「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/06/07

第70回配信
おかげさまで執筆開始から5年になります。これからもよろしくお願いします!世界の中心ルドブレグ


黄色がクロアチア。今回本文で取り上げる町を赤で示した
   相変わらず筆者多忙が続いており、この配信に間に合うよう時事的な話題に関して執筆する時間がありませんでしたので、今回は読者の皆さんをクロアチアの旅にご案内しようと思います。イラク情勢に新型肺炎(SARS)と、ちょっと旅に出にくいご時世ですが、こんな時こそ皆さんと知られざる町へヴァーチャル旅行してみましょう。
   東京近辺に生まれ育ち、今はセルビア=モンテネグロの首都に住む私は、都会こそが世界の中心であるという都会帝国主義的な世界観からなかなか脱することが出来ません。しかし使い古された言い方かも知れませんが、「地方」に住む人々にとっては自分の町と田園風景、その町を囲む山や海が世界の中心なのであって、東京やベオグラード、ザグレブの人間がそれに異論を挟む余地はないはずです。  
   「クロアチアに行こう!!」主宰の長束恭行さんもこのHPでの対談(第47回配信)でクロアチアの地方主義の強さを語っています。私は昨秋、日本のテレビ局の仕事でクロアチアを取材する折に、首都ザグレブや世界遺産級の有名どころとは別に、日本では知名度の低い小さな町を訪れて各地のいろいろな郷土自慢を聞く機会がありました。それらをまとめて、いずれも人口1万に満たない3つの町それぞれの誇りを紹介します。中にはとんでもない大ボラ話も出てくるかも知れませんが、一緒に騙されたと思ってお付き合い下さい。

   まずはパーグ島です。私が初めて旧ユーゴの地図でクロアチア海岸に点々と続く島を眺めた時は、無粋な言い方ながらすり傷のカサブタみたいだな、と思ったものでしたが、そのカサブタの長細いものの一つが全長60キロ、幅は5〜10キロというこの島です。
パーグの女たちが受け継ぐ伝統のレース編み。最初は単純なものに見えるが・・・(画像提供:www.otokpag.com)
ザダル市から陸路、島東部へ渡る橋を通る前、あるいは逆にリエーカ方面から島西部のジグリェン地区へ渡るフェリー乗り場に着くと、緑と言えば低木があるだけ、岩だらけのこの島は、人を寄せ付けないような印象を抱かせます。
   しかし全島人口8000弱のパーグは、中心となる同名のパーグ町が最盛期のヴェネーツィアによって整備された15世紀以来のユニークな伝統を保つ島として知られています。複雑に入り組む湾は早くから塩田として利用され、ここで作られる塩は、岩だらけの島が近代史の激動の中を生き抜くための重要な経済的要因となりました。独特の植生の下で育てられる羊によるパーグ産チーズはクロアチアの食通の間でも有名です。今回はもう一つの伝統、そしてパーグの人々の誇りでもあるレース編みに焦点を当ててみます。  
   男たちが農漁業や塩作りをしている間、パーグの女たちは糸を使って海に白く泡立つ波を形にして行きました。それは母から娘へ代々継がれて行く民間芸術に成長したのです。右下写真に紹介したもののように、円、半円、三角、矩形などの様々な幾何学モチーフを複雑に組み合わせながら時間を掛けて服の飾りやテーブルクロスを形にして行きます。外周を半円または小円のモチーフで取り囲むのがパーグのレースの特徴です。  
   服飾史をひもとくと、レース編みが始まったのはルネサンス初期で、ちょうど石鹸が改良され白が衣服の支配的な色となった時期にレース編みは発展しています。白は清潔感はありますが単調です。そこに変化を付けるために飾り模様を付ける余裕が出来てきたのがルネサンスという時代だったのではないか、と私の想像は膨らみます。建築史に詳しい方ならご存知のように、ゴシック様式をさらに発展させ、対称性を好む幾何学模様が頻用されているのもこの時代です。
・・・時間を掛けてこんな傑作に「成長」する(画像提供:www.otokpag.com)
   「パーグのレース編みの、単純なモチーフを重ねながら幾何学模様を作り上げる方法(レティチェッラ=イタリア語で「小さな網」の意)はルネサンス期のイタリアから来ていることは間違いありません。また細部は複雑に組み合いながらも全体が優美な曲線を描くことになる点にマニエリズモ(後期ルネサンス)の影響も見られます」と在ザグレブ・民族学博物館のエッケル研究員は説明します。パーグのレース編みは伝統的に下絵を使わずに作られます。代々の女たちが自分の母や祖母の作ったものを見ながら自分の独創性を少しずつ加えてきたのでしょう。 
   当初は服の飾りにだけ使われていたレースが、テーブルクロスとして、またハンカチの飾りにも使われるようになり、19世紀後半からパーグのレース編みは新しい発展を経験します。1906年にはレース編みの学校が設けられ、必要に応じて下絵も作られながら急速に近代化する服飾やインテリアデザインの需要に対応するようになりました。クロアチアの画家の中にも芸術レース編みの下絵を作る試みがありました。しかし、こうして少し工業化した中でも基本形は変わりません。エッケル研究員は言います。「近代イタリアやフランスの発展のしかたとは異なり、ここでは少しずつ作者の独自性を出すことを許しながらも、レティチェッラを基本とする15世紀以来の伝統が守られています。恐らくパーグから外にあまり広まらなかったのがその原因でしょう」。  
逆三角形が特徴のパーグ民族衣装の被り物の縁もやはりレース編みだ(画像提供:www.otokpag.com)
   パーグの民族衣装は(さすがに19世紀中盤以降は、文化行事や礼服として以外は着られることはなくなりましたが)女性の被り物が独特の逆三角形をしていることで知られています。その縁を飾るのもやはり伝統のレース編みです。  

   古い伝統の島パーグを騒がせる事件が、昨年の6月4日夜に起こりました。18時と21時半頃の2度にわたり、陸地側のヴェレヴィット山地からパーグ上空に掛けて、光る円筒形の飛行物体が出現。地元住民のほか、首都ザグレブから出張していた土木会社の従業員も目撃し、日刊ノヴィ・リスト紙6月6日付で取り上げられました。最初の飛来の報を受けた地元サイトwww.otokpag.comの主宰者で「神秘現象観察センター」の会員でもあるJ・ファビヤニッチさんは「21時半頃ヴォディツァ地区の自宅から、円形の飛行物体が時々円筒形になりながら飛んでいるのが見えた。物体の内側は赤っぽく、外側は緑っぽい光を発していた」と証言します。15分ほど一定の位置に止まっていましたが、突然上方へ姿を消した、とのことで、半年以上が経った今も正体が明らかになっていません。  
   ところがパーグのUFO騒動はこれが初めてではありませんでした。1967年、97年にもUFOが「出現」しており、しかもご丁寧なことに(?)99年には島西部の岩砂漠で謎の三角形「パーグ・トライアングル」が発見されて、既に好事家の注目を集めていたというのです。  
   この「トライアングル」は西部のノヴァリャ地区近くにあります。前述の「神秘現象観察センター」によれば、周囲がごつごつの岩ばかりの地形なのに底辺22メートル、等辺33メートルほどの二等辺三角形だけが周囲より20〜30センチほど一様に低く、平らになっていて、その三角形の周囲だけ岩が他の岩より際立って明るい色をしている、しかも三角形の内部には植物も何も生命の形跡がないのが特徴です。自然が偶然こんな形を作ったのか、石器時代の宗教的な意味合いのある集会場だったのか。
確かに宇宙船が降りてきそうな気もしないではない岩ごつごつの風景の中、ここだけが真っ平らで際立つパーグ・トライアングル(画像提供:www.otokpag.com)
あるいはこれまでも何度かパーグ上空を飛来した(?)UFOに関係があるのか、三角形は宇宙船の形なのか。地学者や考古学者から神秘現象愛好家まで注目を集めたこのパーグ・トライアングルについては、既に複数の本が書かれています。いずれにしても新しい観光名所が出来た、とは地元ノヴァリャの人々の弁。夏の間は「観察ツアー」も実施されているそうで、「既に99年から3年間にのべ3万人が世界中からここを訪れています」、とファビヤニッチさん。私自身は実物の三角形を見る機会はありませんでしたが、フェリー発着場ジグリェン地区からノヴァリャ方面に向かう路上に「トライアングルはこちら」という宇宙人マークの看板が立っています。

   ファビヤニッチさんに言わせれば、パーグの誇りは「きれいな海岸もあるし、岩だらけの風景もまた面白い。塩とチーズとレース編み(とUFO)のパーグ島」というところ。実際いろいろな町の郷土自慢を聞いていると、よく「これもあるし、あれもある」というフレーズに行き当たります。その文脈で行くと、次の目的地ロヴランなどは海の幸あり山の幸ありですから、これまた素晴らしいご自慢が聞けそうです。  

   イタリアの一地域として発展したパーグ、ザダルなどのダルマチア地方から西に向かいリエーカに入ると、イタリアとヴェネーツィアに陸の距離では近づいているのに、逆にオーストリアの影響が強くなるのは、ちょっと不思議な気がします。しかしイタリアに近づくことはオーストリアに近づくことをも意味します。今でこそオーストリアは海なし国になってしまいましたが、このクヴァルネル地方は近代ハプスブルグ帝国の貴重な海への出口だったのです。ゲルマン(オーストリア)、ラテン(イタリア)、スラヴ(クロアチア)の三文化がせめぎ合いを続けながら作り上げた地域です。  
   リエーカから海岸沿いに西へ車を走らせると最初の町がオパティヤ、続いてロヴランです。1月の平均気温6度、6月で23度。雨が少なく(ヨーロッパにしては)温暖な2つの町は19世紀後半、ハプスブルグのセレブリティ御用達の避寒地として整備されました。1884年に海岸遊歩道(ルンゴマーレ)が作られ、オパティヤ最初のホテル、クヴァルネルがオープン。1905年にはロヴランにサナトリウムが完成、3年後に市電が開通するなど、観光地として発展を続けました。  
   
澄んだ海へ!(ロヴランにて)
現在のオパティヤは伊豆の熱海に似た雰囲気ですが、19世紀当時のバロックの建物と、後の社会主義時代に建設された巨大ホテルがひしめいていて、私には少しバブルで息苦しい印象を抱かせます。しかし隣のロヴランにはそれほど威圧的な建物もなく、落ち着いて海を眺められる安心感がありました。  
   クロアチアだけでなく地中海の観光地はどこでもシーズンの夏にサマーフェスティヴァルがあるのは当然ですが、ここロヴランでは春にはアスパラガス祭り、6月はチェリー祭り、秋には栗祭りがあると言います。これに冬のカーニバルや5月の吹奏楽祭などを加えると1年12ヶ月のうち半分の6ヶ月は何かしら祭りのある月で、ちょっと他とは違う楽しい町のようです。  
   「あれ、でもアスパラって、日本だったら信州とか、涼しいところの作物ですよね。それに海岸と栗というのもちょっとピンと来ないなあ」などと私が聞いたら、リエーカの友人ボーラさんは「愚問を発する奴だ」という顔をして後背山地の方へ案内してくれました。ロヴラン本町から車で15分ほど、カーブと坂道を続けるとロヴランスカ=ドラガ地区に出ます。セルビアでは馴染みのない「何とかドラガ(draga)」という地名にクロアチア海岸ではよく行き当たりますが、これは入り江の意味で、海岸でなくとも谷間の湾状地形のところはドラガなのだそうです。なるほどこの辺も海岸をはるか下方に見下ろす谷間のカーブに沿って集落が出来ています。そしてその周囲は栗の木ばかり。海岸は暖かい日でしたが、ここまで上ってくると空気も冷んやりしています。こうした後背地の山の幸が、ハプスブルグの時代から観光の町ロヴランの食を支えてきたのだな、ということが良く分かります。ボーラさんは知り合いの農家に図々しく上がり込んで、ワインと生ハムをちゃっかりご馳走になりながら「空気もきれいだしな。この辺にホテル作って、ロープウェイで下の本町と結んだらいい。日本人が投資したらきっと成功するぜ」と一人で悦に入っていました。  
   この町を本拠地として既に約5年活動を続けているピアニストの西井葉子さんにお話を伺いましょう。
   「内戦のせいで、クロアチアに対して危なく貧しい国だと思っている日本人が多いようですが、ここロヴランは平和で治安もよく、住民は陽気で明るい人が多くて、年じゅう楽しげに優雅に暮らしています。美しいアドリア海と山の自然に恵まれ、空気は美味しく、また夜空の星の美しいことと言ったら、自分の目を疑うほどです。
ロヴランの後背山地中腹、ロヴランスカ=ドラガ地区からみたリエーカ湾の眺め
ロヴランからオパティヤの方まで、アドリア海沿いに遊歩道が12キロ続いているのですが、この遊歩道を散歩するのは本当に気持ちのいいものですよ。観光客で溢れた夏でさえも、ほんの少し丘を登るだけで騒々しさから解放され、静かに落ち着いて自分の目指す芸術を探求できるという土地は稀です。舞踊家イサドラ・ダンカンはこの町に住み、朝夕潮風に揺れる椰子の木を眺め、その葉の動きを体で表現し新境地を開いたそうですが、美しい自然に恵まれたここロヴランは、芸術を志す者にとって自分を見つめ直すことができる有難い土地です。
   地中海性気候というレッテルですけれど、実際に住んでみると、あじさいも桜も咲くし、歩いていて見かける植物は日本で見かけるものが多く、日本の梅雨のような時期もあり、気温も一年を通して東京と似た感じです。ただオリーヴとローレル(月桂樹)の木がそこらじゅうに溢れているところは地中海らしいと言えるかも知れませんね。実はクロアチア語ではこのローレルのことをロヴォル(lovor)と言って、これがロヴラン(Lovran)の町名の由来だそうです。
   ロヴランでは、年中何かしらのお祭りが行われています。2月はカーニヴァルで町じゅうが賑やかになり、ヴェネチアやリオに似た仮装パレードのほかに、仮装した子供達が家々を周ってお菓子やお小遣いをもらい歩く行事もあります。
   4月はアスパラガス祭りで、レストランのメニューにアスパラガスを使った料理 が並び、6月のチェリー祭りでは、どこのカフェにもチェリーを使ったケーキが並べられます。この時期はあちこちにチェリーがふんだんになっていて、歩いている途中ちょいとつまんで頬ばると、これがものすごく甘くて美味しかったりします。どれだけつまみ食いしようと怒るような人はまずいません。逆にもっともっと薦めようとするのがロヴランの人の基本的な気質ではないかと思います。ロヴランの人たちは、食べ物や飲み物を振舞って、お喋りするのがとにかく大好きなようです。
   7、8月には、『リバルスカ・ノーチ(漁夫の夜)』と呼ばれる祭りがあり、フレッシュなイカのフライやタコのマリネ、ワインやビールの屋台が並びます。
海の幸、山の幸。ロヴランの人々が食に時間と労力を注ぐのは当然か(画像提供:ロヴラン市観光局、合成は筆者)
クロアチアの民族衣装を着た人たちによるフォークダンス、ガイデ(バグパイプに似た楽器)やタンブリッツァと呼ばれる弦楽器を使った民族音楽も披露され、ロヴランの住民のみならず観光客で賑わいます。 10月には、『マルナーダ』と呼ばれる栗祭りがあって、この日は栗を使った何種類ものケーキや飲み物、軽食の屋台が立ち並び、やはりすごい人出になります。この前後一ヶ月ほどは、カフェやレストランに、栗を使ったケーキや料理がメニューに加わります。
   ざっとお祭りを並べてみましたが、この他にも毎月第三土曜日に、町の中心部に市が立ち、住民の月に一度のささやかな(、でも最大の?)娯楽となっています。 イタリアの影響を受けて、レストランではリゾット、ピザのほか、肉・魚のグリルなどあまり油っこくなく日本人の口に合うものが多いです。ただ地元の人々はレストランに食べに行くということは滅多にないらしく、家庭でレストランの何倍も美味しい食事を優雅に味わっています。
   ロヴランでは誰もが食べることを心底楽しんでいます。きのこを取って来ては、一週間いろいろなやり方で調理をして食べたり、ひっきりなしに誰かが魚を釣ってきては調理して食べたり、暖炉でパンを焼いてみたり、芸術作品とも言えるようなケーキを作ってみたり。 何にも増して、食べることに一番労力と時間を費やしている人たちです。またもてなし好きで、もし料理している時または食事中に誰か訪ねて来たら、とにかくもてなします。 そしてもてなされた側も、初めは遠慮しつつも結局は豪快に食べて飲んで帰って いくという感じです。」  
   うわあ、何だか聞いているだけでお腹が空いてきそうですね。西井さんどうも有難うございました。これからも演奏でのご活躍を期待しています。

   最後に読者の皆さんをご案内するのは、海岸を遠く離れてハンガリー国境にもほど近い北西部の町ルドブレグです。
手前の斜面はぶどう畑、向こうに開ける平地では穀物栽培。小さな町だが変化に富む地形のルドブレグ
首都ザグレブから北へ、なだらかなザゴリエの山地が終わり、ドラーヴァ川沿岸の平地(ポドラヴィナ)が突然開けるとルドブレグです。ここから先はハンガリーに向けて広がるドナウ大盆地の起点とも言うべきところ、歴史的にもハンガリーの支配が長かった地域です。 この町のご自慢ですか? 北半分は平地で、南半分は丘、斜面を活かしたブドウ栽培や養蜂が盛ん、という程度ならクロアチア北部やスロヴェニア東部にはいくらでもあります。敬虔なカトリックの町で、15世紀に奇跡が起こってキリストの聖なる血が現れ、それ以来巡礼が訪れることになったというのも、まあカトリック世界では必ずしも珍しい話ではありません。実は人口3300の町のご自慢は超ド級です。何とルドブレグの人々の間にはこの町が「世界の中心」であるという伝説があって、町のど真ん中の広場にも「ここが世界の中心です」というプレートを付けてしまったのです。  
   ルドブレグ養蜂業組合のZ・オレチさんにまず話を聞いてみました。  
   「あの、どうしてここが『世界の中心』なんでしょうか?」  
   「どうして、というか本当に世界の中心なんですよ。この町はローマの都市カステル=イオヴィアから発展したんですが、古代ローマ人はやはりここが世界の中心だと分かっていたから町を造ったんじゃないでしょうか。」  
   「はあ?・・・」  
ラジオ・ルドブレグのヴルトゥレク主幹
   「でイオヴィアからちょうど等距離にローマ帝国の主要都市がある。ローマ、そして現在のドイツにあるアウグスタ何とか、とかですね。いや、ヴァラジュディン、チャコヴェッツ、コプリヴニツァといった現在のクロアチアでのルドブレグの隣り町は、ちょうどこの町から20キロ離れたところにあることが、この町が世界の中心であることの一番分かりやすい証拠なんですよ。」  
   うーむ、これだけでは何だかよく分からないので、この町が世界の中心である証拠の伝説を語ってくれるというラジオ・ルドブレグのF・ヴルトゥレク主幹をオレチさんに紹介してもらいました。ではルドブレグ特産の美味しい白ワインを飲みながら、ヴルトゥレクさんのお話を拝聴することにしましょう。ただし半分クロアチア語、半分スロヴェニア語みたいなザゴリエ・ポドラヴィナ方言はちょっと手加減してもらうことにします。  
   「ルドブレグという町の名前はちょっと言い換えるとルーディ・ブレーグ(「狂人の丘」)にも聞こえるので、ただの駄ボラ吹きの町のように言われることもありますが、実はルドブレガという12世紀の女性の名前から来ています。  
   この人はヴァラジュディンの伯爵の館に勤める執事の娘でした。大変な美人で、16才の時にこの館の騎士ウルリックに言い寄られて身ごもってしまうことになります。そのため館を出た後、生まれた息子を育てながらヴァラジュディンの貧しい人々や病人を助けたりしていたんですね。ところがあまりに美しいもので、また数年後にある隠者から誘惑されてしまい、それを恥じてヴァラジュディンを離れ今のルドブレグに身を寄せることになりました。
   ここではローマの都市イオヴィアだった時代から丘の斜面を活かしたブドウ栽培が盛んで、ルドブレガもやがて、上手にぶどうを育て美味しいワインを作るようになりました。彼女の作るワインはハンガリー中の評判となり、ブダ(現在のブダペスト)枢機卿がそのワインを持って教皇選定会議に臨んだところ、あまりに美味しいので会議に参加した枢機卿たちがさっと飲み切ってしまい、長く続くはずの選定会議はすぐに終了、次の教皇が選ばれることがあったとも言われています。
「おー、遠いトコからよく来た、うちのワイン飲んでってくれ!」 陽気なルドブレグの人々とつい酒が進んでしまう
ルドブレガのワインには薬効があると言われ、これを町の教会や修道院に納めていました。息子のテオバルドは成長してやはり立派なぶどうを作るようになり、遠くブルゴーニュ(フランスのワイン産地)まで自分の技術を広めに行きました。  
   何年経っても若々しく美しかったルドブレガに三たび試練が襲いました。大金持ちの伯爵が彼女を誘惑して、ぶどう畑をすべて買い取ろうとしたのです。今度はルドブレガも負けませんでした。娘時代に自分が味わった恥と怒りも全て力になったのでしょう、木の十字架で思い切り

えいっ!!!
と、この伯爵を地中に打ち付けてしまいました。あまりにもその力が強かったので、ルドブレグからみてちょうど地球の反対側(対蹠地)にあった裏ポドラヴィナで火山が爆発しました。オーストラリアと南極の間にあった裏ポドラヴィナは水没して、今はニュージーランド領アンティポデス島(対蹠地、の意)だけになっていますが、ここでは硫黄分を含んだ水が出るそうで、これはルドブレガの力が地球の中心を通った証拠です。そんなわけでルドブレガは、正式に列聖されたわけではありませんが、町の守護聖人の聖フロリヤンとともに世界の中心ルドブレグを見守り、水と大地、空気と火の四大元素を管理しているのです。私たちは、第5の元素であるワインとともにルドブレガを讃え、これを記念するために1996年のルドブレガの誕生日に当たる4月1日に『世界の中心』プレートを除幕しました。」  
   美味しいワインが進んで気分が良くなってくると、ヴルトゥレクさんの言う4月1日というのが、実在したかどうか分からないルドブレガの誕生日なのだか、単にエイプリルフールということなのだかどちらでも構わないような気がしてきました。美しいドラーヴァ川の水と空気、大地の恵みを受けて育ったぶどうは火を得て発酵し素晴らしい第五元素になる、その話だけでも十分楽しめる酒の肴ですから。私は「世界の中心」ルドブレグとそのワインが大好きになってしまいました。

(2003年6月上旬)


画像提供ほか本稿執筆に協力して頂いた下記の諸氏に謝意を表します:J・ファビヤニッチ(www.otokpag.com)、西井葉子、V・ブルブニャック(ロヴラン市観光局)、F・ヴルトゥレク(ラジオ・ルドブレグ)、Z・オレチ(ルドブレグ養蜂業組合)。パーグのレース編みに関しては、クロアチア航空の機内誌「CROATIA putni casopis」95年秋号を参照し一部引用をさせて頂きました。画像の一部は02年10月・12月に筆者が日本のテレビ取材に同行した際撮影したものです。また本文もこの取材の通訳として業務上知り得た内容を含みます。これらの本ページへの掲載に当たっては取材関係者の承諾を得ています。画像・本文とも無断転載はかたくお断り致します。
Zahvaljujem se na suradnji: g. Josip Fabijanic Berekin (www.otokpag.com), gdjica. Yoko Nishii, g. Vojko Brubnjak (Turisticka Zajednica Opcine Lovran), g. Franjo Vrtulek (Radio Ludbreg), g. Zdenko Orec (Pcelarska udruga Ludbreg) --- Zabranjena je svaka uporaba slika i teksta bez ovlastenja.

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