「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/01/19 15:00

第51回配信
さらば愛しのクララ


 

「ユーロ?まだ信用できない」タンス預金のマルクをスイスフランに替えようという客などで年末のベオグラードの両替所は大混雑
   皆さん、お久しぶりです!第50回配信到達を機に昨夏から充電期間を頂いていましたが、いよいよ「便り」を再開します。旧ユーゴ各地のフレッシュな話題を今後ともお届けすべく休養十分。第60回、70回と頑張って行くつもりでいますので、今後ともよろしくお願いします。
   前回第50回配信の旧ユーゴ関連クイズは「難し過ぎる、3割程度しか正解できなかった」と多くの方から大変な不評を頂いてしまいましたが、事のついでに(?)もう一問のクイズから第51回を始めたいと思います。

   今年1月1日からユーロを自国通貨として導入した国はいくつでしょう?

   12(欧州連合=EU内のユーロ導入国)、と答えた人は残念ながら不正解です。国際的に認められている独立国のうち、サンマリノ、ヴァチカン、モナコ、アンドラがユーロに移行しました(うちアンドラ以外の3カ国は独自デザインの硬貨の発行も許されています)し、ユーゴでもモンテネグロとコソヴォの2地域がこの新通貨を導入しています。再開最初の「便り」は、ユーロへの移行を巡るユーゴ連邦での騒動を中心に取り上げます。

   旧ユーゴではこの2、30年ほど、ドイツマルクが第2の公用通貨として通用して来ました。もちろん自国通貨ディナールがありますから、第2の通貨とは言ってもマルク、あるいはその他の外貨での売買や価格表示は法律で制限されています。しかし実際には国営系の店舗以外ではマルクでモノが買えるのは当然、市民どうしの金の貸借りでもマルクが一般的でした。一般のセルビア人にとっては第1次・2次大戦から3年前のユーゴ空爆まで、ドイツと言えば「宿敵」のはずですが、頭の中で物価を計算する基本になっているのもマルク。ある品物について「日本で一万円、アメリカでは九十ドルだった」と話しても、「えーと、それってマルクで言うと二百ぐらいか?」となるわけです。
(上)最高額だったティトーの5000ディナール札は、80年代後半加速するインフレで第2、第3・・・の紙幣に急転落した (下)超インフレ時代の93年に発行された10億ディナール札(注:上下とも現行紙幣ではありません)
   どうして米ドルではなくマルクなのでしょうか? 1948年にスターリンのソ連と訣別、ティトーのユーゴは「西側に開かれた社会主義国」として50年代半ばから先進諸国への出稼ぎを容認します。その主な行き先は、やはり「近くて進んでいる国」西ドイツ・オーストリアでした。ですから(西)ドイツマルクはもともと旧ユーゴの人々にとっては米ドルや英ポンドよりも馴染みのある外貨だったわけです。
   自国通貨ディナールとユーゴ経済が安定していれば問題は起こり得ないはずです。しかし80年ティトーの死と前後して、ユーゴ経済は慢性不況に陥りました。対外債務は累積し、石油ショック当時に構造転換をしなかった重工業中心の産業は停滞します。国内産業が伸び悩む中で貿易の入超傾向には歯止めがかからず、ディナールは絶えず切り下げられ、一方で賃上げストを紙幣の増刷でかわす政策が続いた結果、もともとインフレになりやすい体質だったユーゴでは、80年代後半超インフレが恒常化しました。
   ディナールで五万円分の借金をしたら3ヶ月後には(同じ額のディナールが)半額分の価値になっていた。クレジットカードで払うと清算時までに15%も得をしてしまう。こんなことが続けば、外国だけではなくユーゴ国民もディナールを信用しなくなるのは当然です。インフレをヘッジする自己防衛策は、ディナールで給料が入ったらその価値が下落しないうちに外貨かモノに替えてしまうことでした。こうして市民に馴染みのあるマルクが第2の通貨の地位を占めるようになってしまったのです。私がユーゴに来た89年のインフレ年率は2400%。スロヴェニア、クロアチアなど先進地域が、経済主権を求めながら独立運動を加速する契機となって行きました。
スラヴィヤ・バンカ(中央横向きの看板、99年春撮影)はミロシェヴィッチ時代セルビアの代表的銀行だったが、経営破綻で消滅した。前政権の経済「無策」の象徴とも言えよう
これらの国が独立した後の93年、経済制裁下ユーゴ連邦(セルビア)のインフレはついに年率116兆%(誤記ではありません、116兆です)を記録します。一日に2、3回値札を付け替えなければならないのでは大変ですから、各店舗はドイツマルク(DM)で価格を表示しました。「5DM」と外貨を直接表記するのは違法なので、「5」「5点(5 bodova)」と書かれた品を10マルク紙幣で買うと、対価の数千万ディナール分の札束がお釣りで返って来ることもありました。
   社会主義時代の銀行にも外貨口座はありましたが、ほとんど機能していませんでした。インフレ被害を逃れるためにせっかく貯めた外貨だったはずなのに、銀行に預けたら最後、ディナールで引き出せればまだマシな方で、大半は泣き寝入り状態でした。93年には2つの「私営銀行」がネズミ講商法で数万の顧客を集めましたが、アッと言う間に潰れてしまい、現在も元経営者と「被害者の会」の係争が続いています。そんなわけで、ユーゴ一般市民は貴重なマルク札を銀行ではなくタンスへ預け入れていました。一昨年秋のユーゴ政変以来、1マルク=30ディナール前後の水準が保たれ安定しましたが、自国通貨と銀行の失った信用はそう簡単には取り戻せませんでした。昨年時点ではドイツマルク現金のうち5%に相当する150億マルクが旧ユーゴ圏にあり、このうちユーゴ連邦(セルビア+モンテネグロ)の一般家庭に眠っている現金は60億(ユーゴ中銀見積もり)〜90億マルク(約4600億円、独ドイッチュバンク見積もり)にも上ると見られていました。

   ところが今年1月1日をもってマルクがフランやリラなど他の欧州通貨とともに「消滅」してしまうことになったのです。市民はタンスからDM札を引っ張り出して、両替所や銀行でユーロなりスイスフランや米ドルなりに替えなくてはなりません。
外貨預金を一気に伸ばしたユーゴ初の外資系銀行ライファイゼン・バンクとペトロヴィッチ部長(左下)
   ユーゴ中銀は銀行制度を立て直し、長期間失われていた銀行への信用を回復する好機ととらえ、タンスに眠るマルクを、中銀が指定する優良銀行に預けるよう市民に積極的に呼びかけました。
   「10000マルクを@2001年内に米ドルやスイスフランに替え、また年明け後ユーロに戻すと二重の手数料で120マルク以上損します。Aマルクを直接ユーロに替えると2月末までの手数料は0・9%ですからやはり90マルクの損。ところがB銀行に預ければ手数料はゼロで自動的にユーロに替わります。しかも半年後の利息は187マルク。@との差は300マルク以上、Aと較べても267マルクの得になります」。
   中銀は既にベオバンカ、インヴェストバンカなどミロシェヴィッチ社会主義政権時代の不良銀行には営業免許取消し処分を行い、外資系銀行の営業を認めていますが、10月にはユーロ移行に関して上記の説明を含むパンフレットを作成するなど広報活動を開始。銀行が集めたマルク預金で、国の外貨政策を円滑に行おうというわけです。
   オーストリアに本拠を置くライファイゼン・バンクは昨年3月にユーゴ国内での営業免許を取得した最初の外資系銀行です。昨年暮れ筆者が訪れた時も新規口座を開く顧客で賑わっていました。6月に法人向け取引を開始、個人向け営業で窓口を開いたのは9月ですが、開業3ヶ月で約1億マルク(5100万ユーロ)を集め、国内系ヴォイヴォディナ銀行を抜きまたたく間に外貨預金高トップに躍り出ました。国内取引部のペトロヴィッチ部長もご機嫌です。「数十億マルクが眠っている市場なのである程度は勝算があったが、ここまで短期間に業績を上げられるとは思っていなかった。もちろんこのユーロ騒動が過ぎても安定して営業が続けられると思う」。同銀行の他にもオーストリア資本のHVB、仏ソシエテ・ジェネラルなどが営業を開始。セルビアの銀行の状況は大きく様変わりしました。
   しかし12月中こうした外資系銀行以上に混雑していたのは両替所でした。銀行に定期で預けて利息が魅力になるほどの元本がないなら、取りあえずスイスフランか米ドルに替えておこう、という庶民が殺到したからです。
(上)マルクの「始末」をアテ込んでか、年末商戦の時期は日本の電器メーカーの宣伝も目立った (下)今年は厳冬。どう考えても引越しシーズンではないが、ユーロ騒動で不動産屋は多忙な日々らしい(ベオグラードにて)
ベオグラード中心部の両替所「ピラナ」は、狭いスペースということもあって11時を過ぎた頃から外にあふれんばかりの客で一杯になりました。マルクを売ってスイスフラン、米ドルに替える人がほとんどです。ある客は「まだ新通貨ユーロが安定するかどうか不安だし、取りあえずはドルに替えておこうと思う」と言い、別の客は「ユーロを信用しないわけではないけれど、最初の頃は混乱もあるかも知れないから取りあえずスイスフランに」と反応は様々でした。
   そんな手間も面倒、あるいは手数料が気になる、という(比較的)少額のタンス預金しか持っていなかったら? もちろん答えは簡単、「モノに変えちまえ」です。まあ通貨が安定したとは言え、まだまだ財布のヒモは堅いユーゴの年末商戦はお歳暮シーズンの銀座に較べれば可愛いものですが、それでも家電、衣服、化粧品などの店はミロシェヴィッチ時代の年末には見られない賑わい方でした。かく言う大塚家も、昨年後半から通訳料は「原則ドルのみ、マルクお断り」をクライアントに主張し続け、入った外貨はマルクを優先的に使うようにしていましたが、やはり残ったマルク「清算」のため(?)、テレビを買い換えた他に衛星放送チューナーを新規購入。私は衛星放送のことはあまりよく分からないので、買った店にアフターケア電話をするのですが、技術に詳しい店主や据付け工事チームは多忙でなかなか捕まりません。
   「銀行にみなが外貨を預けるとは思えない」という期待が外れたのは不動産関連でした。ある不動産業者は「供給側が思惑で値段を吊り上げてしまい、郊外の55平方米の家に(法外とも言える)12万マルクと言ってきた売りもあったが、これでは買い手が付かないだろう」。しかし「7万マルクを持っているんですが、不動産に何とか変えられませんか?」というような申し出はかなり多く、これらの影響で一部住宅の価格が吊り上がっているようです。引越しにはオフシーズンの冬、しかも今年は厳冬ですが、不動産業者の中には例年より忙しい師走を過ごした人々もいました(この段落は日刊ポリティカ紙昨年12月24日付による)。
   流言蜚語の類いもいろいろ耳にしました。「ユーロの絶対額が足りなくなるのではないか」「ニセユーロ札が出回っても誰も分からない」というものから、「皮膚の敏感な人にはアレルギー症状が出るらしい」まで。しかしいざ年が明けてみると、やはり新しいものへの不信よりも好奇心と必要が勝ったようです。1月4日のベオグラードの銀行は冷やかし組も含め、ユーロを求める人で2時間待ちの大行列でした。


   ここまではセルビア本国の年末騒動をレポートしましたが、ユーロが自国通貨として現実になったモンテネグロとコソヴォに目を転じてみましょう。
昨年12月7日にユーゴを訪問した仏シラク大統領。モンテネグロ、コソヴォの独立強行には反対の意を明らかにしたが、ユーロ導入は「黙許」
   モンテネグロはミロシェヴィッチ政権末期にはユーゴからの独立色を強め、ドイツマルクを公式に通貨として導入、昨年にはディナールでの取引を禁止しました。そして今年、ユーロが自動的に同共和国の公式通貨になったのです。「欧州中銀から正式に青信号が出たわけではなく、ジュカノヴィッチ政権が勝手にユーロを買っているだけだ」(ディンキッチ・ユーゴ中銀総裁)という説もありますが、EU側は今のところ「黙許」して事態を見守っているようです。
   国際社会はモンテネグロ独立に難色を示し、本稿執筆現在もモンテネグロ・セルビア当局間で「モンテネグロの独立によりユーゴ連邦消滅か、国家連合か、連邦維持か」と話し合いが続いています。1月9日に終了した連邦専門家グループによる実務委員会の中では通貨問題が大きな対立点となった模様です。まだ討議内容は公式発表されていませんが、ユーゴ連邦維持派のドレツン委員は「EUはセルビアとモンテネグロが同じ通貨を持つことを支持し、ユーロ導入には懐疑的だ」と、モンテネグロの通貨をディナールに戻す論議が行われたことを示唆しました。連邦維持派のバックボーンになっているセルビア側としては、せっかく安定したディナールをしばらく続けたいところでしょう。しかし独立(ないし国家連合)派のヴコティッチ委員は「ユーロ導入は欧州先進国に近づく近道であって、後には戻れない」と反論しています(12月28日付日刊ヴィエスティ紙)。
   経済学者メドエヴィッチ氏は「欧州連合(EU)がユーロ導入を黙認したことは、モンテネグロの主権を部分的に認めたことを意味する」と、少々牽強付会気味ながら誇らしげに語り、建築会社ヴェクトラのブルコヴィッチ会長は「同じ通貨を使うことでEUとの取引が楽になり加速されるだろう」。またあるポドゴリッツァの学生も「先進地域と一つでも共通のものが持てる、というのは幸せなことだと思います」(AP12月31日付)。そんな楽観的な風を受けて、1月最初の4日間にモンテネグロ共和国内の銀行などでユーロに交換された額は200万マルクに上りました。交換は2月末まで続きますが、当分マネーロンダリング(資金浄化)対策の一環として200ユーロ以上の高額紙幣は出回らないとの見通しです。

年末にプリシュティナから届いた封書に貼ってあるのはコソヴォ発行のドイツマルク表示の切手。やがてユーロ表示の切手が発行されることになろう
   年末にコソヴォの知人からクリスマスカードが届きましたが、写真でご覧の通り、国連コソヴォ暫定統治ミッション(UNMIK)の発行によるDM表示の切手が貼られていました。99年のユーゴ空爆後セルビア、ユーゴから事実上独立した地域となったコソヴォでも、モンテネグロ同様ディナールでの取引が停止されドイツマルクが公式通貨として使われていましたが、やはり新年からユーロに移行しました。こちらはユーロ導入に「灰色」の匂いがするモンテネグロとは異なり、国際機関のテコ入れによる正式移行です。
   コソヴォに展開する多国籍軍KFORの米第9大隊(ノースカロライナ本拠)は広報・宣伝が主な任務で、従来も「子どもが戦争に関連するおもちゃを買わないように」という宣伝や、多民族共存を趣旨とするラジオ番組への参加協力をコソヴォの一般市民に呼びかけていました。12月に同大隊が受けた新しい任務は「ユーロを宣伝せよ!」。雪道を越えて農村部で、米軍の兵士がユーロ関連グッズ(パンフレット、カレンダー、為替レート表など)を配布し、セルビア本国の中銀同様「銀行に預金しましょう」と呼びかけを行ったそうです。E・ザケリ大隊長の「欧州経済の安定は米経済の安定にもつながるから、ユーロ宣伝の任務は我々にとっても国益なのだ」というコメントは、筆者には少し珍妙な感がしますが・・・(AP/ベータ通信12月30日付)。気の早い通信社(1月1日付AP)は「コソヴォでのユーロ交換、出足低調」などと打ちましたが、昨年12月だけで銀行の外貨口座が10万も新規に開かれたとのことですし、ユーロ定着は時間の問題だと思われます。

   「EUは2002年末までに候補国第一陣との交渉を終え、2004年のEU議会選に加盟国として参加出来るよう決定した。現在の交渉と準備のテンポが続けば、エストニア、チェコ、ハンガリー、スロヴェニアなど10カ国については加盟準備が整うものと評価している」。
   EU東方拡大問題については、一昨年ニース(仏)EUサミット前後までは加盟国内部の躊躇が感じられました。しかし昨年12月にラーケン(議長国ベルギー、ブリュッセル近郊)で開かれたEUサミット後には上記趣旨(厳密な引用ではありません)の議長国声明も発表され、拡大はもう前提として動き出した、の感があります。
壮麗な花火で新年を迎えたクロアチア・スプリット港(写真提供:Pero Jurisin氏)
   かつて旧ユーゴを除く社会主義圏の「第2通貨」は米ドルでしたが、冷戦崩壊とドイツ統合を経て、「一番東に近く一番強い」ドイツマルクの影響力が浸透し、今年からはEU入りを狙う東欧諸国でもユーロが「第2通貨」の位置を占めることになると思われます。しかしモンテネグロやコソヴォのように、一気にユーロを導入するのが、本当にEUへの近道なのかどうかは疑問です。
   旧ソ連圏で経済的に最先進国となったエストニアは、98年に政府代表団がEU側とユーロ導入を討議していますが、EUの答えはノーでした。「確かに候補国の多くは数年内にユーロ圏入りの条件を満たせるだろう。しかし急いで入ってもユーロ圏全体の国内総生産や生活水準が落ちてしまうし、ひいては政治・経済状況の不安定化につながる可能性がある。各候補国は、まず短期のインフレを覚悟してでも自国の水準がEUと肩を並べられるようになるまで育てることだ」と欧州中銀のノアエル副総裁は述べています(この段落は日刊ポリティカ紙12月2日付による)。

   しかしクロアチアでも、昨年11月下旬リニッチ副首相が自国通貨クーナをユーロに切り替えてはどうか、という趣旨の発言をしたことがきっかけになって議論が百出しました。クロアチアはスロヴェニアには差をつけられているものの、旧ユーゴ5カ国では第2の経済力を持つ国で、クーナも他の旧ユーゴ圏通貨に較べれば安定しています。しかしトゥジュマン前政権時代の失策がたたって、10月末に「EUとの安定協力連合」加盟にようやく調印したばかり。経済的にはリードしているはずのブルガリア、ルーマニア(候補国「第2陣」)にもEU入りレースでは遅れを取っています。この辺の焦りと思惑がリニッチ発言につながったのではないかと見られています。
   代表的な週刊誌「ナツィオナル」(11月27日号)はこのテーマで特集を組んでいます。ザグレバチュカ・バンカ(ザグレブ銀行)のミリェノヴィッチ経理部長は「ユーロ導入賛成派」。「経済を刺激し、金利が低下するので投資や経済成長には好影響をもたらす。また為替障壁がなくなることも有利。国際競争力が付き、価格決定も透明性を獲得するので安定につながる」。主に銀行関係者は賛成でしたが、政府関係者や経済学者、実業家の間では「時期尚早」の声がほとんどでした。
クララ・シューマンの100マルク札はあっと言う間に(筆者の財布からも)姿を消してしまった
「反対派」のニキッチ・ザグレブ大学経済学部教授は「プラスは為替障壁がなくなることだけだ。自国通貨を米ドルにしたパナマのような国もあるが、パナマの金利がアメリカと同じというわけではない筆者注:パナマでは現地通貨バルボアと米ドルの双方が公用通貨として認められていますが、事実上ドルのみが機能しているそうです)」と言います。「マクロ経済が不安定な現在ではユーロを導入しても金利低下にはつながらない。無理にEU水準に財政赤字を抑えようとすれば給与削減や解雇で対応するしかなく、社会が不安定になる」。
   ツルクヴェナッツ蔵相は新年から各店舗の商品の価格をクーナとユーロで併記することを奨励しました。外国人と触れる機会が多い旅行・観光業は既にユーロを料金表に表示していますが、まだ一般の店舗でこの奨励に従っているのは少数です。「クーナの対ユーロレートが不安定で、何回も値札を付け替えなければならないことになりナンセンスだ」という声が多いようです。クロアチアでもユーロが第2通貨として馴染むのは早いと思われますが、正式通貨について「クーナか、ユーロか」の議論は結論が出るまでにはまだ時間が掛かりそうです(この段落は「ヴェチェルニェ・ノーヴォスティ」紙1月3日付による)。

   紙幣の肖像としては世界一の美人(?)という評だった100マルク札のクララ・シューマン(1819-1896、作曲家R・シューマンの妻で自身も高名なピアニストだった)の微笑みが、旧ユーゴやその他東欧諸国の脱社会主義化に貢献してきたことは間違いありません。クララが去り、肖像のない「橋」だけのユーロ紙幣が、直接通貨として導入しない国々にも「第2の通貨」として徐々に入ってきます。それは西欧へ、EUへという東欧全体を巻き込んだ競争を、さらにエゲツない資本主義レースとして加速するものかも知れません。しかし戦争よりマシなことは確かです。

(2002年1月下旬)


写真を提供して頂いたペーロ・ユリシン氏に謝意を表します。写真の一部は2001年12月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文もこの取材の通訳として業務上知り得た内容を含んでいます。これらの掲載に当たっては、私のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。
Zahvaljujem se g. Peru Jurisinu na suradnji. Zabranjena je svaka uporaba teksta i slika bez ovlastenja.


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