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第67回配信
ミハイロヴィッチ内相ら警察関係者は事件の翌13日記者会見を開き、政府通用門のすぐ裏手のゲプラット提督通り14番地3階から発砲されたこと、実行犯は3人で一人がライフルを、2人がピストルを所持していたことを確認していると発表。
国内最大の犯罪組織ゼムン・グループを率いる「レギヤ」ことミロラド・ウレメク(ルコヴィッチ)容疑者とは何者なのか。地下組織の話題は筆者の趣味ではないこともあって「旧ユーゴ便り」では扱っていませんが、地元各紙にはたいてい詳しい記者が一人はいて、それなりのことが今までに書かれています。68年ベオグラード生まれ、ノヴィ=ベオグラードのごろつきの一人でしたがスポーツ用品店の強盗に入ったあとフランスに逃走。ディスコなどの職を経て、かの外人部隊に入隊します。しかし長くは続かず脱走し90年代初め、紛争で混乱するセルビアに戻りました。クロアチア、ボスニアの戦地では故アルカン率いる民兵が大暴れしていた時期ですが、ミロラドの親戚がアルカンに近い人物であったこともあり、彼の部隊に入隊します。ミロシェヴィッチ政権の私兵と言われた警察の精鋭部隊が、スタニシッチ、シマトヴィッチ(前述)の指揮下、秘密裡に特殊工作部隊「レッドベレー」を編成したのもこの頃。
2000年のユーゴ政変当時、既にレギヤは警察最大の武装組織である特殊工作部隊の司令官となっていました。連邦議会への突入事件の夜、一般市民はミロシェヴィッチ政権打倒の高揚を味わっていました(第37回配信参照)が、ジンジッチ、チョーヴィッチら 政変の立役者らは軍や警察による反撃を警戒していました。そしてジンジッチ・レギヤ密談が実現。「警察はジンジッチ派に寝返った」という言質を得、翌日のミロシェヴィッチ敗北宣言、コシュトゥニツァ大統領就任へと事態が無事進展して行くことになります。のちジンジッチは「彼が動かなかったおかげで、自分も助かったし、多くの市民の流血が避けられた」と公的に発言しています。 この「功績」のため政変後も特殊部隊のトップだったレギヤですが、一昨年夏にラジュナトヴィッチ未亡人の誕生日パーティーで発砲事件を起こすなど不祥事が続き解任されます。しかし同年秋に特殊部隊がミハイロヴィッチ内相のハーグ戦犯容疑者(バノヴィッチ兄弟)逮捕に使われたことに抗議した行動(第53回配信)の際は、滅多に表に表れないレギヤがマスコミを通して特殊部隊を支持する声明を発表。解任後も影響力を残しているのではないか、とも言われていました。 ベオグラード在住のフリージャーナリスト吉田正則さんは、マスコミに顔を出さないレギヤと「接触(?)」した恐らく唯一の在留邦人です。
こうした言わば表の顔の他に、レギヤは犯罪組織の有力者としても活躍していたようです。いや実際には、軍に次ぐ表の武装組織である警察特殊部隊と犯罪組織は、少なくともレギヤが前者の司令官を務めていた時代には明瞭な境界がなかったと言う方が正確かも知れません。今回内務省がレギヤ一派の犯行として挙げている事件には、ミロシェヴィッチ政権末期に起こったスタンボリッチ元セルビア幹部会議長誘拐殺人事件、ドラシュコヴィッチ野党党首暗殺未遂事件など、政治目的での大胆な犯罪が含まれています。昨年以降、特殊部隊の彼の盟友でもあり、グループのもう一人のボスであるブハとの反目が深刻化しブハは国外に逃走。彼の道路建設機械会社が昨年12月に大爆発したのもレギヤのしわざとされています。ブハ派はほぼ消滅し、レギヤをトップとするグループに再編成されつつあったと見られています(以上レギヤ関連は週刊ヴレーメ誌1月30日号、英BBCなどによる)。去る2月21日にはジンジッチ首相がベオグラード空港方面へ自動車で向かう際、隣の車線からトレーラーの突入を受けました。首相本人は暗殺未遂説を否定しましたが、内務省はゼムン・グループの犯行と断定していました。今から思えばそれが「警告」だったのかも知れません。 ジンジッチの人気について、第59回配信、第64回配信などで筆者は「?」印を付けました。
しかし民主党と首相個人の都市部での人気を反映してか、非業の死は政党人気とは無関係ということか、事件のあった12日夜には既に共和国政府前を訪れ、献花したりロウソクを立てて弔意を示す市民の姿が多数見られました。13日からは政府庁舎での弔問記帳に大行列、15日の共和国葬には推定50万(警察発表80万!)の人々が参加。首相の死をいたみました。 国葬には国家元首級こそボスニアのシャロヴィッチ幹部会議長のみだったものの、パパンドレウ欧州連合議長国(ギリシア)外相をはじめ多くの国賓が参列しました。旧ユーゴ圏からもロップ(スロヴェニア)、ラーチャン(クロアチア)、ツルヴェンコフスキ(マケドニア)各首相らが訪れ、80年のティトー国葬に次ぐ大規模な葬儀となりました。セルビア内政でジンジッチの政敵だったコシュトゥニツァ党首らセルビア民主党関係者も参列。この国葬までの3日間、共和国全土が喪に服し、15日はモンテネグロ共和国も喪に服しました。セルビアの公共施設のみならず各国大使館も自国国旗を半旗で掲げました。演劇、スポーツイベントなどは中止。
「新シイ年号ハ、『ヘーセー』デス」。小渕官房長官(当時)の宇宙人のような無機質な声を曇り空のベオグラードで思い出しています。ユーゴに渡る直前の89年1月、私は氷雨の東京にいました。大葬翼賛体制に誰も異を唱える者がいなかった、笑う者もいなかったあの日に感じた恐怖に近い孤独感を、私は悪夢としてのみ記憶しています。ジンジッチの死に涙する人々の気持ちを傷付ける意図は毛頭ありません。しかし私は「皆が皆」というあの雰囲気がイヤなのです。
ポスト冷戦時代の申し子のようなキャリアを持ち、先週の水曜まで首相として動いていたゾラン・ジンジッチ(1952−2003)という人物を、現時点で簡潔に評価するのはなかなか難しい作業です。
青年部が強化され、さらにパソコン・インターネット時代の夜明けとともに、 若手実業家など次世代のセルビアを担うとみなされる層との関係を強めて行きました。日刊ナーシャ・ボルバ紙、週刊ヴレーメ誌などの反ミロシェヴィッチ論調をうまく味方に取り付けました。社会党の票田の「年配・農村部」対野党の「若年層・都市部」の対立構図はさらに深まりますが、その中で民主党は議会をボイコットし続けたにも関わらず後者を代表する勢力となって行ったのです。親欧左派と見られていたジンジッチはボスニア紛争中セルビア人勢力を擁護する「カラジッチ寄り」の発言をしウォッチャーを驚かせますが、96年の反体制デモなどを率いる彼の基本方針は「難航不落のミロシェヴィッチ政権打倒には大衆を味方に付けるしかない」という点では一貫していたように思われます。この間、ジンジッチの強引な党拡大の手法に批判的な勢力と党内抗争が続き、ミチューノヴィッチ初代党首(現セルビア=モンテネグロ議会議長)はたもとを分かち民主中道党を創設。ペリシッチ現・在カナダ大使、ラブス現G17党首など、解任された副党首も多数に上りました。 政変ではコシュトゥニツァの反ミロシェヴィッチ選挙戦を仕切り、後にセルビア首相となってからも、ジンジッチは野党時代そのままの豪腕ぶりを見せ続けたと言えるでしょう。ミロシェヴィッチ逮捕・移送劇では慎重論のコシュトゥニツァ連邦大統領との対立が深刻化することを覚悟で強行。この時はミロシェヴィッチの身柄引渡しがない場合、米など先進国の援助が大幅削減ないし停止する危機だったのですが、「セルビアの政治的スジ道」を通そうとするコシュトゥニツァに対し、ジンジッチは南東欧最低水準の経済力を引き上げなければならないという「経済の論理」を優先させました。今年に入ってからはコソヴォ自治州のステータス見直しの可能性を発言するなど、大衆迎合と経済(=利権)優先の「?」印を多少匂わせながらも、各方面で自分が先頭を切って発言し行動する実行力のある政治家でした。 しかしそれだけに政府・議会庁舎の外にも敵が多かったことは確かです。支持基盤となったニューリッチ層どうしの利害関係にはさまざまな噂が出ていますし、事件後内務省の発表があるまでは各メディアでアルバニア人マフィアの犯行の可能性が言われました。実際に凶行に及んだゼムン・グループとの背後関係が指摘されているスタニシッチ元秘密警察長官らはミロシェヴィッチ元大統領の側近、故アルカン派は武闘派民族主義者で、いずれもオランダ・ハーグ戦犯法廷の追及を逃れたい勢力です。 セルビアは舵を失ってしまいました。大統領不在に加え首相も不在、16日民主党は臨時執行委員会を開きましたが、新党首の選出は来年の定時党大会まで凍結すると発表。これでミロシェヴィッチ(セ社会党)、シェシェリ(セ急進党)と党首をハーグに送り出した主要野党に続き、最大与党の党首も不在という状況が発生しました。
「セルビア経済が発展し、欧州連合(EU)の一員になることは故首相の夢だった。われわれは政府がその夢の実現のために今後とも努力することを期待し支持する」と、暗殺翌日にベオグラードを訪れたソラナEU上級代表(共通外交・安全保障政策)は述べました。ジェリッチ蔵相ら経済関係者も「経済政策の方向に変化はない」「EUは今後も援助継続の方針の報告を受けている」と強調。また国葬に参列したスロヴェニア・ロップ首相はセルビアで事業を営むスロヴェニア企業関係者に対し「今後とも二国間関係に変化はない」と述べています。しかし独・オーストリアの大手銀行HVBグループのグロイシング・ベオグラード支部総頭取は「投資が手控えられ、経済改革のスピードダウンにつながる可能性は否定できない」としています(日刊ポリティカ紙3月14日付)。またEU論が専門のテオカレヴィッチ・ベオグラード大学教授も悲観論一辺倒ではないものの、「先進国では官民とも、治安が悪いのは『遅れた国』だという印象を強く持っている。司法関係者が出来るだけ早く組織犯罪を摘発し、セルビアが法治国家であることを示さないとEU接近政策にも経済政策にも支障が出るだろう」と警告します。 セルビア内政面で最も危機感を強く持ったのは、当然のことながら民主党内部だったと思われます。党事情通によれば「ジンジッチのリードに今までは任され続け、強力なナンバー2を故首相自身が育てていなかった」のですが、ジフコヴィッチ副党首の下に結束を再確認しました。18日セルビア共和国議会ではジフコヴィッチ首班が賛成多数で成立。ただし首相本人及び同じ民主党の若手、ヨヴァノヴィッチ議員が副首相となった他はジンジッチ政権の閣僚と全く同じメンバーです。新首相の第一声は「犯罪者の逮捕追及が第一の課題」でした。 2月に発足した新共同国家セルビア=モンテネグロは、既に3月6日にモンテネグロ・ジュカノヴィッチ政権のナンバー3であるマロヴィッチ元モ共和国議会議長を大統領に選出していましたが、暗殺事件で遅れていた閣僚選出(大統領が閣僚の長を兼ねる)は17日に議会採決。初代政府が成立しました。当初防衛相に名乗りを挙げていたジフコヴィッチがセルビア共和国首相に内定していたため、同じ民主党副党首のタディッチ元連邦通信相が防衛相に、外務はスヴィラノヴィッチ連邦外相(セ市民連合)が「留任」しました。
大ニュースのかげで新聞の扱いも小さなものでしたが、首相暗殺の翌日にZ・イギッチ元ユ連邦下院議員(セルビア社会党、享年60)逝去の報を読みました。90年春コソヴォで戒厳令が発令された際、私の当時の語学力では斜め読みも出来ない新聞を辞書を引き引き読みつつ、総白髪(当時はまだ40代後半だったことになります)、精悍な面持ちのコソヴォ州共産党幹部の顔を眺めながら「なかなか怖そうな、悪役の顔だな」と思ったものでした。しかしミロシェヴィッチ逮捕劇で日本のTV取材と本HP第44回配信執筆のためにお世話になった時の実物のイギッチ議員は、とても面持ちからは想像の付かないような好々爺という感じの人でした。2月4日の最後のユーゴ連邦議会の時は審議の直前に目で挨拶を交わしたのでしたが、それからひと月少ししか経たぬうちのことで私も少し驚いています。ミロシェヴィッチとセルビア社会党は嫌いでしたし、故ジンジッチ首相と現政権を何かオトシメようという気持ちはありませんが、ここでイギッチ元議員のことを扱わないのはアンフェアであるように思い、またここに書くことで私のささやかな大葬翼賛ムードへの抵抗とさせて頂きます。 (2003年3月下旬) 画像を提供して頂いた吉田正則氏に謝意を表します。写真は筆者が2001年4月、2002年9月、2003年3月に日本のテレビ局取材に同行した際、通訳業務の前後に撮影したものを含みますが、このページへの掲載に当たっては各クライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。 |
前回第66回配信の末尾(脚注)で、東長崎機関へのリンク先を誤って張ってしまいました。正しいリンク先はこちらになります。加藤健二郎氏ほか関係者と読者の皆様に訂正してお詫び申し上げます。なおスロヴェニア共和国政府情報局は同情報センターに改組のため、前回配信に張ったリンクが無効となりました。現在有効なサイトはこちらです。 |
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