「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/03/27 10:00

第54回配信
それぞれの空爆3年


 

人それぞれの記憶とともに空爆から3年、またセルビアに春がやって来た(クルシェヴァッツ市にて)
   報道周辺の仕事をしている関係で、旧ユーゴ圏現代史の転回点の現場にいたことが何度かあります。スロヴェニアで戦争が始まった91年6月27日のリュブリャーナの蒸し暑い、どんよりした曇り空。一昨年10月5日ユーゴ政変の舞台となった連邦議会脇で、すぐ近くに撃ち込まれた催涙弾から巻き上がる白煙。私の中では、日付と光景の二つがいつもセットになって残っています。しかしユーゴ空爆が始まった99年3月24日は、確かに夜のベオグラード郊外に上がる火の手や、外国報道陣のガサ入れに向かう自動小銃を持った警官隊などを見てはいますが、どうも「これ」という強烈さがありません。いや3月24日だけでなく、その後78日続く空爆のうち60日を付き合ったわけですが、記憶の中で全体に視覚的な印象がどこか希薄なのです(正直に言って、この間戦闘機もミサイルも、テレビでは見ていますが肉眼では一度も目撃していません。ベオグラードではコソヴォのような低空飛行がありませんでしたし、空襲警報が発令されるのはおおむね夕方でした)。
   敢えて言えば、聴覚的印象なのかも知れません。翌2000年春に空爆をテーマとする映画「スカイ・フック」(Lj・サマルジッチ監督)を観ましたが、ドルビーサウンドのよく効いた映画館で警報のサイレンや爆音を聞くと不快感とともに99年のことが思い出されたものでした。サイレンは私の自宅から直線で100メートルくらいの診療所から大音響で毎日聞こえていましたし、今では忘れましたが当時は軍用機の飛行による衝撃波と、実際に空爆する爆音を聞き分けられたと思います。ミサイルか戦闘機が南の方向から飛んで来て、北西の方向がやられた状況を、部屋にいて音を聞きながら「トレース」出来たものでした。後に日本のテレビに出演して「一番怖かった」と話した熱供給プラント(自宅から直線2キロ)への爆撃も、怖かったのは炎上ではなく爆音でした。それは結局、私が「現地」には住んでいても「現場」には(幸い)いなかったということなのでしょう。自分のいる場所は理論的にはいつでも「現場」になり得るという、当たるかもしれないという恐怖はあるが、ここではなく何キロか離れた場所が「現場」になったのがで分かる。そんな状況での60日間だった、と言っていいかも知れません。
   いや、イントロのつもりで書き始めたのが長くなり過ぎてしまいました。今回は空爆開始から3年が経ったセルビア各地の話題を取り上げます。私が聞いた音、聞かなかった音の過ぎて行った先には、不幸にして現場に居合せてしまった人それぞれの物語と思いがあるはずです。私の筆力には限りがありますが、ブリュッセル、ベオグラード両大本営発表ニュースでは知ることが難しかったそれらが少しでもこのページで伝えられればと思います。


巡航ミサイル・トマホーク。空爆後ベオグラード空港隣りの航空博物館に展示されるようになった
   空襲警報が発令されるごとに「警戒、警戒!・・・以上!」という軍隊調でラジオ・テレビに声だけ出演、首都の有名人になったアヴラム・イズラエル市広報センター局長のことは、空爆初期の第15回配信に私も書きました。本人には失礼ながらアヴラム・イズラエルなんてユダヤ版「山田太郎」みたいな名前の男が本当にいるのか、という疑念を抱いていたのは私だけではありませんでしたが(まあ鈴木イチローだってちょっとウソっぽく思える名前ですよね)、ベオグラードに生まれ育った51才の実在の人物でした。先頃空爆開始3年を機に「ベオグラードのための日々---以上!」という題の空爆日記を出版しましたが、昨年日刊ダナス紙の2年特集(3月24日付)でもいくつか裏話を明らかにしています。
  「当時のミロシェヴィッチ大政翼賛当局からは首都市民にパニックが広がらないように、空襲警報は20時から翌朝までにせよ、という圧力が掛かった。また秘密警察からも『軍事機密を市民に洩らしている』と敵視された。そんな状況の中、私と市広報センターは孤軍奮闘を続けなければならなかったが、ついにツェーカー空爆の4月20日をもって解任された。ユダヤ人は厳しい状況の中で警戒しながら生きていく術を身につけているものだが、クビになって初めて(当局から危険人物視されているという)本当の不安を感じた」。
   しかしイズラエル氏が真摯に努力していたことが当局にも明らかになり、空爆終了の20日前に「復権」、再び市広報センターの局長に返り咲きました。ラジオ・テレビへの声の出演は彼だけでしたが、実際には78日間頑張り続けた局員の他、多くの臨時局員がヴォランティアで働いていたことが現在では明らかになっています。
ブラトヴィッチ氏が両足を失うことになったベオグラード中心部のユーゴ軍参謀本部。NATOの中途半端な間隔での2次攻撃がアダになった(写真提供:山本邦光氏=99年撮影)
   イズラエル氏は言います。「空爆が正しかったとは思わない。しかし首都近辺では全く準備をしないうちに空爆を迎えてしまった。熱供給プラントやパンチェヴォ化学工場やユーゴ軍武器庫など、可燃物備蓄施設が大爆発を起こしているのがいい証拠だ。劣化ウラン弾問題で北大西洋条約機構(NATO)を責めるのはいいが、200万市民の安全対策を十分に行わなかった前政権当局の責任を忘れてはならない」。

   ダナス紙の同じ特集号に取り上げられているラトコ・ブラトヴィッチ氏は99年4月当時、ベオグラード市災害対策本部(イズラエル氏の市広報センターとは別機関)の副局長でした。消防・救急医療関係者などとともに空爆現場にまず駆けつけ、混乱を収拾する指揮に当たるのが仕事です。4月29日夜、中心部にあるユーゴ軍参謀本部が攻撃され、けが人(2名)が発生しました。ブラトヴィッチ氏もすぐに現場に急行しましたが、NATO軍はこの時初めて一つの目標に2次攻撃を行いました。最初の攻撃から10分ほど後のことで、ブラトヴィッチ氏にとっては災対本部から近い現場への敏速な出動がアダになってしまいました。2次被害で12名が負傷、氏は両足のひざから下を失うことになりました。「最初の1ヶ月で麻酔30回、注射は250本を受けなければならなかった。幻肢症には一生悩まされることになるだろう」。氏は現在も車椅子で仕事を続けています。
   ブラトヴィッチ氏のような人でも、「公務員はミロシェヴィッチ政権の手先」だから、空爆被害に遭ったら「可哀相だったねえ」で終わりでしょうか?


   セルビア中部にあるヴァルヴァリンは、市のステータスはありますが同名の中心部が人口2000。
空爆されたヴァルヴァリンの橋(右上、写真:Centre for Peace in the Balkans)は修復されたが、現在も大型車両がすれ違うのは難しい程度の幅だ。左手前は空爆犠牲者慰霊碑
実際は隣のクルシェヴァッツ市に属してもいいような静かな町です。筆者が日本のテレビ取材のため訪れた3月中旬、周囲の農村は桜やスモモの花に彩られていましたが、果樹や野菜畑があるだけで決して豊かとは思えない典型的なセルビア中部の風景です。99年5月30日昼、NATO軍はこの小さな町のモラヴァ川に掛かる橋を2回にわたって攻撃しました。NATO側はユーゴ軍用車両の通行路を遮断するための行動だった、と説明していますが、ヴァルヴァリンの町自体がクルシェヴァッツ市と高速ベオグラード・ニシュ線をつなぐ幹線道から外れており、橋は主に一般市民が利用する、やっと自動車2台がすれ違える程度の幅しかないものでした。一番近い軍事施設は20キロも離れた所にしかなく、空防軍の対空砲火の活動もほとんどなかったと言います。ちょうど日曜日の昼、近くの市場へ行き来する人々などで賑わっている最中の空爆で、1次攻撃の被害者を助けに駆け付けた人々が2次被害に遭っています。身元確認が出来ただけで10人が死亡、約10人が重軽傷を負いました。川沿いのホテル従業員ら目撃者は「1回目の攻撃で橋の町に近い(西)側の部分は大きく崩落したのに、2回目も崩落しきっていない東側ではなく同じ町寄りの部分を攻撃してきたため2次被害が出た。だからNATO側の狙いは橋ではなく民間人だったのだと思う。だいいち橋を壊すだけなら夜でも出来たはずだ」と言います。
   昨年ゾラン・ミレンコヴィッチ市長らが中心となり、またドイツのU・ドスト弁護士の協力を得て、ヴァルヴァリン空爆遺族グループはNATO加盟国であるドイツ政府を相手に訴訟を起こしました。ドスト氏は他のユーゴ空爆の被害データも詳細に検討しましたが、ヴァルヴァリンのケースは民間人への被害の度合いがもっとも高いと判断したとのことです。
故サーニャ・ミレンコヴィッチさん(写真:連邦情報科学局)
この訴訟は遺族、負傷者など27名が原告となって総額400万ユーロの賠償を要求するものですが、ドイツの規定では事件から3年が経っても手続きが始まらなかった場合は裁判自体が成立しないため、今年5月30日までに当初の裁判費用約3万5000ユーロを集めなければなりません。クルシェヴァッツ市のテレビ・ポペダが番組を制作し市民から訴訟費用援助の寄付を募るキャンペーンも実施されていますが、ユーゴ一般市民の経済力からは多くを期待できず、ドスト氏らの運動に理解を示すドイツ市民の寄付が頼りです。
  「死んだ家族が帰って来るわけではないし、勝つ見込みさえ薄いと言った方が現実的だ。しかしわれわれヴァルヴァリンの真実をきちんとNATO加盟国にも分かってもらうことが大事じゃないか」とミレンコヴィッチ市長は言います。地元高校の教師から昨年地方政界に進出した彼も娘のサーニャさん(享年15)をこの空爆で失っています。
   サーニャ・ミレンコヴィッチさんはこの町の小学校を最優秀の成績で卒業し、ユーゴ連邦の数学コンクールにも優勝したため入試免除でベオグラード数学高校に98年に入学していました。化学や物理も得意科目だったそうです。空爆開始前夜、ユーゴ全土で全面休校が発表され、サーニャさんもヴァルヴァリンに帰ることにしました。政治・軍事施設のあるベオグラードよりも、田舎のヴァルヴァリンの方が安全だ、と誰もが思ったことでしょう。しかし5月30日、橋を渡っている途中で空爆に遭い爆弾の破片で負傷、病院に運ばれる途中で亡くなりました。父ゾランさんはその後市長として雄弁を奮う立場になったわけですが、娘の思い出にはぐっと胸を詰まらせていました。


   3月8日、クルシュムリヤ市でユーゴ連邦政府、国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)関係者ら立会いのもと、コソヴォで発見された元ユーゴ軍兵士2名の遺体がセルビア本国に戻されました。サーシャ・コマトヴィッチ(享年27)とヴラダン・スタノイェヴィッチ(享年25)はともにセルビア中部クラグイェヴァッツ市の出身で、アルバニア国境地域に展開する部隊の一員でしたが、空爆中の99年5月6日に地雷原に踏み込んで死亡したものとみられます。しかし2遺体が発見されたのはそれから1年以上が経ってからでした。
遺体として帰還した2兵士の出身地クラグイェヴァッツ市
遺体の司法解剖や身元確認がコソヴォ側で行われ、約2年ぶりの生地へ無言で帰還した二人は11日、クラグイェヴァッツ市コリシャニ墓地にユーゴ軍関係者や親戚の手で埋葬されました。
   サーシャの父ミロスラフさんは、99年以降行方不明扱いになった息子の消息を探るため、捕虜釈放などのニュースを聞いてはハンガリーまで足を伸ばしたと言います。母ルジッツァさんは憔悴と心労のため病に倒れ昨年亡くなりました。サーシャの遺体のポケットには任地出発の際にルジッツァさんが渡した小さな木の十字架が入っていたそうです。
   コソヴォ行方不明者捜索委員会のスパシッチ委員は「まだ生きたままコソヴォの刑務所に収容されている元兵士らがいるはずだが、きちんとした情報がベオグラード側には届いていない。身元不明遺体も100体はあると想定される他、何らかの理由でコソヴォの墓地に集団埋葬されている可能性もある」と言います(3月9日付ポリティカ紙、12日付グラス・ヤヴノスティ紙などによる)。
   ベオグラードのブラニスラフ・ペイチノヴィッチさんは息子でユーゴ軍兵士だったヴォインさんを99年5月17日のドラギッシャ・ミショヴィッチ病院空爆で失いました。ヴォインさんは機械工学の学生でしたが、98年3月期の徴兵に応じ、平時ならば99年3月17日で除隊になるはずでしたが、空爆直前の緊迫した状況の中で動員延長になりました。首都の高級住宅街にある病院前に警戒のため展開していて、同僚とともに重傷を負い、ちょうど26才の誕生日に当たる6日後に死亡。現在も同僚2人はユーゴ軍病院で寝たきりになっています。
ドラギッシャ・ミショヴィッチ病院は確かに兵舎などが近いが、明らかな誤爆だった(写真:Centre for Peace in the Balkans)
   ユーゴ軍側からは父親のブラニスラフさんに対して「空爆による死亡」とのみ後日知らされ、どこでいつ空爆に遭ったのかは知らされませんでした。「息子を失った悲しみには変わりはないが、何らかの目的で犠牲者のデータが操作されていたのではないかという疑念」から、他の軍人の親らと連絡を取り合うようになり、後にNGO「戦争犠牲者遺族の会」を発足させました。軍人、警察官、一般市民に関わりなく戦争の犠牲者、身障者となった人々の親族ら2000人が会員となっています。
  「前政権、現政権に関係なく、何がしかの補償義務を果たすよう働きかけて行く。また前政権の政治・軍・警察トップの刑事責任を追及しなければならない」と言うブラニスラフさんは、やはりヴァルヴァリン訴訟のニュースにも励まされているようです。「国内当局だけでなくNATOや加盟国政治家の責任を追及したいと思う。我々が黙っていたら彼らの責任は忘れられてしまう」。
   もちろんセルビア警察やユーゴ軍がコソヴォで「悪逆非道」を行っていた可能性は否定できません。そうでなくても上のような兵士のケースは「戦争なのだから」、ヴァルヴァリンの一般市民のような同情は得られないかも知れません。しかしペイチノヴィッチさんのように徴兵で空爆被害にあった例は数多くあるでしょうし、子どもを失った親の悲しみは一般市民の場合と兵士の場合とで差があるとは私には思えません。その悲しみは、3年が経って薄らぐことはあっても決して消えてはいないのです。


   昨年11月23日、連邦政府は空爆で攻撃され廃墟となっていた旧共産主義者同盟(共産党)本部ビルを3億ディナール(約6億円)で売却する、という入札結果を発表しました。
旧共産党本部ビルは、空爆から3年が経つ本稿執筆現在も大破したそのままの姿をさらす
合札者はユーゴ・英・英領ヴァージン諸島の企業からなる合弁事業体で、代表のMPCグループ社(ユーゴ)マティッチ社長は、現在の建物を取り壊し、ショッピングセンター7フロア、マルチスクリーン式の複合映画館、デラックスホテルなど総床面積38000平米のビルを建設する計画を明らかにしています。
   新ベオグラード地区の入り口にあるこの建物は60年に落成、総床面積18000平米、25階建てで、当時のバルカンでは一番のノッポビルでした。90年の共産党一党独裁崩壊によりミロシェヴィッチ前ユーゴ大統領のセルビア社会党政権が接収。このうち13フロアを党本部とし、残りは社会党系の企業などにレンタル、もっとも有名だったのは前大統領の娘マリヤ・ミロシェヴィッチが社長を務めるラジオ局コシャヴァでした。共産党消滅後も「ツェーカー」(党中央委員会Centralni Komitetの略)として一般の人々に呼ばれていたビルですが、99年4月20日以降、NATO軍は4次にわたってこの建物を空爆、屋上にあった親ミロシェヴィッチ系放送の中継塔などとともに大破したまま現在に至っています(上写真参照)。
   NATOはビル下部も攻撃していることから、屋上の放送施設だけが狙いだったわけではないことは確かです。4度の攻撃にも関わらず建物の大枠は崩すことが出来なかったのは何故か。最近になって(週刊ヴレーメ誌昨年11月29日号)面白い話が出てきました。私も第32回配信では総鉄筋造りと書いたのですが、実はこのビルの中心になっている骨組の部分は頑丈なコンクリート製で、外装の部分だけが鉄筋「風」になっているそうです。47年に設計の企画が立てられた当時はユーゴがソ連スターリン政権と訣別する前で、記念碑的な巨大建築の好きな社会主義華やかなりし頃。コンクリによるガッチリした建物が計画されました。ところが50年代末に建設が具体化した頃は、既に「西側に開かれた共産圏」ユーゴの建築思想は「新たな西のトレンドを取り入れて」という方向に変わっていました。しかし実際の地元企業はまだ総鉄筋でツェーカー全体を作る技術がなかったので、「外ヅラだけ鉄筋風に」するという案が採用されたそうです。しかしそうした古い事情を知らない99年のNATOは、総鉄筋のビルを壊す装備で空爆したけれどもうまく行かなかったのではないか、という推測が出てきています。
   もっともツェーカーを攻撃しようとしたのはNATOが初めてではありませんでした。ティトー晩年の70年代末、米在住の狂信的反共主義者で元ユーゴ軍パイロットのニコラ・カヴァヤは、知人のセルビア正教聖職者とともにヨーロッパ便ボーイング747のハイジャックを計画。
ジフコヴィッチ連邦内相(左)を訴えたマリヤノヴィッチ党首代行(右、写真提供:吉田正則氏)らセルビア社会党だが、ビルの消滅は時間の問題とみられる
乗ったままこの建物に突入し「ティトーが訪米しているスキに国を混乱させ、共産政権を倒そうと思った」ということです。計画は事前に発覚しカヴァヤらは逮捕されました。昨年の米「9・11」はユーゴでも大変な衝撃を持って取り上げられましたが、既に服役を終えベオグラードに住むカヴァヤ本人がBKテレビの電話インタビューに応じ、「オレが先駆者だったんだ」という趣旨の発言をしています。しかし現在では考えもソフトになったようで、「共産主義の、一人の人間が国の全てを決定するような不幸な時代の記念碑としてこの建物は残した方がいい」とも言っています。
   2000年秋のユーゴ政変後に成立した新政権は、90年に共産党が消滅した際、同党の所有物は後継政党のセルビア社会党ではなく国有財産になった、として今回の入札を進めてきました。しかしセ社会党側は、党の建物を接収したのは連邦ではなく社会党だったと主張しています。連邦側は取り壊し作業開始のため、3月12日に警察官を導入し強制執行処分を行い守衛など旧建物関係者を排除しました。これに対し社会党はジフコヴィッチ連邦内相を職権濫用などの疑いで起訴し、裁判が続く間の執行差し止めを請求していますが、裁判は社会党不利と見られています。
   ともあれ、良きにつけ悪しきにつけティトー、ミロシェヴィッチ両時代の政治的シンボルだったビル、そして空爆の象徴でもあったビルが、新しい時代(それは国有か党有かゴチャゴチャで良かった「党イコール国家」時代との訣別でもあります)の到来とともに消滅するのは時間の問題となりました。上記ヴレーメの記事は、「重々しい本質(コンクリ)を外側だけ化粧(鉄筋外装)していたが、廃墟となって終わった・・・。旧時代の本質をこれほど象徴的に体現した建物はない」と結んでいますが、なるほど、考えさせられます。

   既に日本の一部報道でも伝えられている通り、本稿執筆中の3月15日、J・ソラナ欧州連合上級代表(共通外交安保政策担当)の調停によりセルビアとモンテネグロの連邦体制見直しが合意に至り、早ければ今秋に現ユーゴ連邦に代わる新国家「セルビア=モンテネグロ」が旗揚げされることになりました(詳細は次回配信で報告の予定です)。ソラナ上級代表は言わずと知れたユーゴ空爆当時のNATO事務総長です。ユーゴ旧時代を空から壊した主役の一人が新しい国作りのまとめ役になるという皮肉な結果になったわけですが、時の流れは止まりません。人それぞれの思いと記憶を残しながらセルビアは空爆3年後の歩みを進めつつあります。

(2002年3月下旬)


写真を提供して頂いた山本邦光、吉田正則の両氏、画像転載を許諾して頂いたユーゴ連邦法務省情報科学局Centre for Peace in the Balkansに謝意を表します。写真の一部は2002年3月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私のクライアントから許諾を得ています。画像・本文とも無断転載はかたくお断りいたします。


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