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6時間ほどの死闘を潜り抜け、早朝に帰宅して僕らはようやく人心地がついた。それから入手アイテムの整理と入手した金品の精算をしてから、買い取ったアイテムを蔵にしまい居間に戻ると龍麻が携帯電話からどこかへ連絡をしている。「ああ、まぁそんなところ。…そうだね、あと30分もしたら顔を出す。」
 電話中の龍麻の前に戻るのも躊躇われて、僕は居間の入り口に立っていたが、ほどなく電話が終わったようで、携帯電話のフリップを閉じる音を合図にようやく居間に入っていく。
 「…どこかへ行くの?」
 先ほどの会話から、これからすぐに龍麻はどこかに出かけるらしいということがわかった。
 できれば今日は一緒に過ごしたかったけど、別に約束をしていたわけではないし、龍麻だっていろいろと用事があるだろうから仕方がない。
 今朝の最終決戦には呼ばれなくとも、龍麻が仲良くしている人間は沢山いる。そういう人たちだって、どうなったのか、実際に龍麻に会って話をしたい人もいるだろう。
 別に責めたわけじゃなく、どこかへ出かけるのか聞いてみただけなんだけど、それが思いのほか拗ねるような口調になってしまって、自分でも恥ずかしくて俯いてしまった。
 「あ、…えと…別に…いいんだ。」
 慌てて言い訳をしようとして、僕はそれにも失敗して、余計に居たたまれない気持になる。
 だけど、そんな僕に龍麻が笑いながら返事をする。
 「一段落ついたから、実家に顔を出そうかと思ってさ。」
 龍麻の実家。
 龍麻は新宿で一人暮らしをしている。新宿の、龍麻が住んでいるマンションは拳武館の鳴瀧館長の持ち物であることも知っているし、鳴瀧館長から真神に転校することを勧められたということも聞いたが、そういえば、僕は龍麻の実家がどこにあるのかは全く聞いたことがない。
 「そうか…そうだな、やはり、無事に済んだんだ。…実家に挨拶ぐらいしないとだね。」
 「まぁね。いろいろと心配かけてるし。」
 龍麻はそこらに脱ぎ捨ててあった学ランを掴んで羽織る。
 実家に戻るというなら引き止めるべきではない。僕は玄関まで見送りに出ようと立ち上がった。
 「そうか。じゃあ、明日。打ち上げのときに。」
 そう言って、僕が玄関に向かって歩こうとすると後ろから龍麻が引き止める。
 「翡翠。オマエ、上着ぐらい着ていかないと風邪引くぞ?」
 その言葉に思わず立ち止まって龍麻を振り返ると、いつもの、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら帰り支度をしている。壬生に貰ったマフラーをしてテーブルの上に置いた携帯を胸ポケットにつっこんだ。
 「な…に?」
 「だから、オマエも行くんだよ。…ほら早く支度。」
 言われて、驚いて硬直してしまっていると龍麻はくすくすと笑いながら廊下を歩いて、僕の部屋に入って制服のブレザーと、龍麻と色違いで壬生に貰ったマフラーを取ってきてくれる。
 「こ、こんな格好で?」
 いきなりのことで僕は上ずった声で龍麻に聞く。最終決戦であちこちについた泥や異形のものの体液に塗れたズボンはあまりにもひどい。
 「構わないよ。」
 「待って。伺うのに、手ぶらじゃ…。」
 「構わないって。」
 龍麻はそういうけど、そういうわけにはいかない。僕は慌てて部屋に入るとスペアの服に着替えて、続いて台所から先日取引先から貰ったおせんべいの詰め合わせを取ってきた。
 「全く…手ぶらでいいっていうのに。」
 龍麻は呆れたように笑いながら玄関から出て行く。だって、龍麻の実家に初めて伺うのにそんな変な格好やみっともない真似はできないじゃないか。僕が本当の男だったらそれでもいいかもしれないけど、例え、今は男装して公表してなくとも一応女なわけだし、そういうこと気にして当然だろう。
 笑っている龍麻に続いて玄関から出て、家の鍵をきちんと閉める。
 「あ、そうだ。如月。自転車、あったよな?」
 急に龍麻に言われて、僕はきょとんとして龍麻を見返す。
 「あ、うん、庭に。」
 「鍵ある?それに乗っていこうぜ。」
 「鍵はついたままになってるけど…。」
 僕の返事を聞くが早いか龍麻は庭先に回って、いつもバイクを止めるところに置いてある自転車をとってきた。
 「お、丁度いい具合に荷台もついているな。よしよし。如月、後ろに乗れ。」
 僕が門扉を閉め、それに結界を施すと、龍麻は有無を言わせず僕を後ろに乗せた。たまに仕事で使う、いわゆるスポーツサイクルではない、ごく普通のタウンサイクルに僕らは二人乗りして新春の静かな町を走り抜けていく。かなりスピードが出ているので僕は落ちないように必死で龍麻にしがみついていた。
 「龍麻、一体どこに…?」
 「どこにって、うちの実家だって。」
 「だから、龍麻の実家って?」
 するとあれー?とかとぼけたような声が前からする。
 「言ってなかったっけ?俺んち、板橋なんだけど。」
 「板橋ぃ?」
 僕は思わず頓狂な声をあげてしまった。板橋なんて、僕の家から目と鼻の先。
 「うん。オレ、板橋区出身なんだ。仲宿に住んでたの。」
 くすくすと、龍麻の笑い声が聞こえる。
 これって、絶対にわざと言わなかったに違いない。笑い声がそう白状している。
 言われてみれば、龍麻はこの辺の地理には詳しく、僕が風邪を引いて倒れたときにはスーパーに案内もなしに行って買い物してきたことだってあった。そのときに気付くべきだったのかもしれない。
 「仲宿…。」
 呆れたように呟くとくすくすと笑い声が聞こえる。
 「近いだろ?電車で戻るより自転車の方が楽だよな。」
 そう言いながら龍麻はペダルをこいでいく。
 この辺は石神井川が流れているせいか、土地の高低差があり、僕の家から仲宿あたりにでるまでに坂を上り下りしなければならない。だけど、僕の家から地下鉄に出るまではかなり歩かなければならないので確かに自転車で行った方が一番いいかもしれなかった。
 「龍麻。わざとだまっていたんだろう?」
 「さぁね。オレは言ったつもりだったけど。」
 龍麻はとぼけてから下り坂でスピードが出るからと僕に注意を促した。やっぱり龍麻はわざと黙っていたに違いない。それどころか、もしかしたら僕の家だって昔から知っていたのかもしれないし。
 やがて龍麻は旧中山道に出ると慣れたようにすいすいと走っていく。街道沿いに発展したらしい商店街は正月のせいでほとんどしまっている。
 商店街の中ほどにある整体院の角を曲がり、ちょっと入ったところで自転車のブレーキをかけて止まった。
 「着いたよ。」
 自転車から降りて目の前にある建物を見てみると、そこは漆喰の壁が続く敷地の中に大きな建物があり、壁の少し前方にかわら屋根のついた門が見える。龍麻は僕の自転車を引いてその門に入っていった。僕も続くと、その門には正月らしく綺麗に門松が飾ってあり、門柱にかかっているかなり古びた木の看板に、墨で力強く「緋勇武道場」とあった。
 「…道場なのか。」
 「そういうこと。表の骨接ぎもやってんだけどね。」
 中に入ると、正面には和風の庭があり、左手には道場、庭の向こうが母屋になっているようだった。龍麻は道場の前の砂利に自転車を止めると庭から母屋の玄関を目指す。よく手入れの行き届いている庭を抜けて玄関にたどり着くと、龍麻はためらいもせずに元気良くがらりと玄関の引き戸を開け放った。
 「ただいまーっ!」
 そう言って靴を脱ぐ。右側にあるスリッパ立てから緑色の少し使い古したスリッパを取って履いて僕を振り返る。
 「翡翠も、上がれよ。」
 龍麻に促されて僕は戸惑いながらうなづき、同時に奥から誰かの足音が聞こえたので廊下の奥のほうを見やる。
 「おかえり、龍麻。」
 出てきたのはお母さんらしい人。優しそうな、和服姿の中年の女性は嬉しそうに微笑んだ。いかにも母親らしく慈愛に満ちていて、それだけでなく、日本女性らしい柔和な美しい人だった。
 「ただいま。母さん、お客さん。」
 「いらっしゃいませ。」
 玄関に僕の姿を見つけると、龍麻のお母さんはにこやかに微笑んで、僕にスリッパを揃えてくれる。
 「はじめまして、如月と申します。」
 「まぁ…綺麗なお嬢さん。はじめまして、龍麻の母です。汚いところですけど、どうぞ上がってくださいませ。」
 龍麻はくすくすと笑いながら顎で僕に上がるように促した。
 お嬢さん。僕はそう言われて顔が赤くなるのがわかった。龍麻は前もって僕を連れてくるといってあったらしい。男の服を着ていても女性に見られるのは初めてだった。
 「さぁ、どうぞ。龍麻、居間にお父さんも待っているわ。」
 「兄さんは?」
 「お友達のところに出かけてしまっているの。…そうね、もう少ししたら戻ってくるわよ。」
 僕はお邪魔しますと、挨拶してから上がって龍麻の後ろについて廊下を歩き出した。南の、和風の庭に面した部屋に龍麻は入っていく。
 「父さん、ただいま。」
 「おかえり。ご苦労だったね、龍麻。」
 その部屋にいたのは、龍麻にどことなく面差しの似た五十くらいの男性で、その体格のよさは龍麻に通じるものがある。これが龍麻の養父なのだろう。意志の強い瞳をしていて、なるほど、龍麻の血縁らしい感じがする。
 「ま、他のヤツらも結構強いからね。かなり構えていったんだけど、思いのほか楽だったよ。」
 「そうか。さぁ、君もどうぞ、遠慮せずに中に入りたまえ。」
 僕は部屋の中に入ると挨拶をするために座り、畳に手をついた。
 「初めてお目にかかります、如月翡翠と申します。龍麻とは縁あって一緒に戦った者です。本日は、急にお邪魔して申し訳ございません。」
 そう言ってお辞儀をする。
 「…ご挨拶代わりにもならないようなつまらないもので恐縮ですが、どうぞお納めください。」
 そう挨拶してもってきたおせんべいを差し出した。
 「これは随分ご丁寧にありがとう。私が龍麻の父です。…このたびは龍麻の力になってくれたようで、私からも礼を言わせてもらいますよ。本当に、ありがとう。」
 にこ、と笑う顔が龍麻に似ている。
 「…ふむ、最近には珍しいなかなかきちんとしたお嬢さんだ。」
 にこにことしながら龍麻の父はそう言った。僕は照れてしまって真っ赤になって俯いてしまう。
 龍麻は僕のことをなんて言ってあったのだろう。
 「翡翠は商売やってるからね。…家の躾もなかなか厳しかったみたいだし。」
 「商売?」
 龍麻の父さんは不思議そうに首を傾げた。
 「ほら。昔、手甲を入手した店。北区の如月骨董品店。あそこ、翡翠の店なんだよ。」
 どうやら昔、うちで手甲を買ったことがあるらしい。僕は覚えがないからきっとお爺様のときに来たのだろう。
 「なるほど、あの店のお嬢さんだったのか。」
 ふぅむとうなづいて納得しているお父さんに、じれたように龍麻は口を開く。
 「ところでさ、今日はちょっと話があってね。」
 龍麻が急に真剣な顔を見せ、食べずに手で弄んでいたみかんをテーブルに置いてからきちんと正座に座りなおす。その様子に僕は、はっとして顔をあげて龍麻を見た。
 「なんだね?」
 僕と同じく、急に様子の変わった龍麻にお父さんも訝しげに首を傾げる。
 「無事に役目も済んだし、高校もあと3ヶ月で卒業だからこのまま真神に通うけどさ。将来のことについて話しておきたいと思ってさ。」
 相談、ではなくって話しておきたい、というのがいかにも龍麻らしい。
 「ふむ。そうだな、もう受験の季節でもあるしな。」
 「去年のうちにセンター試験の受験票は出しちゃったし事後報告で悪いんだけどさ。俺、考古学方面に進みたいんだ。」
 「ふむ。」
 そう言いだすのが分かっていたのか、別段驚いている節もなく、だまって龍麻の話を聞いている。
 「父さんの接骨医、継ぐのも悪かないんだけどさ。兄ちゃんがせっかく医大に通ってまで頑張ってるから、オレの出る幕じゃないし、一番やりたいことしたいしね。」
 やっぱり龍麻は考古学に進むのか。僕は心の中でしょうがないなと苦笑する。龍麻がやりたいことを僕に止める権利はない。
 「まぁ、それも良かろう。」
 全て予定に入っていたこととでも言いたげにあっさりとお父さんがうなづいた。
 龍麻に従兄弟がいるといっていたから、この道場も、商店街沿いにある接骨医もその従兄弟が継ぐのだろう。
 「悪いね、不肖の甥っ子で。」
 口では謝っているが、全然すまなさそうではない。お父さんは苦笑しながら首を振る。
 「おまえは自分で言い出したことは絶対に引かないしやりとおすからな。なにより、もう18だ。親の言う通りという年でもなかろう。」
 「サンキュ。そう言ってくれると思ってた。」
 にこ、と龍麻が笑顔を浮かべて、それから今度は僕のほうを見る。
 「それから、もう一つ。オレさ、今日にでも婚約したいんだけど。」
 婚約?誰と!?
 幾たびもの龍麻の爆弾発言に少しは慣れた気持でいたが、さすがにこれには僕も吃驚して龍麻の顔を見ると、龍麻がおかしそうに笑いながら僕を見てうんうんとうなづいた。やっぱり、相手は僕、らしい。
 不意打ちの発言に僕は面食らってしまった。
 そしてさすがにその龍麻の発言にはお父さんは驚いて、飲んでいたお茶を噴出しそうになっていた。
 「た、龍麻…それは一体…。」
 むせていたのもなんとか抑えて龍麻のお父さんが尋ねるとあっけらかんと、明るく龍麻は言い放つ。
 「こいつと。…俺、婿養子になる。」
 いくら懐が大きそうな龍麻のお父さんでもそれには驚いて凍り付いてしまった。
 やれやれ。龍麻って、普段から人を驚かせたりして周囲の人間を振り回すのが好きらしい。付き合ってる僕にさえも言わないで、いきなりココに連れてきて婚約します、婿養子になりますは誰だって驚くだろう。
 というより、当の本人である僕自身もかなり驚いている。
 それでもこうやって少しは冷静にものが考えられるのは、去年から龍麻の言動に振り回されてやはりいくらかは慣れて来たのかもしれない。
 「結婚はちゃんと状況が整ったらするけどね。とりあえず二人とも未成年だから婚約どまり。こいつんち、家を潰すわけにはいかないからさ、オレ、婿養子に入ろうと思って。」
 凍り付いていたお父さんはその説明に我にかえってまじまじと僕と龍麻を見比べる。
 「龍麻。まず、如月さんのご両親の承諾は得たのかね?」
 こほんと咳払いをした後に、お父さんが龍麻に尋ねる。
 「それは無理。翡翠のじいさん、行方不明だし、お母さんは亡くなっているし、父さんも音信不通。こいつから連絡取れないって言うし。」
 その状況に、龍麻のお父さんはすまなさそうに僕を見た。
 「それは…申し訳ないことを…。」
 「随分と前からなので…気にしておりません。」
 僕は手を振りながら答える。
 「あの骨董品屋も現在はこいつの店ってわけ。」
 「ほう…跡を継いだのですか。」
 「はい、3年前に正式に祖父より譲り受けました。」
 僕の返事に驚いたように目を見開いて、それから了承したというようにうなづいて、もう一度龍麻を見る。
 「しかし、婚約は大学を卒業してからでも遅くないだろう?」
 すると、龍麻はそう言われるのがわかっていたようににやり、と不敵な笑みを一瞬だけ頬に刷いた。
 「翡翠、今は今回の戦いのために男として学校に通っているけどさ、3学期からは女として学校に通うんだよ。父さんも知ってると思うけど、あの家、店舗も含めてかなり広いし、しかも値打ちものが沢山あるだろう?」
 「ああ、そうだな。」
 「そんなとこにさ、女の子一人住んでるとなれば、いくらこいつが腕が立つって言ったって物騒なことこの上ないよな?あの店、結構有名だから多分泥棒とかにも狙われると思うんだ。」
 「それは確かに…。」
 お父さんはうんうんとうなづいた。
 「オレさ、近いうちに新宿のマンション引き払ってこいつんちに同居しようと思ってさ。」
 それは僕も初耳で、吃驚してしまった。僕が驚くのがわかっていたように、龍麻は僕ににこりと微笑んでかすかにうなづき、また視線をお父さんに戻す。
 「男が一人でもいればまだマシだろう?だけどさ、ただ一緒に住んでるだけだと、こいつが近所から白い目で見られるじゃん。男を連れ込んで、って感じで。」
 「うーむ。」
 「だから、ちゃんと婚約するわけ。OK?」
 龍麻の説明を聞いて、僕はとにかく驚いてしまって声も出なかった。
 今朝、女子の制服を見つけて、僕が女の子に戻りたいといってから僅かな時間にそこまで僕のことを考えてくれているとは思っても見なかった。女の子に戻りたいというのは完全に僕のわがままなのに、そんなことを心配して婚約するとまで言い出してくれた龍麻に吃驚していたのだ。
 僕は本当に龍麻に大事にされている。
 嬉しくて、でも恥ずかしくて、僕はどんなリアクションをとっていいかわからずに、ただ、真っ赤な顔でそこに座り込んでいた。座っていたから他の人には気付かれないだろうけど、あまりのことに吃驚して腰が抜けたみたいに体中に力が入らない。
 「オレさ、まだ若いけどさ、多分、一生翡翠以外はいらないと思う。…斬られて死にそうな間際でさえこいつのことしか考えてなかったし、逆にいえば、翡翠に会うために生き返ってきたようなもんだし。これって結構重症だと思わない?」
 くくくっとおかしそうに喉の奥で龍麻が笑う。
 「緋勇の名前、捨てちゃうのは悪いけど、兄ちゃんがいるから緋勇がなくなるわけじゃなし。それにひきかえ、如月の家は翡翠しかいないから婿を貰わないとなくなるんだぜ?元禄創業の伝統を潰したら、ご先祖に顔向けできないだろ?」
 龍麻の説明に、最初は驚いていたようなお父さんの顔がだんだん穏やかになってきた。
 「君は、…いいのかね?こんな、先もないようなふらふらしたのを、本当に婿にしても後悔しないかね?」
 真っ直ぐな、強い瞳で尋ねられて、僕は思い切りうなづいた。
 「龍麻がこうやって僕を驚かすのには…もう慣れましたし…僕は…龍麻がいてくれるなら、どんなことだって楽しい。…それに、僕は自分の店がありますから、龍麻が働かなくても生活はしていけます。」
 だから、好きなことを捨ててまで生活を成り立たせようと龍麻が無理をしないように。僕は龍麻がやりたいことをやらせてあげたい。
 僕の答えにお父さんはくすくすと笑って肩を竦める。
 「如月さんも覚悟の上なら、これ以上は言うは野暮というもの。…どうぞ龍麻をよろしくお願いします。」
 そういって、お父さんは深深と頭をさげた。
 僕も慌てて威儀を正して頭を下げる。
 「そうと決まれば、酒だっ!母さん、酒をもってきなさい。」
 奥のほうからお母さんのはーいという返事が返ってくる。
 「そうか、婚約ねぇ。」
 お父さんは、嬉しそうに笑いながら、それでも瞳には涙を浮かべていた。
 
 その夜、僕は龍麻の家に泊まることになった。
 あれから僕も龍麻も、婚約祝いだと保護者監督のもとさんざん酒を飲まされた。あとから来た鳴瀧館長や龍麻の従兄弟にも当然、婚約の話は披露され、さらに飲まされ、僕らは夕べから一睡もしていないことも相俟ってそのうちにふらふらになってしまった。
 龍麻のお母さんが飲ませすぎですっ!とお父さんと鳴瀧館長の二人をあの柔和な外見に似合わないすごい剣幕で怒鳴りつけ、龍麻の部屋に布団を用意してくれて、そのままお泊りになったのだった。帰ろうと思えば帰れたけれど、正直、足元はかなり怪しいのでそのままお言葉に甘えることにしたのだ。
 明日、朝のうちに家に戻れば宴会の準備は間に合うだろう。
 「なあ、翡翠。起きてるか?」
 酒には酔ってるけど、正気は失っていない僕は短く返事を返す。隣の布団で寝ていた龍麻はごそごそと布団の中で寝返りを打って僕のほうを向き直った。
 「そーゆーわけでさ、おまえんちに、引越しするから。」
 「もう…前もって言ってくれればよかったのに。…僕、あさってから学校のスキー教室で留守なんだけど…。」
 「翡翠の時間がとれたらでいいじゃん?オレ、どうせ荷物少ないからすぐに済むし。」
 「そうだね…。」
 龍麻と一緒に暮らす。僕はまだなんとなく信じられない。
 「ねぇ、龍麻。…ほんとにいいの?」
 僕はおそるおそる聞いてみた。
 「何が?」
 「僕と婚約なんかして。」
 僕なんかに自らを縛りつけるようなまねをして、それで龍麻が窮屈になって嫌われるのはイヤだった。無論、婚約してくれるのはすごく嬉しい。すごくラッキーな夢を見ているみたいで、本当の出来事なのかわからなくなるほどだった。
 すると龍麻がくすっと、小さく笑ってから腕を伸ばして隣の布団に寝てた僕の体を抱いて自分の布団に引き寄せる。
 「ばーか。翡翠こそ、後悔すんなよ。こんな石潰しの旦那を貰わなきゃ良かったって。」
 「石潰しでもいいよ。…僕、どんなことがあっても龍麻のこと好きだから。」
 もう充分すぎるほど幸せで、龍麻がくれた幸せは、一生分噛み締めたっておつりがきそうなほど一杯だから、たとえ、この先にどんなことがあっても、僕はずうっと幸せな気持でいられる自信がある。
 「そっか…ありがとな、翡翠。」
 僕の言葉に龍麻は嬉しそうに笑って、僕の顔にかかった髪を後ろに梳いてからそっと頬にキスを落とした。
 
 
 
 
 
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