「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2000/07/29 15:50

第35回配信
小さいことは良いことか


セイシェルで一番泳ぎやすいというボーヴァロン・ビーチの美しい夕景
   旧ユーゴ地域の最新の情報を期待されてアクセス頂いた読者の方には失礼ながら、今回は筆者夫妻が新婚旅行で5月に行ったインド洋の島国セイシェルのレポートです。でもノロケ話じゃなくて、旧ユーゴに絡めた(コジツケた?)考察も一応するつもりですから、最後までご一読頂けると幸いです。
   さて5月に式を挙げるとして、新婚旅行はどこへ行こうかと相談した時まず私たちが考えたのは、ユーゴの旅券を持っているイェレナにも、日本人の私にもヴィザが要らない国でした。もちろんヴィザが「要る」というのは必ずしも「取れない」を意味しませんが、特にイェレナにとっては後者に限りなく近い国も多くあります。それに何も新婚旅行に行くのにヴィザのために大使館(それもベオグラードで用が済めば別ですが、国によってはユーゴと国交がまだ完全復活していないことからハンガリーのブダペストまで行かなければならない場合も生じます)で何回か行列することはないのではないか。しかしユーゴ人がヴィザなしで行ける「友好国」キューバ、リビア、イラク、中国などは私にはちょっとヴィザが取りにくい所ですし、逆に私にヴィザが不要な国は西欧先進国やアメリカ、クロアチア、スロヴェニア、とイェレナには難しくなってしまいます。リビアかイラクでも必要があれば申請するところですが、新婚旅行よりは「平和問題ゼミ」取材旅行という場所ですよね。2人ともヴィザが要らないのは陸路半日で行けるハンガリー、ボスニア、マケドニア・・・?私の両親が東京から黒部峡谷まで行って新婚旅行とした時代とは違いますからねえ。結局、消去法で残ったのはカリブのドミニカ共和国かインド洋のセイシェルでしたが、この春からスペイン語を二人で勉強し始めていることからドミニカは「もう少しスペイン語が上達したら」ということにして、赤道直下の美しい島として世界的に有名な観光地セイシェルに絞って情報集めを始めました。  

地図はCIAのパブリックドメインから借用し加工しました
   セイシェルへの連絡がいいのは英国航空と独ルフトハンザ航空。空爆中はベオグラードへの民間航空機がストップしていましたが、3月中旬のスイスエアーを皮切りに各社が再び運行を再開し、英国航空の事務所もまた忙しそうにしていました。ロンドンにはご存知のようにヒースロー、ガトウィックなどいくつかの空港がありますが、時刻表によればベオグラード・ロンドン便もロンドン・セイシェル便も同じガトウィック空港で、数時間の待ちで乗り換えが出来るようです。ところが英国航空側は「英国にヴィザの必要な国の人には入国しなくてもトランジットヴィザが必要になったんです」。「えー、だって3時間空港で待ってるだけですよ。」「イギリス政府の要請なので当社としてはこれに従って頂かないと飛行機にお乗せ出来ません。」「じゃあそちらでヴィザ取得をお願いできますか?」「以前はそのサービスもしていましたが今はご自分でイギリス大使館へ行って頂くことになっています」。
   ケシカランぞ、イギリス政府!ヴィザが要らないからセイシェルに決めたのに、何で空港の旅券審査の外側で数時間待っているだけなのにヴィザが要るんだ?
   と腹を立ててばかりでも仕方がないので次はルフトハンザです。「うーん、セイシェルへの連絡はフランクフルト発なんですが、ベオグラードからはミュンヘン経由でして、ミュンヘン・フランクフルト間が国内線扱いになるんですよ」「そりゃユーゴ人にはトランジットヴィザが要るということですか?」「残念ながらそうです」。一瞬アタマを抱えましたが、そこは私たちもあきらめませんでした。ブダペスト発ならフランクフルト直行便があるではないですか。帰りはブダペストに1、2泊してベオグラードでは手に入らない日本食でも買って来よう。というわけで陸路ブダ行き、その後フランクフルト経由でルフトハンザの弟分コンドル航空でセイシェルへ、という旅程が確定したのでした。

   5月20日、フランクフルト22時発。無事コンドルの翼に乗った私たちが浅い機内の眠りから覚めると、紅海を縦断してきた飛行機はもうアデン(イエメン)上空でした。ここから進路を少し南に修正して「アフリカの角」ソマリア上空へ。イェレナも私も生まれて初めて見るアフリカの、あまりにも「何もない」風景は、シベリア上空と同じような驚きを私たちにもたらしました。こんな所にも人が住んでいて、暮らしがあり、喜怒哀楽があり、そう、戦争もあるのですね。ヨーロッパと日本しか知らない私も世界の広さを実感しました。
   しばらくインド洋上を飛んでいた飛行機は赤道を越えた頃から降下体勢に入り、やがて雲の下から美しい島々が見えて来ます。

首都ヴィクトリア中心部、リトル・ベン時計塔
   早くから南東アフリカとマレー・ポリネシア混成文化を作り上げていた巨島マダガスカルや、18世紀には砂糖工業の発展を経験したモーリシャスなど他の東アフリカの島々と異なり、無人島同然だったセイシェルにフランス人と黒人奴隷が入植したのは18世紀後半になってからです。農業は現在も国内総生産(GDP)と就労人口の10%以下に過ぎず、他のアフリカ諸国のように少数白人がプランテーションで地元黒人を搾取する、といった暗い歴史の影はほとんど感じられません。
   人口が約7万6000と極端に少ないため文字通りに数字を受け取るのは危険ですが、95年の一人当たり国民所得は6200ドルでヨーロッパ中進国並み、アフリカでは仏領レユニオン島と並んでトップクラスです。輸入2・2億ドルに対し輸出0・2億ドルと極端な入超、しかも輸出のトップは自国で生産していないはずの石油産品の再輸出という珍品目ですが、観光収入0・9億ドルで貿易赤字をそれなりにカバーしていると思われます(以上の統計は全て95年時点)。
セイシェル小史

1742 フランス人ラザール・ピコ上陸
1756 仏領となる。モーリシャス統治官マゴンの親戚ド・セッシェルの名を冠しセッシェルと名付けられる
1814 英仏植民地戦争の後英領となる。後に英語風にセイシェルと名を改められる
1830 奴隷制廃止、この頃綿産業からココナッツ、ヴァニラ産業に転換
1948 選挙によるセイシェル行政府成立
1970 憲法改正、独立に向かう
1976 英連邦内にとどまることを条件に英国から独立、マンチャム大統領(親英、右派)、ルネ首相(親仏、左派)による政府成立
1977 ルネがマンチャム一派を追放し大統領に。79年から左派一党独裁へ
1993 複数政党制に戻す。マンチャム一派復権、95年に総選挙が行われ再びルネ大統領派が勝利 
   国家のプロパガンダによれば、「9割のクレオール系住民(アフリカ、ヨーロッパ、アジアの混血で肌は褐色)が少数のアジア系・白人系住民と理想的な共存を実現している」とのこと。TVニュースや日刊紙は英仏クレオールの3公用語です。そして70年代半ばから観光に力を入れ始めた「遅れ」を逆利用して、「先発」リゾート地の失敗を教訓とし豊かな自然を壊さない発展を進めてきました。地域で一番高い椰子の木よりも高い建物を建ててはならないという規則があり、観光リゾートにありがちな威圧的な高層ホテル群の姿はこの国にはありません。私たちの滞在中に拾ったニュースによれば、サンタンヌ島でモーリシャス資本によるホテルの開発の話が進む一方で、マエ島の護岸工事も進められています。エコロジーと観光の共存、それに今後期待されているのがオフショアだと言えば、これは今後ユーゴから独立する可能性も出ている海岸の小国モンテネグロ(第28回配信参照)にそっくりではありませんか。基幹産業が乏しく経済の多くを輸入に頼る中で小国の独立がどう可能なのか。新婚旅行とは言え、仕事柄か私たちの目はそういう方へつい向けられてしまいます。

霧雨のような熱帯の雨もオツなもの。905mのセイシェル最高峰モルヌ・セイシェロワにかかる虹
   私たちが滞在したのは主島マエのボーヴァロンビーチと人口2万の首都ヴィクトリアだけでしたが、評判にたがわぬ美しい島でした。海はさすがにハイシーズン前なので少し冷たいものの、静かで泳ぎやすく、背の立つ浅いところまで魚群(セイシェル・クレオール語でtaka、仏語でmacroという魚だそうです)がやってきます。昨夏に滞在した石垣島や竹富島は珊瑚礁の浜なので足をケガしそうになることもしばしばでしたが、ここでは砂が細かく全く気になりません。椰子の木陰に入って空や海を見上げていると、ここしばらくのユーゴの騒動や結婚式前後の苦労も忘れてノンビリできました。夜は滞在しているホテルでの食事をわざと避けて、1・5キロほど離れたレストランまで何度か歩きましたが、住宅のない所では街灯がないため文字通りの真っ暗闇で、側溝に落ちないように注意しながら通り掛かる車のライトと南十字星を頼りに進むというのも傑作でした(治安が非常にいいと聞いていたから出来たことではありますが・・・)。

   と言うわけで、自然に関してはもう文句なし。多いに楽しめましたし、自分達の新婚旅行としては十分合格点だったと言っていいと思います。しかし、です。モロ手を上げて「皆さんにお奨めします」とは断言できない「?」マークがいくつか付きました。
本文では高いのナンのと文句を言っているけど、レストラン「ラ・フォンテーヌ」のシーフードグリル(ロブスター付)は最高。2人前8800円也
   特に物価とサービスです。一言で言えば、営業時間と値段はヴェネーツィア並み、サービスはモンテネグロ並みというところでしょうか。
   @タクシー。空港からボーヴァロンまでの約7キロ程度が2000円(セイシェルの通貨はセイシェルルピーと言いますが、以下は1ルピー=20円で表示します)。ボラれたというわけではなくこれが標準料金のようです。まあ世界有数のタクシー高料金日本から来たのならともかく、筆者の自宅から7、8キロのイェレナの実家まで行って300円、という国から着いたばかりの私たちにはいい洗礼になりました。首都ヴィクトリアの町に遊びに出た帰りにタクシーに乗ろうとしたら「ボーヴァロンとは反対の方なら行くけど、他のタクシーを捜してくれないか」と乗車拒否もありました。
   Aホテル。セイシェル最高級ではないにしても、ベオグラード最高のホテルより高く、西欧先進国でもそこそこのレベルのホテルに泊まれる額の所を選んだのですが、まずチェックインした途端にトイレの水洗の故障が見つかり、修理を頼んだところ「今すぐ行きます」が数時間待ちになってしまいました。部屋の電気はルームキーを差し込むと始動するようになっており、私たちが外出している間は当然のことながら冷房が効きません。これは私が日本で仕事をした時の某財団の外国人研修用宿舎にもあったシステムで、私たちもホテルの節電には多いに協力しましたがリゾートホテルとしてはちょっと・・・だと思いませんか?
   Bレストラン。同じホテルで3食、では退屈ですから、数少ないレストランに安くはないタクシーを利用したり、上に書いたように夜道を歩いて行きました。値段は2人で毎回8000円から1万円というところ。たまにクレジットカードが使えない所もあって財布の中味と相談しながらメニューを見る経験もしました。ヴィクトリアにはピッツェリアなど安レストランもないではないのですが、またボーヴァロンとのタクシー往復で2、3000円取られることを思えば同じことになってしまいます。「16時から23時まで」営業という看板が出ていると実際には17時から22時までと思った方が賢明です。21時半を過ぎると私たちがデザートを取っている周りで椅子や机を片付け始めるのですから。なお最高傑作は「海の眺めが最高です」と宣伝している某最高級レストランです。昼食はなく営業は18時からで、赤道直下の太陽はつるべ落としですから、営業時間の(表向きの)最初の1時間を除くと、潮の香りと波の音は楽しめても海の眺めはまず楽しめません。
ヴィクトリアの市場。鶏を除く肉は輸入品で、魚の方が肉より安い
   まあホテルやレストランだけ見ていても「観光客料金」かも知れませんから町に出てみましょう。スーパーでは地元ビール「セイブルー」0・3リットルが200円。確かにホテルで360円取られることを思えば、ですが、ヨーロッパ中進国の水準から考えるとあまり安くはありません。ワインはフランス製だけですから値段はもちろん論外です。それにしても基本食料品まで、つまり極端なほど輸入頼りなのがよく分かります。バターはアイルランド製、食用油は中国製。主食は米、次いでパンですが米はイタリアか中国産。小麦粉は「自国製」という触れ込みでしたが、温帯植物の小麦が赤道直下で大々的に栽培できるという話は聞いたことがなく、ココナッツのプランテーションは確認できましたが少なくともマエ島で小麦畑は見つけられませんでした(*)。
   ここで物価が高い、と結論するのはもちろんマルクや円から換算しているからで、当然ルピーを強く保っている為替政策によるものです。しかし輸出産業に乏しく多くを輸入に頼る国で自国通貨を強く保てば、輸出は伸びず入超傾向が拡大することは自明で、これをカバーするには観光客からさらにブッタく・・・失礼、観光客に外貨をさらに落として行ってもらわなければならない構造が深まることになります。これで本当にセイシェル経済は機能しているのかな、と首を傾げざるを得ませんでした。

   *アフリカでは主食がイモ類、バナナ類の地域がたくさんあります。そんな某国でイギリスの人道援助活動家が「この国には食べるパンもありません」と報告した話。あるいは戦争中のボスニア・スレブレニッツァに米軍が援助物資を投下したらイスラム教徒が食べない豚肉が入っていた(緊急時に豚肉を食することはコーランの認めるところではありますが)話。観光客として私たちは、例えば「ここセイシェルも主食はパンだろう」とつい自分の国の目でモノを見がちですが、できるだけ慎重に構えたいものです。このページでの私のセイシェルに関するコメントにも誤りが少なからずあると思いますが、気付かれた方はご遠慮なくご指摘下さい。

私たちが昼食を取っている最中からディナータイムの準備をイソイソ始めるウエートレスのお姉さんたち
   私たちが泊まったホテルはマレー系資本でしたし、レストランでは白人系の店主がクレオール系のウエイターやウエイトレスに指示して店を仕切っていました。着飾った感じのクレオール系住民は少なく、上に書いたようなサービスの悪さから考えても、誇らしい給料を取っているようにはどうも思えません。クーラーと衛星放送受信用のアンテナが付いている住宅はあまり数が多くないようでした。1人当たりGNP6000ドル台という数字、そして多民族の調和的共存という国家プロパガンダは、やはり少し差し引いて考える必要がありそうに感じられました。
   治安がいいことは上でも触れましたが、主なホテルの周囲では常に警察官がパトロールをしています。夜は海岸への通用門に警官が立っていて、ホテル宿泊客でもビーチへの出入り禁止。タクシー運転手は「スピードやらシートベルトやら取締りが厳しくってネ」とこぼしていました。ユーゴやボスニアのような怖い警察という印象はありませんが、確かにプレゼンスは大きいようです。日本人にもユーゴ人にもヴィザ不要、その代わりに出国時に40米ドル相当の「税金」を払い込むことになっています。ところがセイシェル国民の「出国税」は何と100ドル。観光客だけではなくて地元住民も相当取られているわけです。これではそうちょくちょく外国に出るわけには行かないでしょうし、当然外国から入ってくる情報も多くはないのではないかと思いました。現在は一党独裁制が解かれ野党も活動を認められたとのことですが、日刊紙「ナシオン」や各国語で30分ずつのテレビニュースから入る情報は内政・国際ともタカが知れたものです。平和な国だから、と言われればそれまでですが、ユーゴから来た私たちにはルネ政権が長命である理由も何となく想像できるような気がしました。
   今日でセイシェルを離れるという日、フランス人とセイシェル人のハーフだと言うホテルの若い職員と浜辺で話す機会がありました。「ボクは日本人だけど、カミさんとユーゴに住んでいるんだよ。」「ベオグラードってのはきれいな所かい?」「うーん・・・」。一瞬「空爆」という言葉がノドまで出かかりましたが、止めました。欧米がユーゴを空爆しても、ここではあまりニュースにならなかったに違いありません。結局のところ遠いセイシェルに何の関係があるでしょう。それに私たちにとっても、ある意味ではそういうユーゴを一時忘れるための旅行だったのですから。

(左)セイシェルの3国語日刊紙ナシオン (右)セイシェル製ビール「セイブルー」(飲みかけで失礼!)
   とは言え帰りのコンドルの中で、今飛び立ったばかりのセイシェルと、これから「帰って行く」バルカンをボーッとした頭の中で比較しながら眠りにつきました。
   ・・・スロヴェニアから始まった旧ユーゴ紛争は、少なくとも当初は経済紛争だった。その中では「小さいことはイイことだ」という哲学が主流を占めていた。民族問題がなければ政治的に安定するし、経済は連邦への分担金を出さずに自分の国だけに見返りがある方がいい、と。しかし輸出競争力の不充分な中での経済的独立は、「西側の下請けになっても構わない」「やがてはEUに取り込んでもらう」という二つの柱が大前提になる。モンテネグロも今、輸出産業や資源の裏づけがないままその道を歩み始めているが、観光だけに依存するのは、セイシェルを見ると賢明な方法とは思えない。西側先進国に近いこと、島国ではないことは利点だが、クロアチアだけでなく「近場」のボスニア、セルビア、アルバニアといった国々が政治的、経済的に安定しないうちは苦しい道をたどることになるのではないか。結局バルカン全体が安定して繁栄するのが一番いい道なのだろうけど・・・

ベオグラード・ユーゴ連邦議会
   7月6日、ベオグラードではユーゴ連邦議会が急遽開かれ、憲法改正(改悪?)案が両院を通過しました。従来議会選出、再選禁止だった連邦大統領が「直接選挙、3選禁止(任期は従来と同じ4年)」になった結果、来年で任期切れのミロシェヴィッチ現大統領があと5年(拡大解釈によればあと9年!)「延命」できることになりました。さらに連邦議会上院も直接選挙となり、モンテネグロが連邦大統領を出し連邦議会多数を占めることは改正前でも困難でしたが文面の上でも不可能に近くなりました。既にモンテネグロ・ジュカノヴィッチ政権は連邦制度を違法として無視し続けていますが、翌7日の共和国議会で改めて「前日の決定を認めない」宣言を採択、セルビア傀儡の野党ブラトヴィッチ派との対立を深める形になりました。
   前の配信でも書いたように、秋には連邦選、地方選が行われる予定ですが、野党と反体制メディア潰しでセルビア与党政権が勢いに乗っている今秋のうちに連邦大統領選が実施されるのではないかという憶測も流れています。この憶測を裏付けるかのように、24日には連邦大統領選挙法が改定され、選挙は投票率50%を割った場合でも成立することになりました。投票率が30%なら有権者総数の15%強を得票するだけで大統領当選が確定するのです。春以降の与党連合の強気な反体制潰しの動きは、実はミロシェヴィッチの人気低下を恐れての策だったことがここに至ってはっきりした感があります。来年はそれこそどうなるか分からない、それよりまだ復興の宣伝が有効で野党が結束していない今年のうちに大統領再選を実現してしまえ、というわけです。
   連邦レベルの選挙はコソヴォのアルバニア人とモンテネグロ(の半数)の不参加は決定的です。結束を欠くセルビア野党は不参加もあり、という態度ですが、一方で強い統一候補を立てればミロシェヴィッチに対抗できるのではないかという声もあり、このところセルビア民主党(中道右派)V・コシュトゥニツァ党首が有力大統領候補と一部で噂されています。独自に選挙ボイコットを表明したベオグラード市与党のセルビア再生運動も無抵抗で首都を社会党政権に明け渡すことは考えにくく、今後他野党と同調するか、独自の動きを見せるのではないかと予想されています。というわけで政治の動きが止まるはずの「夏休み」もユーゴから目が離せない状況が続いています。

(2000年7月下旬)


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