嫉妬

 

「今度の土曜日は用事があってこれないからね。」
そう龍麻が言ったのは木曜日の夜だった。龍麻の家まで送っていく途中で思い出したように、突然に言った。
「用事?なんだい?」
「ちょっと秘密。えへへへ。」
龍麻は恥ずかしそうににっこりと微笑んだ。
「それから、これから少し忙しくなるんだ。1週間ほどなんだけど、行けなくなるからね?」
「こないの?」
「うん。」
「どうして?忙しくなるって、僕にも言えないこと?」
「うん。」
あっさりと肯定されてしまって、僕はできるだけ冷静を装ってはいたもののひどく落ち込んでしまった。龍麻に隠し事をされるのは辛い。僕は、龍麻のことならなんでも知っていたいのに。
「そうか。ならば仕方がないな。」
ため息と共に、そう呟いた。追求しない、寛大な振りをしてみる。だけど本心は龍麻が言いたくないことは無理に言わせたくない。そんなことをして龍麻に嫌われるほうがよっぽど僕には痛手だからだ。
龍麻のマンションは新宿駅からそう遠くないところにある。
「それじゃあ、また明日ね。」
「ああ。」
龍麻は僕に手を振ると踵を返して跳ねるように階段を上がっていった。


そして、僕が今、目の前にしている光景は何だろう。
僕は学校の帰りに新宿にある同業者に寄っての帰り道だった。うちのお客さんが探している品物とよく似たものがその店にあるらしいとの情報を得たので、見に行ってみたが結局、酷似してはいたが明らかにレプリカで、店のほうもレプリカとして販売していたのであった。無駄足になってしまったなと思いつつ、家路を急いでいた僕の前方に見慣れた姿を見つけたのだった。
「龍麻…?」
楽しげに隣の人に何かを喋りかけている。そして、龍麻の視線の先を追うと、長身の、すらりとしたモデルとも見まごうスタイルの、男。それは僕の良く見知った顔だった。
「壬生…!」
件の戦いで、仲間となったのは随分後の方であったが、その実力はかなりのものである。龍麻も戦いでは随分と壬生を重用していたし、最後の戦いにも参加した。龍麻とよく似た武術を使い、それをもって裏の家業で生活費と母親の医療費を稼いでいる。そして、何よりも、龍麻をめぐって自分の最大で最強のライバルである。ただし、龍麻は、生来の疎さのせいか、まさか自分にそんな思いを抱いているとは露ほども知らないようであるが。
僕が龍麻と付き合い始めて半年以上になるのに、いっこうに壬生は龍麻を諦めようとはしていない。むしろ、隙あらばといった感で虎視眈々と龍麻を狙っているのだ。壬生と出かけるのは反対はしないけれど、できることなら前もって言って欲しいと、龍麻には前から言ってあったのだが、その願いも空しく、龍麻は壬生と会っていた。
龍麻に強制はできない。壬生と会うななど、禁止できる権利はないのだ。それでも、龍麻がもしも、僕のことを考えてくれるならば、壬生と会うときには言って欲しかったのだ。呆然としている目の前で、龍麻がきょろきょろとあたりを見回し始めた。僕の気に気付いたのだろうか。やがてこちらを見て、人ごみの中から僕の姿を見つけると、瞬間にまずい!という表情を浮かべ、そして、隣にいた壬生の手を掴むと脱兎の如く逃げ出したのだった。
どうして?
僕は龍麻の秘拳黄龍をくらったような衝撃を受けて、そこに立ち尽くしていた。
僕に秘密の用事は、壬生と一緒で、楽しそうに二人で歩いていて。
そして、僕の姿を見たら逃げ出した。しかも、手をつないで。
そこから僕はどうやって家にたどり着いたか記憶にない。ただ、ショックで、ひどく悲しかった。龍麻が浮気をしているということよりも、とうとう別れるのかなって、そっちの方がショックだった。
龍麻の彼なんて立場はひどく脆くって、そんなの、いわゆる暫定1位くらいのものでしかない。しかも暫定2位と予想される壬生とは僅差で、いつ取って代わられても仕方がなかった。少しだけ、覚悟はしていたけれど、実際に、あんな光景を目の当たりにしてしまって、冷静でいることなんかとてもできなかった。
もう、龍麻は僕のことはどうでもいいのだろうか?壬生のことが好きになった?僕がいると疎ましい?
壬生は身長も高くて、本人はまるで自覚がないけれど、かなりの顔立ちだと思う。それに加えてかなりの実力があり、仲間内で龍麻とやりあったときに互角に戦えそうなのは壬生くらいしかいないのだから。別に龍麻が強い男が好きだと言った訳ではないが、やはり龍麻を守るには龍麻と同等の力ぐらいないと困るだろう。それに壬生は料理も裁縫も得意で、龍麻が壬生を好きになる要素は沢山ある。
無論、僕だって、料理もするし、和裁なら少しはできる。
だけど、仲間内では身長も小さいほうで、しかも飛水流であるがための弱点、水耐性の敵にはほとんどの攻撃が効かない事、つまり、僕よりも明らかに龍麻のほうが強いということは問題だった。
誰がどう見たって僕のほうが壬生よりも分が悪い。
もう、別れるのか…。
僕は、ただぼんやりと、そんなことを考えながら座敷に座っているだけだった。


次の日、日曜日は定休日で、いつもならば朝から龍麻がきて、ああじゃない、こうじゃないと蔵の中の品物を見ながら鑑定眼を養う練習をしていたり、二人で美術館などに出かけてみたりと、休みを楽しんでいるはずなのに。
朝から待ってはいるけど、やっぱり龍麻は来ない。
やっぱり、ふられたのかな?
店の続きにある部屋に寝転がって天井を見ている。龍麻の気配さえしない。
以前は、一人で過ごしていたのが当たり前だった日曜日は、いつのまにか、龍麻と過ごすのが当たり前になっていて、一人でこうしていることがたまらなく辛い。
のろのろと起き上がって、重い頭を軽く振ってから顔をあげる。何気なく庭のほうに目をやると、黄色い石蕗の花が咲いているのが目に入った。
「秋にはさ、結構ここも寂しくなるでしょう?」
そう言って、龍麻が空いているところにこの花を植えていたのは春のことだった。一年中、何かしらの花が咲くように手入れしているつもりだったが、晩秋の花は藤袴しかなく、確かに多少、寂しくなってしまう。去年、龍麻はうちに来てこの庭をみながら『秋は地味すぎるなぁ』とぼやいていたのを思い出す。
黄色の石蕗は確かに鮮やかで、龍麻の言うとおり地味だった晩秋の庭にまるで光がさしたように明るくなった。
まるで、龍麻がいるみたいに。庭のほんの一部で咲いているだけなのに、庭全体を照らすかのように、可憐な黄色い花は優しげに揺れている。
龍麻は時々、僕が遅くなるようなときは店番をしてくれている。そのときにあんまり暇だと庭の下草をとってくれたりして、この庭をとても愛してくれていた。縁側に座って、お茶を飲みながら、『綺麗な花が咲くといいねぇ』と嬉しそうに呟きながら庭の木立を、草花を眺めていた。
そんな龍麻を見ているのがこの上もなく嬉しかったのに。
たとえ庭でも、僕の一部を気に入ってもらっているようで、他人から見たら下らないと笑われるけれど、それだけで誇らしげな気分になったし、好きだといってもらうことが嬉しかった。
何よりも、そうやって龍麻がうちの庭をいじっている姿が、まるで、本当にここに住んでいるかのようで、結婚したみたいで、胸が痛くなるほど嬉しかったのだ。
今でも、その後姿を思い出すと、切なくなるほどに幸せだけれど。
もう、そんな姿も二度とは見れないかもしれないな。そう思うと途端に心の中は暗雲が立ち込めて、重く、息苦しくなってくる。
龍麻、今ごろどうしてる?電話でもいいから、声を聞かせて欲しい。
鮮やかな石蕗の花は風に揺れていた。


それから龍麻は本当にずっと店に顔を出さなかった。もしかして、今日は来るかもしれないと、毎日期待しながら待っていたけれど、一度も龍麻は顔を出さず、気配さえも近くには感じられない。
1週間ほど来れないと、龍麻はそう言っていた。1週間。それは気の遠くなるような長さだった。土曜日に新宿で見かけたから、金曜日で1週間。なのに、土曜日の昨日も龍麻は来なかった。
今日は来るかと、朝から待っているけれど全然その気配はなくって。僕は重いため息をひとつ吐いた。
壬生が好きになったのなら、正直にそう言ってくれればよかったのに。確かに言いにくいことではあるが、黙ってあんな光景を見せられるよりはよっぽど良かった。僕は、龍麻を手放したくはないけれど、困らせたくない、そして何より、龍麻が幸せならそれでいい。
悲しいけれど、龍麻の心が変わってしまったのなら、僕にはどうすることもできない。もし、心は壬生に移っても、それでも僕を側に置いてくれるというならば、僕は喜んで君を守ろう。僕はまだ君のことがとても好きだから。
何がいけなかったのだろう。何が嫌だったのだろう。僕は、女性と付き合ったことがなかったから、龍麻がして欲しいことや、言って欲しいことがわからなかった。それでも自分なりに一生懸命にやってきたつもりで、それでも不安で、いつも龍麻に聞いても「何もいらない」って微笑むだけだったから。僕は、何をすればよかったのだろう。もう、元にもどることはできないだろうか?
ぼんやりと店先に目をやると、そこには龍麻の幻が立っていた。去年の夏前だったか、美里君や裏密君の装備する指輪を、店のガラス戸から斜めに差し込んでくるお日様の光にすかして、うっとりと見ている。きらきらと、日の光に輝く宝石を見ていた龍麻が、妙に女の子らしく見えて、かわいいなぁと思いながら見ていたのだった。僕が見つめているのに気付くと、慌てて指輪を戻して、オリハルコンを手にとっていた。君の手には武具などよりも指輪が似合うのを知ったのはそれからしばらく後、柳生に斬られてからだったけれど。
懐かしく思いながら目の前のテーブルの向こう側、いつも龍麻が座っているところを見ると、また幻がちょこんと座っている。
『翡翠』
嬉しそうに呼びかける声はとても甘くって、僕は龍麻に自分の名前を呼ばれるたびに、いままであまり好きじゃなかった自分の名前をどんどん好きになっていった。
まだ僕は、龍麻をすごく好きで、こうしているだけでも、どんどん好きになっているのに。諦めきれない龍麻への想いは溢れてこの家のあちこちで幻となってよみがえっている。胸が締め付けられるほどに甘い、龍麻の残した瞬間が、次々と現れては僕を苛み続ける。それでも、例え幻でも龍麻が現れるのに僕は嬉しくて、もう、半分壊れてしまった僕は、その思い出をずっと再生し続けていた。


ふと、我に返ったのは夜半のことだった。
深夜のしんとした外気に紛れて、凛とした清冽でまばゆい気配が近づいてくるのを感じたからだった。
龍麻?
間違えようもない、その気配は、ゆっくりとこちらに向かってくる。
はっとして時計を見ると12時を回っていて、こんな時間にここに龍麻が来ることなど普通ならば考えられないことであった。
普通ならば。
普通でなければ?
僕の壊れた頭はすぐにその考えを浮かべた。
今度こそ、さよならを言いに来たのかもしれない。
逃げよう。瞬間的にそう思った。けれども、嫌われるのは嫌だという考えが僕の足を止める。仕方がないことだ。男だから、しっかりとその時を受け止めなければ。
そうこうしているうちに龍麻の気配は裏口から家に入ったようだった。ぱたんと勝手口がしまる音と、鍵を閉める音がする。それに続いてきしきしと廊下を歩く音が聞こえてきた。足音はそのまままっすぐに光の漏れているこの部屋の方向を目指して歩いてくる。もはや逃げることさえ叶わない。そしてこの部屋の前で足音が止まった。
いよいよだ。僕は深呼吸をした。
「翡翠?」
「龍麻か?」
平静を装って答える。すぅっと襖が開いて龍麻が姿をあらわした。
「こんな遅くにどうしたんだい?」
顔にはできる限りの笑顔を浮かべて。でも、僕はうまく笑えているだろうか?
「あのね、どうしても翡翠に会いたかったの。」
中に入ってくると、僕の隣にちょこんと座った。
「そう。」
もう顔は泣きそうになっているかも知れないけれど、それでもできるだけ笑顔を浮かべていなければ。張り裂けそうな胸を、情けないほどの動揺を必死で押し殺しながら龍麻の最後の言葉を待っていた。
「翡翠、ハッピーバースディ!」
へ?
あまりにも嬉しそうな龍麻の様子に、僕は思わず聞き返してしまった。
「な…に?」
「だーかーらー。翡翠のお誕生日でしょう?今日は。」
不機嫌そうに言われて、わけがわからずに慌ててカレンダーを見ると、今日は25日。
「え?あ?」
そうか。今日は自分の誕生日なのか。龍麻に言われてようやく気が付いた。
「もうっ!わかってなかったのっ!?」
龍麻が反応の鈍い僕に痺れを切らしたように怒った。
「うん…忘れてた…。」
「そうだと思ったけどね。」
呆れたようなため息をつきながら、龍麻は後ろに置いた荷物からなにやら取り出して箱と袋をテーブルの上に置いた。
「翡翠のお誕生日だから、一番に会っておめでとうがいいたかったの。」
彼女はそう言いながらテーブルの上に置いた箱をあけた。中から白いクリームでかわいく飾り付けられたケーキが入っていた。見ると、上に載っているチョコでできたプレートには『HAPPY BIRTHDAY HISUI』と入っている。
「龍麻…壬生と、一緒じゃなかったのか?」
まだ状況がうまく把握できていない僕は龍麻に尋ねてみた。
「紅葉?…なに?」
きょとんとした顔で龍麻が僕に聞き返す。
「だから、壬生と…。」
「ああ、アレね。」
僕が言っていることの意味が理解できたようで、彼女はさも可笑しそうにくすくすっと笑う。
「こっちを先に見てね。」
そう言って、僕の質問に返事もしないでテーブルに置いてあった袋を押し付けた。
「プレゼント。あけてみて?」
僕は何がなにやらわからないままに、龍麻の言うとおりに可愛くラッピングされた袋の口を縛っている深緑色のリボンを解いて中を開けてみた。何やら随分と嵩のあるものが入っている。ずるっと引っ張り出して広げてみると、それは暖かそうなグリーンのセーターだった。
「翡翠ってば、和服は沢山あるのにあんまり洋服持ってないし。これから寒くなるのに、大学通うのに困るなぁと思って。」
僕はそのセーターを手にもったまま呆然としていた。ふわふわの柔らかなそのセーターは襟の後ろにタグがついていない。ということは既製品ではないらしい。
「これのためなの。」
にっこりと龍麻が笑った。そこで僕はようやく納得ができたのだ。
壬生はどうしたことか、高校時代にはその裏の顔には似合わない手芸部に籍を置いていたのだった。それも幽霊部員とかではなく、立派に作品を作っていたのだ。ちなみに、僕の家の電話台に敷いてある繊細な模様のレースも彼の作品だったりする。随分前に彼のマージャンの負けのかたに分捕ったものだった。
「全くできないわけじゃないんだけれど、細かいところとか、わかんなくって、紅葉に教えてもらってたの。」
真っ赤になって龍麻が弁解する。
僕は、そのセーターを手に、硬直してしまっていた。僕のために?龍麻がつくった?ふわふわの毛糸に含まれる空気には、まるで龍麻の想いがこもっているようで、持っている指先から暖かな気が流れ込んでくるような錯覚さえ覚える。
僕のこと、まだ好きでいてくれる?まだ側にいてもいい?龍麻のこと、好きでいてもいい?守っていてもいい?まだ彼女でいてくれる?
いろんな想いがぐるぐると自分の中で渦巻いていた。
「気にいらなかった…かな?」
セーターを手に硬直したままの僕が不機嫌なのかと、心配そうに言った龍麻の言葉に慌ててぶんぶんと首を振る。
「すごく…嬉しい。」
それだけを言うのがやっとで、僕は情けないことに、また涙をこぼしてしまった。
19年間、生きてきて、物心ついてからというもの泣いたのは数えるほどしかなかったのに、龍麻のこととなると僕はおかしいくらいに涙もろくなる。ちょっとのこと、例えば悲しかったり、嬉しかったりすると、そりゃもう、自分でも信じられない位に涙が毀れて泊められなくなってしまう。
「翡翠…?」
セーターを手に、泣いている僕を心配そうに龍麻が覗き込む。
「ごめん…あんまり嬉しくて…。びっくりした。」
慌てて笑顔を作ろうとするのだけれど、ほっとして、緊張が緩んだ拍子に一緒に緩んでしまった涙腺はなかなか戻らない。
「翡翠、どうかしたの?」
あんまりにも僕がぼろぼろと涙をこぼすものだから、龍麻も心配になってきたらしい。そういえば、龍麻の前では極力泣かないようにしてきたんだった。
「ううん、なんでもないよ。」
「なんでもなくないよ、だって、翡翠、泣いてる。」
慌てて、シャツの袖でごしごしと目を擦った。
「だめだよ、明日、腫れちゃうよ?」
龍麻がハンカチでそっと目を抑えてくれる。
「すまない。」
「どうしちゃったの?」
龍麻に顔を覗き込まれて、思わずのけぞってしまう。
「あ、いや…その…。」
まさか、壬生に嫉妬した挙句、振られると思い込んで落ち込んでましたとはとてもいえなくって、言葉を濁していたら龍麻の顔が途端に曇って俯いてしまった。
「やっぱり、迷惑だったよね。」
再び顔を上げて、拍子抜けするほどに明るく、にっこりと大げさなくらいに笑って龍麻が言う。ああ、この笑いは。龍麻は自分が悲しくても、僕に気を使わせないように、いつも笑って、それでこっそりと一人で泣く。
「ごめんねー、ほら、私って、思いついたら即実行だから、翡翠の迷惑なんて考えてなくって、だから…。」
笑いながら明るく言う龍麻の目から突如大粒の涙がぽろっとこぼれた。その瞬間、龍麻は側にあった荷物を掴んで立ち上がった。
「もう、帰るねっ。」
いけない!僕は思わず龍麻の手を取ってぐいっと僕のほうに引き戻した。
「わ、きゃぁっ!」
悲鳴をあげながらバランスを崩した龍麻が僕に倒れこんで、怪我のないように慌てて龍麻を抱きとめる。ぼすんと、龍麻は僕の腕の中に収まった。
久しぶりに触れる龍麻は、相変わらず柔らかくて、小さかった。
「ごめん。」
「え?」
僕が耳元でそう言うと、何で謝られたのかわからない龍麻は悲しそうにきゅっと眉を寄せて不審そうな顔をする。
「僕は、壬生に嫉妬していた。」
龍麻を泣かせるくらいなら、僕の恥をさらしたほうがマシだろう。龍麻の泣き顔なんて、絶対に見たくないし、一人で泣かせたくもないから。
「あのとき、壬生と一緒だったから。きっと、僕よりも壬生のほうが好きになったって思っていた。」
「そんなこと、ないもん。」
少し怒ったようにいうけれど、本当にそう思っていたのだから。
「僕は、龍麻の側にずっといたい。どうすればいい?どうしたら、僕の側にいてくれる?どうすればずっと好きでいてくれる?」
「翡翠…?」
信じられないようなものを見る目で龍麻が僕を見ていた。
「周りの人がプリンスだの若様だの、あれこれ言うけど、僕の中身はただの、どこにでもいる19歳の男なんだよ。龍麻を好きで好きで、だから失いたくないだけの、ただそれだけの男なんだ。」
僕はバカだということが、ようやくそこでわかった。本当にそれだけの男なのだ。自分でもかなり不器用だと思うけれど、これが如月翡翠という人間なのだから仕方ない。祖父からの教えどおり、何事にも執着せずに生きてきた。だから、世の中で、二つとない、大事なものを見つけても、それを守る術がわからない。
「翡翠。」
僕の腕に背を預けていた龍麻がごそごそと動いてこっちに向き直る。同時に花のような笑顔を浮かべて中腰になって、そっと僕の頭をその胸に抱きしめた。
「大丈夫。私はいつでも翡翠と一緒にいるから。」
とくん、とくんという龍麻の規則正しい心臓の音が聞こえる。
「ごめんね。驚かせようとして、逆に心配掛けちゃったんだね。」
頭の上から龍麻の優しい声が降って来る。それがなんだかひどく安心して、気持ちいい。
「でもね、これだけは覚えてて。ずぅっと、翡翠がもういいって言うまで、側にいるから。」
もういいなんて言葉、きっと僕は一生言わないよ。遠くなる意識の隅でそう決心を固めていた。


「翡翠?」
呼びかけても返事がない彼を抱きしめる腕をそっと緩めてみた。
すると、ほのかに微笑んだまま、彼は気持ちよさそうに寝息をたてていた。目の下にはくまができている。きっと、彼のことだからここのところあれこれと考えてしまってろくに寝ていなかったのだろう。
「19歳、おめでとう。」
私は小声で言うと、そっと翡翠の唇にキスをした。



                                                                                                        END

 

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