「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

必見! 「関連リンク集」大幅リニューアル!!
最終更新 2001/04/09 0:50

第44回配信
Dデーの長い夜


 

ミロシェヴィッチ逮捕の報を受けて中央刑務所前に駆けつけた報道陣(1日朝5時過ぎ)
   前回配信で次回はセルビアの経済レポート、と予告したのですが、これを出稿した頃からマケドニア事情がかしましくなり、「今回は現地に行っていないけどマケドニアを書くしかないなあ」と思っていました。ところが3月末に予期せぬミロシェヴィッチ前ユーゴ大統領の逮捕劇が起こってしまいました。予定なんてうっかり口にするものではありませんね。今回の逮捕騒動は予期していなかった筆者がドジなのかも知れませんが、ともあれ大慌てのDデー(3月31日)前後の状況のレポートをお届けします。
   前回配信でも、国際社会からユーゴ・セルビア当局に課せられたミロシェヴィッチ逮捕のデッドラインは3月末、とはっきり書きました。しかし前週にはジンジッチ・セルビア共和国首相が国営セルビアテレビで「31日までの逮捕はない」と明言、バティッチ法相も「ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷をはじめ、国際社会からはモラトリアム期間を得た」と発言しました。パウエル米国務長官を訪問したジンジッチは、下院の決定次第でアメリカが経済援助をストップする可能性は示唆したものの、ブッシュ・パウエルに関しては経済制裁と呼ぶほどの措置を取る方針はないと説明。ウォッチャーの私はアンテナを別方向に切り替えてしまっていました。3月28日には来年のサッカーW杯予選スロヴェニア・ユーゴ戦をテレビ観戦してそのコメントを日本の某報道企業に送るなど、30日の筆者のアタマの中には、正直言ってDデーのことは全くなかったことを恥ずかしながら認めます。
   3月30日は報道とは関係のない会合が18時から20時までの予定で市内であり、年に2、3回しか着ないスーツとネクタイ姿で出席していました。妻のイェレナには「帰りも遅くならないし、家で夜食を作る」と約束、携帯電話も置いて行きました。風が強く少し肌寒いものの、夕方の陽射しはすっかり平和な春のものです。ところが22時頃予定より遅れて帰宅すると、イェレナが私の携帯電話で日本の某テレビ(10月5日の政変取材と同じ会社なので、取りあえず第36回配信同様B社としておきます)のパリ特派員と慌てた様子で話しています。「9時に帰って来るって言ってたのにどうしたのよ、携帯も持って行かないで。ミロシェヴィッチ邸(本文末の注参照)の様子が変なのよ」と怒られてしまいました。この間に起こっていたことをイェレナに急いでまとめてもらいます。
ミロシェヴィッチが護送される先だと皆が信じていた「司法宮」。30日23時頃装甲ジープ4台がここに入ったことから誤報が始まってしまった
   19時頃、今年度予算を審議中のセルビア共和国議会でイフコヴィッチ社会党副党首が「ミロシェヴィッチ邸の前に警察の装甲車両数台が集結している」と同党議員の引き上げを呼びかけ。20時頃、社会党シンパが「前大統領逮捕阻止」のため60人ほどミロシェヴィッチ邸前に集まる。テレビはミロシェヴィッチ邸、司法宮(司法機関合同庁舎、本文末の注参照)前から定時レポートを送る。22時頃民放BKテレビが「ミロシェヴィッチ逮捕、現在は司法宮にいる模様」と報じる。
   22時50分頃、地元メディアでは一番信頼出来るラジオB92も逮捕のニュースを流しました。23時、司法宮前のレポーターは囚人護送などに使われるジープが4台司法宮に入ったことを報じます。こちらもエプロンをして台所仕事をしながらイェレナの聞いているニュースを受け、先にイェレナと話したパリ特派員、普段は旧ユーゴ担当のウィーン特派員K記者と電話しながらの忙しい炊事です。結局翌日土曜日はウィーンからのベオグラード直行便がないため、本当に逮捕に至るか、至らなくてもニュースになりそうならばパリ特派員とカメラマンが昼の飛行機でベオグラード入り、という方針を決定。今日から週末までの予定でセルビア中部ズラティボル山地に家族と遊びに出かけた運転手兼撮影アシスタントのバーネには、明日の朝ベオグラードに帰って来てもらう段取りにしました。
逮捕されたかどうか情報が錯綜している時間に締切られた31日付日刊ヴェチェルニエ・ノーヴォスティ紙の見出しは「逮捕(に至らず)」というカッコ付き
   31日0時のニュースでは地元各メディアとも逮捕のニュアンスが強まっています。司法宮の警察官も「ミロシェヴィッチがここにいる」と認めた、とB92。しかしイフコヴィッチ社会党副党首らは「まだ逮捕されていない」と言っているようです。ウィーンK記者と私は「まだウラが取れていない」ということで慎重に1時のニュースを見てもう1回連絡を取り合うことにしましたが、米CNN、英BBCなどは既に逮捕を伝えているようです。K記者との電話を切ってすぐの0時20分頃、逮捕「言い出しっぺ」の一つ、B92が「前大統領が家の前に姿を現し、集まっているシンパに手を振った。まだ逮捕されていない模様」と第一報を流しました。1時にはベオグラード市営放送局スタジオBがミロシェヴィッチが顔を出した瞬間を捉えた映像が放送され、逮捕されていないことが確実になりました。私の自宅のテレビは衛星放送が受信出来ないのですが、ウィーンのK記者は「CNNはもうオルブライト米前国務長官の『喜びの声』まで放送している」と言います。米ホルブルック前国連大使、英ブレア首相、クック外相、国連エッカールト広報官などがミロシェヴィッチ逮捕の報を受けての「歓迎」声明を発表しました。日本のテレビA社も「逮捕」の報を打ったようです。現地の23時から1時まで、日本時間31日6時から8時までの間、ニュースが事実に先行し、世界は実際にミロシェヴィッチが逮捕される24時間以上前に逮捕を賞賛していたことになります。


   M・ヴァシッチ弁護士(ミロシェヴィッチの弁護士を務めるT・フィラ弁護士事務所所属):「フィラ先生同様私もこの時はハーグにいた。米CNNで状況をフォローしていたが、逮捕されていないのにニュース上の物事がどんどん進んで行ってしまう感じだった。見ていないものを「見た」と言ってしまうことは裁判でも起こりがちだ。報道する側も、報道を見る側も本当に気を付けないといけないと思う」。

   後日、一連の取材を終えてスタッフと「この時現場にいたら」という反省会をやりました。筆者は逮捕報道をしたBK、B92やCNN、日本のA社などをもっともらしく批判するつもりも笑うつもりもありません。いや私もB社、あるいはCテレビやD新聞の通訳として誤報の片棒をかついでいたかも知れないのです。この状況でどういう判断があったでしょう。どういう反省をしたらいいのでしょう。たまたま私とB社は現場にいずに地元メディアを重点的にフォローしていたために「逮捕」誤報をせずに済んだだけです。全く、背筋が寒くなるような2時間でした。

テレビでニュースを追う筆者のノートにも時間刻みの情報が書き込まれて行った。右上の青インクでの書き込みは28日のサッカーのフォーメーション分析
   1時25分、B92の電話インタビューにミロシェヴィッチ本人が応じ、「同志と一緒にコーヒーを飲んでいるところだ。逮捕など全く怖くない」と答えました。2時のスタジオBのニュースは「まだ家にいる」というニュアンスに完全に代わりました。B社のパリT記者、ウィーンK記者とは朝8時半に連絡を取ることを約しました。イェレナはまだニュースのフォローに頑張れるようですが、私は明日現場に動く体力を温存しなければなりませんし、これで寝ることにするか。そう思いながら電話を切った直後から長い夜が始まってしまいました。
   B92を聞いていたイェレナが「警察が動き出した」と私に伝えます。間もなく寝室で私が見ていたテレビ(スタジオB)でもミロシェヴィッチ邸前に機動隊が到着、シンパらの「人間の盾」を間もなく排除するようだ、と伝えます。
   2時14分、機動隊が「人間の盾」を排除、警察の介入は時間の問題になりました。2時35分、ミロシェヴィッチ邸にいるイギッチ社会党副党首「党首は隣で電話中だ」。2時42分、機動隊突入と同時に邸内から発砲。2時52分、門が突破され機動隊、特殊部隊が邸内に突入に成功した、イギッチは電話に出ない。
   これでは寝られません。イェレナと刻一刻送られてくるテレビ現場レポートに聞き入ります。どの地元放送局も臨戦態勢のようです。パリ特派員もウィーン特派員も寝ているこの時間ですから、B社の東京本社外信部に電話、「逮捕されたら連絡する」ということにしました。しかし3時、4時と新しい展開がほとんどなく、状況は膠着状態に入りました。4時20分、電気がストップし邸内は真っ暗で現地のレポーターにも何が起こっているのかよく分からなくなりました。発砲をしたのは前大統領の家族なのか、武装したシンパがいるのか。あるいは軍に反乱分子がいるのか。だとしたらパフコヴィッチ参謀総長の反応は?警察はなぜ特殊部隊の介入を止めてしまったのか。各テレビのレポーターの憶測だけが聞こえてきます。
   D・ミハイロヴィッチ共和国内相(31日9時半の記者会見):「30日に本省の訴追請求が高裁に受理されたため、検察官が邸内に入ろうとしたが拒否された。このためやむを得ず特殊部隊介入に踏み切った。しかし機関銃などで武装した社会党のシンパらが発砲をしたため警察官2名、報道関係者1名が負傷した。無駄な流血の危険を避けるため介入は中断している。訴追内容はセルビア大統領、ユーゴ大統領時代にケルテス連邦税関長官らと結託し、不正に不動産を含む個人的利益や党利を図った疑い。あくまで国内刑法に基づく執行であり、ハーグ戦犯法廷に送るためのものではない」。


31日午後のロータリーには社会党シンパ、野次馬ら150人程度の人だかりが出来ていた(上)が、機動隊員が道と林を塞ぎミロシェヴィッチ邸へのアクセスは不可能(下)
   イェレナには5時半頃休んでもらい、私はテレビのフォローを続けます。6時半、機動隊は報道陣もミロシェヴィッチ邸から300メートルほど離れたロータリー(トプチデルスカ・ズヴェズダ)まで後退させました。ロータリーと邸の間は緩やかな登り坂とカーブがあるため、この位置からは正確に何が起こっているか確認できないことは私も知っています。この時点でどの会社の報道も同じになるわけです。7時40分頃警察の車両が増強され、何らかの動きが期待されましたが何もなし。結局眠れぬままB社の両特派員と連絡を取る時間になってしまいました。パリT特派員とYカメラマンは予定通り14時空港着。東京本社はウィーンK特派員も送ることに決め、ルーマニア西部のティミショアラ空港に16時着。急いでバーネやカメラマンに電話、空爆開始時以来の2班体制を作りました。パリ班=T記者、Yカメラマン、筆者、ゴラン運転手。ウィーン班=K記者、ボグダンカメラマン、イェレナ通訳、バーネ運転手。ウィーン班は私の代わりにイェレナが入った以外は10月5日政変で催涙弾と「戦った」メンバーです。
   徹夜もある線を越えると、単に酩酊を覚えるだけで眠くない、という気持ちになります。そんな状態で14時にバーネの友人であるゴラン運転手と取材班を空港に迎え、膠着状態の続くロータリーに15時前に着きました。シンパ、報道陣、野次馬が合わせて150人程度。機動隊はミロシェヴィッチ邸へのアクセスを塞いでいましたが、「人間の盾」を作っていた社会党シンパは年配の人が多いこともあり、昨夜から隊列を作って「押す」戦術だけ。警棒や催涙弾などは全く使っていません。そのため昼の間にシンパと報道陣の一部が隊列を突破、数十人の人が正門前にいるようです。洩れて来る情報では、社会党やDOS(セルビア民主野党連合)の幹部がミロシェヴィッチと直接交渉に当たっているとのことでした。
   C・ヨヴァノヴィッチ共和国議員(DOS)(3日記者会見):「当初ミロシェヴィッチは『生きて投降するなど論外』という強硬な態度だったが、武装シンパや警察に無駄な流血を起こしたくない、という我々の方針を理解してもらい交渉が始まった。社会党穏健派幹部やミーラ夫人も協議に加わった。ミロシェヴィッチ側の条件は@ハーグではなく中央刑務所(本文末注参照)へ連行することA拘留中、家族の定期的訪問が許されることBミロシェヴィッチ家の財産、不動産を略奪させないことC当分現在の家に家族が残れること、などだった」。


逮捕直前までミロシェヴィッチのそばにいたイギッチ社会党副党首「みんなと握手をして家を出て行った」
   「今晩がヤマだろうな、2班フル稼動体制でやろう。大塚くん、昨日徹夜なのは分かっているけど、もう少し頑張ってもらうよ」とT記者。「分かってますよ。今日はB社と心中のつもりですから(笑)」。夕方、再び正門前にいたシンパたちが機動隊によってロータリーに戻されました。ロータリーにはサッカーの試合が終わった夕刻からDOSシンパと思しき若い人々が増えました(ベオグラードの人気チーム、レッドスター対OFKの試合が引き分けに終わり、ストレスも溜まっていたようです)。社会党シンパとの間で小競り合いが起こります。私たちパリ班が食事に出かけている間にも再び投石が起こり、イェレナの足にも石が当たりました。明け方まではウィーン班には休んでもらうことにして、パリ班が夜のロータリーに残ります。とは言えミロシェヴィッチ邸の動きは殆ど分からない上、風が強く肌寒いので、カーラジオのB92が頼りです。12時を過ぎ、足掛け三日目の4月1日に入りました。
   夜になると機動隊だけは頑張って道を塞いでいますが、社会党、DOS両シンパの数はぐっと減りました。1時のニュース、2時のニュースに新しい動きはなく、私のノートにもstatus quo(現状維持)の語が書き込まれるのみです。運転席のゴラン、私の隣のT記者も眠り込んでいます。助手席のYカメラマンはカメラを抱えて不動の姿勢ですが、眠っているのかどうか後ろからは分かりません。徹夜二晩目の私もさすがに朦朧としてきました。ミロシェヴィッチのおっさん、この10年オレにいろんな仕事させてくれたよなあ。91年のスロヴェニアから99年の空爆までの、仕事やプライベートの思い出がいろいろと私の脳裏をよぎりました。小学校の上級生の頃、徹夜はまだしたことがありませんでしたが「哲夜」と書いて親に笑われたのを思い出しました。何かテツヤという言葉には、夜一人で物思いにふけって、と言うかテツガクしているようなイメージがありませんか?・・・
   4時、ウジツェ通りの正門ではなく通用門のあるコナヴリ通り側にいるB92のレポーターが警察の動きを伝えます。「機動隊が増強されマスコミと野次馬を後退させました。何か行動がありそうです」。Tさん、ゴランを起こして通用門側に移動します。暗い道でしたが、報道陣と野次馬が行列を作っているのがすぐに分かりました。
ミロシェヴィッチが収容され現在も拘置中の通称「中央刑務所」(拘置所)
   前夜に中断された大捕り物の続きを期待(?)していた報道陣にとって、逮捕劇は実にあっさりしたものでした。屋敷から曲がり角を挟んで400メートルくらいの所で、人々が車道にあふれないよう機動隊が陣形を確保。4時25分頃、邸宅の方角から「パン、パン、パン」と3発の音が聞こえます。「爆竹じゃないのか?」と周囲の報道陣。数分後には近くにいた英語圏の記者が「英ロイターは銃声と言っているらしいぞ」とささやきます。4時30分頃、装甲ジープを含む車両6台がミロシェヴィッチ邸を出て大通りの方へ、我々の前を通り過ぎて行きました。もちろん中に誰が乗っているのかは見えませんし、それがミロシェヴィッチだったのかどうか、現場にいる人間には誰にも分かりませんでした。数分後には「どうも捕まったらしいぞ」「司法宮じゃない、中央刑務所だ」と報道陣が言います。私たちが中央刑務所に向かう途中で「ロイターTVが刑務所入りの映像を押さえたらしい」「間もなく政府発表がある模様」と情報が入りました。内務省から地元各放送局に連絡があり、B92を聞いていた私たちもミロシェヴィッチ逮捕を確認できたのは5時頃、中央刑務所に着いて数分後のことでした。現場にいなければ「見た」ことにはならない。しかし現場にいたからと言って全てが「見える」とは限らない。改めて報道の仕事の難しさを実感させられました。中央刑務所の撮影を終えてウィーン班と交替のためホテルに向かう頃には空が明るくなっていました。二晩続きの長い夜がようやく終わろうとしていました。
   Z・イギッチ社会党副党首:「ミーラ夫人とも相談していたが、結局は無駄な流血を避けよう、という党首の意思から自発的に投降することに決めた。まず居合わせた私たちみんなと、そして最後に家族と握手を交わした。涙は流さなかったが、目が潤んでいたように思う」。
   D・ミハイロヴィッチ共和国内相(1日公式発表ほか):「1日4時30分、ミロシェヴィッチ容疑者は自発的に投降した。(手錠などの)強制措置は取られなかった。5時00分中央刑務所に収容、拘置手続きが取られることになる。娘のマリア・ミロシェヴィッチが感情的になって抗議の発砲をしたが、人的・物質的犠牲は最小限に押さえられてよかった」。


4日ベオグラードを訪れた英クック外相(演壇左)「ハーグとの協力関係を樹立しなければ将来的に援助締結もあり得る」
   武装したシンパは結局20人ほどで、首謀者3名は前大統領に続いて6時頃敢えなく逮捕されました。「逮捕絶対阻止」を叫んでミロシェヴィッチ邸に立てこもった彼らが、結局「無駄な流血を避けるために」とミロシェヴィッチ自身の投降を促す最大のポイントになったのは皮肉です。国際社会は誤報から30時間後、改めて「逮捕歓迎、ただしハーグへの引渡しを待つ」というコメントを発表しました。4日には英クック外相がコシュトゥニツァ連邦大統領、スヴィラノヴィッチ同外相を訪れました。「ユーゴへの経済援助は今後とも継続する。しかしこれは一方的な協力関係ではなく、援助を受けるユーゴ側にも守るべき義務が生じる。これが守られなければ援助は差し止めざるを得ない」、と、クック外相はハーグへのミロシェヴィッチ引渡しをユーゴに改めて要請しました。ハーグのデルポンテ検事総長は「国内裁判が終わるまで数ヵ月から年末までは待つ」としていますが、一方で「ハーグに来たらミロシェヴィッチの無期刑は免れ得ない」と、民主裁判の推定無罪原則を無視するような発言があり、ユーゴ国内で反発を呼び起こしています。コシュトゥニツァ大統領は3日の定例記者会見で「ハーグの客観性、合法性には問題を感じる」と従来の協力消極論を繰り返し、ミロシェヴィッチ引渡しの可能性を示唆したミハイロヴィッチ内相らとは意見の対立を見せています。これを18党から成るDOS連立政権の内紛の序曲と読むべきなのか、建て前発言と本音の行動を使い分ける巧妙な政権なのか、相変わらずウォッチャー泣かせの状況です。
   ともあれ、一夜漬けとは言えDデーまでの宿題は一応解決。経済問題、モンテネグロ、南部セルビア・コソヴォ問題と山積する課題にDOS政権は取り組んで行くことになります。次回の「(旧)ユーゴ便り」のテーマですか?もう予告は凝りましたから次回のお楽しみ、ということにしておきます。

(2001年4月上旬)

注:ミロシェヴィッチ邸=ウジツェ通り11番地の大統領公邸。昨秋の失脚以降、形式的には住む権利のないこの公邸にミロシェヴィッチ家は居住を黙認されていたが、逮捕劇の直前に内務省は不法居住の措置を取った。今後ミーラ夫人ら家族がヨヴァノヴィッチ議員らとの交渉の結果を受けてこの家に残るかどうかは現時点では不明。
司法宮=ベオグラード駅南方にある司法機関合同庁舎の通称。裁判所、高裁、検察局の他に拘置施設もある。秘密警察の前長官マルコヴィッチら拘置中の「大物」は中央刑務所からここに移送されて取調べを受けているが、ミロシェヴィッチに関しては検察官が中央刑務所に出向いて取調べを進めることになりそうだ。
中央刑務所=ベオグラード南東部にある拘置施設の通称で、正式名称はベオグラード高裁刑務所。実際には拘置所の機能も果たしている。

写真の大半は2001年3月から4月に日本のテレビ局取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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