失恋

 

何度も何度も同じ夢を見た。
初めて見た時から、焦がれ続けた人の夢を。それはもう手に入らないとわかっていることだけれど。
1999年、正月。龍命の塔は起動したが無事に収めることができ、また元のような平穏な生活が戻ってきた。それはありきたりで忘れてしまいそうなほど幸せで穏やかな日常。
しかし、この一連の事件の終わりと共に、僕の初めての恋も終わりを迎えた。
緋勇龍麻。
この一連の事件の中心人物の名前である。
僕の通っている拳武館高校の鳴瀧館長の知人の娘。父娘二代に渡る黄龍の器としての宿星は彼女を様々な事件に巻き込んだ。一時は命さえ危うかったのに、なんとか凌いで、激闘の末、その宿星から彼女は解き放たれたのだ。
そして、その戦いの終わりに、彼女は一人の男を選んだ。
それは、彼女を守る宿星を持つ男。由緒正しき水を操る忍者の末裔。
僕は彼のことは嫌いではなかった。他の仲間たちと共に彼の家を訪れてはマージャンもやっていたし、僕とは違う料理のレパートリーと、その味も割と気に入ってはいた。互いの仕事のことは口を出さず、そのままただの仲間として(最初、仲間という概念は彼にはなかったらしく、慣れさせるのに苦労したと蓬莱寺がこぼしていたが)受け入れてくれる。僕にとって、関わっても苦のない男、如月翡翠が、彼女が選んだ男だった。
仕方がないか。
この気持ちを忘れようとなどとは思わない。けれども邪魔をする気にもなれず、むしろ彼女を見守っていきたいとそう思っていた。彼女の幸せそうな顔を見ると、僕も少し幸せになる。隣に立つのは自分ではないけれど。
「本当に、大変だったわねぇ。」
母の言葉にはっとする。病室の花を活けていた手を再び動かすと母に尋ねた。
「母さんは、なんともなかった?」
「ええ。大丈夫よ。それより、紅葉、あなたは大丈夫だったの?ひどく疲れているようだけど。」
2日の夕方。仮眠をとった僕は午後には母の病室を訪れていた。今日になってから夜明けにかけてのおよそ6時間に渡る長時間の激闘は流石にダメージも大きくて、家に帰り着くとそのままベッドに倒れこんで熟睡。まだ本調子ではない。
「ああ。いろいろと物が壊れちゃってね。片付けに時間がかかったんだ。」
「そう…。怪我はなかったの?」
「平気さ。」
病院の外を眺めると、別段変わったところはない平穏な正月。上野であんな死闘が繰り広げられたことも、新宿であんな巨大な建物が出現し、また消えていったことも嘘のような正月。
「紅葉。」
「うん?」
母を振り返ると、心配そうな顔と目がぶつかる。
「辛いことがあるのなら、たまには母さんにも分けて頂戴ね。母さんが紅葉にしてやれることは、話を聞いてやることぐらいしかないのだから。」
「心配性だね。僕のことよりも、母さんは早く良くなってくれよ。それからゆっくり、色んなことをして貰うからさ。」
花瓶に正月用の花を活け終わると見やすいようにベッドサイドのテーブルの上に置く。
「ほら、綺麗だろう?」
「ええ。本当に。」
母は少し寂しそうに笑った。


次の日、僕は如月さんの家に向かった。あの激闘の直後、ここ半月ばかりの無理がたたった龍麻はがっくりと力を失って、如月さんちに運び込まれたのだ。それも、ご丁寧に如月さんの腕の中に倒れこんで。
その瞬間に僕の失恋は決定したわけだけど、当の本人、如月さんが果たしてその龍麻の気持ちに気づいているかどうかというと、これはまだ望みがありそうだった。何しろ、王蘭のプリンスとか言われるくらいに女性にもてるくせに、その外見や環境とは裏腹にかなりニブい。僕が言うのはなんだが、そういう恋愛関係の回路をどっかに置いてきちゃったんじゃないかって位に。仲間内でも、毎度旧校舎潜りに付き合っているメンバーなら誰もが龍麻が如月さんを好きなのはわかっているのに、本人は一向に気付かない。小さな頃に母親と死別しているそうで、そのせいで女性との接触が少なく、女性の気持ちにどう対処していいかわからないというのも事実なんだろう。
「こんにちは。」
店から入ると、如月さんは店の続きの部屋で新聞を読んでいた。
「やぁ、いらっしゃい。」
「龍麻、どうですか?」
「ああ。夕べ、一度目が覚めて、ご飯を食べてまた寝たよ。まだ寝てる。」
すごいな。何時間眠る気だろうか。少し感心した。
「何もしてないでしょうね?」
少しからかってやろうとすると、たちまち真っ赤な顔で怒り出す。
「叩き出されたいか?」
この怒りようをみると、まだ手は出していないようだった。まぁ、そんなところだろう。彼が龍麻に無断でそういうことをする人間だとは僕だって思っていない。
「少し見舞っていっていいですか?」
「ああ。」
如月さんに案内されて奥の部屋に入る。床の間に飾られた松が正月らしくて、さすがに和室に良く似合っている。部屋の真中に敷いてある布団には龍麻が横たわっていた。顔色は悪くはなく、ただひたすらに熟睡しているという感じであった。女性の身であれほどの激闘を潜り抜けてきたのだから、その身体的な負担は僕らの想像を遥かに上回るのだろう。
「ほとんど目を覚まさないよ。眠るのにも体力が必要なんだが、食事をして、体力を補給するとすぐに眠ってしまう。8ヶ月も続いたんだ。よっぽど疲れていたのだろうね。」
龍麻の寝ている布団の横に座り込んで寝顔を眺める。何の夢を見ているのだろうか、少し顔が微笑んでいる。如月さんの気に守られて、安心しているのだろう。僕には決して見せない顔だった。それだけでも、悔しいけど龍麻が如月さんのことを本当に好きなんだということが、もう僕の立ち入る隙がないことがわかる。
「如月さん。」
「うん?」
「龍麻を、よろしくお願いします。」
僕は如月さんに頭を下げた。急な僕の言葉に少しうろたえた様だったが、こほんとひとつ小さく咳払いをするとマージャンの時よりもずっと真剣な顔でうなづいた。
「でも、諦めませんよ。…そのうちに、僕は龍麻を奪回しますから。」
それは無理だとわかってるけれど、そう言わずにはいられなかった。この現状に安心して欲しくない。龍麻を、ずっと大事にして欲しい、幸せにしてやって欲しい。それだけが僕の願い。
「肝に銘じておく。」
如月さんはそうはっきりと言って苦い顔をした。ねぇ、龍麻。そのくらいの意地悪はしてもいいだろう?君が幸せでいられるのなら。
「龍麻が無事なようなので安心しました。…また来ます。」
僕はそのまま如月さんの家を後にした。


「何かあったの?」
病室で林檎を剥く手が何時の間にか止まっていた。はっと顔を上げると母が心配そうな顔をしている。僕は瞬間、ごまかそうと思ったが、いつものように、冷静にごまかせる自信はなかった。大抵のことはごまかす自信はあるのに、それが不可能になるほど龍麻のことは僕に大きな動揺を与えていた。それに、母はずっと入院している代わりに、僕の些細な仕草一つから僕に起こった変化を読み取る術に長けるようになっていた。ため息一つついて、僕は剥き終った林檎を母に渡す。
「失恋、したんだ。」
ぼそりと呟く。18になる男が、母親にこういう報告をするのも可笑しいが、下手に隠しても余計な心配をかけるだけだ。母は黙って、僕の言葉の続きを待つ。
「競争率が高くてね。…僕は最初から勝ち目がないってわかってた。彼女が選んだのは、僕も認める人でね。仕方がないなって。」
冷静に話をしているつもりでも、改めて言葉にしてみると辛くなる。
「それでも、僕は、何かあったら彼女の力になりたいと思うよ。」
林檎の皮を片付けながらあっさりと言った筈なのに、気がつくと、床にぽとりと涙が毀れていた。
「紅葉が好きになるなんてきっと素敵なお嬢さんなんでしょうね?」
母の言葉に返事が出来なかった。泣いている顔を見られるのは恥ずかしくって、顔があげられない。
「母さんも、一度会いたかったわ。」
残念そうな声で母が言った。
「紅葉。ぜひ、力になっておあげなさい。それが紅葉のやり方なんでしょう?」
俯いたままこくりとうなづいた。
母に話すことでなんだか少し、恥ずかしいけど安心もした。心の中でわだかまっていた思いが昇華されたような気がする。他人事のように語ることで自分を傷つけまいとしていたけれど、それは所詮嘘で、その事実を認めようとしない限り苦しさは続くのだ。そしてその苦しさがすっと嘘のようにひいていく。本当は誰かに聞いて欲しくて、僕のやり方は間違っていないといって欲しかっただけだったのかも知れない。
「なんだか、小さな子供みたいだ。」
僕は自嘲するように呟いた。
「いいのよ、紅葉はまだ子供なんだから。」
母の言葉に驚いて顔を上げると、そこには病にやつれてはいるけれど、小さい頃と変わらない穏やかな微笑み。僕を見守る母親の…。そう、まだ僕は確かにあなたの子供。成人もしていない子供なのだ。
「そうだね、まだ子供だね。」
そういうと、母は再び穏やかに笑った。
「今度、連れてくるよ。…きっと喜んで見舞いにくるよ。」
「そう?うふふ、楽しみだわ。」
母は、笑いながら林檎を小さく齧った。


                                                END

 

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