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『diary』雑感(2)ポスト・モダン的状況の終焉
「感性」的な自己表出としてのdiaryの記述が徐々に理念性を帯びてくることに直面させられ、坂本龍一の「感性」の支持者達の多くが当惑した。僕だって初めはおや?と思った。僕も70年代以降のいわば感性主義の影響をもろに受けたくちだからだ。しかし、同時にまた、いろいろな兆候から、世界そのもののパラダイム・シフトみたいなものが始まっていることも予感していたし、それを文化・芸術の分野で、時代の最前線を見据えている人達の言説に教えられるという今日でもある。いろんな表現ができるが、とりあえず結論を最初に言ってしまえば、坂本龍一の「回心」もポスト・モダン的状況の終焉の象徴のひとつと考えて、大きな過ちはないだろうと思う。

70年代以降、政治的な理念が説得力を失って、歴史の後衛にさがってからは、サブカルチャーを含めた文化・芸術の担い手達は、次第にアンチ理念的な感性の表出とその洗練で勝負するようになった。それで価値観の多様性とか言われちゃったりした。従って、ストレートに理念性を作品に盛り込むのは、ダサイもしくはウサンクサイとかいうふうにみなされた。それに反抗して逆ギレ気味にメッセージ性を打ち出して教祖的存在になる野暮も、表裏一体で同じことだ。こうした状況は、一般にポスト・モダンとか言われたりしてきた。そして坂本龍一は、これまで常にその先頭を走ってきたと思う。

ところが日本国内に限っても、バブル崩壊から90年代に入って、放置しがたい深刻な問題が様々に惹起してきて、これまでの感性主義の限界が表面化し始めた。欲望肥大の果ての環境破壊、政官財の倫理観の欠如、青少年の風紀の極端な乱れ、学級崩壊などなど。それらは現代人をとても憂鬱にさせている。アーティストや知識人が、そうした危機感を敏感に察して、一切の理念的なるものを嫌って感性の表出と洗練だけで通していることに、後ろめたさなり、じれったさなりを感じはじめたのは事実のようである。どうにかしなきゃ。「どうにかする」とは即ち理念性だ。(どうにもなりっこないから、滅びるままに、というのもあるが。)もうポスト・モダンなんてやってられねーぜ!、と。坂本龍一もどうにかしようと思った。

そんじゃーポスト・モダンをどうやって越えるか、と問うても、一様じゃない。各々が違った展望を抱いている。あるいは、模索中なのだ。オペラのスーパー・ヴァイザーということで浅田彰の最近の言説にも目を通したりしているが、どうも仕掛け人たる浅田自身がポスト構造主義をふくめたポスト・モダン的な言説の蔓延にうんざりしている。『なんとなくクリスタル』('81発刊)の田中康夫もボランティア、ボランティアと言って、市民運動にせっせと打ち込んでいる。みんな感性主義時代としては創造性のピークにあった80年代の文化やサブカルのヒーローやキーマンだ。だから、ああした転換は、坂本龍一のみ起こっているわけではないともいえる。

「ポスト・モダンの終焉」をキーワードにして、現在を読み解いていくと、世界的な規模で進行しつつある大きな変化の諸相が、意外に見通しよく浮かび上がってくるではないだろうか。日本における一部の保守派文化人によるナショナリズムもそのひとつのように思える。坂本龍一の場合は、人口問題や環境破壊による地球滅亡への危機感に発した彼独特の「共生」という理念だ。もっともそういった情勢論的な枠組みで括られることを彼は嫌うかもしれない。「ポスト・モダンの終焉どころか、地球自体が終焉しかねないんだ!」なんて叱られるかもしれない(TT)

坂本龍一の「共生」は、初めから露骨に理念性を強調せずに、地球存亡の危機が、客観事実の組み合わせから当然の帰結として導き出されるのだ、という論調をとっている。しかし、さらに立ち入って、これを回避するには、地球環境への深い理解をもとにした峻厳な「共生」の道を選択する以外ないというひとつの「物語」を説くに及んで、脱ポスト・モダン的である。坂本龍一はポストモダン的状況と決別した。

【仮に註釈的な形をとって】
(1)ここでいう「政治的な理念」とは、直接的には共産主義、敷衍して理想主義一般を指す。敗戦からたどれば、戦後左翼運動が起こり、戦中・戦前の価値観を否定。ところが共産主義国の実態を知るにつけ、左翼運動自体が挫折した。ついに現代人は、あらゆる理想主義的な理念に幻滅し、懐疑し、かたっぱしから捨て去った。思い起こせば、中高生の頃、教師自体が自分の倫理的な言動を信じてないのみえみえ。あれじゃー誰も言うこときかないって(笑)

(2)ここでいう「ポスト・モダン」とは、よく知られているリオタールの『ポスト・モダンの条件』の中で定義されているものとは違う。違うというよりも、それをもふくむポスト・モダンと呼ばれてきた状態があるでしょ。それそれ。(1)で触れたようないきさつから、あらゆる理念性に対して懐疑心が大衆の心に根をおろしたでしょ。それそれ。また、日本国内に限定された意味でのポスト・モダンもあれば、欧米及び西欧的な近代化を遂げた国々に共通のポスト・モダン的状況というものもある。で、他にも表現の仕方はあるけど、ポスト・モダンという言い方が一番馴染み深いとということで、これを使った。

思えば、ポスト・モダン的状況の特質は、そのネガティブさだった。ともかくすべてが否定から始まっていた。「否定の時代」なんて言ってもいいくらいだ。「価値観の多様性」ひとつをとっても、そうだ。それは各々が主体的に標榜してたものじゃない。総中流化の経済的な余裕を背景に、無気力と拒絶反応と無責任のもたらした、ネットワークのないバラバラ状態を体のよい言葉で飾っただけだ。ともかく、これからは理念の問題を避けて通ることはできないだろう。シンドイけど、頭を切り替えて、理念性に対して責任をもって向き合わざるを得なくなっている。

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めちゃくちゃやっかいな問題を無理矢理すごく集約的に書いたので、ちょっぴり気が引けるほどだけど、核心部分はちゃんとつかんでると思う。ディテールや各論は、お読みになった方が各々でじっくりと考えればいいことだし、このスタンスは当サイトの方針に準じたものである。でもホント、いかにポスト・モダン(仮)的な状況を超克するかで完全に現代史をはっきりと前後に画するほどに、それは大きな問題だ。もちろん、そのヒントがポスト・モダン的な状況の稀薄な世界から突飛なかたちで提出される可能性も否定できない。

ともかく、後世の歴史家に笑われたり、恨まれないような振る舞いをせねばね。 普段、ほとんどの日本人が日常の雑事に忙殺されて、(ほんとは言い逃れにすぎないんだけど)「20世紀の総括」といった射程で思考することがないだろうと思う。今回はいい機会なんじゃないだろうか。

あ、そこの人、「後世なんてない」なんて悲しいことは言わないように(^^;

政治的理念への幻滅と拒絶反応、そして高度資本主義的な経済の安定を背景に展開された軽快な感性主義的な時代・・・・・。その舞台で常に最前線を駆け抜けてきた坂本龍一、さらに村上龍や浅田彰が『LIFE』をやるというのは、実に象徴的である。ああ〜ひとつの時代(ミクロ的な意味で)が終わっていくんだなぁ〜としみじみと実感されてくる。そういう意味でも『LIFE』というのはレクイエムだと思う。
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