。殊に、後年ベルトリッチとの名コンビによる多くの名作を前にしては、映画戦メリもいよいよ色褪せる一方だったといっていい。それでも、いつもながらの坂本龍一の律儀さと言うか、映画音楽作家として開眼させてもらった恩は忘れない。
大島渚13年ぶりの新作『御法度』のサントラがリリースされた(99.12.10)。実は、僕はまだ肝心の映画の方を観ていない。映像と脚本についての経験と知識がないのに、その映画音楽についてしゃべっていいものやら、僕には明確な判断がつかないが、音楽を聴けばなんらかの印象が心に生じるのも、これまた道理ならば、多少の言及は許されよう。それに映画を観ていなくとも、『Love
is the devil』を境に起こった作風の変化が判然と見て取れるのだから。
『この「Love is the devil」はぼくの中では、あまり平均律的ではない。そして、「BTTB」は、ピアノを使っているから、もろに平均律だ。しかし、ふたつはそんなに遠くない。ぼくの中では「BTTB」も相当「音響」的です。その感じ分かるかなぁ。
僕は最近はバッハでさえも、「音響」的に聴いてます。もちろんバッハには、それだけでは捉えられない側面が大きくあるけれど。』(坂本龍一。サントラ『Love
is the devil』所収の「e-mailによる往復書簡」より。)
サントラ『御法度』は、坂本が『ぼくの作品の中では、この「Love is the devil」はソロ・アルバムに近いもの』と語った前作の作風を踏襲している。サントラ『Love
is the devil』における半野喜弘氏とのe-malによる往復書簡形式のライナー・ノーツは、そのままサントラ『御法度』の曲作りについての解説といってもよいものだ。坂本龍一は、『Love
is the devil』で新しいスタイルに突入した。
坂本龍一の映画音楽からは、常にフランスの近代音楽の強い影響の痕跡を発見することができる。それを踏まえた上で、スタイルの変化を、僕なりに大雑把に言い表してみれば、『ラスト・エンペラー』に代表されるように主旋律と副旋律の明確な区別があり、しかっりした構成や筋書きを残した、あたかもモーリス・ラベルのような音楽から、よりいっそう表現力の中心を音響においたクロード・ドビュッシー=武満徹の音楽に近づいたといったところだろうか。(もうちょっと正確に記すなら。ドビュッシー=メシアン=武満。)
『最近、武満さんのものをまとめて聴いて、見直したな。他の20世紀の巨人たちの音楽をたくさん聴いたんだけど、それらの巨人に比べて全然ひけをとらないどころか、音楽が発しているものは、とても大きいよ。』(坂本龍一。前掲書より。)
武満徹の音楽が好きなひとなら、この一節にふれた瞬間に『Love is the devil』での教授の音作りに合点がいっただろう。僕は、なあんだ教授も相当な武満フリークだな、と微笑んでしまった(^^) ちなみに僕は『LIFE』が登場するまでは、圧倒的に武満徹の方を音楽家として「尊敬」していた。武満徹の国際的な名声はもう決定的で、例によってブランド化してるし、ずるいかなとも思うんだけど(^^;、僕もやっぱり彼の音楽が大好きだ。
今坂本龍一がやってる音楽・・・・・・ 『Love
is the devil』や『御法度』というのは、 例えば東風みたいに別の楽器用に編曲することができない。 別の楽器でやったらなくなってしまう音楽。
響きそのものが音楽表現の中心だから。
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サントラに限らず、近年の坂本龍一の音楽に共通した変化だが、彼は以前のように豪奢で重厚な和声と複雑な対位法による書法を適用することが極端に少なくなった。どんどん簡素になっていき、さらに表現の中心を音響におくようになっている。今や、まるで自分の資質の原点はそこにあるのだといわんばかりに露骨にそれを打ち出している。ここで簡素と音響的を混同してはならない。単に簡素になっているだけではないのだ。張りつめた虚空に鳴り響く一個の音そのものへこめられた表現内容の質と量が格段に高くなっているのだ。『Love
is the devil』と『御法度』での坂本は、複数個の音の組み合わせによって成立した「旋律」と等価か、それ以上のウェイトで、ひとつの音を扱う音楽を作った。この方法は純化していけば、理論的には、ついにはあらゆる旋律が消滅するところまでいってしまう。
そうした方法上の極北に至っては、音楽家は真空の中で窒息するか、逆に飽和に埋没してしまう。(真空も飽和も同じことだ。)しかし、如何に緻密な理論家にして剛毅な音楽家でも、大抵は充溢した虚無の非人間性の手前でためらい、数歩後退する。すると、わずかに肺に残っていた空気をもらすように音楽家は旋律らしきものを発するか、ループの誘惑(それは最も初源的な旋律の形態である。)に囚われる。極北を予感したことすらない、脳髄における理論の先鋭家は、その光景を称して、「折衷」や「不徹底」といった言葉で音楽家の臆心を嘲笑するかもしれない。しかし、彼の問題設定そのものが見当違いだったのである。身体から切り離された脳髄の妄想に過ぎないのである。
ある神秘的な一個の響きから、運命の告知や情念のうねり、ひとにぎりの理念を感得する詩人のように、これらの音楽は聴かれなければならない・・・・・・
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サントラ『Love is the devil』『御法度』で、坂本は共に具体的なマテリアルを想起させる音響を使っている。『御法度』でいえば、真剣が体躯に斬り込んでいく鈍い音や竹刀と竹刀がぶつかり合う音など。また「沈黙」も有効に使われている。音場の背景色的な環境音も「沈黙」と捉えていいだろう。「沈黙」が有効に使われているということは「間」が巧みに使われているということだ。こうした特徴は、即座に武満徹の音楽を想起させる。ただ、武満の場合は、組み込まれたマテリアルの響きの音楽的な抽象度が、坂本のそれに比べてずっと高く複雑である。やはり熟練の差だろか。もっとも、武満徹にしたところで、映画音楽をやる時には、独立した楽曲を作曲する時よりも直截な表現を多用している。
照れからか、「e-mailによる往復書簡」の中でも、なかなかストレートに白状してないんだけど、僕が件の2作品を聴く限り、かなり武満徹の音楽からヒントを得たんではないかと推察される。無論、必然性なく武満ブームが起こったのではない。現在の坂本龍一のベクトルの延長線上に武満の音楽が交差したのだ。
【付記】
武満徹の音楽を体験したことのない人のために。ちょっとお勧め。
*『弦楽のためのレクイエム』(1957)・・・・初期の代表作。ちょっとシェーンベルクっぽいけど、大体、この曲で武満徹にはまる人が多い。僕もそうだった。同じ系統の曲では、他にバーバーの『アダージョ』が有名だが、武満の表現の厳しさや陰影の深さには遠く及ばない。
世界中の名演奏家のCDがたくさん出ている。なるべく、日本人の指揮による、日本のオーケストラで聴いた方がいいと思う。最近ならサイトウ・キネン・オーケストラとか。
*『冬(Winter)』(1971)・・・・今でいうところの音響派的なるものということなら、この曲をぜひ体験してみてほしい。元祖、音色の魔術師!誰にも真似のできないタケミツ・サウンド。お勧めのCDは、武満徹『マージナリア』(ビクター・VDC-1071
岩城宏之指揮=東京交響楽団)。ノーヴェンバー・ステップスや地平線のドーリアなど、この曲より有名なものは、たくさんあるけれど、音響派っぽい楽曲といったら、これがまっさきに思い浮かぶ。
武満徹もまた現代音楽でポピュラーな技法は一通りやっている。でも、いきなり全面的セリーの曲とか聴くと慣れてない人は引いちゃうかもね(^^;
とりあえず弦レクから入門すべし。
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