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『LIFE』体験 siteZTYの場合
第6回

物質と生命が織りなす複雑性に少しでも近づくこと、
それをスローガンにすることなく、体験すること。
それがオペラ『LIFE』だ。


坂本龍一「共生は可能か、救済は可能か」より
アサヒグラフ巻頭カラー特集
YUKIO 「先日(10/5)本屋に発注しておいた『LIFE』を巻頭特集したアサヒグラフ(9.24号)を入手しました。やっぱり、ほしいと思った時には週刊誌なので店頭からは回収されていたという次第でして・・・・。」
ZEN 「遅っ!・・・・さすがに速報性皆無を誇るだけのことはあるね(笑)」
YUKIO 「はあ(^^;・・・・・。別に誇る気はないないんだけど・・・・。 ちなみにバックナンバーの注文はアリだそうなんで、今からでも入手可能です。

正直に言えば、それほど重要だとも、ほしいとも思ってなかった。たぶんボクの知りたい情報は得られないだろうな〜という獏たる予感があったから。これまでも大概が自分の問題意識に促されるかたちで情報を求めてきたし、元々ボクにはYMOや坂本龍一のアイテムならなんでも集めたいという熱烈な欲求はない。そういうのって蒐集癖であって、別の趣味だからさぁ。その代わりポップスター坂本龍一ファンクラブ的なイメージとはまた違った坂本龍一像をちゃんと把握しているという自負は少しある。」
ZEN 「教授って交流のあるアーティストや文化人はもとより、よく思わぬところで発見するよね。それは坂本龍一という存在の一筋縄ではいかない複雑性を象徴してもいるんだけど。」
YUKIO 「また、それはとても自然で人間らしいことだよ。昔、角川文庫から出た『ゴクミ語録』でスーパーヴァイザーみたいなことやってたのにはびっくりした。どういう運びでそういうことになったのやら、さっぱりわからない(笑)でも思いがけないところで教授を発見した時ってなんか嬉しいよね。」
ZEN 「ふむふむ。君、もしかして後藤久美子のファンだったの?(笑)そんでグラフ雑誌は『LIFE』をどんな風に伝えてた?」
YUKIO 「やっぱり普通だよ。写真も文章も説明的で。ラストの光の解釈も当たり障りのないもの。実はある種のメディア論みたいなことをしみじみと考えちゃったんだけど・・・・・・。スタティックに紙面に貼り付ける編集でね、当たり前といえば当たり前だけどね。

『音楽は時間の芸術といわれる。美しい時は一瞬にして過ぎていく。』(diary、Tue.19990914より)

という言葉がボクの脳裏をよぎったのは事実だけど、あれはあれで面白い。」
ZEN 「ところで、前回のTEXTに事実誤認があったんでしょう?」
YUKIO 「左様でございます・・・・。四つの地域からやって来たヴォーカリストのうちスウェーデンをアメリカと書いちゃった。既に訂正しといた。教授は意図的にマイノリティーな民族音楽をチョイスしたんだから、アメリカじゃおかしいに決まってるんだよね(^^;なははは・・・・・。」
ZEN 「笑ってごまかすなってば。でもそのひとつの沖縄、琉球といった方がいいのかもしれないないんだけど、地球全体からみれば小さな島だよね。ワールド・ミュージックというジャンルが定着することによって、脚光を浴びるまでは日本人以外は誰も知らなかったでしょ。そんな小島に住む人達があれだけ芸術的に高度な水準に達した音楽を生みだしたとは奇跡のようだね。」
YUKIO 「あとですね。今後『受像器』という表現を『スクリーン』に統一したい。というのもアサヒグラフの原田大三郎さんインタビューのページで彼自身はそういう表現をしてないけど『スクリーン』という言葉が使われている。おそらくあの文章を書いている人は、映像のシステムについても情報を得ることができる立場にあった可能性が高いと推測すれば、『スクリーン』と表現した方が適切なんでしょう。とはいえ、相変わらず技術的な内実はわからないままということに変わりはない(^^;」
ZEN 「まあ、単純に好奇心から映像のシステムに関して基本的概括的な解説を聞いてみたい気もするけど、要は、それがもたらす表現のニュアンスさえつかんでおけばいいわけでね。」
教授の本音と彼を取り巻くクリエイター達のズレ
YUKIO 「ボクも『LIFE』を製作する教授を取り囲む優秀なクリエイター達や技術者のインタビューを随分読んだ。そこで感じるのは、極端な話、彼らが教授の理念の核心部分とは一線を画して、その分いっそう『職人技』として自己限定的に『LIFE』に関わってるんじゃないか、という印象。勿論、漠然と核兵器や環境破壊に反対するとかいった共通認識は成立している。でも、それって誰でもそうでしょう。反対しない人なんていないよ。彼らに限ったことじゃない。」
ZEN 「『LIFE』には単線的な答えはない、あるいは、ひとりひとりが独立したヴィジョンをもったアーティストだ、ということだからじゃない?」
YUKIO 「いや、どうもそういう体のいい問題じゃなくて、やっぱり教授の理念は先鋭的すぎるところがあるから、共同製作者達の心底には微妙に戸惑いなり拒絶反応が生じてたのじゃないだろうか。ボクは彼らの発言内容を吟味する度にそういう印象を強くした。ほとんどボクらの当初の戸惑いと一緒だ。

そんな中、『LIFE』を実現する教授には不可避的に二つの顔があったんじゃないだろうか。ひとつは共同製作者間のコンセンサスを得るために微妙に妥協していく実際家としての顔、もうひとつはdiaryの記述なんかに代表される危機感(地球は20年もたない等)や『LIFE』=レクイエムをほのめかす顔。教授の、核心の、そのまたさらに核心は、深く絶望している人だから。」
ZEN 「ただ絶望するにせよ、意気消沈しちゃう場合もあれば、それが創造のバネになることもあるよ。君の推測が本当だとしたら、『LIFE』での教授は孤絶しちゃってるね。」
YUKIO 「教授以外の人は環境問題へのありふれた見識をもってはいるものの、楽観的だ。しかも、それについて突っ込んで考えたことがないという意味での楽観論ね。つまりボクを含めた多くの人がそうであるように。マルチメディア・パフォーマンス『LIFE』の芸術表現については各クリエイターともさかんに議論したと思うんだけど、教授の本音と各クリエイターの未来予測が激しくぶつかるという局面はなかったでしょう。まあ、"共同作業"というものは常に妥協の産物か、ひとりの独裁者が仕切るか、のどちらかだ。」
ZEN 「妥協の産物というと言葉が悪いけど、それだけじゃない。」
YUKIO 「うん。またしても三島由紀夫を引き合いに出しちゃうと、彼の場合はクーデターの直前になるとどんどん交際範囲を狭めて、『盾の会』なんていう三島に親炙(シンシャ)する人達だけを集めた私兵をつくって、独特の論理や価値観が支配する閉鎖的な共同体に自ら閉じこもっていく。それに比べると教授は『他者』との『対話』ができてるわけだから、イッちゃってる訳じゃない。ともかく、『他者=外』への通路を閉じちゃうとヤバイよね。」
ZEN 「ヤバイというのは・・・・」
YUKIO 「ボクが『ヤバイ』というのは、スキャンダル・ジャーナリズム的な意味で言ってるのじゃない。そんなものは糞食らえです。ボクは現在のジャーナリズムに軸足を置いてものを考えるなんてうんざりだ。そうではなくて、いかなる団体なり運動組織にせよ、『他者=外』との通路を閉じたら、独善からテロリズムへ収斂していく道しかないという意味です。もっとも教授の場合は、やっぱり『救いがないことを発見するのが救い』というベルトリッチ式の現代的な自意識があるだろうから、その時点で三島とは全然違う。」
原点を再確認する
ZEN 「教授は『LIFE』の制作者ということで、いきおい教授の提示した『救済』はなんだったのか?という問題のみを追求するということになりがちだけど、本来、彼としては『LIFE』、とりわけ終曲『光』については各人がそれぞれに解釈してほしい、というオープン・エンドなわけだしね。」
YUKIO

「しかし、また同時にdiaryでは、次のような記述がみられるぞい。」

『あと10年もつか、20年もつか。今すぐ、全ての環境破壊を中止しても、もうだめかもしれない。いや、だめだろう。(中略)ばたばた死んでいく中で、何人が「LIFE」の意味を悟るのだろう。』(diary Fri.19991001より)

ZEN 「これを読むと『LIFE』には明確な結論があるようにも受け取れるね。
一体なんなんだぁ!(笑)」
YUKIO 「といったようにいろいろ取り乱すわけです(^^;;・・・・・・・・
ボク個人は教授とはずっと彼の音楽作品を中心に批評的に関わってきたんであって、教授がこう言ったから、ああ言ったからと、それに没我的に倣おうという気はない。ただ、ファンの心理としては教授は何が言いたかったんだろうということに必然的に関心が集中しちゃうと思うんだよね。そこでやっぱり原点を確認しておこうということで、教授と森田光徳氏(シャボン玉石鹸社長)の対談からの発言を引用したい。」

坂本「(略)今度のオペラでは、著名な科学者や思想家、宗教家などからメッセージをいただいて、それを広く伝えるのがぼくの役目です。 ただし、「こうすれば救われる」という解決策はだれも持っていない。まずは、私たち一人ひとりが意識を変えなければ。

森田「結局、理想を並べたり、だれかが「こうしなさい」といってもあまり意味がない。やはりおのおのが、まず自分のできることから始めることです。

坂本「これだけ破壊されたものを再生させるのは、時間がかかるでしょう。しかしやっていかなければ、人類に明日はないと思います。オペラでも、そうメッセージするつもりです。オペラ最終章のテーマである「光」は、悲観的に見れば「終末の光」と解釈できます。しかし、「希望の光」と受け止めることもできるのです。見る側の意識しだいです。

(1999年5月18日付朝日新聞より)
YUKIO 「当たり前といえば当たり前なんだけど、まず1人ひとり、即ち『個』があって、『個』としてどう向き合っていくのか。次にというより、別の位相として教授が音楽家として、さらにはひとりの人間としてどこへ行こうとしているのか。この重層的な原則を常に踏まえておく必要がある。これさえちゃんと踏まえれば無用な混乱はない。

教授の『LIFE』に込めた思いに迫ろうとするあまり、知らぬ間に己の『個』をないがしろにして、教授と自己同化しようとしてない?すべての混乱はそこから生じると思う。第1回でしゃべったように『わからない→逆恨み』も困りものだけど、『わからない→同化』も通用しない。今更いわゆる『個の確立』なんて、という思いがよぎらないでもないけど、日本人は依然として苦手だからね。」
ZEN 「いわゆる『教授ファン』というのは、もはや不可能なんではないか?という以前の君の主張にもつながってくるね。」
YUKIO 「ステージ上でカリスマを演ずる『スター』と没我的に心酔する『ファン』という幼弱なもたれあいの構造。これはもうヘタするとその教祖的な存在が自死的な死に到っても、それを伝説化して存続するという根深さに達するからね。しかも、レコード会社は、それを抜け目なくレコード・セールスに利用する。

しかし、教授なんざ、教祖的な存在になるのなんてまっぴら御免でしょう。彼は今自分の公人としての影響力の大きさを疎ましく思うことがあるかもしれない。」
ZEN 「教授も『個』をもった存在としてのボクらに関わってほしいんだろう、ということだね。今回は『LIFE』体験についてしゃべるという本題からはズレちゃった気もするけど・・・・・混乱を来す前に今一度、原点を再確認するということで、それなりに必要な手続きだったかもしれないね。」
YUKIO 「大いにあっちこっちに飛ばせてもらいます(笑)つうか、飛ばざるを得ない。考えれば考えるほど『LIFE』というのはやっかいな作品だ。今回『LIFE』体験をしるすにあたって、『話体』という形式をとったのも、その困難な作業を少しでも、なめらかに、自由にすすめるためにとった苦肉の策です。」
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