橘月の幻
百か日が過ぎ、納骨を済ませた墓地には新緑が地面に蔭を落とす。時折、ごうっと音を立てて木々を青嵐が襲う。海風の強い、港を見下ろす高台の墓地を用意したのは彼女本人だった。もう、そんなに長くはないと、自分で予感していたのかもしれない。一緒のところに最後には収まるのだろうと思っていたのだが、どうしても海に執着していたのはもしかしたら帰りたかったからかもしれない。 「お父さん…。」 声をかけられ顔をあげると丁度汽笛の音がする。 「ああ、すまん。今、いくよ。」 余韻を残しながら響いたそれは天国へ向う彼女の魂の出帆の合図かもしれなかった。 珍しく朝から書斎に入った。しばらくの間、ここに入ることもなかったがたまには空気の入れ替えをしようと思いつき窓を開け放つと庭に植えてある橘の香りが風に乗って部屋に入ってくる。それは彼女の愛した香りで、終生彼女は自分の周りをそれで包んでいた。懐かしい、甘やかな香りは彼女の気配を運んでくる。もういない彼女が側に座り込んできらきらと目を輝かせて嬉しそうに自分の好きな本の面白いところを説明してくれる姿が蘇るようだ。なかなかうまく離せないとだんだんと補足するための言葉が増えていき、終いには疲れてしまうのは彼女の癖だった。目を細めてその様子を思い出していたが白いレースのカーテンがぱたぱたと翻る音ではっと我に帰る。苦笑しながら部屋の西側に目をやると壁面一面の本棚がある。もともと本が好きだった自分と彼女とで集めたそれらはお互いの趣味をよく表していた。 生前、彼女が愛した小説家の本がずらりと並ぶ。女性開放運動をしていた作家を随分と彼女は尊敬していたようだった。自分はついぞ開くことはなかったが、今になってみると読んでおけば良かったかなとふと思う。自分はフェミニストではないが、それを反対する立場でもない。本当のところはそんなことはどうでもいい、彼女さえいてくれればいいと思っていたに過ぎないのだ。本棚の本を取り出してぱらぱらとページをめくる。元来、頭のいい彼女は小説でもなんでもすぐに読んでしまう方で、文庫本などは集中すると1晩で読んでしまうことも少なくなかった。だから、彼女の本はそのほとんどが綺麗で新品同様。子供がそれを見て『どうせ溜まる一方なんだからそんなに綺麗なら古本屋にでも持っていったら』と言うのに、彼女は頑として一度買った本を売るようなことはしなかった。頭にはすっかりとその内容が刻み込まれていたとしても、彼女にとってはそれだけ愛着があるもの達だったのだろう。1冊、1冊、彼女のあとをなぞるようにして取り出してはめくり、また本棚に収め、また次のを取り出す。そんなことを繰り返ししている自分を見たら彼女は女々しいですよと笑うかも知れない。でも、まだ、どうしても整理をすることができない彼女への気持ちをそうすることで少しでも落ち着かせることができたらと…実際にはそうすることでより彼女への気持ちの大きさに気づいて愕然としてしまうのだけど、愚かにも他にやることが思い浮かばなかったのだ。 彼女の本を納めてある本棚は200冊程の本が整然と並んでいる。そのうちの半分は彼女と結婚した時に持ってきたものだった。元来、勉強家の彼女はかなりの読書家で、帝劇内の書庫のほとんどの本を読み漁ってしまうほどだったからこれくらいあっても不思議はないと妙に納得したことも覚えている。新婚には似つかわしくない本の山がいかにもらしいとカンナが笑っていたのを思い出す。次々と本を広げて行くうちに不審な本が本棚の片隅においてあるのに気がついた。古ぼけた、本とも言えないような簡単な装丁のそれを引っ張り出すと日焼けで茶色く変色した表紙に掠れたインクで『源氏物語』と書かれていた。めくって見ると、それは台本であちこちにマリアの字とおぼしき書き込みがある。源氏物語。そういえば、昔、マリアが帝都一の人気女優として舞台に上がっていた頃の演目でそんなのがあった。…そういえば、あの時のお芝居はかなりの人気で追加公演でもチケットを入手できないお客さんがいて、何ヶ月か後にも同じお芝居をやったんだった。多分、これはこの装丁からすると最初の時の台本に違いない。一体、何故、ここにこの台本があるのか。彼女は舞台で活躍していた時の台本のほとんどを天袋の中のりんご箱に収めていたはずである。舞台から降りたその時に、封印するかのように釘さえ打ちつけて。どうしてそんなに厳重に仕舞うのかと聞いたときに彼女は微笑んでいったのだった。 「もう女優ではありませんから。」 思えば、それが彼女なりの舞台を降りるけじめだったのかもしれない。それほどまでにしたのにどうしてこれだけをここに残しておいたか、それがどうにも見当がつかなかった。台本を読んでいるとあちこちに万年筆のインクで間合いや、感情の込め方、動きの注意、果ては相手役の癖とその対処までもが几帳面な字で、しかも日本語と英語入り混じって書かれている。いかにもマリアらしい。当時の彼女を思い出すと微笑まずにはいられなかった。しかし、それにしてもこの本は汚れすぎている。稽古熱心で、人一倍真面目な彼女の台本が汚れることはそんなに無理もない話に見えるかもしれないが、実際にはマリアの台本は割りと綺麗で、すぐに丸めてしまうカンナや紅蘭の表紙がぼろぼろになるのに対して彼女の台本はほとんど表は汚れない。しかも、ページの端が摺りきれそうになっている。何度も何度も取り出して見ていたと、この台本は雄弁に語っていた。一体何がこれにあるのだろう。そう思いながら最後までめくっていって、最後のページを開くと不意に強い甘い香りが鼻先をくすぐった。そして、そこには茶色の枯葉と同じように茶色に変色した何かが一緒に大事そうに挟まっていた。 「なんだ…これ?」 手にとってみるとその枯葉はすっかりと乾燥してぱりぱりとしていた。しかし、そのくせに不自然にも強い香りがそこから発せられている。もうひとつのものはどうやら花弁のようで、そこまで見てようやく俺はそのものの元の姿を思い出したのであった。 「たとえ、離れていても、隊長が私の事を思っていてくださる、私は一人じゃない、それだけで、とても幸せで満ち足りた気持ちになるんです。」 不意に彼女の声が聞こえたような気がした。そう、あれはフランスから帰国して少しした頃。自己嫌悪に陥った自分を彼女が慰めてくれた、あの時の言葉。後生大事にしていてくれたそれはすっかりと変色したものの、確かに、あの時の花と葉に違いない。それにしてもあれから随分とたつ。枯葉には似合わない強い芳香が漂っているのは、きっとあのときに贈ったのと同じ香水を薄くなる度に付け足していたのかもしれない。 彼女が幸せだったかどうかなんて最後までとうとうわからなかったけど、それでも一緒に生きて来れてよかったと思う。沢山のことを彼女に教えられ、また、教えて支えあってこれた。あの、サタンとの戦いの直前にミカサの中で約束した通り、最後の瞬間まで、彼女を守ることができただけでも良かったとそう思う。結果的には彼女の命は救うことはできなくても、魂は救うことができたかもしれないと、長い年月の中で彼女の痛みや辛さを少しでも和らげてこれたなら、それで充分だと思う。もっと何かして上げられたかもしれないけれど、今できる精一杯をしてきたから後悔はしない。 ふと目を窓の外に移すと橘の花。あのときの枝を継いで育てた木。橘の香に乗って彼女が訪れたのかもしれない。悲しみにくれる俺に、遠く離れても私達は一人ではないと慰めるために。またいつの日か、会える時のために。 五月待つ 花たちばなの香をかげば 昔の人の袖の香ぞする 読みびとしらず<古今集・夏> END
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