ミロシェビッチ政権崩壊についての感想 (2000/10/08記)
彼がセルビア共和国の最高実力者になったのが13年前。当時、ベオグラードに住んでいて、それを間近に目撃し、その後も、ボスニアやコソボなどの戦争を追いかけてきたものとして、一言ではいえない感慨がある。87年に彼が権力の座についたのは、何万人もの大衆集会で旧幹部をつるし上げ、辞任に追い込むというやり方だったが、それと同じようなやり方で、逆に大統領の座から追放されるとは歴史の皮肉だ。
*コシュトゥニツァはどんな人物
野党の中では第三か第四の小政党の党首で、これまであまり脚光が当たらなかった。有力な野党指導者が「内輪もめ」などでイメージダウンする中、消去法で統一候補に祭り上げられた。ほかの野党指導者と対照的に、権力の座につきたいという野心よりは、「筋を通す」ことを優先する傾向があり、これまで小政党の党首に甘んじてきた。当選が事実上決まった後でのインタビューでも、本人みずから、自分の大統領の任期は短期間だと語っている。
元もとはベオグラード大学の法学部教授で、セルビア民族主義的傾向を理由に首になった。憲法学者の立場から民主主義についての理解はあるが、むしろ、民族主義者として考えた方がいい。今回も、NATOの空爆はもちろん、ミロシェビッチが署名したボスニア和平協定などにも批判的で、とくにアメリカに対する反発は強い。とりわけ、この間の旧ユーゴ紛争中の戦争犯罪を裁くために国連が設置した国際法廷(オランダ・ハーグ)はアメリカ主導の片寄った機関であるから、ミロシェビッチを含め、起訴・国際手配されているセルビア人の容疑者を引き渡すことは拒否すると強調している。
一方で、国際的な経済制裁解除には大きく期待しており、国際的な孤立を解消する政策など、民族主義とは矛盾する二面性がある。むしろ、西側にとっては、自分の権力を維持できることを条件にかなりの妥協・譲歩を重ねてきたミロシェビッチよりも、扱いにくい面があるかも知れない。
*大統領選挙から政権崩壊までの経緯
まず、ミロシェビッチ自身が、国民の不満の大きさを過小評価していたことがある。コソボをめぐるNATO空爆でかえって人気が高まったと判断したミロシェビッチは、早い方が有利だと、来年夏の任期満了を待たずに、10カ月繰り上げて大統領選挙を実施することを決めた。しかも、憲法では再選を禁じているのに、2期まで可能とするように、強引に改憲し、沖縄サミットなど国際的な非難も気にせず、勝利を確信していた。
ところが、コシュトゥニツァが候補になると、急速に支持が広がり、事前の世論調査でも50%対30%程度でミロシェビッチが不利との結果が出ていた。そこで、ミロシェビッチは得票操作をおこなうことになるのだが、おそらくあまりにコシュトゥニツァ票が大きく、9月24日に実施された第一回目の投票でミロシェビッチ勝利を宣言できず、決選投票を実施することにした。
これに対し、野党連合は第一回投票でコシュトゥニツァの勝ちだとして、決選投票を拒否し、10月2日からはゼネストに踏み切った。2日から連日、野党側は集会を開いていたが、ついに5日の全国集会で、国会突入や国営テレビ局占拠などの実力行使にいたり、一挙に政権が崩壊した。
ミロシェビッチ側は、こうした世論の盛り上がりを前に、10月8日の決選投票強行を断念し、第一回投票の無効と大統領選挙のやり直しを宣言(憲法裁判所裁定)したが、かえってこれが「ミロシェビッチのパワーが弱まっている」という印象を強め、野党側の追い風になった。
このような盛り上がりにいたる前に、野党側の集会やストを武力弾圧するという手段で政権維持をはかる手段も可能だったと思うが、もしそういう強硬手段を実際に取れば、セルビアとともにユーゴ連邦を構成しているモンテネグロが連邦離脱・独立の方向を強めるのが必至で、そうなれば連邦そのものが崩壊し、連邦大統領のポストも意味がなくなってしまう。このため、ミロシェビッチ側の武力発動は催涙ガス程度で終わり、実弾発射は命令されなかった。野党支持者が2人死亡しているが、1人は女子学生が野党のブルドーザーにひかれて死んだもの、もう1人は心臓発作で死亡と、治安部隊側の弾圧によるものではない。
当初からミロシェビッチは、軍をあまり信用しておらず、警察に治安維持をまかせた。警察は8万とも9万人ともいわれ、日本の人口に当てはめると100万人に相当する以上に肥大したものだった。したがって、軍の「中立」宣言はあまり驚かなかったが、警察治安部隊の中から大量の離反者が出るという事態は、そこまで国民がミロシェビッチを見放したことの反映なのだろうと感じた。
*ミロシェビッチの今後
ミロシェビッチは野党の大集会の後、約2日間、所在不明とされ、みずからも沈黙を守っていた。ロシアのイワノフ外相の「助け船」に乗る形でテレビ演説による退陣表明をおこなえたことで、ひとまずルーマニアのチャウシェスクのような末路は回避された。この演説の中で、少し休んで、孫と遊んで、それから旧与党(社会党)の党首として、野党政治家としての活動を続けることを表明したが、情勢を見るとそう簡単ではない。
コシュトゥニツァ新大統領は野党としてのミロシェビッチを認める方向にようだが、もっと広範な国民世論がミロシェビッチの政治活動を容認するかどうか、単にこれまでのボスニアやコソボなどをめぐる政策上のの問題だけではなく、噂される不正蓄財の問題などもある。社会党本部や国会登院などの際にテロ襲撃などが起こるようだと、政治生命どころか肉体的な生命の危険もある。アメリカなど西側政府も、政治活動の継続は認められないと強く反発している。
亡命などが噂されるが、戦争犯罪容疑で国際手配されるミロシェビッチが国外に出れば、即時逮捕され、ハーグに引き渡されることになっている。ちまたでは、ロシアやベラルーシ、中国などが亡命候補にあげられているが、いずれも現実的とは思えない。コシュトゥニツァが国際法廷への引き渡しを拒否している以上、軟禁の形か、あるいは監獄か、テロの危険はあっても、とにかく国内にいる方が「安全」かも知れない。
しかし、今回の同時選挙で連邦議会では旧与党が多数派を占めたため、ミロシェビッチ派が結束して連邦政府首相などのポストを得るようだと、ミロシェビッチの復権の余地はある。
*新政権の課題
経済的には去年のNATO空爆でめちゃめちゃになり、欧州最貧困国のアルバニア並みの水準まで落ち込んだ経済の復興が第一。ミロシェビッチ退陣で経済制裁が解除されることで、ある期間は国際的な援助を当てにできるだろう。しかし、社会インフラがかなり破壊され、しかも、元もとの社会主義的なシステムから市場経済的なシステムへの移行が必要で、これにはかなりの時間がかかる。
短期間でかなりの前進がないと、独立を準備しているモンテネグロ共和国の分離を阻止できない。経済的なメリットと、文句の付け用のない民主主義的な制度改革などの実績を明らかにしていかないと、コシュトゥニツァの任期中にユーゴ連邦そのものがなくなりかねない。
そこで、国際関係の修復が一層重要になるが、前にも述べたとおり、コシュトゥニツァは西側にとって、一筋縄では行かない人物だ。コシュトゥニツァはアメリカには批判的な反面、とりわけフランスなどの西ヨーロッパには親近感を抱いているようにも煮える。いずれにしろ、外交政策も経済も、コシュトゥニツァじしんには実績も技量もなく、どれだけ優れたブレーンを集められるかがカギだ。
最大の問題になるのは、モンテネグロの独立問題とともに、空爆のきっかけになったコソボ問題だ。
コソボのアルバニア人たちは、ミロシェビッチ政権下ではやっていけないから独立するしかないと主張してきたが、コシュトゥニツァ政権の発足で、逆に独立が難しくなる。それとともに、コシュトゥニツァがミロシェビッチ以上の民族主義ではないかとの懸念がアルバニア人指導部の中に生まれている。コシュトゥニツァの側では、アルバニアの参加だけで選挙を実施しようとしている国連の現在のやり方に批判的で、もし、コソボに長く住んできたセルビア人難民がコソボに戻れなければ、NATOや国連との関係そのものを見直す、という態度だ。可能性は高くないが、場合によっては、コソボのNATO軍と新しいユーゴ治安部隊が小ぜりあいを起こすことにもなりかねない。
したがって、ミロシェビッチは去ったとしても、かなりの難題を「置きみやげ」として、後任のコシュトゥニツァとユーゴ国民に残して行くことになる。ミロシェビッチ時代13年間のマイナスを取り戻すためには、まだ長い道のりが先に横たわっている。