「もう1年になるのね。」
庭を見ながら龍麻がぽつりと言った。土曜の夜半。月が晧々と庭を照らしている。散り遅れの梔子の香りがガラス戸の隙間から入り込んで、部屋中を甘い香りで満たしていた。
「ああ、そうだね。」
僕は腕の中にいる龍麻の髪をそっと払いながら答えた。
そう、一年前の今日、あの芝のプールの前から、この契約も、関係もすべてあそこから始まった。
「結局、1年間、できなかったわね。」
腕の中で僕に背を向けていた彼女がごそごそと動いてこちらを向いた。
そう、子供などできるはずがなかった。僕自身が自分の持っている能力を使ってそれを阻止していたのだから。
「当初の話では、契約終了の条件を子供を産むことで設定していたけれど…。どうする?1年経ったし、契約を継続するかどうか聞きたいわ。」
彼女は僕を射抜くような眼差しでそう問い掛けた。契約の継続。それは、このまま彼女を抱く権利を有するけれど、彼としては認められないという契約。ただ子孫を残すための生殖行動。もう、それだけでは満足できない自分がいた。
子供云々より、僕は彼女に側にいて欲しかった。そして、他の誰でもない、僕だけを見ていて欲しかった。他愛もない話をし、一緒に笑い、泣き、怒るようなそんな関係になりたかった。龍麻にとって唯一無二の人間になりたかったのだ。
「契約は、もう終わりにするよ。」
正直言って未練はあった。例えただの生殖行為とはいえ、龍麻をこうして腕の中に抱き、貫いて一つになれるのはこの上もなく嬉しいことだったから。けれども、僕はそれを振り切るようにその言葉を口にした。龍麻の顔は無表情だった。
「そう。残念ね。」
さしてそうでもないような口調で彼女が言う。それにひどく落胆をしたが、勤めて平静を装って次の言葉を続けた。
「でも、ひとつ、頼みがあるんだ。」
「なに?」
「今度は、子供は産まなくっていいから、僕と付き合って欲しい。」
彼女はきょとんとした顔で僕を見つめた。
「その…龍麻に、側にいて欲しい。」
途端に彼女は眉をひそめる。
「私が、黄龍だから?」
「関係ない。僕は如月翡翠として、側にいたい。」
彼女は目を伏せて黙り込む。少し俯き加減になっているので表情はわからないけれど、あまりいい表情ではなかったようだった。
やはり、僕の思い違いだったか。抱いている時の、彼女のあの反応はただ単に快感から来るもので、好き嫌いではなかったのか。実際にはしなかったけど、深く重いため息を心の中で一つ吐いた。
「ああ、いいよ。わかってるから。」
僕は俯いている彼女に言った。
「困らせるようなことを言って、すまなかったね。」
それが僕の精一杯。
「さぁ。眠ろう。朝にはまだ時間があるからね。」
「翡翠。」
急に彼女は顔を上げる。その表情はとても真剣で、思いつめたような切迫感さえ漂っている。
「うん?」
「…ごめんなさい…私…。」
そう言い掛けた彼女は、あの妖艶さなどなく、普通の10代の女性だった。ああ、僕は、やっぱりこっちの彼女の方が好きだったんだなんて、その時になってようやく気付いた。
「大丈夫。」
彼女を安心させるように、できるだけ笑顔で、子供をあやすように彼女の背中をぽんぽんと叩いてから僕は目を閉じる。
きっと、これでもう彼女にあうことはできなくなるだろう。
瞬間に僕は覚悟をした。戦いはとうに終わっている。彼女がアイテムや武具を必要とすることもない。そして、僕のことなど微塵も思っていなかった。辛い現実だったが、仕方がない。1年もの間、彼女を抱いて、手放したくなくて、ずるずるとここまで来てしまったけれど、そろそろ解放してやらなければいけない。龍麻にはすまないことをしてしまった。契約という形で、無理に関係を続けさせていたのだから。これが、龍麻に対する仕打ちの報いなのかもしれない。
一番辛い報いだな。
心の中でそう呟いた。今、腕の中にいる龍麻は、確実に朝にはいなくなり、そしてもう二度と手に入らなくなる。こんなことなら、契約を続行すればよかったと、一瞬、後悔もした。けれども、何よりも、自分が初めて心の底から好きになった人を、これ以上辛い想いなどさせたくはない。
龍麻を抱きしめている腕に少し力が入る。
店にある古い柱時計が5時を知らせる。ぼーんぼーんと、遠くで余韻を残しながらこの部屋まで時刻を知らせてきた。
「そろそろ、帰るね。」
腕の中の龍麻が言った。
「…もう?」
彼女を離したくなくって、僕は更に腕に力をこめた。
「翡翠…。」
困ったように呟く彼女の声が耳元で木霊する。泣かせたいわけじゃないのに。
「今まで、ありがとう。」
胸の中で伝えたいことがたくさん渦巻いている。だけど、ようやく出たのはその一言だけだった。
「うん。」
小さくうなづくのは10代の、どこにでもいる、普通の可愛い女性。
「とても、好きだよ。」
「…ダメなの。まだ…」
拒否の言葉はあまり聞きたくなくって、そのまま龍麻を腕から解放した。
「さぁ。風邪引かないように、早く支度をするといいよ。」
そのときに初めて僕はちゃんと龍麻の表情を見た。それは、まるで、店に置いてある慈母観音像のように、穏やかで、優しげな微笑をたたえていた。
彼女が身支度を整えている間、僕は起き上がって家の中の電気をつけ、戸を開けて回った。早朝のすがすがしい空気は、僕の今の心境にはとても似合わなかったけれど、それでも家の中に凝った重い空気よりはまだましだった。
「それじゃあ。」
庭と家を隔てるガラス戸を空けると、後ろから龍麻が僕に声をかけた。
「ああ。気をつけて。」
「うん。」
「元気で。」
「翡翠も、元気でね。」
息を呑むほどに綺麗に微笑むと龍麻は足早に裏口のほうから出て行った。遠ざかる龍麻の気を感じながら、僕はガラス戸の木の桟を握り締めた。庭先が涙でにじみ、すぐにぽろぽろと廊下に涙の雫が落ちていく。さっきまで腕の中にあったぬくもりは、もうない。もう二度と、戻ってこない。永遠に近い別れ。心の中がめちゃくちゃだった。ただ、ただひどく悲しくて、身動きさえできないほど。龍麻の気が消え、そして僕は廊下に崩れ落ちた。
そのまま、どのくらいの時間をそうしていたのだろう。
最初の激しい慟哭の波が僅かに引いて、多少の落ち着きを取り戻した。僕は、のろのろとガラス戸を開け放つ。視界の隅に入った散り遅れの梔子は、茶色く変色して、ひどく惨めに写った。
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