非時香実

〜時じくのかくの木の実〜

 

  フランスから帰国してはや2ヶ月。花組の今度の公演の稽古も一段落ついた今日、休みになったマリアは大神を誘って久しぶりに横浜の知人のカフェにきていた。とりとめもないことを話していたのだが、話題がいつしか公演のことになっていく。
「追加公演ねぇ。」
  大神はかえでらしい商才に微笑んでいた。通常、公演期間は1ヶ月ほどなのであるが、次回の6月公演、マリア主役の源氏物語は前評判が高く、あっという間にチケットが売りきれたためにかえでの提案で急遽1週間ほど公演期間を延ばしたのだった。
  帝撃の副指令であり、帝劇の副支配人である彼女は米田支配人よりもやり手との噂が高い。事実、彼女の着任以来、帝劇の人気は右肩あがりの上昇を見せ、もはやその公演のチケットはプラチナチケットとなることもある。
「かえでさんは熱狂的なお客様も大事だけど、昔からずっと通ってくださるかたも大事にしたいとそう思っていらっしゃるようですよ。」
マリアがふと微笑んだ。姉のあやめさんに対する思いが強すぎて、最初はなかなかうまくいかなかったが、徐々にかえでさんとマリアの間にも信頼関係が生まれ、俺がフランスに行っていた間にすっかり阿吽の呼吸を作り上げてしまっていた。もともとヨーロッパにいたかえでと、ロシア生まれのマリアとでは考え方に共通するところも多いようだ。一度なじんだら早かったと、マリアは苦笑しながら語っていたのを思い出す。
「休みが減ってしまいますけれど、お客様が喜んでくださるのならいいんです。」
そう言ったマリアの顔はすっかりと女優のそれで、本当に今、打ち込んで楽しんで真剣にこの仕事をやっているんだと言うことが手に取るように分かった。以前の彼女ならば舞台は戦闘の次だと言った感が強かったのだが、ここしばらくの平和が彼女をそう変えたのかもしれない。
「そうだね。自分が主役の公演が好評ともなれば喜ばしいことだからね。」
今回の源氏物語はなんと言ってもマリアが光源氏をやることに話題が集まっていた。苦悩の多い美しい元皇子様をマリアがやる。カンナは、マリアの苦悩系王子様は十分に乙女心のツボだし、そしてその光源氏があまたの女性を口説くのならば、そりゃファンならみたいに決まっていると、断言していた。
「衣装は出来上がってきたのかい?」
「ええ、明日から衣装をつけて稽古をやるんですよ。私とカンナはともかく、みんなは動きずらいわけですから慣れておかないといけませんしね。」
「ああ、そうか、そうだね。」
女性陣はさすがに十二単では動けなくなるために小袿という略装を用いることにした。それでも色とりどりの着物は万国共通で女性を虜にするようで、みなあの色だこの色だと随分張りきって選んでいたのだった。
「本当は私も着てみたいのですけれど。」
恥ずかしそうに言うマリア。いつだったかクレモンティーヌの衣装を合わせていたこともあったっけ。やっぱり女性なんだなとふっと思う。
「そうだね、マリアならきっと似合うだろうね。…そうだな、縹色とか、そういう涼しげな色を重ねるととても綺麗で映えるだろうね。」
「そ、そうですか?」
真っ赤になって照れるマリアに更に言葉を続ける。
「マリアは気品があるからさぞかし雅な姫君になったことだろうに。」
「隊長、誉めすぎです。何もでませんよ?」
耳まで真っ赤になったマリアが照れ隠しにおどけたように言う。その様があまりにも可愛くて、もっと恥ずかしがらせたくなる。
「いいさ、出なくても。本当のことだからね。」
しかし、俺の予想に反してマリアは急にすうっと目を細めて嫣然と微笑んだ。
「ふふふ。さすがは帝劇の源氏の君。お上手ですね?」
「いいっ?」
「なんだか、源氏の君をやっていて隊長のようだといつも思ってしまいますよ?」
「そ、そんなぁ。」
返り討ちで一本とられた俺はそれ以上マリアに何も言えなくなってしまった。


それから1週間後。今日から6月の公演、『源氏物語』が始まる。俺は久しぶりのモギリのために正面玄関の所定の位置についた。開場時間になり、玄関の扉を開けると人がどっと押し寄せてくる。今日は初日と言うこともあって立ち見もできないほどの混雑振りで開場を待っていたお客様は劇場の前に長い列を作っていた。次から次へもぎって、もぎって、もぎりまくって、ようやく一息つけるほどになった頃、お客さんに声をかけられた。
「よぅ、あんちゃん、久しぶりだなっ!」
立っていたのは常連のお客様。一番最初に俺がここに赴任してきたときから既にここに通ってきていたお客様。公演は必ず見に来てくださり、あの、1日だけの公演『奇跡の鐘』や特別公演の『眠れる森の美女』でさえ見ているという帝劇通。
「毎度ありがとうございます。ご無沙汰しております。」
にっこりと笑って返す。
「あんちゃん、一体、どこにいってたんだい?モギリにいたりいなかったり、1年ごとに顔をだして。」
「あの、それは、…えーっと、裏方が足りなくなるとそっち専門に回されるんですよ。」
「へぇ、そうなのかい。そいつぁ大変だ。」
確かに、お客様がいうように、俺が1年おきにモギリにでたりひっこんだりというのはどうも不自然かもしれない。前回、南洋演習から帰ったときもお客様にそう言われた。まさか、軍の命令でフランスに行ってましたなんて口が裂けても言えないし。
「またしばらくはモギリかい?」
「はい。よろしくお願いします。」
「おぅ!がんばんな!そのうちにきっと偉くなれる日も来るやね。」
「はいっ!」
偉くなる日ねぇ。常連さんの言葉に俺は苦笑した。モギリってやっぱり偉くないんだなァ。この俺のモギリって立場が如実に帝劇の中の俺の立場を現しているような気がする。
リンゴーンと開演の鐘が鳴る。もうお客さんは来ないだろう。久々のモギリの仕事を終えて一息ついた。これからお客さんに預かった山のような数のプレゼントを楽屋に運ばなければならない。受付の後ろに隊員別に預かったプレゼントを積んでおいたが、公演の性質上、マリアの数が一番多い。色とりどりの花束は俺が前にここにいたときよりも数倍に膨れ上がっている。そういえば、マリアは前にあまりに贈り物が増えすぎて、保管できなくなったと嘆いていた。それに食べ物なんかは結局だめにしてしまうことも多く、それ以来、お花がいいとラジヲでも雑誌でも重ねてお願いしていた。お花ならば飾るのには綺麗だし、保管しなくてもいいし、あまったら近所のお店や家が喜んでひきとってくれるからだそうだ。そのお願いの甲斐あってか、プレゼントはほとんどなく、ものすごい数の花束が受付を占領している。
「花屋でも開けそうな数ですよね。」
椿ちゃんも呆然とその花の山を見ていた。最近はだんだんと花束の数も増えてきたけれどこんなに大量なのははじめてだと椿ちゃんの証言。とりあえず、これをどこかに運ばなければならない。いつもなら楽屋に運ぶのだがこの量を楽屋に持って行ったら楽屋は足の踏み場もないようになる。仕方がないので俺は2階のサロンにそれらの贈り物を何回も往復して収めることにした。
ようやく作業を終えてから見学のために舞台袖に入る。いつもは一番後ろからみているけれど、今日はお客様が一杯で見ることができないからである。そっと袖から舞台を覗くと芝居はすでに佳境に入っていた。マリアの光源氏に観客のお嬢さん達がうっとりと、潤んだ瞳で夢でも見るようにただただ見つめている。金髪に烏帽子はどうかとも思ったが、前にやった国定忠臣蔵で結構お客様から好評だったのと、輝く光の君だから金髪でもいいかという意見から今回もあえて金髪のままいってみた。山藍摺の直衣姿のマリアが優雅な動作ですっと立つと舞台に華が咲いたようになる。苦悩の表情でレニの夕顔に愛を囁くと魔法にでもかかったかのように客席の女性からは一斉にため息がもれた。劇団創立以来プロマイド売上1位の座を保ちつづけるのは天性の美貌、怜悧な頭脳、そして歌声のすばらしさ、端正な挙措、どれもが人を魅了してやまないから。妙齢のお嬢さん達の憧れの的、男性からも人気がある一流の女優、その貫禄と人気は20代半ばに差し掛かっても一向に衰える気配はないし、ますます増していく、そんな感じだった。完璧な人、理想の人、数々の賛辞を受け、帝都では麗人と言う言葉は既にマリアの代名詞となっているほどだ。それは伊達じゃないと、久しぶりに舞台を見て改めて実感したのだった。

初日は大成功のうちに終えることができた。久しぶりの活気に帝劇に戻ってきた実感が湧いて、なんだか嬉しくなって鼻歌を歌いながら公演後の片づけをしてると食堂でストロボが光るのが目に入る。そちらに歩いて行くとマリアが取材を受けているところであった。
「あ、隊長。」
ぼんやりとその様子を食堂の入り口に突っ立って見ているとすぐ前にいたカンナに声をかけられた。
「どうしたんだい、こんなところで。」
「マリアのあとはあたいなんだ。順番待ちさ。」
カンナがにこにこと笑う。今回の公演。カンナは頭中将という役で出ている。いわば、光源氏のライバル兼親友といったところだろうか。
「大変だね。公演が終わった後も仕事なんて。」
「これっくらい大したことねぇよ。」
カンナのからからと笑う声にちらりと記者がこちらを伺った。カンナが少し肩をすくめて反省の意を示すと記者がまたマリアの方を向き直ってインタビューを続ける。直衣姿のまま、きっちりと真面目に受け答えをしている姿は役の光源氏そのもの。それからちょっとの間インタビューが続き、ようやく終わってからマリアが立ちかけた時だった。ちらりと記者がこちらを見てマリアに言った。
「そういえば、マリアさん。あそこにいる大神さんと随分仲がよろしいんですねぇ。」
急な質問にマリアが小首をかしげる。
「は?」
「この間、横浜のカフェで見ましたよ。お二人でいらっしゃって、なんだか随分と楽しげにお話していたのを。」
記者の言葉に、先週のことだとすぐにマリアは思い当たったようだ。しかし、そんな意地悪な質問に顔色も変えずにマリアは余裕の表情でさらりと即答した。
「ああ、そうですね。いい友人ですよ。」
すぅっと立ち上がると慇懃なほどの笑顔で記者に一礼をし、そのまま自分の部屋に戻るためか階段の方に消えて行った。
「隊長…?」
「うん?」
「いいのかよ?」
カンナの方が返って心配そうにぼそぼそと小声で聞いてくる。
「いいも何も…しょうがないよ。」
苦笑いする俺にカンナが本当に?というような疑いの眼差しを向けてきた。そしてその後の言葉を続けようとするがすぐにそれは邪魔された。
「カンナさん、お待たせしました。」
記者の声に言葉を発しかけたカンナがはっとして振り向く。
「あ、ああ、はい。」
「じゃあな。カンナ、がんばれよ。」
「おう。」
俺はカンナを見送るとまた片付けに戻ることにした。分担場所となっている1階の客席に忘れ物がないかとか大きなゴミがないかどうかを見回りながらふと考える。前回、南洋演習から帰ってきたとき米田長官から『恋人気分は困る』と釘を刺された。それ以来、俺とマリアは劇場の中では不自然なまでに隊長、副隊長の関係に徹することにした。少しでも私情を挟むこと、それは花組を統率することができなくなることを意味しているのはお互いに充分過ぎるほどわかっているから。だから、あの答えが一番相応しいことも理解できるし、きっと俺が同じ立場だったら同じことを言うに違いない。それでも…自分の内では何かが納得できずに、感情の中でしこりとなって心地の悪さを残していたのだった。
一体、何が不満だと言うのだろう。1度目は南洋演習、2度目はフランスにと帝都に彼女を2度も置き去りにしたのに恨み言ひとつさえ言わずにじっと待っていてくれる人。いつも俺の為を思って動いてくれる人。充分過ぎるほどの愛情を惜しげもなく注いでくれるのに。何が納得できずにいるものか。小さなため息一つ、側の椅子に座り込んで頭を抱えた。違う。そうじゃない。不満なんかじゃない。…怖いだけだ。彼女に十分なことをしてやっていない自分が、いつか本当にただの友人に成り下がってしまうかもしれない、それが怖い。舞台の上の彼女は女優としての才能を開花させ、万人の憧れとなり、望めばどんな男性だって否と言えないほどの美しさを持っている。だから、だから。そこまで考えて自分自身に対する嘲笑が自然と頬に上がる。こんな弱気な考えを君は笑うだろうか。それとも、眉をひそめて嫌うだろうか。守るといいながらも平気で君を置き去りにしてしまう俺を、君はどう思っているのだろう。劇場ではただのモギリ、本当の姿だって海軍士官にすぎない自分はマリアに何を与えてやれるのだろう。求めるばかりで何もしてやれない、何もしていなかった事実が不安となって襲い掛かってくるのだ。
…ふわりと空気が動いた。その感覚にはっと顔をあげるとマリアが心配そうにして立っている。
「あの…そろそろ夕食の時間なんですが。」
マリアが言いにくそうに小さく言った。はっとして腕時計を見ると考え始めてからかなりの時間が経っていた。
「あ、ああ、ごめん。」
慌ててたち上がる俺にマリアが訝しげに声をかける。
「どうかなさったんですか?」
「いや。…久しぶりの公演だったからちょっと張りきり過ぎちゃってね。疲れちゃったんだよ。」
「どこか具合でも…?」
「そんなことはないよ。大丈夫。」
明るく笑って椅子から立ち上がりマリアの後について食堂にむかった。


考えても仕方がないことは考えない。そう割りきって懸命に帝劇の仕事をこなす。信じるべきものは不確かな予測より、今の自分の気持ちとマリアの言葉。それだけでいいじゃないか。加山に言わせると恐るべき単純思考なんだそうだが、それが俺の長所でもあるわけだし、くよくよしても仕方のないことだから、今できる精一杯という自分のモットーに沿って生活していた。
「おーい、隊長―!」
今日も無事に公演を終え、客席の片づけをしているとカンナが舞台上から声をかける。
「お疲れさま。どうしたんだい?」
「あさって、暇だよなー?」
「ああ。」
「公演が終わったらマリアの誕生日のパーティーやるから出席してくれよ。」
「ああ、分かった。」
そう、あさってはマリアの誕生日。
「そういや、隊長、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ。」
カンナが舞台からひらりと飛び降りてこっちにやってくる。
「うん?」
「マリア、なんかあった?」
「なんかって?」
「いや、隊長がわからなければいいんだけどさ。なんだか、ちょっと最近元気がないようだったから。」
「そうだったかな?」
「うーん、あたいもふとそんな気がしただけだからさ。公演で疲れているだけかもしれないしな。」
「あとで聞いて見ようか?」
「いや、いいよ、あいつのことだから、そんなことしたら余計にがんばっちゃうだろうから。それに、そんな気がしただけだしな。」
「でも、カンナがそう思うのなら…。」
「だから隊長に聞いて見たんだ。でも、隊長も分からないくらいなら別にたいしたことないんだろう。ま、ちっとの間様子見てみるからさ。」
カンナはそう言ってもう一度舞台のほうから楽屋に戻って行った。ここのところ、自分が見ている限りではマリアの様子におかしいところなんて見られなかったが、大丈夫なんだろうか。公演も随分と力を入れてやっているようだし、もしかしたら知らず知らずのうちに疲れが溜まっているのかもしれない。あとで、少し様子をみておこうか。そんなことを考えながら客席の片付けに戻る。
客席の大きなゴミや忘れ物は最初に片付けておく。そうすれば後から清掃の人が綺麗に床掃除をしてくれるから客席はぴかぴかになる。客席のお菓子の食べクズを払いながらふと考える。マリアの誕生日にはいつも縁がない。出会ってから一番最初の誕生日はまだプレゼントをどうこうという間柄でもなかった。むしろ、微妙に緊迫していたくらいで。その次の誕生日は俺が南洋演習。その次はマリアがアメリカ出張。そして次は俺がフランスと、どうもタイミングが悪すぎる。もちろん、フランスからプレゼントをしようと思っていたが、マリアからキネマトロンで先制されてしまったのだ。私にプレゼントしたら全員にしなければいけなくなりますよと。尤もと言えば尤もな言葉に俺は誕生日のプレゼントをあきらめざるをえなくなった。もし、マリアにプレゼントを贈ったら、他のみんなにも同様の額のプレゼントをしなければならなくなる。何しろ、花組のみんなは誰かが目新しいものを身につけているとものすごいチェックを入れるのだから。それにパリから郵送するとみんなに見つかるだろうし、何よりも事務局を通じて届くので由里くんあたりがみんなに言いふらしでもしたらマリアの立場だって悪くなる。結局、帰国までずっとプレゼントはとっておいてこっそりとマリアに手渡ししたのだった。贈った指輪は普段つけることは叶わずにそっとロケットと一緒に服の中に、肌身はなさずに身につけているにとどまっている。今年はどうしたものかなぁ。俺は思案をめぐらして、あることを考え付いた。


6月19日の公演は昼のみ。これは『夜には宴会で盛り上がるのでしょう?』と笑ったかえでさんの計らいによるものだった。モギリ兼プレゼント受付の俺は立つ場所もなくなるほどのプレゼントを背に仕事をこなしていた。マリアの誕生日と言うこともあって今日は初日に負けない位の数の花束が届いている。同時にプレゼントも少し混じっていて誕生日らしさを醸し出していた。モギリを終えて荷物をサロンに運び込む。花束もこう毎日だと余り気味で、帝劇に飾りきれない分はいつものように近所のお店などにお裾分けしていた。今日も大量にお裾分けが出るだろう。そんなことを考えながら隊員別に分けたプレゼントの一番大きな山に最後のひとつの花束を置いた。
「今日は一段と凄いですねぇ。」
公演を終えて、着替えを済ませたみんながサロンにおいてある自分宛のプレゼントを取りにサロンに入ってきた。みんなが見るなり驚いたのはマリア宛の花束の山。
「マリアの誕生日だから入場しないお客さんもみんなプレゼントを置いてったってさっき椿が言ってたぜぇ。」
カンナも話には聞いていたが予想以上に多い数の花束に目を丸くしながら椿のぼやきをみんなに伝えた。マリアはつっと花束の山に近づく。
「こんなにあるんじゃ、また、ご近所の方に貰って頂かないと。」
それでもせっかく頂いたものだから一通りは眺めて愛でることにする。
「綺麗ですね。白い薔薇なんてかっこいい。」
さくらが隣で一緒になって花を眺めている。
「こっちはすごくかわいいわ、ピンク、わぁ、赤いのもある。薔薇が沢山あるんですねぇ。」
目を輝かせて花を見ているさくらを微笑んで見ていたマリアがそっと白い薔薇の花束とピンクの薔薇の花束を差し出した。
「よかったら、さくら、あなたも貰って頂戴。」
「いいんですか?」
「ええ。」
「えへ、お言葉に甘えちゃいます。」
そういうさくらも自分宛の花束があるのだが、花が好きなようでいくつ貰っても嬉しそうだ。
「あら?これ。」
花束の中に一風変わったのを見つけたのはすみれだった。
「花というよりは木ですわね。橘…ですわ。」
それは小さな枝を束ねてあるものだった。そこからは強い、甘い香りが漂っている。
「ニホンタチバナ。ミカン科の常緑低木。温暖なところに生息。高さ3メートルくらいで強い香りを有する。」
すかさず人間百科辞典のレニが解説をいれる。
「へぇえ、マリアはんの名字と一緒やなんて。」
紅蘭も珍しそうにその変わった花束を見ていた。マリアがそれを手にとって見ると、一緒に小さな箱がついていて、白い包装紙に白いリボンがかけてある。リボンにはやはり白のカードが挟まっていた。マリアが細い指でそのカードを取り上げて開いて見てみると中には几帳面そうな綺麗な文字で一言。『いつも側に』とだけ。そっとリボンを解いて包みを開くと中からは香水が出てきた。蓋を取ると中からは花束と同じ、橘の強い香りがした。
「まぁ…お香水ですのね。橘の香りなんて随分凝っていらっしゃること。」
すみれが覗き込む。
「最新の、お香水ですわね。この間、雑誌で見ましたわ。ええと、そうそう、『非時香実』ってお名前でしたわね。」
「時じくの…かくのこのみ?」
マリアの質問にすみれが誇らしげに答える。
「昔の言葉ですの。橘の実の別名で、日本の神話にも出てくるのです。」
マリアは不思議そうに橘の花とその香水を眺めている。
「天皇が不老不死の薬を持って来いと一人の部下に命じたのです。部下は必死で探して、とうとう見つけて持ちかえったけれどもう天皇はなくなったあとだった。その時に部下が持ちかえったのが非時香実、橘の実でしたのよ。」
「そうだったの…。」
「これをくださった方は随分ロマンチストでいらっしゃるのね。」
すみれが持っていた扇をぱちんと閉じる。
「非時香実は夏に実をつけて、秋や冬の霜にも耐えてずっと変わらない香味を持つという伝説の木の実なのですわ。きっと、あなたへの思いはずっと変わらずにあなたを包みますと、そういうことなのでしょう?ふふふふ。マリアさんもなかなか隅におけませんわね。」
すみれの言葉にマリアの頬が仄かに赤くなった。


宴会は予想外の大騒ぎになった。誰が呼んだか、途中から薔薇組が乱入し、カンナと飲み比べをはじめたり、大神に抱きついてチュウをせがんだりと上を下への大騒ぎになった。やがて、アイリスが姿を消し、すみれが酔いつぶれて部屋に強制送還になり、レニが自発的に部屋に戻り…といった具合に一人二人と減って行く。そして夜半におひらきになり、会場である楽屋を片付け、それぞれが部屋に戻る。俺は日課の夜の見回りを済ませてからようやく自分の部屋に戻った。ネクタイをほどき、ベストを脱いだところでこつこつと小さなノックの音がした。
「はい?」
「あの…マリアです。」
「どうぞ、あいているよ。」
かちゃりと小さな音をたててドアがあく。
「あの、少しお時間、よろしいでしょうか?」
「ああ。大丈夫だよ。」
大神の言葉に安心したような表情を浮かべたマリアがすっと素早く体をドアの内側に滑り込ませてそっとドアを閉める。同時にふわりと甘い香りが部屋に一緒に入ってくる。
「あの…隊長…。」
マリアはおずおずと話しかける。
「プレゼント、ありがとうございました。」
ぺこりと金色の頭が下がる。それと同時に香りも一緒に動き、慣れかけた大神の鼻を再びくすぐっていく。
「でも、どうして…?」
「ああすれば、みんなの詮索も入らないから遠慮なくつけていられるだろうと思って。ファンからのプレゼントだって、みんなは思うだろう?」
俺が思いついたこと。それはファンからのプレゼントに自分のプレゼントを紛れ込ませること。そうやって渡せば誰にも怪しまれずにプレゼントを渡せて、なおかつ、それを使用しても誰からも咎められることもない。問題はマリアが俺からだって分かるかどうかだったが、絶対に分かってくれる自信はあった。だからわざと白い包装紙、白いリボン、白いカードとあくまで白にこだわったのだ。
「つけてくれて嬉しいよ。」
笑顔で言った俺とは対照的にマリアはなんだか浮かない顔をしていた。
「気に入らなかった?」
「そんなことはありません。とても嬉しかったです。」
「どうしたの?」
「なんでもありません…。あの、本当にありがとうございます。」
なんだかその言葉に寒寒しさを感じたのは気のせいだろうか。
「なんでもありませんって感じじゃないよ。どうしたの、マリア?」
マリアはふっと視線をそらす。
「何も言ってくれなきゃわからないよ。言えない事なのかい?」
俺の言葉にマリアの顔がだんだんと俯いて行く。しばらくの沈黙の後、やがてマリアは小さな声で言った。
「隊長から…頂いたほうが嬉しかったです…。」
そう言われてはっとする。そうだった。自分のプレゼントの使い方ばかり気にしていてマリアの気持ちを全く考えてなかったことにようやく思い当たったのだ。
「ご、ごめん…。」
「いいんです、私の我侭ですから…。忘れずにいてくださったから、それだけで嬉しいです。」
そこで一呼吸おいて彼女が続ける。
「隊長こそ、私に…何か隠し事をなさっていませんか?」
「隠し事?」
「先日、客席で座っていた時、隊長は本当に辛そうでした…。伺ってもなんでもないとおっしゃって…私じゃ、頼りにはなりませんか…?」
言った後にマリアがひどく悲しそうな顔をする。瞬間、俺はしまったと心の中で後悔した。マリアは敏感なのだ。あれぐらいの言訳で誤魔化されるはずはない。そんなことも忘れていたなんて、本当にどうかしている。それに何よりも俺の迷いがマリアを苦しめてしまったことに愕然とした。カンナが言っていたマリアが元気がないっていうのはもしかして、俺の事で悩んでいたのかもしれない。いや、多分そうなのだろう。俺の前では明るく元気付けようとしていたのかも。そう思い当たると一段と情けなさがのしかかってくる。ずっと守って、大事にして、いつも笑っていて欲しかったのに、なんで悲しませてばかりいるんだろう。つくづく己のふがいなさが嫌になる。思わず深いため息を漏らすとぴくりとマリアが反応し、悲しげに眉根が寄せられた。
「すいません、出過ぎたことを言いました…。」
いけない。これ以上黙っているとマリアに余計に辛い思いをさせてしまう。もう、これ以上は悲しい顔をさせたくない。そう思った俺は嫌われるのを承知で慌てて弁解に入った。
「いや、違うんだよ。その…ちょっとだけ、自己嫌悪になってて…隠し事するつもりじゃなかったんだけど。」
「自己嫌悪…?」
「うん…。恥ずかしい話なんだけどね。」
照れ隠しにぽりぽりと頭をかいた。
「マリアの人気があんまりにも凄くてさ。俺、その…何もしてやれないから、そのうちに本当にただの友人になっちゃいかねないなぁって思うとさ。情けなくなってくるんだよね。ずっと守るって言ったのに、現実は2度もここに置き去りにしちゃうし、悲しい思いばかりさせちゃうし。…俺は一体君に何をしてあげられるかなって、そう思うと、何もできない自分に自己嫌悪しちゃってさ。」
マリアのために正しく、強くありたい。いつもそう願ってやまないのに、けれど現実は厳しくて。努力はしていてもなかなかうまくいかないことだってある。
「隊長…。」
「頑張ってはいるんだけど、自信がない時もあるんだ。本当に君を幸せにしてあげているかなんて、自分では分からないから。」
自嘲気味に言ってがっくりとうなだれる。こんな愚痴、本当は彼女の前では言うべきではない。一番彼女が嫌いなパターンじゃないか。ああ、きっと幻滅され、嫌われるんだろう。こうなったのも自業自得だ。
しかし、彼女は予想に反してこっちに近づいてくるときゅうっと俺を抱きしめた。びっくりして顔を上げると絹糸のような彼女の金髪と白いうなじが目に入った。
「そんなこと、気にしてらしたんですか?」
優しい声が耳に降って来る。
「…マリアの事、信じていないわけじゃないけど、君はすぐに我慢しちゃうから。」
俺の肩口でマリアが微笑んでいるような柔らかな気配がする。
「大丈夫ですよ。…私、隊長から一番欲しかったものを頂いています。」
「え?」
聞き返した俺をはぐらかすようにふふふと耳元で笑って頬擦りをするように彼女の頭を俺の頬に寄せる。背中に回された手はさっきよりも力が入っていた。
「…こうしていると、隊長がとても暖かくて、ゆったりと落ちついた自分になれるんです。辛い事があっても、悲しい事があっても、こうして側にいてくださるだけで、幸せな、あったかい気持ちになって、胸の中に残った重くて苦いしこりが溶けていくんです。」
「でも、側にいられないことも…。」
「たとえ、離れていても、隊長が私の事を思っていて下さる、私は一人じゃない、それだけで、とても満ち足りた、泣きたいくらいに幸せな気持ちになるんです。」
マリアは体を離して微笑みながら俺の顔を覗き込んだ。花のような笑顔は、ずっとずっと俺が守りたいと思っていたもの。そこにはもう、出会った時の不安な表情を浮かべたマリアはいなかった。
「マリア…。」
今度は俺の方からマリアを抱きしめた。そして、たとえこの先に再び華撃団の任を解かれることがあったとしても、それでもずっと、彼女を守って行こうとそっと心の中で誓った。霜に耐え、変わる事のない香味をもつ非時香実のように。

END

言訳

 

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