The short history of |
"Jesus Christ Church in Japan" |
(日本イエス・キリスト教団小史) |
U「B・F・バックストン師来朝、日本伝道隊の創立」(1890年〜1930年頃)
Tで見たような壮絶な戦いを経て、初代教会の基礎が築かれていった反面、白熱的信仰の時代も遠のきました。ちょうどその頃、近代的天皇制を中核とした近代国家の枠組みを明確にした『大日本帝国憲法』が1889(明治22)年、天皇神権説を絶対化する『教育勅語』が、1890(明治23)年に出され、明治政府が推進する国家神道、従来からの儒教・仏教とキリスト教との衝突が起こってきました。
1891(明治24)年には「内村鑑三不敬事件」が起こり、生まれたばかりの教会は、段々と、政府の動向・日本の複雑な社会環境[「イエ」制度など]とのやりとりに煩わされるようになりました。
さらに「追い討ち」をかけるように、その頃ヨーロッパから近代神学(自由主義神学)、アメリカから「ユニテリアン協会」の思想が流入し、教会の「福音的信仰」にかげりをもたらしました。
聖書の霊感を曲げる者、キリストの神性を否定する者、さらには、牧師を辞めて政界に進出する者も現れ、日本教会に「新神学」が蔓延し、教会の前途に暗雲が重くのしかかって来たのでした。
ちょうど、新教伝来から31年経った1890(明治23)年、ある英国国教会の宣教師が来日しました。彼の名は「B・F・バックストン」。彼と彼の働きは、主が日本へ差し伸べられた新しい摂理の御手による働きであり、日本教会史に一時期を画し、充ち足りた「福音の流れ」が注がれました。
そして「彼の幻」は、『すべての日本人クリスチャンを一つの会衆に結合させる邦人教会の形成』であり、彼の第一回帰国期間中の1903(明治36)年、超教派の日本宣教団体として『日本伝道隊』が結成され、バックストン師が総理として、P・ウィルクス師を同労者として迎え、翌年の現地日本伝道隊結成の際には、日本人では竹田俊造、御牧碩太郎、三谷種吉が評議員として加わりました。
日本伝道隊の目的は未伝地への福音伝道・信徒の聖潔への指導であり、実現への手段として、野外集会、天幕伝道、修養会・聖会の開催、超教派の伝道会への応援を行いました。
バックストン師は、そういった働きの中で、献身者の教育にも尽力し、松江赤山時代などに師事していた者の中に、後に純福音各教派の指導者、聖潔の説教者として活躍していったことを見ると、師を通して与えられた「霊的遺産」は非常に大きなものであったことは否定できません。かの内村鑑三をして「人類の華」、「神は今日、わたしたちをどのような人物にまで作り上げることができるだろうか。バックストンの生涯がその答えである。」と言わしめたのです。
この教職育成の働きは、神戸に日本伝道隊本部が移転して以降、1924(大正13)年、御影聖書学舎創設、1930(昭和5)年に塩屋に移転して聖書学舎が創設され、現在は関西聖書神学校として、教職育成の面において、日本のキリスト教界で大きな役割を担ってきたのです。
そして、伝道の側面から見ると、1920年代〜35年のJEB前進運動による近畿地方を中心に宣教が拡大し、この時期に生まれた教会が、後に教団を形成していく段階で、大きな役割を果たしました。
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