フライトの思い出

2.サーマルソアリング



 傍らに設置されている吹き流しを見る。風は正面から吹き付けてくる。風速は吹き流しのはためき具合から察するに3〜4m/sといった所だろうか。視線を青空の広がる上空に向ける。所々にある積雲にも怪しい様子は見られない。既に空を飛んでいる他のパイロットの機体が近くに見えていたのでしばし観察したが、風の荒れている場所もないようだ。
 風の強さは一定ではなく、時々暖かい風が吹き上げてくることがある。その時を待つ。
 深呼吸を1回、2回。風に当たる風の感触が少し強くなったような気がする。横を見ると吹き流しがきれいに後ろになびいている。

 「行きます!」
声を出し、両手に持ったライザーに力を感じながら足を踏み出す。グッと後ろに引っ張られる感覚がすると同時に後方で翼が風を孕み、完全に広がった音がする。今、ただの布でしかなかったパラグライダーが翼となり、風の中を「滑空」し始めようとしている。手に伝わる感触から、翼は傾くことなく正常に立ち上がってきているのがわかる。
 上を見ると、すでにきれいに翼の形となったパラグライダーの機体が広がっている。それを確認した後、その翼の動きに合わせてゆっくりと下り斜面を走り出す。すると力強く上に持ち上げられる感覚があり、私の足は地面を離れていった。


 足と地面の距離は見る見るうちに離れてゆき、下には森に覆われた山の斜面が広がる。すぐに周囲に目をやる。視界は良好、体を包むのは柔らかな風と、無数のラインから発生する風切り音だけの世界。
太陽をバックに  頭上にある翼は風を受け、私を空へと持ち上げてくれている。とりあえず左に向きを変え、山の斜面に沿って飛ぶことにする。今のところ大きな高度の変化はなく、テイクオフ地点とほぼ同じ高さを保っているようだ。

 もし空気の動きがなかったとすれば、パラグライダーは1秒あたり1mほどの割合で滑空しながら降下してゆき、4〜5分後にランディングに着陸するだけである。しかし実際は上昇・下降気流がある。
 上昇気流に乗ることができれば空高く上昇し、かつ長時間フライトし続けることができる。逆に下降気流に捕まると、あっという間に高度を失ってしまう。パラグライダー乗りとしては、やっぱり高く・長く飛びたいもの。そこでこの上昇気流を探しながらのフライトになるわけだ。

 私もその例に漏れず、上昇気流を探しながら右往左往する。時々小さい気流に当たったのか、持ち上げられる感覚があるが、それも弱く、長続きしない。次第に高度が下がってゆく。ああ、このままランディングに向かって降りてゆくだけなのかと、ちょっと弱気になる。

 その時、それまでとは違った力強い感覚で、上に持ち上げられる。サーマルだ!
 正確には翼が上昇気流で持ち上げられることによりその力がラインを通してハーネスに伝わるわけだが、実際には尻の下から蹴り上げられるような感触だ。ぐいぐいと吊り上げられるのと同時に、バリオが上昇していることを示す電子音を鳴らし始める。

 「ピッ ピッ ピッ...
 表示を見ると、1秒に3〜4m程の割合で上昇している。悪くない!
 すかさずより上昇率の高いと思われる方向へ向かって旋回を開始するために、ブレークコードと呼ばれる操縦用のラインを引き下ろしつつ、体を旋回方向内側に傾け体重を乗せる。すぐに翼にバンク角がつき、旋回が始まる。
 サーマルは地上付近の空気が暖められ、やがてその空気が見えない塊となって昇ってゆく上昇気流であり、当然その大きさには限りがある。空中で停止することのできないパラグライダーは従って、上昇帯から出ないようにその場で360°旋回を続ける必要がある。
 体に伝わる感触、そしてバリオからの電子音という情報を総動員しながら、その上昇帯から出てしまわないように少しでも上昇率の良い場所へと向かって旋回半径を調整しながら回り続ける。
 やがてバリオの電子音は力強さを増してきた。

 「ビィッ ビィッ ビィッ...
 見ると上昇率は毎秒5mを越えようとしている。これはいい風に乗れた!

 まるでガラス張りのエレベーターに乗っているかのように、周りの景色が少しづつ視線の下へと移動してゆく。すでにテイクオフを見下ろせる程の高さになっている。上昇は弱まる気配もなく、ぐんぐん私を運ぶ。

 「もっと上がれ! もっと高く!」
気持ちが昂ぶる。周囲に他の機体は見えないので、自分の機体の操作に集中できる。ずっと同じ方向に旋回しているので、ブレークコードを引き込み続けている腕が疲れてくる。が、こんないいサーマルを逃すなんてもったいない。

 しかし、何とも言えない不思議な感覚だ。足の下には何も無いから、何かに支えられているわけではない。言ってみればただの布で出来ている翼に、体ひとつでぶら下がっているだけである。それなのに私の体は空高く持ち上げられ続けている。耳に入るのは風切り音、そしてバリオが奏でる電子音。

 ふと上を見上げると、翼へと向かって伸びるラインの間に何か細く光る糸状のものが見える。あれは蜘蛛の糸か? そういえば蜘蛛たちはその糸を長く出し、風に乗って移動するという話を聞いたことがある。地面から数百メートル上のこんな上空で蜘蛛の糸が引っ掛かっているということは、蜘蛛もこの上昇気流に乗ってここまで昇ってきたということなのか。太陽の光を反射しキラキラ光るその糸を見ながら、そんなことを考えた。

上空からの眺め  気付くと、空の色が濃くなっているような気がする。地上で見るよりも、深い青色をしている。
 そして地上の景色も違う。既にテイクオフ地点は確認できないほどの高空で、多少オーバーな物言いをすれば、旅客機の窓から下を見たような景観が広がる。ああ、山を真上から見るとこんな風に見えるのか...

 見ると少し離れた場所で、一機のパラグライダーが旋回しながら上昇してくる。どうやら私のとは違うサーマルに乗ってやって来ているようだ。こちらも負けじと旋回を続ける。お互いに違う場所にある螺旋階段を昇っているかのようだった。




ページ最終更新:1998/12


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