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99/5/14
asahi.com:a ryuichi sakamoto opera 1999(2)

『モンゴル』=『ぎりぎりの共生系』=『宇宙基地モデル』

『どこかに一つでもミスがあると死んでしまう。実は地球自体もそうなんです。宇宙基地と変わらない。かなりぎりぎりの共生系をやってるわけです。』(坂本;四者対談にて。)

坂本龍一は、モンゴルの遊牧民族の生活ぶりをつぶさに観察するなかで、そこに「ぎりぎりの共生系」の雛型を見出す。そして彼は、そのイメージを「宇宙基地モデル」という一語に集約し、これまでのように、肥大化する欲望を満たす方向で発達してきた科学文明とライフスタイルを改めない限り地球資源が枯渇する、という危機感を端的に表現してみせた。微量の資源を生態系を破壊せずに緻密にやりくりして生き延びる難しさ・・・・・・。

「宇宙基地モデル」といった発想を芸術表現から離れて、緻密な計画の「実行」やら「運動」という次元で捉えると、たちまちややこしい問題が惹起してくる。人類の内発的な転換ということを前提にしないならば、それは必然的に強力な権力を必要とする。すると、なんのことはない、これは、エコロジーの装いをもって現れた社会主義の亡霊だ。社会主義とは、すなわち全体主義であったから、いわばエコロジック・ファッショだ。

社会主義は、根底に「理性によって欲望は制御され得る」というヘーゲル以来の素朴な信仰に依拠していた。民衆に良かれと思って理性的な計画を推進したところが、その延長線上に、不本意にも強制収容所やら秘密警察の独善的な野蛮が控えていたことは歴史の厳しい教訓である。(対談はお読みになったと思うけれど、念のために断っておくと、坂本自身も「宇宙船モデルではだめなんだという気がしてきました。」と発言している。)

もし全体主義に陥ることなく、「ぎりぎりの共生系」へ移行するには、やはり人類の一人一人の自覚が絶対条件ということになる。ところが、現代人にとって人間を信ずることはなかなか困難だ。いつも、ここに大きなジレンマがある。地球が、人類が危機に直面しているという事実の認識までは達することができるが、その先へは容易に進まない。坂本龍一は人間を信じただろうか。坂本龍一にとっての共生のイメージは、何が何でも人類が生き延びるということではないようだ。

『異なる人種が住むという人間レベルの共生をイメージする人が多くてね。それは全くない。人類が絶滅しようが関係ないと思っているからね。』(坂本;四者対談にて。)

つまり、坂本龍一は、その他の地球の生命に比して、人類を特別な存在ではない、と捉える。彼は、地球生命そのものが存続するうえで邪魔な存在ならば人類の滅亡もやむなしと突き放している。坂本が、ぎりぎりの共生系の厳しさを強調するのは、わずかな資源をやりくりする難しさからだけではない。そこに多くの人の死を予見するからだ。彼の「救済」のビジョンはまさにその惨禍の止揚のあり方にクライマックスのひとつがあるのではないか、僕は今そんな風に想像している。犠牲?

ところで、僕は坂本龍一の発言をさもひとごとのように淡々と分析しているけれど、それは、あまりにたくさんの深刻な問題を背後に控えているので、そうでもしなければ、やってられないからだ。例えばである。「人類を特別な存在と捉えるべきではない」ということを言う人は多い。本当に他の生命への慙愧の念からそう言う場合もあれば、人間嫌いを間接的に表明しているだけという場合もある。そして、圧倒的に後者の例が多い。



99/5/7

asahi.com:a ryuichi sakamoto opera 1999(1)
asahi.comの「a ryuichi sakamoto opera 1999」のページには、いくつか「オペラ」にまつわる対談やらインタビューがUPされている。一通り読んでみた。予想通りというべきか、テーマが気が遠くなるほど茫漠としているので、内容はいずれも焦点が定まっていない。(だから実はあれらのインタビューや対談を読んでの感想なぞナンセンスなのだが。)僕は正直、今回の「オペラ」のテーマを知った時、随分と大風呂敷だな、大丈夫か?と心配になった。誰でもそう感じるだろうし、教授だって当初はそういう懸念にとらわれたに違いない。

ツッコミの集注砲火を浴びそうな「オペラ」のスパーバイザーとして、浅田彰を配したのは、面白い。彼は確かに芥川龍之介や三島由紀夫以来の大秀才である。どうも記憶容量が普通の人の2、3倍あるらしく、舌を巻くほどの博覧強記で、音楽史に関しても、教授より造詣が深い。そんな浅田彰は、まるでこの「オペラ」の理論武装上の”魔除け”か”番犬”みたいな感じだ(笑)。無論、教授としては純粋にベストなメンバーを揃えただけなのだが。

四者による対談でも、教授や村上の直観的な発言に対して、様々な学説を提示して、その裏付け(お墨付き?)をする役割を果たしている。例えば、「オペラ」に関する薀蓄をひとしきり披瀝した後、次のように結論し、伝統的なオペラに対して革新的なオペラを立ち上げようとしている坂本龍一の不安を払拭してくれる。

『オペラ自体、総合芸術というからには、マルチメディアの舞台作品に脱皮しないと、21世紀にはもたないんじゃないですか。オペラだけ古い額縁舞台にこだわっているのが不思議な気がする。』(浅田)

それはともかく、対談やインタビューの内容は、終始漠然としながらも、いくつか焦点らしきものがおぼろげに見えてこないでもない。

                   ― なぜオペラなのか? ―

『オペラは19世紀に生まれた総合舞台芸術だった。私はその精神を受け継いだうえで、現代のリアリティーを持つオペラを作りたい。言葉としても本来、オパス(作品)の複数形なのです。』(坂本龍一インタビュー(朝日新聞1月3日付朝刊掲載)

まず坂本は、繰り返し「OPERA」の語源に触れ、それが複数の作品の集合体であることに現代での可能性を見出した。それでも伝統的なオペラは、ワーグーナーやR.シュトラウスはともかく、だいたい非常に通俗的な物語の台本をガイドラインとして進行していくものだ。しかし、坂本のオペラは、「オパス(作品)の複数形」という特質を一層際立たせていくことになる。

『昨日はオペラの「1.1」に挑戦。どうもうまくいかない。リファレンスに似すぎている。やり直しだ。あの精緻に作ったガイドからいかに離れるか、というのが、毎回おとづれる難問だ。』(diary Wed.19990319 /site Sakamoto)

混在する自律的な複数の作品群。音楽、身体表現、映像、語り。しかも、総体としてオペラという宇宙を形成している。それはそのまま、坂本龍一の「共生」のイメージそのものなのだ。彼にとってオペラとは彼の「共生」を表現するうえでとてもふさわしい表現様式だった。


99/4/19 
「ニュース・ステーション」出演

『New23』出演の時とはうって変わって、この日の教授は、唖然とするほど昂揚している様子だった。表情は精気に満ち、久米キャスターのフリがなくとも、言葉がつぎからつぎへと口をついて出る有様で、下手すると久米キャスター一同取り残されて立ってるだけ、という場面もしばしばだった。休みなくキャスター陣と設置されたピアノの間を動き回りながら、「オペラ」について手振り身振りをまじえ、時折ピアノを弾きつつ熱っぽく語ってくれた。わずか15分足らずの出演ではあったが、教授のオペラへの打ちこみぶりがうかがえた。 残念ながら「オペラ」からの新曲は公開されなかった。(テレビ欄の予告と違う(^^;)

『New23』で、我々は「オペラ」全体をつらぬくテーマとして20世紀の総括と共生が提示されたことを知った。今回の出演では「オペラ」についてもうちょい具体的に知ることができた。(1)20世紀を代表する各分野の文化人・著名人の「語り」が、新しいテクノロジーで「歌」のように、教授自身の楽曲に連動する。(2)教授の楽曲は、20世紀の音楽史全体をなぞるという側面をもち合わせている。(3)舞台装置として、表現手段として「映像」をシンクロさせる。(4)例によってインターネットで世界へ中継。

(1)(3)については、我々はすでにその原形を「Untitled01」の第4楽章「Salvation」で体験している。(2)は西欧の古典音楽中心になるのかはわからないが、もしそうなら苦手な人は多少予習が必要かも。でも、20世紀の音楽って脱西欧の面もあったからクラッシック中心はどうかと思うけど。たぶん違うだろう。いずれにせよビデオやLDが発売されるだろうから、それを買って繰り返し鑑賞しながら、徐々にいろいろなことがわかってくればよい、ということになるんだろう。

この種の公演を立ち上げるには、多額の費用がかかるが、一番悲惨なパターンは、大企業が企業イメージを宣揚するために企画したイベントに取り込まれる形で、「世界のサカモト」の大味なスペクタル大巨編の馬鹿騒ぎで終わり、その場は喝采に包まれつつも、花火のような一過性のイベントとして人々に記憶されるというやつだ。そういうケースは非常に多い。ともかく、あらゆる面で行き詰まりを呈している、この混迷時代に、坂本龍一はどのような「救済」のビジョンを提示し、そして人々に価値ある励ましを与え得るのか。正念場だ。

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