「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 99/02/20 5:34

第13回配信
土地の名---政治


Tito u Titogradu
ティトーグラードをゆくティトー夫妻(Tito's Home Pageより)
   ロシア革命の英雄レーニンが死んだ1924年、彼の名を賛えて「ピョートル大帝(と同名の守護聖人聖ペテロ)の町」サンクトペテルブルク(14年から24年まではペトログラード)はレニングラードと改められました。91年、ソ連邦の崩壊とともに町の名が再びサンクトペテルブルグに戻ったのは皆さんもご存知の通りです。ヴォルガ川沿岸の町ツァーリツィン(「皇后の町」)がスターリングラードに改称されたのは、スターリンが独裁者としての権力をほぼ確立した25年のことですが、フルシチョフによるスターリン批判(56年)の後の65年、町の名はヴォルゴグラードに変えられて現在に至っています。もっともパリの北部には今でも「スターリングラード広場」があって、地下鉄の駅の名前にもなっています。第二次世界大戦の激戦地はスターリングラードでこそあれヴォルゴグラードではありませんから分かるのですが、ロシアにもないこの町の名をフランスの首都で見るのはやはりちょっと妙な気がします。
   というように政治的な文脈によって、あるいは単に為政者の都合によって都市の名が変えられることは(先進国では最近はあまり聞きませんが)歴史上、また旧社会主義圏では現在でも決して珍しくありません。特に歴史上の人名が絡んでいる場合はなおさらです。歴史は権力の側によって解釈し直され、新しい価値が与えられるものだからです。今回のレターは少し時事的な話題を離れて、旧ユーゴで名前が変えられた町や広場や通りの話題です。

消えた町の名

   旧ユーゴ連邦を東欧圏の中で際立たせていたのは、ティトーという戦前共産党の非合法活動時代のコードネームを本名にしてしまった(?)ヨシップ・ブロズの存在であったことは間違いありません。J・B=ティトーの死後も、旧ユーゴでは連邦崩壊直前までこの偉大な権力者を表立って批判することは出来ませんでした。ティトーは党であり、国家であり、彼(=党=国家)を批判することはそのまま多民族の連邦国家の存続を危うくするものだったからです。しかし90年に共産主義者同盟(ここでは「共産党」と書きます)の一党独裁体制が消滅、複数政党制の導入とともに、ティトー批判、共産党批判は民族主義勢力の政
Josip
ヨシップ・ブロズ(=ティトー)(1892−1980)(Tito's Home Pageより)
治宣伝の格好の材料になりながら噴出してきました。クロアチアのトゥジュマン大統領、ボスニアのイゼトベゴヴィッチ前幹部会議長らは、ティトー時代に民族主義的偏向によって投獄されていたのを「売り」にして共産主義を批判し選挙で大勝を収めます。彼らが主張していた「反共=民主主義」がただの民族主義に過ぎなかったことはすぐに明らかになりますが、時すでに遅し。旧ユーゴ連邦は崩壊と戦争への道を急いで辿ることになりました。
   旧ユーゴのモンテネグロを除く全ての共和国と自治州には「ティトーの(Titov、Titovo、Titova)」という所有形容詞を冠した地名がありました。どうしてモンテネグロにはなかったか?・・・共和国の首都がティトーグラードだったからです。
   しかし90年から92年の連邦崩壊期、スロヴェニアのティトヴォ・ヴェレーニェを皮切りにこれらの全ての町から所有形容詞が削除されていきました。事実上の共産党政権が続くセルビアでもティトヴォ・ウジツェがウジツェになり、モンテネグロの首都は第二次大戦以前の旧称ポドゴリッツァに戻り、穏健左派政権のマケドニアでも最後にティトフ・ヴェレスがただのヴェレスになりました。「ティトーのユーゴ」が消滅するとともに、「ティトーの町」も過去の話になったのです。
旧ユーゴ大地図にリンク
1(ティトヴォ=)ヴェレーニェ 2(ティトヴァ=)コレニッツァ 3(ティトフ=)ドゥルヴァール 4(ティトフ=)ヴルバス 5(ティトヴォ=)ウジツェ 6(ティトヴァ=/現コソフスカ=)ミトロヴィッツァ 7ティトーグラード(現ポドゴリッツァ)8(ティトフ=)ヴェレス 
   「ユーゴ残留、ボスニア独立反対」を唱えていたボスニアのセルビア人が、戦争の激しくなる中、自支配地域に「セルビア人(の)共和国」という名前を付けて独立を宣言したのは前回第12回配信に書いた通りですが、彼らはさらにメチャクチャなことをやりました。
   ボスニアには「ボスニアのbosanski、bosansko、bosanska」という形容詞が付いた地名がいくつかありますが、セルビア人共和国にあった地名からこの形容詞を抹消したのです。自分たちは「ボスニア」には住んでいない、敵勢力の名は排除せねばならない、ということです。ボサンスキ・ブロドはただのブロドに、ボサンスキ・ノヴィはノヴィグラードに、といった具合です。
   ベオグラードからパレ、サライェヴォに向かう幹線沿い(セルビア人共和国内)にノヴァ・カサバというボスニア人の多く住む村がありましたが、今は存在しません。カサバkasabaは小さい町という意味のアラブ・トルコ語源の言葉です。ボスニア人を追い出した戦闘で廃墟になっていたノヴァ・カサバには現在セルビア人の難民が入っていますが、彼らはこの「ボスニア=トルコ臭のする」名前を嫌って「ミロシェヴォ(「ミロシュの」町)」という名前に変えてしまったのです。フォチャは人口4万とボスニアの中では小さい町ではありませんが、やはり同じような理由で現在はスルビーニェという「セルビア的な」名前になっています。これからフォチャやノヴァ・カサバにボスニア人難民が帰ってきた時一体どうなるのでしょう。
   ベオグラードの高名な社会言語学者R・ブガルスキはクロアチア・ボスニアでヴコヴァールやモスタルのような都市が徹底的に破壊される野蛮を「都市殺しurbicid」という新語を使って説明しようと試みていますが、このような支配者による乱暴な名前の変更こそ本当の意味での野蛮な「都市殺し」ではないかという気がします。

よみがえった広場と通り

   他のヨーロッパ諸国同様、旧ユーゴでも大通りから小さな路地に至るまで、全ての広場と通りには名前が付けられています。かつては「ティトー元帥通り」「ユーゴ連邦軍通り」は大抵の町にあったものです。しかし旧ユーゴ連邦解体、戦争と並行してどこでもこれらの共産主義臭、ユーゴ臭のする名前が大きく変わっています。取りあえず話をクロアチア、ボスニア、セルビアの首都に絞りますが、まだベオグラードは変化が少ない方で、極端なのはザグレブとサライェヴォです。さすがに最近は少し市民も慣れてきたようですが、クロアチア独立直後のザグレブではタクシー運転手がみな新しい通りと旧称を並べたリストを見て運転していました。
Josip u Zagrebu
ザグレブのバーン・J・イェラチッチ広場(中央がイェラチッチ像)
   ザグレブの最中心部の広場は90年までは「共和国広場」といいましたが、トゥジュマン政権になって戦前の旧称「バーン・ヨシップ・イェラチッチ広場」に戻され、セルビア人からは「第二次大戦中のファシスト時代の悪夢(ナチ占領下のクロアチアでは多くのセルビア人が強制収容所に連行され、ドイツのユダヤ人と同じ運命を辿った)が復活した」と騒がれました。それ以上に物議をかもしたのは「ファシストの犠牲者広場」が「クロアチアの偉人たち広場」に改称される時で、さすがにセルビア人だけでなくクロアチアの知識人の中にも眉をひそめる人が多かったと聞きます。ユーモア好きの元ザグレブ大学教授は「じゃあ妥協案で『クロアチアの偉人の犠牲者広場』にしたらどうかねえ」。プロレタリアート旅団通りが現在はヴコヴァール通り、社会主義革命通りがズヴォニミル王通り、ユーゴ連邦軍通りがギューレ・デジェリッチ通りという具合に、社会(共産)主義、ティトー時代、セルビアを連想させるものは大体クロアチアの地名や歴史的な人物の名前に変えられているか、第二次大戦以前の旧称に戻されています。ところがベオグラードでティトー元帥通りが廃止され、サライェヴォでも同名の通りの一部が改称されているのに、あれほど反共民族主義の吹き荒れたザグレブで「ティトー元帥広場」がまだ公式名称としては残っている(国立劇場があるので一般的には「劇場広場」と呼ばれている)のが不思議なところ。もっともティトーはクロアチア人でしたっけ。

ヨシップ・イェラチッチ
(1801−1859)

Josip   オーストリア帝国領ハンガリー支配下に置かれたクロアチア出身の軍人。ヨーロッパに革命の機運が高まった1848年、ハンガリーでもオーストリア帝国からの独立運動が起こると、帝国からクロアチアの領主(バーン)・将軍に任ぜられた。彼はまず帝国の重要港湾都市リエーカ(現クロアチア領)を鎮圧。続いて現ハンガリー領、オーストリア領に転じてハンガリーの革命軍を制圧した。この功績を認められイェラチッチはのちに帝国から伯爵号を授けられる。  
   オーストリアの側からイェラチッチの軍功を見るとハンガリーの独立運動を押え、帝国の中央集権的支配を復活させただけに見えるが、クロアチア側から見ると抑圧者ハンガリーに対する抵抗であることにもなる。実際イェラチッチ自身も48年革命初期の段階でクロアチアの独立を宣言してウィーンから取り下げさせられている。後の時代(1867年)ハンガリーが「二重帝国」の形でオーストリアからの自治権を強化すると、クロアチアにもさらにハンガリーからの自治権を強めようとする「三重帝国」運動が起こる。イェラチッチはクロアチアではこの一連のクロアチアの(まずハンガリーからの、続いてハプスブルグ帝国からの)民族独立運動の先駆者として評価されている。一方旧ユーゴ共産党政権からは「革命運動を抑圧した」帝国の貴族という否定的な評価が一般的だった。ザグレブの広場から彼の名前が削除されたのもこのような共産党の歴史観によるところが大きいと思われる。  
   ちなみに48年革命を北部イタリア方面で鎮圧したラデツキーの功績を称えてJ・シュトラウス(父)が作曲したのが有名な「ラデツキー行進曲」だが、彼は実は「イェラチッチ行進曲」も作曲している。しかし音楽史では全く無名の作品にとどまっている(聴いたことのある方はデータなど教えて頂けると幸いです)。

   サライェヴォでも事情は同様です。パルティザン通りがボスニアの諸王通り。ベオグラード通りがエメリク・ブルーム通り。トミスラフ王(古代クロアチア王)通りがコシェヴォ通り、等々。ガヴリロ・プリンツィップ青年が1914年にフェルディナンド皇太子にピストルを撃った橋はプリンツィップ橋から旧称のラテン橋に戻されています。プリンツィップはセルビア人ですからね。サライェヴォの大半の人々にとっては忌々しい記憶を想起させる「ユーゴ連邦軍通り」は現在「グリーンベレー通り」(J・ウェインの映画ではなくて、92年ボスニア軍が正式に発足する前のボスニア人戦闘部隊の名前です)になっていますが、その1番地にあるのは何とセルビア正教会。皮肉なものではありませんか。
   昨年の暮れ、ベオグラードの中心部ニコラ・パシッチ広場に第一次大戦期に活躍したセルビアの政治家パシッチの像が据えられました。せっかくの新時代のベオグラードの中心的
 Trg Marksa i Engelsa
ベオグラードの旧マルクス=エンゲルス広場に立つパシッチ像。パシッチ(1845−1926)は政治家としても長命で、反王党派だった時期もあればセルビア強権主義者の側面もあり評価が分かれる。現在のセルビアでは概ね肯定的に受け入れられているが、共産党を弾圧したこともありティトー政権の評価は必ずしも芳しくなかった
なモニュメントとして期待されていたのに、「社会主義時代のようなゴツい像だったのが残念」(日刊紙「ポリティカ」)という批判はありますが、私が引っかかるのはこのパシッチ像自体ではなく広場の名前です。
   私がベオグラードに住みついた頃この広場はマルクス=エンゲルス広場と言いました。貧乏旅行者だった私が最初に厄介になった家もこの広場の近くですし、当然最初に覚えた広場の名前の一つだったわけです。私は左翼政党の熱烈なシンパではありませんし、まして現在のユーゴのミロシェヴィッチ旧共産党政権は大嫌いなのですが、4年前の市議会決定でパシッチ広場に改称されたと言われても、戦前の名前に戻ったんだと言われてもどうもしっくり来ないのです。それで同世代の友人にそれを言ったところ「いや実はオレもマルクスやエンゲルスは嫌だがあの広場はオレにとってはマルクス=エンゲルス広場だな」とのことでした。
   クロアチアのユーゴ鉄道やスロヴェニアのユーゴ郵便局がクロアチア鉄道、スロヴェニア郵便局に変えられているのは当然です。企業、病院、学校などの名前も国名・人名が付くことが多くあって、中には戦争後に変えられているものも少なくありません。ベオグラードではリュブリャーナ銀行の支店がスロヴェニア独立とともにスラヴィヤ銀行というセルビアの銀行になってしまいましたし、クロアチアの石油公社INAのガソリンスタンドは「ベオペトロール」に組織替え。同じくベオグラード市の中心部にあるカフェ・レストラン「ザグレブ」は「ロシアのツァーリ(皇帝)」という第二次大戦前の名前になっています。
(Za mene je jos uvek) ZAGREB u Beogradu
ベオグラードのカフェ・レストラン「ザグレブ」は「ルスキ・ツァール(ロシアの皇帝)」に変わった
   旧ユーゴ連邦が崩壊する前は数年しかベオグラードに滞在していない私でもマルクス広場はマルクス広場、喫茶店ザグレブはザグレブなんだから、まして何十年もその名前に慣れた人には大変です。例えば前回に書いたセルビア人共和国・パレのページャ(30代)にとってサライェヴォの中心街にある歩行者天国は「ヴァーサ・ミスキン通り」なので、今は「フェルハディヤ(オスマントルコ時代の領主の名前)」に戻った、と言うと「どうもトルコ=ボスニア臭がして嫌だな」ということになります。しかし彼のお母さん(60代)はセルビア人で、必ずしも今のサライェヴォのことを快くは思っていないのですが、ティトーとパルティザンの政権がミスキン通りに変える前のことを親から聞かされて馴染まされているので、彼女にとって親しんだ名前はフェルハディヤなわけです。またベオグラードの私の知人のお祖母さんも孫によく「ペータル王通りが・・・」と現在の(!)通りの名前を言うそうですが、20代の孫の方は別に共産党シンパではないけれど社会主義時代の「7月7日通り」でないとピンと来ない、という調子です。

ディナモか、クロアツィアか

   さて、特別なサッカーファンでなくても日本の元エースストライカー、カズこと三浦知良が昨年暮れクロアチアリーグの強豪チームNKクロアツィアに移籍したことはご存知だと思います。去る2月17日のデビュー戦ではPKの失敗もありましたが1アシスト、まずまずの働きぶりだったようですね。しかし彼の在籍するクラブの名前が実はちょっとした問題になっています。
   このチームはクロアチア学生スポーツクラブ(HASK)として1903年に創設され、のちグラジャンスキと合併し第二次大
まあ外野の話はどうでもいいから頑張ってくれ  Hvala g.Zlatku
カズが袖を通したNKクロアツィアのユニフォームはディナモ時代からの伝統の青だが(写真:NK Croatia)
戦前はハシュク=グラジャンスキの名で、戦後旧ユーゴ時代はディナモという名前で旧ユーゴサッカー界に君臨した古豪です。ディナモの名でユーゴを代表してヨーロッパのクラブカップ戦などの国際試合を戦っていましたから、今でもその名前が旧ユーゴ事情を知らない外国のファンの間では通っています。しかしクロアチアが独立、クロアチアサッカーリーグの発足(旧ユーゴ連邦リーグは連邦の解体とともに消滅)後トゥジュマン大統領自らが終身会長となるとハシュク=グラジャンスキの古名に戻し、2シーズン後にはクロアツィアという名前にして現在に至っています。
   日本人にとってJAPANが外国語であるのと同様、クロアチアでもCROATIAというのは外国語です(現地ではクロアツィアと発音するのが慣用ですので、これからも国名はクロアチア、サッカークラブ〔NK〕はクロアツィア、またはNKクロアツィアと表記します。なおクロアチア語では国のほうはフルヴァツカHRVATSKAといいます)。とは言えJリーグにジャパンという名前のチームが出来てしまったようなもので、いくら毎年優勝争いに加わる古豪、大統領をバックにした財政力でいい選手を集められる強豪とは言え他のチームにとっては奇妙でしかも尊大です(もっとも日本のプロ野球にも一つだけ母体の新聞社名を名乗らないことが半ば許されている尊大な古豪があったような気がしますが)。
   しかし収まらないのは他チームよりもむしろディナモのファンの方でした。本拠地ザグレブでは「ディナモ」ファングッズの方が「クロアツィア」ファングッズより圧倒的に多いようですし、応援歌や応援旗を見てもディナモ一色に近い状態です。荒くれで有名な応援団「バッドブルーボーイズ(BBB)」も、アンケートを取ったわけではありませんが大半は「ディナモ」の支持者のようです。
   インターネットで「NKクロアツィア公式サイト」を見てみると「45年、ハシュク=グラジャンスキの名は共産党政権によって他の共産圏のクラブ名にならいディナモ(他
* 参考リンク

◆   ティトーのホームページ
1980年に死んだティトー大統領がインターネットで甦った!スロヴェニア人の作る大真面目な(?)ユーモアサイトです(英語)。
◆   英国J・シュトラウス協会
クラシック好きの筆者からの推薦サイト。シュトラウス・ファミリーの膨大な作品が一覧になっていますから「イェラチッチ行進曲」の存在が信じられないという方はご確認下さい。
◆   NKクロアツィア公式サイト
カズファンの方は既にご存知。彼の登場で日本語でも一部読めるようになりました。
◆   ディナモのファンページ
主宰のロサンディッチ氏ほかファンの心意気が伝わるのですが、残念ながらクロアチア語。
◆   ディナモ・リメンバード
もう一つ「ディナモ」ファンのサイト(ゾラン氏主宰)。更新はないようですがユニークな文章(英語)でクラブ名への思い入れが伝わってくるページです。
◆   クロアチアに行こう!!
クロアチアとサッカーをこよなく愛する長束恭行さんのサイト。旅行記主体の本文だけでなくリンク集、掲示板も充実しています。
には旧ソ連のキエフ、ルーマニアのブカレストなどに比較的有名な同名のクラブがある)に突然変えられた」とあります。共産主義臭のあるものは、バツ。しかし「ディナモのファンページ」(P・ロサンディッチ氏主宰)というのもあって、こちらは「残念ながらチームの名は何度も変えられ、ヨーロッパの人々にはディナモ、ハシュク、そして私が口にしたくない今日の名で記憶されている。みなどれがどのクラブか分からないし、3つの別のクラブだと思っている人もいるだろうが、結局のところ『どうもよく分からない』で終わりだろう」と「クロ アツィア」の名前には非常に批判的です(両引用とも太字強調は大塚)。このサイトや「ディナモ・リメンバード」(ゾラン氏主宰)を読んでいると、決して「ディナモ」の名にこだわるファンが旧共産党のシンパや旧ユーゴ時代を懐かしんでいる人だけではないことが分かります。一方で私は社会主義リアリズムも遠い昔の話になった今さら「ディナモ(英語のdynamo=発電機」でもなかろうとは内心思うのですが、50年近く馴染んだ名前はたとえ「発電機」でも簡単には変えられないのが人の心というものかも知れません。

   政治(の権力を握るのは誰か)と歴史(を権力者がどう解釈するか)の交錯する場としての地名の話を始めたら、レーニンからカズまで来てしまいました。国分寺と立川の間に作る新しい町だから「国立」。小倉や門司などの伝統ある地名を消して「北九州」。日本に住んでいる頃はそういうネーミングはどうも底が浅い気がしていたものですが、必ずしも民主的ではないやり方で町の名前からサッカークラブの名前までが変えられてしまう現実をここ旧ユーゴで見ていると、日本的なのんびりした発想も悪くないな、と最近思えるようになってきました。(99年2月下旬)


  J・B=ティトーの写真2葉は"Tito's Home Page"から借用しました。同サイトのクリエーター、M・スレボトニャック氏からは「サイトはパブリック・ドメインであり、写真を含む大半のマテリアルは版権に留意する必要はない。従って『(旧)ユーゴ便り』での掲載に対して特別に許可を出すには及ばない」との見解を頂きました。氏の誠意ある回答に謝意を表します。   カズ(三浦知良)の写真はNKクロアツィアの公式サイトから借用しました。掲載を許可頂いたNKクロアツィア/RoSoft d.o.o.に謝意を表します。この写真の無断転載をお断りいたします。
  NKクロアツィア/ディナモに関しては「クロアチアに行こう!!」の長束恭行氏から貴重な情報を頂きました。同氏に謝意を表します。
  Zahvaljujem na suradnji: "Tito's Home Page", g.Y.Nagatsuka, NK Croatia/RoSoft d.o.o. Sva prava na sliku K."Kazu" Miure zadrzava NK Croatia. Svaka uporaba bez ovlastenja se zabranjuje.

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