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『LIFE』体験 siteZTYの場合
第3回

物質と生命が織りなす複雑性に少しでも近づくこと、
それをスローガンにすることなく、体験すること。
それがオペラ『LIFE』だ。


坂本龍一「共生は可能か、救済は可能か」より
ZEN 「asahi.com:a ryuichi sakamoto opera 1999に著名人のコメントがupされたそうだね。一応そのことにも言及しておこうか。」
YUKIO 「どれもあってもなくてもいい、ただ著名人がコメントを寄せたという以外に意味のない内容だった。あんまり言及する気が起こらないんだけどね。つまり誰も真剣に観なかった、ということだよ。唯一、日比野さんのコメントにはアーティストらしいみずみずしい感受性が現れてて、面白かった。というのは、何かを体験すると、常にそれが新たな創造の引き金になるという精神の飛翔する感じがあったから。」
ZEN 「音楽評論家系では、長木誠司さんのコメントがあったね。彼の専門分野が20世紀前半のオペラや現代音楽ということで招待されたんだろう。まあ、音楽論壇で新機軸のようでも批評の最前線全体からみれば、何も新しいところのない人だ。」
YUKIO 「あれもやる気のないつまらぬ感想だ。『批評』の手前で立ち止まっちゃってる。まあ、ハナから掘り下げようという意志(愛情)がないんだね。」
ZEN 「手前で立ち止まる?」
YUKIO 「結局、実際に作品に触れる前に、『20世紀の総括』とか『共生』をたった2時間そこらでやると聞いた時点で、思考のオートマティズムからだいたい次のような固定観念が形成される。すなわち、ひとつひとつを時間をかけて取り上げることは不可能だから、どうしても内実の稀薄な総花的な作品になるだろう、と。」
ZEN 「だから、作品の各所に急場しのぎ的な不備がたくさん見つかるだろう、と。siteZTYでも似たようなこと言っちゃってたしね(笑)」
YUKIO 「実際、そういう面もあったと思う。ただ、それはほとんど物理的に不可避という種類のものだったんだからしょうがない。しかし、それをあげつらって終わりじゃ『批評』じゃない。実演を観たなら、そこから一歩立ち入って創造的な知的生産を開始するのが近代批評の基本的な心得だ。

作品との葛藤もなく、手前で立ち尽くして澄ましてるだけの感想は要らないよ。初めからやる気がないということでもあるけど、『LIFE』のあの実演を観ながら、なんら葛藤が起きないというのは、あの人の感受性が硬直し、貧困だからでしょう。彼に限らずダメな音楽評論家は、前述の避けられざる不備をあげつらって終わりというパターンが多いだろうと思う。」
ZEN 「坂本龍一が音楽評論家にまもとに批評された試しはほとんどないよね。むしろ文芸批評家や作家、思想・哲学の知識人の方がまともな批評をしている。日本の音楽論壇は坂本龍一を扱うのが苦手だね。大概が皆が良いと言うに決まってるものばかり選んで、そこへちょっとした表現や批評理論のヴァリエーションを加えて、良い、悪いを繰り返してるだけ。あれじゃー進歩ないよ。」
YUKIO

「そういう体質なんだろう。坂本龍一という音楽家の今日的な意義の重大さというものが理解できないんだよ。もし、教授が芸大の頃のままクセナキス=前衛時代の高橋悠治の延長線上で、しこしことやり続けていたら、彼らもそこそこの敬意を払ったかもしれないね。連中はそういう人が好みだから。」

ZEN 「その代わり教授は音楽家としては、20世紀を越えることができなかっただろ(笑)」
YUKIO 「ところが坂本龍一は、その本能の確かさと直観の鋭さで栄誉あるミイラどもと心中することを回避してきた。そしてついにあんな風にバッハのコラールをやっちゃった。あれは浅田さんにもブーレーズにもできない。坂本龍一の使命みたいなもんだよ。それは解体であり、再生であり、大きな謎だ。凄まじい光景さ。」
『ヴェクサシオン』 / 教授、黒マントで登場
ZEN 「話の進み行き上、『LIFE』の核心部分のひとつへ言及しちゃったけど(笑)、そろそろ本題の『LIFE』体験に戻ろう。」
YUKIO 「うん。気楽に印象に残ったことをしゃべります。まず入場すると例の19世紀末のサティの『ヴェクサシオン』が鳴ってる。教授はニュース・ステーションに出演した時にこの頃の音楽を『浮遊感の音楽』って言ってるけど、それがホール内を漂っている。そして、数段に重ねられた受像器からは無声映画『月世界旅行』の同じシーンが繰り返し流れてる。大砲の砲弾の中に乗って、擬人化された月面に突き刺さるというやつ。」
ZEN 「それが20世紀というものを予兆している、と。」
YUKIO 「これがはまってた。大砲の発火を指図する人がすごい形相でやたら騒いでるし、一方、砲弾を突き刺された月は当惑気味。20世紀の人間の野心や欲望とテクノロジーとの密接な結びつきがね、見事に暗喩されてる。対照的にホール内を満たしている『ヴェクサシオン』の旋律の妙に冷めた美しさ。これらでボクは入場して数分後には、すっかり非日常的な軽い瞑想状態になった。つまり『LIFE』へのキップを手にした。あの演出だけで、何か賞をあげるべきだと思うほど冴えてるよ(笑)」
ZEN 「イントロダクションで語りべ的な役割のホセ・カレーラスが登場するね。」
YUKIO 「ボクは初め実際に彼がそこにいるんだと思ってた(笑)ところがビデオ出演なんだよね。」
ZEN 「大概の人は見ればすぐわかるよ(^^;;・・・・・・」
YUKIO 「すごい実在感がある!受像器の積み重ね方がミソだ。上下には隙間なく重ねてあって、左右にはいくらかのしきりがある。ホセ・カレーラスは向かって左から右へと歩いていくように見えるわけ。その縦のしきりの部分がなんだか黒い格子のように見えるんで、そこを彼が通過する度に、その黒い格子のようなものに視界を遮られるように錯視してしまう。それで立体感があるんだよ。スクリーンと違って受像器は自ら光を発してるから、映像に手触りできるようなしっかりした質感がある。」
ZEN 「と、語りべのホセ・カレーラスが村上龍のテキストを朗読してる最中に・・・・」
YUKIO 「おもむろに教授が登場する。これがなかなかの異様なんだ。薄暗がりの中を長い黒マントを引きずりながら、能面のような無表情で音もなくゆっくりと歩いて、中央にすえられたピアノへと到着する。その一連の動作も首尾一貫とても厳かなんだ。『LIFE』での教授の動作はすべてある厳粛なフォルムに貫かれていて、私的な感情のラフな表出というものは排除されてた。」
ZEN 「黒いマントをひきずりながらとは、なんか救済とは対照的なイメージがするね。」
YUKIO 「うーむ。『LIFE』での教授の演出上の性格設定というのも謎だな。ヘタすると救済というより、死の司祭という感じだし、20世紀の文明を総覧するファウスト博士みたいにも思えた。やはりレクイエムという意識とともに、脳天気な共生への幻想を打ち砕こうという意図があったんじゃないかと思う。ともかく彼は、『場』としては、厳粛な気持ちで観客が『LIFE』を受けとめることを要求しているのをひしひしと感じた。」
ZEN 「そういうのに押しつけがましさみたいなものは感じなかった?」
YUKIO 「一言で言えば、教授は真剣だった。安易に口走るべきじゃないけど、これは覚悟としては命懸けだと思ったよ。教授が、この日のために厳しく自分自身を鍛錬してきたのは明白だった。一分の隙もない彼の所作は、それを雄弁に物語っていたよ。」
ZEN 「そういう音楽家の姿をみるということだけでも稀有な体験だったね。」
YUKIO 「巧みなものや気の利いたエンターテイメントなら飽きるほど世に氾濫してい るけど、真剣なものは少ないんだよ。作曲者自身が確信をもって音楽をやるという状況は少ないんだよ。音楽というのは、やっぱり情熱なんだなって改めて教えらた気がした。」
ZEN 「ちなみにその黒マントの行方は?(笑)」
YUKIO 「それも実に手際よく、肩からはずして椅子の周囲に脱ぎ捨ててたからご心配なく(^^)」
ミューズから切り離された音楽
YUKIO 「さて、ホセ・カレーラスがビデオの中でエジソンの発明した蓄音機ようなロウ管式の再生装置のスイッチをいれると、受像器にその蓄音機が大きく映し出されて、序曲がはじまる。序曲と第1部で、20世紀の西欧音楽が、代表曲をリファレンスとして総括される。序曲の冒頭では、蓄音機から二つの音階が奏でられる。はじめは調性のある音階、次に無調性の音階という具合に。これを19世紀以前の音楽と20以降の音楽の分岐点としている。」
ZEN 「無調性ってなんで出てきたんだろうか?その必然性はどこにあったんだろう。」
YUKIO 「実はボクもそれがはっきりとはわからないんだ。そりゃー現代音楽史なんかを紐解けばそれなりの理由が書いてある。いわく、キリスト教文明(その世俗化としての近代理念も含めて)の崩壊にシンクロして、音楽上のその象徴たる神聖な調性も崩壊へ向かったなどなど。でもやっぱり釈然としない。シェーンベルクがいわゆる『12音技法』などといったことを始めた時に彼の魂の中でどんなことが起きたのか?なんといってもシェーンベルクら新ウィーン学派やドビュッシーのように直に伝統の重圧と拮抗しながら徐々に無調性を実行に移していった作曲家の内面の告白に耳を傾けてみたい。

アカデミズムや世間の避難の一番キツイやつは、シェーンベルクやストラビンスキーらがマトモに食らって、彼らは防波堤のような役割を果たしてくれたから、その後に続いた現代音楽家は、最初っから無調性を自明としているところがある。深くは問うてない。軽薄なんだよ。んで、根無し草的なセリー(音列)の考案という知的遊戯に耽る。これらは根本的な問いに決着をつけないまま押し進められたあだ花的な文化の病態の一変種として説明可能なんじゃないだろうか。連中はシェーンベルクの無調性の不徹底こそ批判したけど、無調性への移行が意味するところについてはおざりだ。ミューズに背かれ、自らもその繋がりを絶った。いずれ枯渇するに決まってます。」
ZEN 「シェーンベルクの顔っていかにもすごい苦悩をかかえてる感じだもんね。あるいは、もともとそういう顔なのか(笑)他の民族音楽にもそれぞれ固有の音階があるよね。雅楽やシタールの奏者の中にもシェーンベルクはいたんだろうか?」
YUKIO 「寡聞にして知らないんだけど、いずれ勉強してみたいね。ところで君は全面的セリーの音楽って本当に面白いと思う?」
ZEN 「確かに中には『迫力』のある作品もあるよね。革新的な音楽を作るんだという意気込みがみなぎっているものもある。ただそれと実り豊かな音楽世界の新たな地平を切り開くことができるか、どうかは別問題だ。」
YUKIO 「よく言われるんだけどバッハの音楽だって、セリーのひとつだって。でもさ、バッハの調性って一朝一夕に出来たもんじゃないよ。バッハと現代音楽家の音列への姿勢ってのは随分違ったと思う。先人達の伝統を受け継いでいるし、はっきり言明しちゃえば、バッハは敬虔なるキリスト者です。彼の依って立ったところはもろに(現代人の忌避する)宗教的な土壌です。それを見ないふりすることはできない。ボクも一神教的な発想には限界があると思う。だけど、現代の軽薄な相対主義に比べれば、ずっとマシな音楽を生む精神的な土壌になったことは否めないでしょう。それならば現代はどこに「必然性のある音」の根拠をみつけるのか?これが一番難しい問題だ。」
ZEN 「うむ。教授はどうするつもりなんだろうね。全面的セリーの音楽は、西欧の伝統音楽を相対化して全体の中の一部分として位置づけ、それによって伝統から自由になろうという試みだよね。」
YUKIO 「ボクなんかは、各々のセリーを裏付けるための緻密な理論構築への熱狂なんてのは、心理的にはニューアカにかぶれるのとたいした違いはないと思う。いつまでも調性と縁を切ることができない折衷主義者とかたずけられたベルクの方がずっと深く問うていたんじゃないかと思えてしょうがない。さらにすぐに折衷主義やら反動と簡単にレッテルを貼ること自体がムーブメントの軽薄さの証左だよ。セリーの理論的な裏付けがいくら晦渋を極めていても、肝心なところが抜けてちゃダメ。理論的な韜晦さに頼る時点で堕落だと思う。」
ZEN 「そういう意味でも、教授が『LIFE』の重要な部分、つまり、鎮魂や救済のところで、バッハのコラールを使わざるを得なかったというのは示唆に富んでいるね。」
YUKIO 「全面的セリーの音楽については、結局のところ本当の天才が出現しなかったという不運もあったんでしょう。それはともかく、ボクらが生まれた時には、無調性なんかはごく自然に巷にあふれていた。そんなボクらの感性としては、無調性やら不協和音は音楽的な表現のヴァリエーションのひとつ、あるいは芸術のもつ本然的な表現の自由への渇望というぐらいにしか受け止められない。まあ、ボクなんかはセリーについては、ヴェーべルン的なものより、とりあえずシェーンベルクやベルク的な扱い方だけが残るんじゃないかと思うんだけど・・・・・・。この予測はアテにならないけどね(笑)」
大いなる懐疑者にして偉大なる野蛮人
ZEN 「『LIFE』の購買ブースで買える『DOCUMENT LIFE』には、教授と浅田さんの対談形式で、序曲や第一部で引用された20世紀の代表曲について順々に詳しく解説してあるね。」
YUKIO 「うん。方法や理論に近いところで捉えた現代音楽史だよね。まあ、音楽に関しては単純に進歩なんてことはあり得ないし、音楽には魂をゆさぶるものと退屈なものしかない。でも同時にやっぱり方法や理論の変遷から音楽の歴史を捉えて整理しておく必要があるのも事実だよね。」
ZEN 「音楽家が今自分の立っている位置を具体的に確かめる意味でもね。必要。とりあえずそこから出発する以外ない。教授のポップ・ミュージックを含めた音楽のトレンドとの関わり方や距離の取り方も異色だよね。」
YUKIO 「うーむ。めちゃくちゃ複雑なひとだよね。(しばし、沈思黙考)博学にして、大いなる懐疑者って感じだよ。結局一ヶ所に留まるってことがない。現代音楽事情にも詳しく、しまいにそれぞれのメソッドに従って作曲までしちゃうほどなんだけど、やっぱり現代音楽に関しても第三者なんだよね。批評的というか・・・・」
ZEN 「『DOCUMENT LIFE』の中で教授は『60年代的の前衛の自意識があると、バッハ風のコラールなんて書けないって普通は思うわけですよね(笑)』なんて言ってる。」
YUKIO 「そう。だから浅田さんやブーレーズのようなタイプの文化人にはあのバッハのコラールはできないと思うわけ。彼らにはストラヴィンスキー的な野蛮はできない。坂本龍一という音楽家は、八方ふさがりの閉塞状態をある種の野蛮さを発揮して突き抜けていくために存在する人かもしれないね。まず若き日に現代音楽に決別して、それからいろんなスタイルを転々としてそれぞれに傑作を残しつつも、どれにも帰属せずに今日に至る彼の長い遍歴が、『LIFE』、とりわけその中のバッハのコラールで一本の線で繋がった気がするんだ。その途上で立ち止まっていたら、教授も他の多くの音楽家同様20世紀を越えられなかったでしょう。

ちょっと弱音。『LIFE』について考えることはとても楽しいのね。でもこのペースだと何回かかるんだろう・・・・実は『diary雑感』でも決着をつけとかなきゃならないことが2回分ぐらいあるんだよね(TT)ボクの戯言つきあってくださってる方、thanxです。」
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