「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2001/07/30 21:52

第49回配信
追憶と未来の間に   スロヴェニア1991/2001


 

ブッシュ米、プーティン露両大統領の初会談はスロヴェニアで行われた(写真提供:ス政府情報局、撮影:BOBO)
   今回のテーマは独立10周年を迎えたスロヴェニアです。6月16日、スロヴェニアのブルド=プリ=クラニュで21世紀になって初めての米露首脳会談が行われました。ブッシュ米大統領のミサイル防衛構想によって米露関係は再び緊張の時代に入るのではないか、と一部マスコミが伝えていましたが、その後の報道によれば新たな安全保障の枠組みを協議することで合意があり、ブッシュ、プーティンの初顔合わせとなったスロヴェニアが「建設的な関係」(両大統領)への出発点になったように思われます(米露双方が弾道弾迎撃ミサイル=ABM制限条約を骨抜きにして新たな武器開発競争を始めるのでは、という不安がないではありませんが、それはこのHPのテーマからは外れますので今後の展開を見ることにしましょう)。米露首脳会談の場所がスロヴェニアに決定したのはわずか1ヶ月前。スロヴェニア当局は6月末に独立10周年の行事を予定していましたが、思わぬ「前祝い」になったわけです。
   6月25日には予定通り10周年記念行事が行われました。欧州共同体=EC諸国などの国際的承認は翌92年ですが、スロヴェニア議会で独立関連法案が通過したこの日が地元では祝日です。独シュレーダー首相の他、スロヴェニア独立の立役者とされる91年当時のゲンシャー(独)、モック(オーストリア)、デミケリス(伊)元外相らもゲストとして式典に招かれました。 政府情報局のミーハ・ロット顧問官は筆者に対し電話で、「米露と10周年は両方ともオーガナイズでミスできない大行事だし、どうなるかと思ったけど終わってホッとしました」とコメント。何をやっても勤勉で正確なこの国の人々らしく、大きな混乱もなく行事は無事終了。スロヴェニアが着実に新しい時代へ歩みを進める印象をアピールしました。
   私は前回配信で書いたミロシェヴィッチ前ユーゴ大統領の戦犯法廷移送をめぐる混乱があったため、スロヴェニア現地に行くことは出来ませんでした。が、このニュースを聞いて「思い」だけは1991年6月末のリュブリャーナに降り立ちました。そこにいるのは10年前の駆け出し報道通訳、何も経験がなかった26才の私です。

リュブリャーナは遠くに山を望む、スロヴェニアの瀟洒な首都だ(2000年10月撮影)
1991年6月23日 ベオグラード12時発ユーゴ航空リュブリャーナ行きは予定より大きく遅れて2時半発。高所恐怖症なのは自分でも分かっているからよせばいいのに、イリューシンのプロペラ機の窓際に席を取ってボスニア、クロアチア共和国境辺りを空から眺めていた。個人旅行なら列車かバスで行くところだが、日本のテレビB社の経費で飛行機で飛ぶ珍しい機会だから、ユーゴという国の景色をよく見ておこうと思ったのだ。スラヴォニアの平地がやがて山がちの景色に変わり、しばらく飛んでいるうちに降下態勢に。美しい森の中に開かれたリュブリャーナ・ブルニック空港に着陸。スロヴェニアも快晴だ。今回は26日の独立宣言式典取材で、27日にも何事も起こらなければまたベオグラードに帰ることになるだろう。スロヴェニアが「独立」国を自称する26日以降、何が起こるのかは誰にも分からない。たった今簡単に乗ってきた国内線の帰りの便は、旅券審査を受けて国際線、ということになるのだろうか。ベオグラードの悲観的な記事のように、これで僕が2年前に渡ってきたユーゴスラヴィアという国は消滅してしまうのだろうか。針葉樹、手入れの行き渡った農地とコゾウツ(干草などを掛けるスロヴェニア独特の小屋)、そしてきれいに舗装された道路やピカピカの方向表示の看板、落書きのない建物。首都に向かうユーゴ航空バスの車窓から見る景色は、その美しさは、確かにセルビアのものではない。しかしスロヴェニアにはセルビアにないものがあって、セルビアにはスロヴェニアにないものがある、それがユーゴスラヴィアの素晴らしい多様性ではなかっただろうか。僕は美しいスロヴェニアが好きだ。でも自分が選んで住んでいるのはユーゴであって、好んでセルビアと呼ぶつもりがないのと同じ論理で、ユーゴの中のスロヴェニアが好きなのだと思う。ウィーン支局から車で来たB社取材班3人と夕方ホテルで合流。自分の話す下手なスロヴェニア語は何とか通じるが、ラジオで早口でニュースを読まれるとちょっと厳しい。クロアチア語の放送がラジオでもテレビでも受信出来ないことが分かり少し不安になる。まあ3、4日なら何とかなるか。

   高い工業ポテンシャルと勤勉な国民性。既に1950年から60年の旧ユーゴ連邦の個人所得成長率では、スロヴェニア共和国は63%を記録し連邦平均の50%を大きく上回っています。91年のスロヴェニアの個人所得はユーゴ平均より71%上、セルビアの1・6倍、マケドニアの2・6倍を記録する最先進地域でした。
もともと経済最先進地域。セルビアなどに比べてスロヴェニアの物価の「絶対値」は高いが、平均給与も高いので現在の生活には余裕が感じられる(リュブリャーナの市場にて、2000年10月撮影)
   前回配信でも書いたように、70年代後半からユーゴ経済は不振に陥ります。石油ショックでの構造転換が遅れ、対外累積債務は膨大。88年にはセルビアで共産主義と民族主義の奇妙な混合政治を掲げるミロシェヴィッチが登場しましたが、これと並行してスロヴェニアでもジャーナリスト・ヤンシャ氏(独立後初代国防相)の軍事機密漏洩事件が起こり、裁判がスロヴェニア語で行われなかったことに対する反発が強まるなど、民族主義傾向が前面に出て来ます。89年に連邦のインフレ年率が2400%を記録する中、スロヴェニア共和国は「経済主権」を打ち出しながら共和国憲法改正を行い、連邦離脱権を明記しました。90年1月、連邦の将来を問う共産党大会はスロヴェニア代表が途中退場、ユーゴ一党独裁体制がもろくも崩壊。複数政党によるスロヴェニア総選挙では、大統領こそ旧共産党系のクーチャンが勝ったものの、議会選は独立を掲げる中道右派・右派の大連合DEMOSが勝利します。91年前半、スロヴェニア、クロアチアの国家連合案がミロシェヴィッチらの連邦堅持案と対立し連邦体制の見直し協議が不調に終わると、スロヴェニアは6月26日、クロアチアは30日に独立を宣言する、と一方的に通告しました。
   スロヴェニアを見る限り、それは経済紛争でした。この後ユーゴがどうなるのかは誰にも分かりませんでしたが、まだ6月中旬時点で軍事衝突を予想した人は少なかったはずです。それがその後クロアチア、ボスニア、コソヴォ、ユーゴ空爆、そしてマケドニアと10年以上続く(いや今もまだ終わっていない)泥沼の紛争への序曲になると誰が思ったでしょうか。当事者でも政治家でもない私は、スロヴェニア人と独立問題で議論をするつもりはありませんが、旧ユーゴ崩壊という現象を考える時、独立を強行したスロヴェニアは「クロ」だ、という思いが今でも払拭出来ません。もちろん無理に抑えようとした連邦軍も、それを支持したミロシェヴィッチらも全て「クロ」なのですが、独立宣言の祝典で上がった壮麗な花火と、その後生まれて初めて戦争を現場で経験した蒸し暑い日々を、私は恐らく一生忘れないでしょう。美しいスロヴェニアが本当に好きなだけに、それはうまく整理することが出来ない複雑な思いなのですが。ユーゴ紛争に関し優れた著作を書いたイギリスのジャーナリスト、M・グレニーはこのようにスロヴェニア紛争の章を結んでいます。
   「独立問題を推進することによって、スロヴェニアはクロアチア戦争の間接的責任を担うことになった。スロヴェニアがユーゴスラヴィアの解体をあくまで押し通したため、クロアチアで高まった緊張は暴力の形をとるほかなくなったのだ」(ミーシャ・グレニー「ユーゴスラヴィアの崩壊」井上・大坪訳、白水社1994)

本格的衝突の前日となった91年6月26日、自動小銃などで武装したス地域防衛隊はイタリア・ユーゴ国境(当時)を占拠し200メートルを隔ててユ連邦軍戦車隊と対峙した。イタリア側の国境係官たちも情勢の推移を見守っている(写真提供:小原道雄氏)
1991年6月25日 祝典は26日だとばっかり思っていたが、今日必要法案が全て議会で駆け込み通過する可能性が出てきたので午前中のプレスセンター(ツァンカル会館)は動きが慌しい。やがて30日に予定されていたクロアチアの独立宣言が今日になる可能性が高まった、という情報が入る。スロヴェニアにくっ付いてドサクサで独立を宣言すると思われていたクロアチアが抜け駆けしそうなので、スロヴェニアも先を越されないように今日独立宣言をしてしまおう、ということらしい。テレビ取材班はプレセンにいても仕方がないので、ポルトロージュ海岸の先、スロヴェニア・クロアチア「国境」検問を工事している様子を撮影。リュブリャーナに戻ると「旗が決まった」「国の紋章が決まった」と次々にニュースが入ってきた。
1991年6月26日 朝イチで情報省のミーハ・ロット青年に新しい予定があるかどうかセルビア語で聞くのが日課になっている。祝典は予定通り夕方実施と確認。ユーゴ連邦軍が国境検問と税関を占拠しに出る、という情報が飛び交い、イタリア・ユーゴ国境を目指す。リピッツァを過ぎた辺りで道路にキャタピラの痕がついているのに気付く。国境200メートル手前にユーゴ軍の戦車隊が展開し、国境そのものはスロヴェニア地域防衛隊が占拠していた。一触即発の緊張感があった。銃を持った防衛隊「兵士」にインタビュー。「何をここでやっているんですか?」。この兵士は答えず、後ろの兵士が「待ってるんだよ」。「何を、どのくらい待っているんですか(Sta, pa koliko dugo cekate)?」と聞くと、最初の兵士が「セルビアクロアチア語じゃあ答えねえ」と言う。確かに、この状況ではセルビア語で聞いた僕がドジだった。「ドノクライ、待ッテ、イルンデスカ、ココデ? Koliko dolgo cakate tukaj?」僕の怪しいスロヴェニア語に当の怒り顔も一瞬苦笑。「長いこと、長いことな」。
   首都中心部の共和国広場で行われた独立祝典はツァンカル会館の屋上から上がった花火でクライマックスに達した。もう既に事実上分裂していたユーゴという国が、これで形式的にも消滅したのだろうか。プレセンでは政府関係者と報道陣のカクテルパーティーが続き、とても嬉しそうな顔をしているミーハ青年にも「おめでとう」と声を掛けた。「有難う、この後はSDZ(ペテルレ首相の政党)の飲み会が朝まで続くぜ、ハハハ!」。良かった。「独立」してもセルビアクロアチア語で話してくれた。けれど今日の昼、スロヴェニアで初めてセルビアクロアチア語にあからさまな敵意を示されたことを思い出しながら、そしてユーゴとスロヴェニアのことを考えながら、僕の気持ちは複雑だった。
上の写真と同時刻、伊ユ国境(当時)の200メートル手前に展開したユ連邦軍戦車隊(写真提供:小原道雄氏)
1991年6月27日 早朝、M記者から電話で叩き起こされた。「ユ連邦軍が動いた。道路が各地で封鎖されている。軍事衝突の可能性あり」。そんなバカな。ベオグラードも祝いの一言を掛けてやって、連邦体制を見直しましょう、国家連合にしましょうか、ぐらいのことを言ってやればいいのに、ユ連邦軍もス地域防衛隊も戦争をここで始めるつもりだろうか。ブルニックの空港を目指すが、リュブリャーナ各地でバスがバリケードに「徴用」されていて、空港に着くまで2時間近くかかった。僕はまたドジな質問をした。「国境なら分かりますが、何で空港に軍が動くんでしょうねえ?」。M記者:「そりゃ独立国なら空港も国際国境だからさ」。スロヴェニアに入って初めての曇りだが、蒸し暑い。空港関係者が不安げに見上げる雲の向こうから、絶えずゴーッという軍用機の飛来音が聞こえている。前夜の壮麗な花火とは、あまりに対照的な光景だった。やがて雲の下から空軍機が現れた。一瞬「あ、落ちてくる!」と思える速度で滑走路の上空を飛ぶとまた雲の向こうに消えた。少し経ってからドーンというすごい低音がやって来た。これが衝撃波というものなのか。これが空軍機というものなのか。午後ホテルで今一つよく分からないスロヴェニア語のニュースを聞きながら待機中、リュブリャーナ郊外でユ連邦軍のヘリが撃墜された。パトカーのすぐ後ろに付き、首都中心部を時速200キロ近いスピードで飛ばして現場に直行するとまだ煙が立っていて、軍服を着た死体を処理するところだった。スロヴェニアで戦争が始まった。そして僕は戦争のただ中にいた。

   6月27日に始まった「10日間戦争」は死者約50人を出しましたが7月7日のブリオニ(現クロアチア領)宣言により比較的早期に小規模で終結。10月にはユーゴ連邦軍の撤退が完了し、翌92年1月スロヴェニアは国際的な独立承認を、5月には国連加盟を勝ち取ります。もちろん最初から独立国の歩みが順風満帆だったわけではありません。経済成長は92年もマイナス成長を続け、輸出や民営化は伸び悩み、公務員のストが頻発します。国境確定やクルシュコ原発の使用権を巡ってクロアチアと、イタリア人少数民族の待遇を巡ってイタリアとの関係もこじれました。93年経済省高官は筆者の雑誌インタビューに対し、「セルビアとの経済的な結びつきが強かったが、独立紛争と対ユーゴ経済制裁のために市場を失ったことは大きい」と述べています。
リュブリャーナの観光名所「三本橋」に作られた「EU市民」(表)、「その他(Others)」(裏)のゲートは、次期EU入り有力候補国にのみ可能なユーモア作品(2000年10月撮影)
   しかし95年頃から経済状況は好転し、一人当たり国内総生産(GDP)は9000ドル台に突入。99年には先進国の基準とも言える10000ドルを越え、欧州連合(EU)下位のギリシア、ポルトガルに追いつく勢いになりました。独立前91年のセルビア共和国との格差(同じく一人当たりGDPによる)は2・53倍でしたが、ユーゴの制裁、空爆などの影響もあって現在は8倍以上に開いています。「EU諸国はもちろん、アメリカにもヴィザ不要という数少ない国の一つ。平均月収は1110ドイツマルクで、90年に小麦粉1キロを買うのに平均労働時間13分が必要だったが、現在では9分に短縮された。自動車の数はほぼ人口並みで、バスの混雑は考えられない。現在のセルビアがスロヴェニア91年の水準に追いつくまで何年かかるかが議論の対象となっているが、現在のスロヴェニアまでには何十年かかるのだろう?」(週刊ヴレーメ誌7月5日号)。ベオグラードのメディアが取り上げるスロヴェニアの経済記事(他にあまりニュースのネタがないことも確かですが)はどれも羨望混じりのトーンです。
   「スロヴェニアはこの10年、政治・経済改革に努力してきた。全てが万全だったと言うつもりはないが、現在ではEUでも中位の国に位置付けられる経済力を付けた」とクーチャン大統領は10周年記念の記者会見(6月15日)でEU、北大西洋条約機構(NATO)入りへの自信をみなぎらせました。一人当たり対外債務は中欧最高、民営化が遅れている、などの欠点はあるものの、所得だけなら次期EU入りの最有力候補です。昨秋の仏ニースEUサミットで前面に打ち出された東方拡大の方向は、先日アイルランド国民投票による否決で冷や水を差されました。しかし6月のゲーテボリ(スウェーデン)のEUサミットでは2002年末までの加盟交渉終結、早ければ2004年EU議会選にハンガリー、エストニア、スロヴェニアなどが参加出来るのではないか、という楽観的な追い風はまだ吹き続けています。

91年7月2日、東部クラコウスキ・ゴスト付近に展開したユ連邦軍装甲車部隊(左上)だが、バリケードに徴用されたトラックの下には地雷が仕掛けられ強行撤去が出来ない状態で足止め(写真提供:小原道雄氏)
1991年6月30日 警戒が続き、人通りの少ない朝のリュブリャーナの朝レポートを撮影して衛星伝送をしていた9時5分、初めて空襲警報が発令された。テレビ局の職員は皆地下のシェルターに移動する。ホテルに戻ってみるとやはり従業員がシェルターを兼ねる地下駐車場に避難していた。主要な建物はみな地下室兼シェルターがあるのだ。ティトー時代の「国民総防衛」の考え方が生きていることがよく分かった。45分くらいで警報は解除になったが、11時ツァンカル会館のクーチャン大統領記者会見は、自動小銃を持った護衛が後ろに何人も付くというモノモノしさ。緊迫の午前だった。
1991年7月2日 クルシュコ原発近くをユ連邦軍空軍機が低空飛行したため警報発令、原発は運転ストップというニュースが入り東部へ急行。原発がやられたらベオグラードだって大変なことになるのに、カツィン情報相の大騒ぎが自動的にニュースになって連邦側だけが悪者にされて行くのはどうしたものか。クラコウスキ・ゴストで連邦軍装甲車部隊がトラックのバリケードに止められている所を取材できた。トラックのタイヤの下には地雷が敷設されていた。ツェルクリェの空軍基地に行って士官クラスとインタビュー。「水道も止められて兵糧攻めに遭っている」。かつてゲリラ戦を戦ったパルティザンから発展したユ連邦軍が、スロヴェニア地域防衛隊のゲリラ戦に苦戦しているとは何と言う皮肉だろう。午後の動きからは、国境地域に展開した連邦軍の撤退問題が合意に向かっているように思われる。滞在が長引いたため日本製コンタクトレンズの洗浄保存液を切らしてしまい困ったが、たまたまM記者が同じ液を使っていることが分かり拝借。

   リュブリャーナに本拠を置くヘルメス=ソフトラブ社は独立直前の90年秋に設立された、コンピューターソフト企業です。当初は小さな会社でしたが、独立を果たしたスロヴェニア経済の興隆、そしてインターネット時代の到来とともに成長を続けました。企業内LAN管理やインターネットバンキングなどの分野で成功を収め、現在ではドイツ、ハンガリー、そしてシリコンヴァレーにまで支社を持ち、業界内では世界的に知られる会社になりました。「IT産業の伸びは確かに止まったが、我が社はまだ伸び続けられる見通しだ」(R・ブリッツ会長)。
   上にも書いたようにスロヴェニアは民営化の遅れがEU入りへの最大のネックとして指摘されていますが、実際にはGDPの55%が民営資本によるもので、スロヴェニアでは民営化の遅れは実感されていないほどです。
ピヴォヴァルナ・ウニオン社のビール(左)など、ユーゴ10月政変後はスロヴェニア製品がベオグラードでも手に入りやすくなった。家電のゴレーニェ社のビルボード(右)も登場
クラニュ市本拠のサヴァ社は典型的な社会主義(自主管理)企業で、96年には倒産寸前の状態。ヴァウチャーによる民営化が図られましたが、同社の株を買うのはドブにカネを捨てるようなものだと言われていました。ところが米タイヤ大手のグッドイヤー社がサヴァのタイヤ・ゴム部門51%を買収して1億2000万ドルが入ると、これをホテル、ゴルフ場、投資専門会社の買収に転用してビジネスを拡大、みごとに再生しました。
   このように成功を収めたスロヴェニア企業の話にはこと欠きませんが、これら企業にとって人口200万の市場はもはや「小さ過ぎる」のです。製薬のクルカ社(ノヴォメスト市)はクロアチア、ポーランド、ロシアに、住宅資材のトリム社(トレブニェ市)はドイツ、ポーランド、スロヴァキアに工場を持っています。しかしスロヴェニア企業の知名度が高く、かつての人脈・販売網があるということで、やはり進出しやすいのは旧ユーゴ諸国の市場ということになります。
   メルカトル百貨店は昨年12月にサライェヴォ(ボスニア)、プーラ(クロアチア)に大型ハイパーマーケットを開店しました。サライェヴォ店は総敷地面積27000平米、開店日だけで30万マルクの売上げを記録しました。今後はクロアチアに4店、ボスニアに3店の新規開店を計画しているほか、ベオグラードでも50000平米級の郊外型大型マーケットを年末までに開店したい、としています。
   民営化は政府の怠慢で遅れているのではない、むしろ賢明な戦略的なものだ、と分析するのはユーゴの日刊紙ポリティカのヤクシッチ特派員です。「メルカトルが競争力を付けて、初めて西側のスーパー、ルクレルク(仏)、シュパール(オーストリア)などが入れるようになった。国内経済が先進国の経済植民地にならないよう、スロヴェニア独自のテンポで民営化、外資導入を進めているのだ」(6月18日付)。

1991年7月8日 3日間取材の予定で入ったスロヴェニア滞在はもう2週間を越えた。曜日も日付も忘れる酩酊の中、緊張と鎮静の交互に訪れる日々を追ってきたが、それも終わりに近そうだ。前夜のブリオニ合意を受けての記者会見が昼頃予定されていたが延期、延期で5時。クーチャン大統領、ドゥルノウシェク連邦幹部会議員、ペテルレ首相、バウチャル内相、ルペル外相と歌舞伎の「白浪五人男」並みに役者は揃ったが、ダルい会見だった。K通信T記者、A新聞M記者などとホテルで夜遅くまで飲む。ようやく打ち上げの雰囲気になってきた。
独立強行派三羽ガラス、バウチャル内相(左)、カツィン情報相(中)、ヤンシャ国防相(右)の記者会見(肩書きは91年当時。バウチャルは現EU担当相。写真提供:町口由美氏)
1991年7月9日 ヤンシャ国防相に言わせるとユ連邦は共産=スターリン主義とセルビア正教=チェトニック王党派の混じった、劣った粗暴な連中だということらしいが、連邦幹部会議長(メシッチ)、首相(マルコヴィッチ)、外相(ロンチャル)、軍参謀総長(カディエヴィッチ)はみんなスロヴェニアにくっ付いて独立しようとしているクロアチアの人であることを、ヤンシャはどう説明するのだろうか。ボスニアやマケドニアにはセルビア覇権とは別の連邦のあり方を考えている人がたくさんいることをどう説明するのだろうか。ともあれ、まるで遠い昔のように思える23日にリュブリャーナ空港に着いた時には考えられなかったスロヴェニアの独立が、何か日に日に現実(既成事実)となりつつあるようだ。一時は迷彩服で記者会見をやったバウチャル内相も今日はカツィン情報相と一緒にポロシャツ姿で現れ、明日にはバカンスに行きますとでも言うような雰囲気。B社の我々も明後日の撤退が決定、飛行機は相変わらず止まったままなので列車でベオグラードに帰ることにした。「劣った粗暴な人々」の町だろうと、住めば都のベオグラードが恋しい。
   結局、好きか嫌いかは言うことが出来ても、スロヴェニアが連邦にとどまるべきだったのか、独立を強行すべきだったのかを、一外国人の僕が議論する資格はないのだ。スロヴェニアでは一生忘れない経験をしてしまったし、これからは遠くなってしまうだろうけれども、それでも僕はこの「国」が好きでいるだろうし、スロヴェニアがちゃんと「国」としてやって行けるかどうかをウォッチして行こうと思う。それしか僕に出来ることはない。

   昨夏の終わり、日本のテレビの文学ドキュメンタリー取材でスロヴェニア西部に初めて滞在する機会がありました。取材班より一日先に到着した私は、運転手のラドヴァンさんにソチャ川上流域の美しい風景を案内してもらいましたが、トリエステ空港に取材班を迎えに行くにはまだ時間があるので、モースト町のラドヴァンさんの自宅に寄りました。
EU、NATO入りへ意欲を語るクーチャン大統領。白髪が増え精悍な感じは薄れたが、10年前の旧ユーゴ共和国元首の中で最長不倒、唯一の現役大統領だ(6月15日、独立10周年記念会見にて。写真提供:ス政府情報局、撮影:BOBO)
   娘のティアーシャちゃんは3年生(9才)でした。「学校は何日から始まるの?お父さんの言うこと聞いてるかい?」。会話を始めようと思って、何気ないことを尋ねましたが、彼女は丸い眼をクリクリさせながら「????」と黙って私を見つめたままです。それは91年の夏、イタリア国境で自動小銃を持った地域防衛隊の兵士が、「セルボフルヴァシュキじゃ話さねえよ」と言いながら向けた敵意の眼差しとは全く違うものでした。台所でぶどうのラキヤ(蒸留酒)を注いでいたラドヴァンさんが慌てて「こいつはセルビアクロアチア語が出来ないんだよ」と言いました。あ、いけねえ。直前までお父さんの話す流暢なセルビアクロアチア語で会話を続けていたので、ついスロヴェニア語に切り替えるのを忘れていました(相変わらず私のスロヴェニア語はティアーシャからケタケタ笑われるようなレベルのものらしいのですが)。10日間戦争の年に生まれたティアーシャが9才になり、スロヴェニアは学校でセルビアクロアチア語を学ばなくてもいい、別の国になったのですから、彼女がベオグラードの言葉を話せないのは当たり前です。もう10年経てば、旧ユーゴという枠の中で見られることに違和感を覚え、かつてこの国にも緊張の10日間があったことを実感しない世代が大人になるのです。今年この国で生まれる子は、物心ついた頃からEU、という世代かも知れません。その方が自然だし、それでいいんだ、と私は思いました。ベオグラードからはさらに遠くなってしまうかも知れません。それでもこの国を私は好きでいるだろうし、スロヴェニアがちゃんと「EUの国」としてやって行けるかどうかをウォッチして行こうと思うのです。それしか私に出来ることはないのですから。

(2001年7月下旬)


スロヴェニア共和国政府情報局、小原道雄氏、町口由美氏に謝意を表します。写真の版権は上記各位に属します。写真の一部は2000年10月に日本のテレビ局取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文内容の一部は91年6〜7月に日本のテレビ局取材に同行した際通訳の業務上知り得た内容を含みます。それらの掲載に当たっては、私のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。
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