ZEN |
「今回は前置きなしで、本題に入りましょう。どうでしたか?」 |
YUKIO |
「暑かったです!」 |
ZEN |
「はぁ?」 |
YUKIO |
「暑かったです!会場が。」 |
ZEN |
「・・・・・・・・(なんかまた本題からそれそうな予感)あ、なるほど。」 |
YUKIO |
「ボクは1階席だったんだけど、2階のひとは特に暑かったみたいです。熱気は高いところへ浮上していくからでしょう。公演が開始されるまで、パンフレットをうちわ代わりにパタパタやるという光景がしきりと見られました。さりとて、空調の出力を上げるというわけにはいかなかったようです。旧式なのか、ゴーっという結構な騒音が通風口からもれてくるんです。」
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ZEN |
「・・・・・空調の音が大きいと、特に弦楽器の弱音が聞こえないからね。」 |
YUKIO |
「ついでに屏風のように展開した大きな複数の受像器が熱を放射しているので、暖房のような働きをしたかもしれません。というわけで、映像担当の高谷氏やCG担当の原田氏の責任です。」
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ZEN |
「・・・・(そういう問題じゃないだろ!)サントリー・ホールやオーチャド・ホールのような近代的なコンサート・ホールのように快適にはではなかったということだね。」 |
YUKIO |
「しかし、また、そのような適度な生理的不快さに関する限り、『LIFE』は古典的なオペラの伝統を踏まえていたとも言えます。加えてあの座り心地の悪いシートに長時間座らされるんですから、気分はもうスカラ座かバイロイトって感じです。でも、あの暑気の中、ニーベルングの指輪みたいに4夜連続、1日3幕で3時間以上ぶっつづけ、なんてことだったら無事に生還するのは至難の業だったでしょう。」 |
ZEN |
「・・・・・・・(ああ疲れる。)つまり、武道館の空調システムの性能の悪さが鑑賞の妨害になったわけだね?」 |
YUKIO |
「いえ。そんなこと一言も言ってませんよ。」 |
ZEN |
「・・・・・・(我慢。我慢。)」 |
YUKIO |
「気分でも悪いの?眉間にしわがよってますよ。」 |
ZEN |
「(あたりまえじゃー)・・・・いや別に。話を続けてください。」 |
webcastと『LIFE』 |
YUKIO |
「確かにホール内の蒸し暑さは気になりました。しかし、公演が始まると、すぐそんなことは意識に登らなくなりましたね。はっきりいって暑いとか言ってる暇はなかった。」 |
ZEN |
「生理的な不快さを忘れさせてしまうほど引き込まれる作品だったと?」 |
YUKIO |
「勿論です。さらに一瞬一瞬に発生する情報量がベラボウなんだよね。視覚や聴覚に流れ込んでくる情報の洪水に頭脳が対応できない。ボクは2回にわたる大阪公演のwebcastをすべて鑑賞してた。それでなんとなく『LIFE』の輪郭を漠然とつかめた気でいたんだ。ところが実際にその場にいたら、それがとんだ勘違いであったことを思い知らされた。」 |
ZEN |
「webcastは、受信者側の平均的な環境を割り出した上で、適切な情報量を配信したものだよね。」 |
YUKIO |
「そう。だからあれは、『LIFE』のもつ莫大な情報の中から、ネットワーク技術者が情報を選択して、意図的に再構成して配信したものと捉えるのが正確かもしれない。それは受容可能な情報量なので、返ってわかりやすいわけ。非常に纏まりのある作品に変容した形でボクらのもとに届くから。あれは、なんだか自分の認知の構造と限界性を嫌でも意識せざるを得ない体験だったよ。」 |
ZEN |
「webcastへの参加のかたちは専用アプリケーションによるものと、さらに公演の模様を映像と音声の両方で配信して、Media
Playerで受信するというものもあったね。」 |
YUKIO |
「それがまた面白いんだよね。『LIFE』という3次元の事件を視界の限定された2次元画面へと変換することだから。これはボクらが日常的に接しているテレビ映像の方法です。3次元空間の事件を如何に四角い画面の形で切り取るかっていう課題で、ほとんど『LIFE』とカメラ・クルーの対決ですよ。」 |
ZEN |
「3D音響効果は今のところ不可能だけど、音声の方は割と楽でしょう。でも画像の方は一筋縄ではいかなそうだね。」 |
YUKIO |
「ボクも『LIFE』を体験した後、これをどんな風に四角い画面に切り取るのか、カメラ・クルーのお手並み拝見という感じで興味深く観察してた。で、彼らのとった方法というのは、やっぱりと言うか、様々な方向から『LIFE』を撮影するために複数のカメラを備え付けて、『LIFE』の進行のその時々に適切なショットを選ぶということなんだ。配信する映像の対象となるのは、主に教授の指揮姿、巨大な受像器に映し出されたCGとビデオ・アート、身体表現、オーケストラ、独唱者、合唱団、観客の反応、そして舞台全景だよね。」 |
ZEN |
「ショットを選ぶ時の基準は、どうしても、その時々で展開上「重要なもの」ということになるんでしょう?」 |
YUKIO |
「うん。『LIFE』の重要なコンセプトとして、自律分散的な共生空間を現出するということがあるんだけど、2次元映像の配信者としては、「中心」を探し出して(作り出して)それを流す以外にない。受像器の映像を背景に教授の指揮姿の残像を重ねるとか、いろいろと苦心がみられたんだけどね。これも見慣れた手法だよね。」 |
ZEN |
「専用アプリケーション側は、会場の臨場感の伝達をハナから諦めて、むしろ独自の『LIFE』を演出していたのに対して、一方、Media
Player側はいぶし銀の職人技に自己限定したといったところだね。」 |
YUKIO |
「テレビ朝日で『LIFE』を取材したドキュメンタリーをやるそうだけど、おそらく公演のシーンはMedia
Playerと同じ方法で撮影することになっただろう。3次元的な事件から中心を追うにせよ、周縁を追うにせよ、一部を切り取って2次元画面に変換する。ジャーナリズムとしてのテレビ映像とはそういうものだ。ところが『LIFE』はその切り捨てられたものの中にも大事なものがあるという作品なんだよね。」 |
ZEN |
「今やテレビ映像は、現代人にとって主要な情報源だ。お茶の間(一ヶ所)に居ながら対象の全体を俯瞰したり、部分の詳細に迫るなど、いろいろ便利なんだけど、ジャ−ナリズムとしてのテレビ映像は、事象の一部を切り取って画面を形成する過程で、作り手の意図が加味されてあることを常に念頭におくべきだね。」 |
『LIFE』の全体を把握するのは不可能 |
YUKIO |
「といった具合でして、webcastで予習ばっちりと思ってたのに、序曲が進行していくに従って膨大な視覚・聴覚的なさらに言語的な情報の渦に巻き込まれちまう。で、これは全体を把握することを拒絶するものだなと察して、ボク個人の興味の赴くままに焦点を定めて『LIFE』を鑑賞しようと頭を切り換えた。あれはそういうものです。各々が自分なりの思い出をつくるという以外にない。」
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ZEN |
「つまりこの一連のTEXTにしても、原理的にsiteZTYとしての『LIFE』体験を語る以外にできないということだね。」 |
YUKIO |
「うん。純粋な『LIFE』体験としては、そういうことにならざるを得ない。例えば、戦国時代の合戦を描写した映画のことを思い出してみ。黒沢明監督の『乱』でもいいんだけど。様式美を追求した戦国絵巻のような美しい映画だ。あの映画の合戦シーンには数千人の武者が登場する。騎馬隊や足軽、鉄砲隊などなど。きらびやかな甲冑に身を包み、旗差し物を掲げて合戦を繰り広げる。到底、武者ひとりひとりの動きを確認することは不可能だ。しかし、合戦というひとつの目的に向かっているわけだから、すべての出演者の動きを確認できなくても構わない。規模がいくら大きくても『XとYが対立関係にある』などの単純な図式を抽出できる。」
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ZEN |
「合戦のさなかスクリーンのはじっこの方で裸になって行者踊りをしてる人はいないはずだ(笑)」 |
YUKIO |
「そう、武者が発狂しない限りわね。ところが『LIFE』というのは、聴衆の視界の外で思いも寄らないことが起きてるんだよ。だから少しでも自分の体験の不足を補おうとするならば、複数の人がそれぞれの思い出を持ち寄って再構成してみるか、ビデオなどの無限回追体験装置で繰り返し疑似体験するしかない。しかし、それでも全てを共時的に捉えるわけではないから、厳密には『LIFE』を捉えたことにはならない。それは、教授にも不可能だよ。それにも関わらず、これは単なる膨大な情報のカオスではない。やはり全てが音楽によって導引されている。」 |
ZEN |
「日常的な認知パターンに対する挑戦、もっと言えば、西欧の近代的な思考に慣らされた頭脳の思考回路に対する挑戦みたいなもんだね。」
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YUKIO |
「この『LIFE』のもつ複雑性が教授の思い描く『共生』のヴィジョンへつながっていくわけだよね。」 |
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