The short history of |
"Jesus Christ Church in Japan" |
(日本イエス・キリスト教団小史) |
V「日本イエス・キリスト教会結成から、日本基督教団への合同」(1930年〜1945年頃)
Uで見てきたように、JEB前進運動の中で生まれてきた神戸周辺の教会は、自給化を実現し、日本伝道隊の手を離れ、1931(昭和6)年、堀内文一師が主宰となって「日本聖書教会」という群れを形成しました。そして、竹田俊造師が牧会し、神戸・布引にあった神戸復興教会を中心とした数教会は、「復興教会」と言いました。
一方、1925〜30年にかけての香登修養会が契機となって、岡山県南部に天幕伝道が展開されて生まれた12教会は、佐藤邦之助師を主幹として、1930(昭和5)年に「日本イエス・キリスト召団」を結成しました。
1935(昭和10)年には、日本聖書教会、日本イエス・キリスト召団が合流し、「日本イエス・キリスト教会」が、32教会、信徒1178名で創立され、理事長には佐藤邦之助師が就任しました。そして宣教の働きは、日中戦争中で太平洋戦争勃発前の1939(昭和14)年には、教会数42にまで進められていったのでありました。
しかし、戦局が刻々と深刻な状態へと傾いていくなかで、キリスト教は「敵性宗教」と目され、治安維持法等による政府の思想統制政策、国家神道の強化により、自由な伝道・教会活動ができにくくなっていったのでした。
そして、宗教団体法の施行により、政府は諸教派の合同を迫り、日本伝道隊系の諸派(日本イエス・キリスト教会、基督伝道隊、日本協同教会、基督伝道教会、復興基督教会)は、1940(昭和15)年に「日本伝道基督教団」として大合同を行い、75教会、信徒1万5千人が結集し、理事長には沢村五郎師が就任しました。
さらに太平洋戦争直前には、政府・軍当局の圧力は一層強まり、キリスト教に関してはカトリック、東方正教、新教の3団体に統合する方針を示し、それに反対した日本聖公会は宗教団体としての法人格を奪われ、東洋宣教会は聖書学院に立てこもり抵抗しましたが、結局は国家の宗教政策に屈する形で、新教合同教団結成の方向で進んで行きました。
その結果、1941(昭和16)年に日本基督教団が創立され、部会制の下で各教派が結集するという形を取りました。日本伝道基督教団は、第7部という形で加入し、参与として沢村五郎師が就任しました。
第7部は独自で国外伝道部を設置し海外伝道も行いましたが、政府の思想統制のなかで、自由な伝道・メッセージを語ることは困難であり、また「再臨の教理」の問題で、ホーリネス系の教会・教職が官憲に弾圧されていきました。
この抑圧された状態の中で、教会は福音を守り続け、終戦[1945(昭和20)年]を迎えたのでした。
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