99/5/21
asahi.com:a ryuichi sakamoto opera 1999(3)
人口問題への遺伝学的なアプローチ
『環境を人間が破壊する以前の形に戻したいんだったら、最大の問題は人口なんですよね。』(坂本龍一・安藤優子対談「週刊朝日」1月15日新春特大号より)
既に指摘したふたつの論点に加えて、もうひとつ特筆すべきものを挙げるとすれば、やはり坂本龍一独特の「人口問題への遺伝学的なアプローチ」だろうと思う。先日、立花隆をナビゲーター役とした、やはり地球規模の問題をテーマにした長時間番組を放映していた。そこでは、第一線で活躍する世界中の科学者を対象としたアンケートが実施されたが、地球にとっての最大の危機は何か、というような問いに対して、「人口問題」をあげた科学者が一番多かった。その理由は、人口問題が、食料問題、民族紛争、環境破壊などの諸問題の根源だからということだった。
― 作品のモチーフとしての「遺伝」 ―
つまり、坂本龍一が人口問題を最重要課題と捉えているということは、しっかりと的を射ているわけだ。彼が、遺伝についてどの程度正確な専門知識をもっているのかはわからない。僕の正直な印象としては、やはり科学的な厳密さという点から言えば、多少なりとも杜撰なものだろうと思う。
ところで「大衆化された知識」というものがある。専門家の手を離れて大衆に流布される過程で、一切の微妙なニュアンスが削ぎ落とされて、極端に単純化された有害な知識という意味だ。遺伝を例にとれば、遺伝子を調べれば、人間の誕生から死に到るまでの全ての行動や考えがわかるし、決まっている、というやつだ。ネット上でも科学オタクが得意気にその種のことを口走っているのをたまに目にすることがある。
しかし、現場の一流の科学者ほどその点については慎重であり、決して短絡的な結論を下さない。確かに多くのことが解明されたが、わからないことの方がずっと多いのだろう。そもそも科学者の勤めは、研究成果を基にした世界観やイデオロギーの構築ではない。我々素人としては、手っ取り早い遺伝学的運命論を軽率に信じるよりも、優秀な科学者のその「慎重さ」「ためらい」にこそ注目する態度が大事だろうと思う。殊に現代人は多分にニヒリズムの気があるから、要注意なのだ。やたらに人間を無価値化したがる傾向があるからね(^^;;
近代に入ってからは、芸術家が作品のモチーフとして自然科学側の成果を援用することは決して珍しくない。そして、その時、彼らは必ずしも科学的な厳密さを第一とはしていない。彼らにとっては、作品形成の過程で、彼の内部にあるものを形にしてくれるキーワードの発見こそが優先されるからだ。坂本龍一の人口問題への遺伝学的なアプローチについても、作品形成のためのインスピレーションの源泉というニュアンスが濃いと思う。だからすべては絵空ごと過ぎない、と言っているのではない。優れた芸術家の直観は、一気にものごとの全体をつかむ。(我々無知な凡人は一気につまらぬ迷信をつかむ(^^;;)つまり、芸術家と科学者は扱う主題や対象が同じでもアプローチの方法が違う。従って、坂本龍一が「遺伝」と言う時、厳密には科学者の言うそれとは違うと思う。そこには坂本龍一が苦吟の末に感得したイメージが託されている。
― 「地球40億年の進化」に逆らってきた文明 ―
『人口を抑制するものは食糧不足と戦争、病気。医療はある種の弱い遺伝子を保存してしまう。地球40億年の生命の進化の論理からいうと、全くまずいことなわけです』(坂本龍一;四者対談にて)
坂本龍一の人口問題への見解には、下手をすると19世紀の優生学と受け取られかねない危険を含んでいる。四者対談で、浅田は、配慮して「社会ダーウィニズム」と比較的穏当な表現を使い、村上はズバリ、ヒットラーの名を挙げた。実際、掲載された坂本龍一の考えは、あまりに単線思考である。浅田がそれとなくフって、村上龍が応答しているように、何が弱く、何が強いのか、そう単純に判別できるものではない。この辺の文脈を追っていくと、浅田、村上両名は間接的に坂本の見解を否定している。そりゃそうだ。字義通り教授の発言を受け入れる方がどうかしている。
『ただ、村上さんは小説では、むしろ弱い者こそが危機感から進化に向かっていくという面を強調されているでしょう。』(浅田 彰)
『マージナルなところにいて危機感を感じて、突然変異の助けによって進化していくって方が、僕は好きですね。危機感をなくした連中が存続していることが一番問題。進化せざるをえない環境に追い詰められたものの中で、進化するのは危機感を持った連中ではないかと。』(村上
龍 共に四者対談より。)
しかし、坂本龍一としては、なぜ人類が地球の環境と生命を破滅の危機へ追い込んでしまったのか?という根本的な問いに対して、是が非でも根本的具体的な解答がほしいのだ。さもなくば、彼の作品世界、世界観の土台が築けない。坂本龍一がその根本的な解答を模索し続けるなかで、行き当たったのが、ひとつには「弱い遺伝」の弊害という着想だった。もちろん、彼は単純に弱肉強食の原理に従って「弱い遺伝」を葬り去るべきだとか、「弱い遺伝」をもったものは生きる価値がない、と言っているのではない。「弱い遺伝」を保護するという発想がすなわち、「反自然的」である、と言いたいのだと思う。それはヒューマニズムの美名のもとに行われる人類のエゴであると言いたいのだと思う。
『助けるというのは、悪い遺伝子を残していくことなんです。強い遺伝子を残して、弱い遺伝子を消す、それが一般的には生命の掟なんですよ。そこに戻れば、人口が抑制され、ほかの生命体との共生関係はたぶんうまくいくんですよ。』(坂本龍一・安藤優子対談より)
この対談では、未熟児の出産や死に到る病の延命治療があげられているが、厳密に科学的な立場から見れば、未熟児や死に到る病の原因が遺伝子に起因するとは限らないに違いない。(人類に多大な貢献を残した人物が出産時には未熟児だったという事例は少なくない。)しかし、坂本龍一がひたすらほしいのは、科学的な正確さよりも人類がダメになってしまった原因の説明だ。
『弱い遺伝子をため込んでいるんだから、人間はどんどん弱くなっているとも考えられる。』(坂本龍一;四者対談より)
坂本龍一はこの「イメージ」から、人類の数々の愚行の淵源を想定してみた。坂本龍一の発言には、「地球40億年の進化」や「生命の掟」といった言いまわしを繰り返し登場する。結局のところ坂本龍一が一番強調したいのは、医学や社会思想など従来の文明には「地球40億年の進化」への顧慮が決定的に欠落しているという発見だ!(もしくは創造)一見、優生学と受け取られかねない、遺伝に関する彼の極論の類もこのことが言いたいためのものだ。
『技術は科学の知識に基づいて作られる。とすれば、このような破壊の技術を生み出した、我々の科学の知識がまだ幼稚なのだ。まず40億年におよぶ生命の進化を知らなければならない。そして、それを育んだこの惑星のことを知り、さらにこの惑星が属する宇宙を知らなければならない。そして物質の流転と生命の共生に耳をかたむけ、技術の運用の仕方を学びなおさねばならない。救済はそこから始まる。』(「共生は可能か、救済は可能か」より)
この坂本龍一のイメージしている新しい文明のあり方( = 救済 )は、一方では非情であり、冷厳である。ちょうど地球の生態系が容赦のない過酷さを垣間見せるように。そして、それは、彼の遺伝についての考えのように近代の日常的なモラルに逆らう。(もちろん彼は、テクノロジーを否定していないので、非現実的な自然回帰を言っているのではない。)坂本龍一の救済のビジョンには、多くの過酷や犠牲が不可避として予見されている。それゆえ彼は、全ての人が違いを乗り越えて楽しく暮らすという意味以上に「共生」をとらえることがない呑気な共生論者と一緒にされることを拒む。そして同時に坂本龍一の自説への自負であろう。
― 人類の滅亡回避という意味だけではなく ―
もっともこの「地球40億年の進化」というのも、なんだか中国四千年という感じで(笑)、あいまいなのに何でもそれで済むような殺し文句っぽい。それはともかく、それほど「地球40億年の進化」が厳然たるものならば、いろいろもがいてみても人類は滅亡するのを免れるのは不可能だ、という見方もできる。むしろ何が何でも生き残ろうという行為そのものが、既に「地球40億年の進化」に逆らってると。まるで人類全体の延命治療のように。
現に坂本龍一は、はっきりとは明言しないが(言ったら大変・・・・・)、どうやらダメらしい、というこも念頭に入れているらしいことは、発言の端々から類推できる。従って、彼の言う「救済」というのは、何も人類滅亡の回避ということのみを指しているわけではない。いよいよダメだ、という段になっても、ただただ悲惨なだけでなく、同時にそれはある再生の始まりなのだ的なカタルシス、というニュアンスが強いような気がしている。
『オペラの最終章である「光」は、悲観的に見れば「終末の光」と解釈することができます。しかし、「希望の光」 と受け止めることもできるのです。見る側の意識しだいです。』(坂本龍一;シャボン玉石けん森田光徳社長との対談より。)
『我々の細胞の中には、何十億年前の細胞融合の痕跡どころか、他者がいっぱいいる。何十億年前からのDNAが勝手に息づいていて、これが救済だったんですよ、僕には。これを伝えるのは難しい。』(坂本龍一;四者対談より。)
3回の考察を通して、おぼろげながらもみえてきたのは、パラダイム・シフトかと思われるような文明の根本的な転換ということだった。しかし、また意外に平板な、ありふれた文明批評のようにも感じる。「共生は可能か、救済は可能か」から引用した一節などは、エコロジーなテレビ番組「たけしの万物創世記」のナレーションに出てきそうだ。そう、主題やテーマを言葉で表現すると、大抵つまらない似通ったものになってしまうものなのだ。ちょうど今年の夏、日本公開予定のSF映画「スターウォーズ」のエピソード1のテーマ ― 例えばアナキン少年はなぜフォースのダーク・サイドに引き込まれてしまったか、について考察したら、もう映画は観なくともよいということにならないようなもんだ。
言葉で表現できる領域の先こそ、音楽家・坂本龍一の本当の仕事であるし、核心だ。彼の様々な芸術表現は、これまでの文明のあり方が誤りであったことを心から認めさせる説得力を発揮しなければならない、宇宙基地モデルの危機感をまざまざと体験させなければならない、新しい文明への移行がいかに素晴らしいことか、その誘惑的なイメージで我々を魅了しなければならない。かりに我々が救済の途上で犠牲死せねばならないというならば、晴れ晴れとしたカタルシスとともに、再生のための死に赴けるようなストーリが用意されていなければならない。その時初めて坂本龍一の思想が総合舞台芸術によって活き活きと現前するだろう。
|