白鳥のひと

 

白い床、白い壁。ばたばたと慌しく走る人々。消毒薬の匂い。女の子の嗚咽。ストレッチャーの車輪の音。荒々しく開閉されるドア。消えそうなほど弱い命の営みを伝える電子音。
僕は妙に冷静にそれらを眺めていた。病院に来慣れているせいかもしれない。そうでなければここにいる他の仲間達よりも人の命の明滅の際に立っているからかもしれない。
龍麻の運ばれた病室には院長と呼ばれる大女が入っていき、続いて僕たちの仲間でもある高見沢舞子が入っていった。それきりで、時折仙薬のような妖しげな香りがするがあとは目立った動きがない。
龍麻が柳生という男に新宿中央公園で斬られて重傷を負ったのは先ほどのこと。龍麻は何故だか動かなかった。あえて斬られたような、そんな感さえある。
僕らは病室前の廊下からロビーに追いやられて、そのままずっと待っていた。いや、何かを待っていたというわけではない。どちらかというと、事が事だけに、呆然として、そのままそこにいただけかもしれない。あえて待っていたとするならば、龍麻の状態がどうなのかという判断が下されるのを待っていたのか。
「龍麻…。」
真神学園一の才女との誉れも高い菩薩眼の少女、美里葵がはらはらと涙をこぼしている。なぐさめるようにして同じ真神学園の桜井小蒔がその肩を抱いている。龍麻の相棒と公言してはばからない蓬莱寺はイライラしながらそこらへんを歩き回っているし、醍醐は顔面を蒼白にして座ったまま身動きもしない。
龍麻が斬られる少し前、戦闘があった。僕はその援護に呼ばれ、終わった後、妙な気を感じてその場所にとどまっていたのだが、同じようにその場所に留まり、現場を目撃してしまった如月さんはひどく思いつめたような顔をして俯いている。そして、いつもはうるさいくらいの関西弁でしゃべりまくっている劉も、黙りこくったままだった。
誰もが、あの龍麻の出血と傷を見たら言葉を失うだろう。傷はかなり深かった。皮膚だけでなく、中にまで達していて命がある方が不思議だと、僕は思った。
輸血で醍醐、桜井、如月、劉の4人が呼ばれて可能な限りの血を提供したようだ。僕はそのときにはじめて龍麻がA型だということを知った。残念ながらAB型である僕では役に立てなかった。
「あ。」
ふと思い出して胸ポケットから携帯電話を取り出した。病室前ならまずいだろうが、ロビーならいいだろうか?そう考えて折畳式のそれを開く。その音で一斉に皆が顔をあげてこちらを見つめた。それに構わずに僕は短縮ダイヤルで館長の携帯電話に連絡を入れた。
「壬生です。…申し訳ありません、龍麻が、重傷を負いました。」
電話の向こうの館長は最初絶句をした。だが、さすがに館長ともなるとすぐに立ち直り、状況説明を求められる。
「現場は新宿中央公園です。斬った相手は柳生宗崇と名乗ったそうです。武器は刀です。」
館長はその名前に覚えがあるようで、ひどく驚き、また狼狽していた。
「今、桜ヶ丘中央病院にいます。現在治療中ですが、状況はあまり思わしくありません。怪我の程度はかなりひどく、僕が見ただけでも内臓に傷が達していました。それと出血多量で輸血中です。」
館長は、すぐにこちらに向かうといって慌しく電話を切った。僕も電話を切ると胸ポケットに携帯を戻す。
「どこに電話を?」
隣に座っていた如月が不思議そうに尋ねてくる。
「館長に。…館長は龍麻の師匠で、後見人なんです。」
「後見人、か。」
こくりとうなづいた。
「入院するなら、手続きをしなくてはですから。」
そうだなと如月が呟いて、また俯いた。
「冷静だな、壬生は。」
ややあって、再び如月が言う。
「病院には慣れていますから。」
そう言ってしまって、余計なことを言ったなと僅かに反省をする。だけど、彼は大して気にもとめずに両手で顔を覆って俯いた。
「…傷は、かなり深かったな。」
また少し時間をあけて如月が呟いた。
「ええ。…生存確率は少ないですね。あとは龍麻の生命力次第ですか。」
「どうしてそんなに平然としていられる…?」
僕の言葉に、静かだけれど怒気を含んだ如月の声が返る。
「客観的に事実を述べただけです。」
「おまえはっ!」
突然に如月さんに胸倉を捕まれた。怒りに燃えた瞳が僕を捕らえて憎憎しげに見つめる。きっと、如月さんは龍麻を救うことができなかったことを、みすみす自分の目の前で瀕死の重傷を負わせてしまったことを後悔しているのだろう。だから、こんなに逆上する。
「龍麻が斬られたんだっ!その意味がわかっているのかっ!!」
如月さんの涼やかな瞳は怒りに滾っていて、普段の、あの穏やかな笑顔からは到底想像できない。龍麻に心酔していて、彼の宿星だという玄武という地位からもまるで龍麻を特別な何かのように思っている彼らしい発言だった。
「意味などあるんですか?龍麻が斬られたのは龍麻が弱かったからか、もしくは龍麻の意思で斬られた。それだけでしょう?」
来る。本能的にそう思った。やはり次の瞬間に、如月さんの拳が振り上げられ、とっさによけたつもりだったが僕の顔を掠めた。
「龍麻に何かあったらどうなると思ってるんだっ!」
ぎらぎらと、僕に対する激しい憎悪を漲らせて叫ぶ。その言葉は、玄武としての発言だろうか、それとも如月さん自身としての発言なのだろうか。
何かあったら。すなわち、如月さんは龍麻の死亡を想定しているらしい。龍麻が死ぬ。…可能性がないわけではない。けれども、僕には妙な確信があった。
龍麻は死なない。
『君は僕以外の人に殺されちゃダメだよ。』つい、数日前に僕が言った言葉、龍麻と交わした約束。そう、殺されるのなら、僕が君を手にかけるのだから。あんな奴の刃にかかって死ぬことなど僕が許さない。僕にあんな約束をさせた上に、勝手に約束を破って死ぬなど、絶対に許さない。黄泉の国まで行ってでも引きずり戻してやる。
それに。やはり僕はずっと引っかかっている。どうして、龍麻が斬られたのか。
あれは龍麻がよけられない太刀筋ではなかったはずなのに。しかも龍麻は各務という対武器の見切り技を持っている。それなのに、全く動こうとともせずに、あえて斬られた。勝算があってのことだろうか。どちらにせよ、無抵抗で死ぬつもりで黙って斬られたとは到底思えない。それも僕が妙な確信を抱いている原因の一つなのだ。
そして。病院に担ぎ込まれてから随分と時間が経過しているのに、いまだに院長と、高見沢舞子が病室から出てこない。出てこないということは、まだ生存の可能性があるということに違いない。
「龍麻は、治りますよ。」
僕の言葉に如月さんは訝しげに僕を見る。
「ねぇ、如月さん。龍麻は、約束を守るほうですか?それとも、平気で破る?」
急に何を聞くのだと言ったように如月さんの目元がすぅっと細くなる。
「約束は、絶対に守る性質だった。」
「それなら尚更。」
そう言った僕に、彼はいらついたように声を荒げる。
「何の話かは知らないが。そんなことより、現に龍麻は斬られて傷ついて、命さえ危ないんだっ!君がいうように龍麻があいつよりも弱いんだったら、僕たちが…」
「かばえば良かったとでも?そんなことは…。」
無駄、と言葉を続けようとしたときだった。
「無駄だ。君ごときでは確実に死体が1つ増えるだけだ。」
聞き慣れた低い声が僕の言葉を後を継いでそう言った。
「なっ…。」
如月さんの色白の顔にさっと朱がさした。ゆっくりと振り返ると、そこには館長が立っている。僕は向き直ると軽く礼をした。
「龍麻は?」
「まだ治療中です。…早かったですね。」
「割と近いところにいたからな。」
そう言うとちらりと如月さんを見る。
「相手の過小評価と自分の過大評価は死につながる。敵を知り、己を知れば百戦危うからずだよ。」
その館長の言葉に、数日前の龍麻を思い出した。僕に同じ事を言っていたのだ。
「柳生は、君一人が向かっていってどうにかできる相手じゃない。それに、君にもしものことがあったら、せっかく龍麻が助かったって龍麻はきっとひどく悲しむだろう?違うかね、如月くん?」
「それは…。」
如月が言いよどむ。
「柳生を倒すために誰かが犠牲になるなど馬鹿馬鹿しい。そんなのは、弦麻だけで充分だ。」
苦々しい顔で館長が呟いた。弦麻。龍麻の実父。柳生と相打ちをするために命を落とした陽の黄龍の器。
館長はその場にいた人間の顔をぐるりと見回す。真神の4人をはじめ、劉や如月さんのことは既に報告書などでも知っているはず。一人一人の顔を確認するように見つめた後におもむろに口を開く。
「自己紹介が遅れたが、私は龍麻の後見人、拳武館高校館長の鳴瀧。龍麻や、壬生がいつも世話になっているようだな。礼を言う。」
慌てて美里さんや桜井さんたちがお辞儀をしている。
「壬生。状況は変わらず、か?」
「はい。」
「院長は?」
「先ほどからずっと龍麻の病室に。」
そう言っている矢先に、龍麻の病室のほうから巨体をゆすりながら院長と、高見沢舞子がこちらに向かってやってきた。
「おや。懐かしい顔があるねぇ。いひひひひ。」
院長は館長の顔を見るなり肩をゆすって笑う。どうやらこの二人は旧知の仲のようだった。
「龍麻が、迷惑を掛けてすまないね。」
「ふん。もう少し、命を大切にすることを教え込んだほうが良いようだよ。まったく。」
そう言って僕らをぐるりと見回した。
「で、龍麻はどうなんだ?」
「危機的状況は回避したが、いくら驚異的な生命力を誇る黄龍といえどもあれじゃ2,3日は動けまい。」
「では、助かるのだな?」
「誰に向かってものを言っておる?」
そこで、ようやく一同が胸をなでおろす。
「壬生。」
「はいっ。」
僕は急に館長に名前を呼ばれて、慌てて返事を返す。
「龍麻が気付くまでの間、ついていなさい。異常があったら即刻連絡するように。」
「はい。」
「院長。すまんが、代わりに私の弟子を置いていく。」
「ああ、構わないさ。」
そう言ってから好色そうな顔で僕をじろじろと舐めまわすように見た。
「随分といい男だねぇ、きひひひひ。」
その下卑た笑いに僕は眉をひそめたが、館長命令だから仕方がない。僕のそんな表情にはおかまいなしに院長は館長に尋ねた。
「ここは結界が張ってあるからほぼ大丈夫だろうが、これだけ似てれば何かのときは役にたつね。当然、この坊やも何か出来るんだろうね?」
「私の弟子の中では一番の腕前だ。」
「そりゃ結構だ。高見沢、案内してやりな。」
「はぁーい。」
院長は高見沢に指示を出すとそのまま巨体を医局へ動かしていった。
「高見沢さん、似てるって、何?」
僕は傍らに居残った高見沢に聞いてみる。
「えーとねぇ、壬生クンの気とぉ、ダーリンの気はぁ、よく似てるのぉ。」
高見沢の言葉に如月さんもうなづいている。
「自分の気は自分では分かりにくいだろうがね。壬生の気は、龍麻のと確かに似ているよ。ただ、龍麻のは、目も眩みそうなほど眩い金だとしたら、君は、もっと落ち着いた、重厚な金だね。」
そういうものなのだろうか。確かに自分の発している気は自分では分かりにくい。もしも、龍麻の気と僕のが似ているとするならば、おそらくそれは陽と陰だからなのかもしれない。
「壬生くぅん、こっち。」
ふと気付くと高見沢は廊下の先のほうへ歩いていって、僕を手招きしている。
「壬生君、何かあったら私たちにも連絡をしてくれるかしら?」
美里君は龍麻が助かったと知って少しは落ち着いたようだったが、まだ不安は払拭しきれていないようで心配そうに僕に頼み込む。
「わかった。」
「ひーちゃんを頼んだぜ。」
蓬莱寺もそれだけ言うと木刀をかついで帰る支度をしながら言う。如月さんのようにひどく取り乱したりしないが、相棒と公言してはばからない龍麻の容態が気にならないわけではないはずだ。それでも自分にできることがもうこの時点ではないことがわかるとそのままあとを僕に託す気になったらしい。
醍醐や桜井君、劉や如月さんもそれに倣って帰り支度を始めていた。
みんなとそこで分かれて高見沢について病室に向かう。病室というのはどこでもさほど変わりない。白い壁に白い床に囲まれた空間。ベッドの回りを囲むようにして白いカーテンが覆っている。
皺のない、ぱりぱりとしたリネンに包まれたベッドには血の気のない龍麻がまぶたを閉じて横たわっていた。
「ダーリンねぇ、今、昏睡状態なのぉ。」
高見沢が龍麻についている機器をチェックしている。それらは決して龍麻の生命反応が強くないことを物語っていた。
「それでも、助かるんだろう?」
「うん。それは大丈夫ぅ。ただねぇ、すっごぉく気を放出しちゃったからぁ、それを補給するのに時間がかかるんだってぇ。」
にこにこと、高見沢が状況を説明してくれた。
「ナースコールはこれ。じゃあ、壬生くぅん、よろしくねぇ?」
「ああ、わかった。…ありがとう。」
高見沢はありがとうという言葉に少しだけ目を見開いたあと、にっこりと優しい笑顔で微笑んでから病室を出ていった。
僕は室内にあったパイプ椅子を寄せて腰掛けると改めて龍麻を見る。
セーラー服のまま担ぎこまれたのだが、今は病院でよく使うようなガーゼ地の寝巻きに着替えさせられている。胸元から傷を覆っているらしい白いガーゼや包帯が見えている。それらが、緩慢に動くことからも龍麻がようようその命をつなぎとめたことが分かった。
かなりの出血に、4人がかりで輸血したのだから、顔色は悪くって当然だろう。龍麻の腕に刺さっている点滴のパックのラベルから、それらが体力を持たせるための糖類や、止血のための薬、化膿止めの抗生物質であることがわかる。
これも全部母さんの病院に通っているおかげだな。僕は少し笑いながら改めて龍麻の顔をみた。
いつもはくるくるとよく動く表情も、いまは死んだように眠っているだけで全く動きがない。人懐こさを印象付ける黒目がちの大きな瞳も閉じられて、ただ、長い睫が伏せられているだけだ。薄い紅色のふっくらとした唇もきゅっと閉じられている。こうしてみると、龍麻の寝顔は普段のときよりもずっと幼く見える。
これで全てを背負っているんだから大したものだと思う。この間、少しだけ弱音を吐いた君はもう翌日には普通に戻っていた。皆を引き連れて、元気良く旧校舎潜りをし、そして新宿での戦闘をこなし、新たに3人の仲間を増やしていた。
ただ、そうしている彼女を見るのが自分としては嬉しくもあり、辛くもあった。そうまでして戦う理由はなんだろうか。
黄龍の器なんていう厄介な宿星も、彼女はそのまま受け入れている。それを気負うでもなく、嫌がるわけでもなく、ただ平然と、あるがままに、彼女らしく振舞っている。それが実はどんなに大変なことであるか、どんなに強い精神力を必要とすることであるか、知っている者はそう多くはないだろう。大変なことなのに他人にはいかにも楽であるように見せかけて、笑ってそのまま過ごしている。
人に弱いところを見せたくない、努力しているところを見せたくない君らしい振る舞いではあるけれど、白鳥がどんなに優美な姿を湖上に見せていても、水面下では激しくあがいているのを知っているから、僕は辛くなる。
せめて、僕の前だけでは楽にしていても構わないから。我侭だって言っていい。少しは頼りにして欲しい。


龍麻が斬られてから3回夜が明けた。一向に目を覚ます気配はなかったが、それでも最初は僅かしか感じられなかった龍麻の気が随分と回復してきたのが側にいてわかる。時折、瞼がぴくぴくっと痙攣するような動きを見せるがまだ覚醒にはいたってない。朝から僕はまた龍麻の寝顔を見ながら過ごしているうちに何時の間にか眠ってしまったようだった。
気付いたのは、僕の手の辺りを何かが這っているような感触を覚えたからだった。
龍麻のベッドに突っ伏していたが、顔を上げて見ると、僕の手のあたりを龍麻の白い指がそろりそろりと動いている。
「龍麻っ!?」
慌てて龍麻の顔を見ると、見つかっちゃったというような無邪気な笑顔を見せている。
「気がついたっ?」
「うん。さっきね。」
まだ体は辛いのだろう、まったく首も何も動かなさいままに彼女が言う。
「紅葉、驚かそうとして失敗しちゃった。」
斬られて瀕死だったことがまるで他人事だったかのように彼女は笑う。
「今日、何日?」
「23日。ついでに言うと、午前10時。」
「あれから、3日もたったんだ。随分と長いこと寝ちゃったなぁ。」
口だけで彼女はあくびの真似をする。
「何かしてほしいことは?」
「手、握って?」
「手?」
僕は訝りながらも龍麻が言う通り僕のそばまで伸びてきていた手を取って軽く握った。白くて細い指はまだうまく力が入らないようだった。それでも僕の手の感触を確かめるように、指先に力を入れるとほぉっとため息をひとつつく。
「これは夢じゃないんだねぇ。」
龍麻は軽く握った僕の手をわずかに握り返してしみじみといった。
「紅葉の手、あったかい。」
ほわんと柔らかく微笑んでうっとりするように目を細めた。
「君が冷たいだけだよ。」
僕は照れてしまって、彼女を直視できずに少し視線を外してぶっきらぼうに答えた。そんな僕を龍麻は困ったような顔をして見つめている。だから余計に照れくさくなって、何か話を変えようと、僕は急いで口を開いた。
「龍麻、何故よけなかった?」
口から出てきたのはずっと僕の中にあった疑問。
「見てたの?」
「ああ。」
龍麻はバツの悪そうな顔をして言う。
「柳生の抱えているいろんなものが私に流れ込んできて、その中に父さんの記憶があったんだ。」
「まさか…。」
「うん。それが見たかったの。」
そう言った顔がきまずそうにしているのは自分でも今回はみんなに迷惑を掛け捲っているだろうことが簡単に予測できて、自分が悪いと分かっているからだろう。
「だって、何も覚えてないからさ。少しでも、知りたかったの。」
ごめんね、と小さな声で謝って、僕の様子を伺っている。無言でいる僕に龍麻はさらに言葉を足した。
「でも、死ぬつもりもなかったし、ちゃんとこうして生きてるでしょう?」
「結果的にはね。一時は随分危なかったんだよ?」
「怒ってる?」
「呆れてる。」
「ごめんね?でも、怒らないでいてくれるのね?」
「今更怒ったって仕方がないだろう?」
平然と言った僕の顔を見て龍麻がにっこりと微笑む。
「だから、紅葉って大好き。」
無邪気に言った彼女の一言に、嬉しくて動揺しまくりの精神状態を隠しながらわざとそっけなく答える。
「はいはい。で、お父さんについての収穫はあったのかい?」
「うん…。」
そう言ってしゅんとした様子でうなだれたところをみると、あまりいい記憶ではなかったようだった。
「ま、なんにせよ、あんまり無茶はしないことだね。君が昏睡状態の間、死ぬかもしれないって、みんな心配していたんだからね?」
「そっかー。…ねぇ、紅葉も私が死ぬと思った?」
「思わないさ。約束しただろう?」
「そだね。」
龍麻はうふふふと菩薩眼のように笑ってかすかにうなづいた。
「紅葉、ずっとついててくれたの?」
「ああ。」
「ごめんね、迷惑掛けちゃって。」
「かまわないよ、看病は慣れてるから。」
僕は、照れ隠しに椅子から立ち上がって病室の外へ出ようとした。
「館長に連絡を入れてくるよ。」
「紅葉。」
ドアノブに手を掛けて回したところで後ろから呼ばれて振り返る。
「信じてくれて…ありがと。」
「ああ。」
僕は病室を出てロビーの方に向かって歩きながら緩む顔をなんとか締めようと努力していた。大好き。彼女にしては、さして深い意味もなく、それは食べ物か何かと同じような意味合いで言ったのかもしれないけど、僕はそれがとても嬉しかった。
彼女の手の感触が残る右手をじっと見つめる。
惹かれていく。
止めようがないほどに、急速に彼女に気持ちが傾いていく。
そのうちに、再び彼女の手を、彼女自身を手にすることができるだろうか。
優美な姿と自分らしくあるためにたゆまぬ努力を忘れない、白鳥のような彼女を。


                                                END

 

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