99/7/10
坂本龍一の『癒し』をめぐる貧困な反応
「大衆」という段階と「人間」
先日、暇にまかせてネットサーフィンしていたら、昨今の坂本龍一の「共生」や「癒し」への傾倒に「違和感」を覚える、という趣意のテキストをいくつか散見した。僕としては、その芸能雑誌かワイド・ショーじみたステレオ・タイプの見出しと切り口に忽ち脱力し、辟易する思いだった。(ちなみにそれは、当Siteからリンクしているページではない。)しかし、その種の「違和感」を感じている人は少なくないようである。
そうしたことは実際のところわざわざ取りあげるに足りない反応だ。「共生」や「癒し」= 偽善、あるいは世間知らずの理想主義という幼稚な図式が、芸能雑誌中毒者の頭脳にパブロフの条件反射の如く巣食っているであろうことは想像に難くない。まず最初に自分の知的怠慢を打ち破って、坂本龍一の言う場合の「共生」の固有を理解することから始めるのが、物事の順序というものなのに、その気概もない。手っ取り早く芸能雑誌式に有名人を斬っていち早く優越感にひたりたいというわけだ。
その種のバカはネット上にうんざりするほど散在しているのでいちいち取り上げる必要はないのだが、現在の日本の大衆を取り巻く言論の貧しさを改めて実感しないではいられなかった。多少なりともパブリックな場面で発言する場合、僕らは社会的な許容範囲を無意識のうちに計量して、その枠内に沿って批判なり、賛意なりの発言をしている。そして、その無意識の許容範囲の幅や深度、傾向性は、その大衆社会の鏡であろう。
日本の大衆社会の無意識の許容範囲を端的に示してくれるのは、テレビの情報バラエティー番組に出演している「コメンテーター」なる代物の発言ではないだろうか。司会者の求めに応じて、彼らは、内外の時事問題に対して、現象の表層をなで、適当に小市民的なモラルをタテマエにして見解を述べる。その見解は、より大衆が無意識のうち望んでいる方向性に沿ったかたちで表出されるほど、よい「コメント」ということになっている。さらに彼らの肩書きや知名度が発言内容のお墨付きとなって、大衆を安心させる。
滑稽なのは、ほとんどの知識人や知名人が「コメンテーター」という役割に嬉々として満足し、知の提供者の地位を番組と視聴者に請われていると信じているところだ。もちろん抜け目のない番組制作スタッフにとっては、情報バラエティーに不可欠な小道具にすぎないに違いない。そのことをまるっきり把握してしていないのは、当の「コメンテーター」諸氏だけである。もっとも例えば、テリー伊藤のように自分の役割をしっかり自覚して、芸としてのコメントをやれる人は別だ。
「コメンテーター」たる条件は、簡単だ。確たる見識をもっていないエセ知識人乃至知名人、もしくは芸としてのコメントをやれる人である。視聴者は、朝の忙しい時間に、あるいは午後の家事の合間の休息時間に耳目を驚かしめる見識など聴きたくないし、番組制作のプロであるスタッフもそのことをよく知っている。視聴者は、問題の本質や実相を知るために情報バラエティーにチャンネルをあわせるのではないのだから。
さて、僕らは大衆という段階をもちあわせていると同時にひとりひとりが複雑な問題をかかえて生きる「人間」である。大衆の一員として振舞っている間には抑圧されていていても、ふとした拍子に、あるいは芸術作品に触れたり、自己内省の時間を設けることによって、様々な「心の問題」が浮上してくる。この深度においては、「コメンテーター」や芸能雑誌式の紋切り型は全く場違いな存在である。今、坂本龍一が七転八倒しながら挑んでいるのも、この深度においてである。当たり前のことじゃないか。坂本龍一の思想を理解するなら、この深度において受け入れるべきであるし、彼を批判するなら、この深度においてやるべきである。さもなくば、全くお話にならない。
今までにネット上で「違和感」を口走るもので、この深度に立って発言しているのを、僕は発見したことがない。もっとも同時に僕はインターネットの性質上、せいぜいその場限りの軽薄な着想ばかりがはびこりやすいことも充分承知している。そんな風であるから、僕個人はインターネットを始めて、3ヶ月ほどで、匿名性の強い不特定多数のアクセス者が投稿するタイプの電子掲示板等に関しては、投稿することにすっかり飽きてしまった。だって、いつも同じ展開なんだもん。(ちなみに断っておくけど、ちゃんと最低限の了解の上に成り立ったコミニティの電子掲示板は別。)それはともかく。
asahi.comのオペラのページにpdfファイル形式でUPされている新聞広告や雑誌「ぴあ」のカラー広告をご覧になった方も多いだろう。そこには、無地の真っ白な上下の衣服に身を包んだ坂本龍一が立っている。その衣装デザインも山本耀司によるものだろうか。それはなんだか法衣のようだし、坂本龍一の表情はさながらどこぞの宗派の青年信徒といった趣だ。そこには何らかの宗教性が秘められているのかもしれない。僕らの頭には反射的に忽ちあの忌まわしい事件とそれにからむカルト教団が思い浮かんでしまう。白状すると、僕自身一瞬困惑した。なんとういう短絡的な思考回路が僕らを支配してしまったことだろう。
「人間」の問題を考える時、宗教性は不可避である。それなのに少しでも宗教性をほのめかせば、まがまがしいカルト教団と犯罪の片棒をかついでいるかのような印象をもたれかねない。それが現代日本の大衆社会の言論状況だ。なんという貧しさだろうか。そのようにして、軽薄な「コメンテーター」的根性に言論が毒され、「人間」の問題に真正面から向き合うことを抑圧するならば、必ず大きな代償を払わされるだろう。いや既に何年も前から抑圧された問題群がかたちを変えて、さまざまな社会的惨劇として復讐を開始している気もするのだ。
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