「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
選んでください!
最終更新 21:21 98/10/03

第7回配信
コソヴォで対話は始まるか?


旧ユーゴ大地図にリンク    暑い夏を過ごした日本から帰ってきて(私の両親は川崎市にいますが、自分の「帰ってくる」家はベオグラードだと感じています)1ヶ月が経ちました。相変わらずどうもユーゴスラヴィアでは冴えないニュースばかりが聞こえてきますが、その焦点はやはりコソヴォ紛争です。
   前回まではクロアチアやボスニアのことを主に書いてきましたが、私自身が暮らしているユーゴスラヴィア(セルビア)のことは取り上げないのか、というご指摘を一部の方から頂きました。またコソヴォ紛争が国際的に注目されているにも関わらず、日本のマスコミの扱いがクロアチアやボスニア紛争に比べると今一つだと言うこともこの夏の日本滞在で分かりましたので、今回はこのコソヴォ問題のことを出来るだけ分かりやすく書くという難題に挑戦?しようと思います。戦闘が激化したこの夏以降、私も現地に入っているわけではありませんし、この配信の出稿ぎりぎりの時点では北大西洋条約機構(NATO)の対セルビア軍事介入があるかどうか、またセルビア政府とアルバニア人側代表の交渉が始まるかどうかの微妙な段階です。つまり必ずしも「まとめ記事」を書くにはいいタイミングではないかも知れませんが、現実に旧ユーゴで今紛争が現在進行形で続いている唯一の地域ですから。

最近の週ごとの動き(weekly.htm 別のウインドウが開きます)
コソヴォ詳細地図(detail.htm 別のウインドウが開きます)
民族主義と貧しさと
1980年以降のコソヴォ(緑色の囲み)
最近の動向
セルビア人の主張、アルバニア人の言い分(黄色の囲み)
コソヴォの人口は?(青緑色の囲み)
参考リンク(桃色の囲み)

日本での報道の扱いは小さいが・・・

   例えば本稿執筆中の9月19日のコソヴォ関連ニュースを、下の参考リンクに挙げるようなインターネットサイトで見てみます(大塚による要旨で正確な引用ではありません)。

   セルビア側のメディア(プリシュティナ・メディアセンター)  
   昨日午後ぺーチ(西部)近郊でのアルバニア人過激派襲撃により負傷したセルビア人警察官が移送先のベオグラードの病院で死亡。過激派は昨日15時ごろぺーチ近郊バラネ村で自動火器により警察を攻撃、警察側も反撃した。負傷したヤンコヴィッチ警察官(40、ぺーチ出身)はヘリコプターでベオグラードに移送されていた。  

   アルバニア人側のメディア(コソヴォ・インフォーメーションセンター)  
   ポドゥエヴォ(北部)近郊ドブラティン村にセルビア勢力が続けていた猛襲によりF・ベフラミ、M・レカリンの2人が死亡、多くの家が焼かれたり破壊された。少なくとも村人8人が行方不明で、自宅を焼かれた上記ベフラミの8人の息子の消息も不明。今週に入ってから続いているこの地方への攻撃で各村の被害は甚大。数千の村人がバイゴラ山岳地域に難民となって入っている模様・・・

   等々、等々。敵対サイドの死人のニュースは滅多にありません。自分たちが「向こう側の悪い奴にやられている」と大きな声で言うこと。それがバルカンの民族紛争で多くを得る鉄則なのです。

   民族主義と貧しさと   


   ユーゴに行こうと思っていた88年の秋には民族主義者のデモが激化してコソヴォでは戒厳状態となっていることが日本の報道でも伝えられていました。そのため知人から「ベオグラードに行く」と言ったら「危険じゃないのか」と言われました。そんなわけで実際にユーゴに来た最初の頃はコソヴォは避けて通っていたのですが、戒厳令も解除になり、89年6月末のコソヴォ600年記念祭が行われた後の夏、在留邦人の先輩に相談したら「今はもう大丈夫だろう、ユーゴは本当にいい国なのにコソヴォだけがアキレス腱だよな、一度見てくるといいよ」と勧められ、初めてプリシュティナへ向かいました。
1980年以降のコソヴォ

1980 民族主義的な傾向を常に抑えていたティトー死去、ユーゴは集団指導制に移行。
1981 コソヴォのアルバニア人による暴動。ティトーの死後ユーゴで最初の民族主義的運動。政府は非常事態を宣言。
1986ごろ ミロシェヴィッチ、セルビアでの権力を掌握。「コソヴォのセルビア人がアルバニア人に抑圧されている」を売り文句に大衆的人気を得る。スロヴェニア・クロアチアでミロシェヴィッチと大セルビア主義に反対する論調広がり、独立運動への契機となる。
1988-89 コソヴォで数次にわたりアルバニア人暴動、警察と衝突。
1989 セルビア、コソヴォの自治権を制限。74年の旧ユーゴ憲法で認められていた自治州の権限を事実上骨抜きに。コソヴォの戦い600年記念祭。ミロシェヴィッチの民族主義の絶頂期。アルバニア人の人口比が推定値で9割を越える。
1991 アルバニア人、国勢調査をボイコット。スロヴェニア、クロアチア紛争で旧ユーゴの解体が急速に進む中、アルバニア人は総選挙を実施、非暴力路線のルゴヴァが大統領に選出され議会はコソヴォの独立を一方的に宣言。
 以後数回行われたユーゴ、セルビアでの選挙には親セルビア系を除きアルバニア人は参加せず、人口比では圧倒的な差があるにも関わらず地方自治を含む行政・司法などはセルビア人だけ、教育はセルビア人が公の学校で、アルバニア人は民家などの「寺子屋」で、というような二重権力状態が続く。
1996 コソヴォを中心に数件の爆弾テロが起こり、「コソヴォ解放軍」が犯行を声明するが実態はほとんど不明のまま推移。公教育の平常化に向けて両権力が合意するが実現せず。
1997 アルバニア本国で反政府運動が内乱状態に発展、武器バランスが流動化、解放軍がアルバニア北部に訓練センターを設けるなど力を蓄え始めたと見られる。
1998 2月末セルビア警察はコソヴォ解放軍テロリストの掃討作戦を実施、民間人の被害が大きかったことから反セルビアの大きな動きの契機となる。夏以降ユーゴ軍も出動し一時は本格的な戦闘状態に。

   プリシュティナではセルビア人の家に民泊しました。その家の人は近所付き合いや市場での買い物では普通にアルバニア人と(ほとんどセルビア語ではありますが)話すのですが、いざ家に帰ってくると中世セルビア王国の歴史から始まってミロシェヴィッチ・セルビア共産主義者同盟中央委員会委員長(当時の肩書き)の礼賛まで、ガチガチの民族主義者ぶりを示すのです。数は少なくてもセルビア人の方が支配民族なんだ、数は多くてもアルバニア人の方が少数民族なんだ。ベオグラードも当時はセルビア民族主義が「沸騰」していた頃ですが、ここのセルビア人は筋金入り、という印象を受けました。
   プリシュティナはゴミが路上にやたら散らかっていてあまり清潔ではないな、と思う程度だったのですが、ミトロヴィッツァでは馬車が多くて道の真ん中に馬糞が散らかりっ放しだし、ぺーチの市場にいたってはロバが集結していて、いくらユーゴの最貧地域とは言え州第2・3の都市でこれはないだろう、と思ったのを覚えています。
   民族主義と貧しさ。その後仕事で何回かコソヴォを見ています(セルビア民族主義だけではなくアルバニア民族主義にも触れる機会がありました)が、最後に訪れた今年の春も、この9年前の最初の旅で受けた強烈な印象がそのまま、と言うよりさらに悪くなっているのを感じました。
   3月末のテレビ取材ではセルビア人村とアルバニア人村の両方を訪れました。自宅に夜銃弾を撃ちこまれた、というセルビア人はコソヴォ解放軍の夜襲に対する恐怖、そしてアルバニア人全体に対する不信感を隠しませんでしたし、セルビア警察の「テロリスト掃討作戦」に遭った村のアルバニア人たちはセルビア当局の「悪虐非道」ぶりを日本のテレビにぶつけていました(私はアルバニア語はほとんど分かりませんので、もちろん取材班には別の通訳が必要でしたが)。攻撃された家はボロボロに壊され、辺りには数あまたの薬きょうが落ちていました。これではクロアチアやボスニアの戦争と変わらないではないか、テロリスト狩りと言うにはちょっとやり過ぎではないか、というのがその時受けた印象です。
   またセルビア人村では、セルビア人村とアルバニア人村が住み分けられていて、お互いの対話が全然ないということが分かりました、「向こうサイド」の村の近くで追いはぎにやられたり、住宅に銃弾や手榴弾が投げ込まれたりというような、戦争状態から比べれば小規模な事件や事故から、デマやメディアのプロパガンダ(宣伝)も手伝って相互不信が増大されていく。この構図はクロアチアやボスニアの民族混住地域(そういう地域が残念ながら激戦地になりました)が戦争に向かって行ったプロセスと全く同じでした。政治的なレベルでは二重権力(アルバニア人はセルビア権力を認めず、セルビア人はアルバニア人勢力の「政府」を認めない)が現出しているのも同じです。

   今までは何とかなって来たが、この後戦争になる。

   そんな予感はありました。まさかインタビューした住民に向かって「あんたの村は戦場になる」とは言えませんでしたが。初夏以降の紛争は、まさに宣戦布告なき戦争状態です。

   91年のスロヴェニアから始まって旧ユーゴが四分五裂になる中、上に書いた先輩が「ユーゴ唯一のアキレス腱」と言ったコソヴォが今まで戦争にならずに推移したのは皮肉と言えば皮肉です。これはコソヴォのアルバニア人の後ろ盾となるべきアルバニア本国で民主化政変など混乱が続いてきたことが大きな要因として挙げられると思います。また旧ユーゴの解体以降セルビア当局がコソヴォ近辺に強力な軍事・警察勢力を集結させて武器が流入しないよう目を光らせていたこと、アルバニア人側では指導者ルゴヴァの非暴力路線が主流となっていたこと、などもあるでしょう。
   しかし昨年のアルバニア内乱を契機に情勢は流動化しました。ここまで局地的な爆弾テロしか出来なかったはずのコソヴォ解放軍が、夏以降抵抗を続けて来られたのは、国境を越えて大量に武器が流入し、武装を進めることができたためと見られています。またこの春セルビア警察が行った解放軍掃討作戦が逆に反セルビア感情に火を付け、コソヴォ全体から解放軍兵士が集まったとも言われています。ジャーナリストのはしくれとしては、この夏以降のコソヴォで何が起こったのかをきちんと見てからこのページに書くべきだったかもしれません。しかし個人的にはクロアチアやボスニアで見(飽き)た、砲弾や銃弾でボロボロの家並みをもう見たくない、もういい加減にしてほしいというのが正直なところです。

   最近の動向   


   一時は州の3分の2を実勢支配下に置いていると言われていたコソヴォ解放軍が、セルビア警察と軍の攻勢に夏以降は連戦連敗、現在は局地戦しか出来ない状況になっています。
解放軍が政治的リーダーに担ぎ上げたルゴヴァ「大統領」の政敵A・デマチも最近隠退を宣言し、どうやら解放軍を無視する形で政治的な問題解決へ向けて動き出しそうな気運が出てきました。
   
Ibrahim Rugova
アルバニア人の指導者ルゴヴァ「大統領」(BBC/AP)
@アルバニア人側:親セルビア派から過激右翼まで、コソヴォのアルバニア人も一枚岩ではありませんでしたが、解放軍の劣勢に伴い穏健・非暴力路線のルゴヴァ「大統領」が強硬派・武闘路線を政治的には排除しつつあります。自治権拡大、コソヴォ独立、アルバニアとの併合という3レベルの要求がありますが、アルバニア本国が貧困の中で混乱し、旧ユーゴ最貧地域のコソヴォがアルバニア全体を養わなければならないような現状での本国との合併は、コソヴォのアルバニア人にとっても現実的なシナリオではありません。ルゴヴァ「大統領」は「独立」を目標としていますが、国際社会の圧力により暫定的に自治権の拡大という線で交渉を進める可能性が高いとみられます。
   
Slobodan Milosevic
ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領(BBC/AP)
Aセルビア人側:96年末の反体制デモが結果的には失敗し野党が力を失う中、重要決定が出来るのはミロシェヴィッチ・ユーゴ大統領一人であるのは明らかです。コソヴォでセルビア民族主義を煽って権力の座についた彼にとってコソヴォは譲れない砦であることは間違いないのですが、旧ユーゴ紛争を通して国際社会の圧力がかかると昨日までの主張と180度違う決定を繰り返してきた「前科」があるだけに、今回も何らかの「落としどころ」を見出すのではないかという予測は可能です。右派系の論調を見てみると、コソヴォはあくまでセルビアの一部、独立や本国との合併は絶対阻止すべしという従来の主張は変わりませんが、現状よりは広い自治権をアルバニア人に対して与えるのは止むを得ないという議論も出ており、わずかながら変化がみられます。

   B国際社会:従来からコソヴォ問題に関して欧州諸国は「セルビアの内政問題」というのが基本態度を取って来ました。これ以上ヨーロッパでの国境線の変更は経験したくないというのも本音でしょう。そのためかセルビア=ミロシェヴィッチのバッシング一本槍だったクロアチア・ボスニアの紛争時に比べ、NATOによる軍事介入を主張していたドイツを例外として、政治的介入にやや及び腰な印象でした。スラヴ世界の盟主を自認するロシアは今回も西側のセルビアバッシングに対して「止め役」に回っていますが、影響力には疑問符が付きます。
ljubaznoscu gospodina Corax-a
あれ、小船をつなぎとめておこうと思ってるんだけど・・・(コラックス画)
   そんな中でまたしても問題解決の主役はアメリカです。さる21日に始まった国連総会でクリントン大統領は「コソヴォはユーゴ内部での自治協定によって解決するべきだ」と力説しましたが、既に在マケドニアC・ヒル米大使がコソヴォ問題の特使に任命され活発な実際今後現地での外交活動を続けています。彼が9月上旬両サイドに提案した暫定自治案が今後の政治交渉のたたき台となると見られます。

   ヒル案はまだ公式には明らかにされていませんが、ベオグラードの報道や先日アルバニア人側が発表した独自案(ヒル案を前提として修正していると見られる)を総合すると、交渉の出発点はおよそ次のようなものになりそうです。
     ユーゴ軍とセルビア警察特殊部隊の撤退、停戦、政治犯の釈放を交渉開始の前提とする
     協定締結後3年間を移行期間とし、この間はユーゴ内の他の共和国(セルビア、モンテネグロ)と同じ権限を持つものとし、行政、立法、司法と警察など治安はアルバニア人の、通貨、関税、防衛、外交はユーゴ側の管轄とする。ユーゴ連邦議会にコソヴォ側代表者ワクを10程度設ける。
     協定締結後3ヶ月以内にアルバニア人側は選挙を行う。3年の移行期間終了後住民投票によって将来のステータスを決定する。

   強硬なアルバニア人勢力制圧を続けるミロシェヴィッチ=セルビア当局に対し、NATOは軍事介入をちらつかせて来ましたが、この配信の出稿段階では停戦と交渉開始不履行に対して制裁的介入の準備を進めるところまで来ました。ベオグラードの大衆紙「ブリッツ」によれば空爆対象となるのはセルビア南部やコソヴォのユーゴ軍重火器だけでなく、ベオグラードの軍事施設も含まれているらしいとのことです。既にパニックになっている私の知人もいますが、現在のところ私はこのNATOの決定はセルビアサイドに交渉を始めさせるための圧力と読むべきではないかと思っています。

セルビア人の主張、アルバニア人の言い分

ljubaznoscu manastira na Visokim Decanima
セルビアの文化遺産、デチャニ修道院(ラシュカ=プリズレン主教区提供)

   いったん民族主義に火がついてしまうとなかなか収まりがつかない、ということを旧ユーゴの至る所で見てきましたが、改めてコソヴォは大変だと思います。セルビア人は「中世セルビア王国(12−14世紀)の中心はコソヴォでアルバニア人はコソヴォの戦い(1339年)で王国が滅んだ後から来たのだから、ここはオレたちの土地だ」。アルバニア人は「オレたちは古代イリリア人の末裔で、14世紀に突然やってきたんじゃない。ここはオレたちの土地だ」。もうこうなると民族共存もへったくれもない中傷合戦が続くことになってしまいます。
   確かに中世のセルビア王国の中心はコソヴォで(北の辺境ベオグラードがセルビア最大の都市になるのは遥か後の時代のことです)、修道院や遺跡が数多く残っていますから、日本人にとっての京都や奈良のようなものです。しかしアルバニア人だって(上のイリリア人云々の真偽はともかくとして)600年はいるわけですから、「セルビア人が先に住んでいたんだから出て行け」と言われても困ってしまうわけです。私自身はセルビア民族主義もアルバニア民族主義も好きではありませんし、「どっちが先にいたか」という議論自体が不毛だと思うのですが、大多数はそうは思っていないというのが実情です。旧ユーゴ紛争では政治レベルでも報道の世界でもセルビア叩きの論調が一般的ですし、軍事的に劣勢なアルバニア人側に対する判官びいきもしたくなるときはあります。しかし、歴史や数字を引っ張り出して自分の側に都合のいい主張を展開している点ではお互い様というところです。

   ユーゴ情報省のパンフレット(1998)から
   =セルビア人は6世紀からコソヴォを自分の土地としている。200以上の重要な文化遺産があり、セルビア人の民族文化的アイデンティティーはコソヴォにある。
コソヴォの人口は?

   コソヴォの面積は10887平方キロ。その中の人口は約200万、アルバニア人が約90%。概数はそれで構わないと思うのですが、もう少し正確な数字は?と言われると判らないのが実情です。旧ユーゴの国勢調査は10年に1回行われていましたが、コソヴォでは最後の91年にアルバニア人が組織的にボイコットしたため、信用できる最後の統計は17年も前の1981年の国勢調査ということになります。この時は
     総人口  158万4000
  アルバニア人  122万7000(77.4%)
   セルビア人  20万9000(13.2%)
   となっていました。一般にセルビア人よりもアルバニア人の産児数、つまり人口増加率が高いことは両サイドとも認めていますが、一方で両民族とも81年以降経済的、政治的理由からコソヴォを離れた人々が多くいることが考えられます。アルバニア人側の識者は1993年時点で総人口210万、うちアルバニア人184.5万(88%)、セルビア人14万(7%)という推計値を挙げていますが、信用度は??です。自分たちが、あるいは相手が「向こうで言われているよりも多い(少ない)」という議論がどのように使われているかは左の両パンフレットに書いてある通りです。人口さえもがその時の政治的文脈で「操作」されてしまうのも民族主義の恐ろしいところです。

   =近代に入ってもセルビア人はコソヴォを半強制的な理由で離れなければならないことが多く、セルビア人の人口は減少傾向にある。アルバニア人側はコソヴォで長期的な民族浄化を図っており、最終的な目標はアルバニア本国との合併による大アルバニア建設だ。
   =アルバニア人は国勢調査をボイコットしたため現在の人口比は分からない。しかし彼らが言うほどの数のアルバニア人はいないはずだ。
   =セルビア・ユーゴ憲法はアルバニア語による教育、言論など少数民族に許される高い水準の自治を保障しているが、これに満足していないのはアルバニア人側だ。徴兵・納税などを拒否しているのに、医療保険、旅券取得、就労などの権利は享受している。
   =セルビア政府はテロリスト(=コソヴォ解放軍)に対しては断固対決するが、政治的対話の用意はある。対話に今まで応じてこなかったのは我々ではない。

   アルバニア人与党コソヴォ民主同盟のパンフレット(1993)から
foto sa sajta Republickog zavoda za zastitu spomenika kulture Srbije, http://www.heritage.org.yu/prizren.htm
プリズレンのシナン=パシャモスク。イスラム教徒の多いアルバニア人の誇る歴史遺産だ(セルビア共和国文化史跡保護研究所提供)

   =アルバニア人の先祖は紀元前にバルカン南東部に住んでいたイリリア人である。本来の民族国境はアルバニア本国のみならずコソヴォのほぼ全域、マケドニア西部、ギリシャ北西部を含むものだ。近代に入って大セルビア主義によるアルバニア人の無視・抑圧が続いている。
   =世界的にも高い人口増加率を記録しているのは事実だが、セルビア当局はこれをアルバニア民族に対する憎悪の宣伝に使っている。一方ではこれと矛盾するが統計を操作してアルバニア人の数を不当に少なく見積もっている。要職や高給が得られる職に就いているのは少数のセルビア人で、コソヴォから追い出されているのはアルバニア人の方だ。
   =1974年コソヴォ自治州に与えられた自治権は一定の評価が出来るものだが、その後の自治州当局に居座った共産主義者はコソヴォの経済的発展や独立に向けての努力を怠ってきた。現在コソヴォのアルバニア人は民族自決権、基本的な生活生存権、民族文化を享受する権利、天然資源など経済的な権利を剥奪されている。1991年住民投票によって「コソヴォ独立」は住民の意思として表現された。旧ユーゴは解体したのだから、その8つの構成体の1つだったコソヴォは旧来の州境線か民族国境で独立を認められてしかるべきである。

   (両パンフレットの要旨まとめは大塚。文字通りの引用ではありません)

     今後はNATOによる空爆や陸上介入を経るにしても回避されるにしても、武力紛争から政治交渉へニュースの焦点が移ってくると思われますが、いくつかのシナリオが考えられます。やはりコソヴォ解放軍の動向がカギになりそうです。
   1 コソヴォ解放軍の動きを無視する形で政治交渉が始められる。国際社会の圧力の中で、ミロシェヴィッチ=セルビア政権がどこまで譲歩するかが焦点となる。
   2 コソヴォ解放軍が抵抗を続け局地的な紛争が続く。停戦の不履行を理由にアルバニア人側が交渉開始を拒否し現状維持。
   3 コソヴォ解放軍がしばらく経って再び力をつけ戦闘が激化する。現在の政治的対話の気運がなくなり混乱が続く。  

   今回は背景と現状の説明で長くなってしまいました。読者の皆さんに分かりやすいように書けたでしょうか?またセルビア寄りにもアルバニア寄りにもならない中立の立場で出来るだけ書いたつもりですが、皆さんの評価はいかがでしょうか。難民問題やベオグラードのセルビア人の声はまた改めて書く機会があればと思っています。もちろん大きな動きがあった場合も同様です。(98年9月下旬) 

   ところで上に出ている漫画のミロシェヴィッチとルゴヴァ、写真のホンモノとよく似ていると思いませんか?日刊紙「ナーシャ・ボルバ」 週刊誌「ヴレーメ」などセルビアの野党系メディアに鋭くもユーモラスな作品を発表している、ユーゴ随一の政治風刺漫画家コラックスことプレドラグ・コラクシッチ氏が他のメディアに発表した作品の「(旧)ユーゴ便り」への転載を快諾して、平和問題ゼミを応援してくれています。氏の作品に興味のある方は上記の他このサイトを見てみて下さい。転載ご希望の方は英語かセルビア語で本人にメールをお願いします。
* 参考リンク


   国際的に注目を集めている問題だけに、大きな動きがあった際は西側有名メディアでコソヴォ関連のニュースを読むことができます。ここではコソヴォ発のサイトで英語で読めるものを中心に挙げてみます。

  • コソヴォ・インフォーメーションセンター
    アルバニア人側のニュース(毎日更新)。ルゴヴァの与党コソヴォ民主同盟に近い立場。
  • 日刊紙コーハ
    コソヴォのアルバニア語メディアを代表する新聞。上記よりは穏健な政治的立場だがセルビア当局の武力介入には鋭い批判。
  • マリオ・プロファッツァ氏
    クロアチア人のフリージャーナリストだがコソヴォ問題に関して個人ではおそらく最も充実したサイト。凝ったページの作り方には脱帽。
  • コソヴォ・メディアセンター
    セルビア当局に近い立場。毎日更新。
  • ラシュカ=プリズレン主教区
    この主教区内のデチャニ修道院はコソヴォの数あるセルビア正教修道院の中でも文化的価値の高いものの一つ。修道士の生活など写真も充実。

  •   図版の掲載を許可いただきました各団体・個人に謝意を表します。無断転載をかたくお断りします。
    I would like to thank all institutions and persons for letting me use their pictures. Every misuse of the pictures published is forbidden./ Zahvaljujem svim institucijama i pojedincima za dozvolu za koriscenje slika. Svaka zloupotreba se zabranjuje.
      ラシュカ=プリズレン主教区 Rasko-prizrenska eparhija(デチャニ修道院 manastir Visoki Decani)   
    セルビア共和国文化史跡保護研究所 Republicki zavod za zastitu spomenika kulture Srbije(シナン=パシャモスクSinan-Pasina dzamija)   プレドラグ・コラクシッチ=コラックス氏 g.Predrag Koraksic Corax(カリカチュアkarikatura)   デイヴィッド・ブラウクリ氏/AP通信/ディジタル・ジャーナリスト Mr.David Brauchli/Associated Press/ The Digital Journalist(photo in "weekly.htm")   テキサス大学 University of Texas(map in "detail.htm")


    英BBCのサイトから借用したルゴヴァ、ミロシェヴィッチの写真2葉の版権はAP通信に属します。私はこのページへの転載許可を数回にわたり求めましたが、現在までに回答を得ることが出来ませんでしたので、大塚個人の責任で正式な許可なく掲載することにいたします。

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