君に幸あれ

 

学期末試験も今日で終わり、これからテスト休みに入るという日のことだった。
「ああ、すっげぇ美人だったぜ。」
「へえ。…案外、館長の隠し子だったりしてな。」
「似てねぇよ、全然。そんじょそこらにいるような女じゃないぜ、かなりの上玉。」
勉強尽くめでなまった体を動かしに久しぶりに道場に行こうとしていた時だった。同じクラスの男共が何かを噂しているのが耳に入った。いつもだったらそのような話は聞き流すのだが、館長がらみで美人ということで思わず耳をそばだててしまったのだ。
「同年代?」
「ああ。私服だからよくはわからないがな。」
「館長室に案内も呼び出しもなしに入れるなんて、よっぽどの奴だぜ。」
龍麻だ。すぐに噂の女性の身元がわかった。世の中広しといっても館長室にノックだけで入れるような人物、それも女性は一人しかいない。
今月の初めにとある事件がきっかけで龍麻に協力して戦うことになった。僕は最初は知らなかったのだが、龍麻は僕の妹弟子で、龍麻の父親の友人であった誼からか館長が後見人となっている。それも猫かわいがり、といった言葉がぴったりに合うくらいに館長は龍麻に甘い。事件の後、副館長派を一掃し、その報告をした僕に、龍麻に怪我はなかったか、危ない目には会わなかったかとしつこく聞いた挙句に、直接尋ねればどうかと冗談で言った僕の言葉に、本当に龍麻に直接電話をかけて普段とは全く違った物言いで大丈夫だったかとしつこく尋ねていた。はっきり言って危ない目にあったのは僕の方。現に龍麻にはこてんぱんに負けたわけだし。それに龍麻の実力だったら、拳武館はもとより、龍麻の元に集まっている仲間達にも彼女を倒せる腕を持った人間はいないと思う。
「3年戌組、壬生紅葉。至急館長室まで。繰り返す。3年戌組、壬生紅葉。至急館長室まで。」
やはり。僕は心のどこかでおそらく呼び出されるであろうことを予想していた。クラスの人間が注視する中、僕は席から立ち上がって館長室に向かうべく廊下をゆっくりと歩き始めた。
龍麻と会うのは1週間ぶりぐらいか。お互い、期末テストなどで忙しくなるために真神学園の旧校舎潜りも控えていたのだった。
龍麻と会うのは僕にとって嬉しいことだった。あの、龍麻の操る武道への興味もさることながら、彼女の自身の不思議な魅力、考え方、そして笑顔に接することができるのは楽しかったから。新しく仲間に入った僕に、まるで旧知の友人のように接してくれるし、何より互いの技を磨きあうことができるというのはこの上もない魅力だった。旧校舎潜りは彼女に会える絶好の機会だったけど、それもできなくなってしまって残念に思っていたのに、こうして予想外なところで会えるのは本当にラッキーだ。顔には出さなかったけれど、僕はかなり浮かれた気分で館長室にやってきた。2度ノックして扉の外から声をかける。
「3年戌組壬生紅葉、参りました。」
「入れ。」
「失礼します。」
扉を開けて中に入ると、やはりそこには龍麻が立っていた。ただし、今日は真神学園の白いセーラー服ではない。女の子らしく、クリーム色のニットのアンサンブルにウールのブラウン系のAラインスカートというごく普通のいでたちだった。
「久しぶりね、紅葉。」
そう言って微笑む龍麻は相変わらず綺麗で、見惚れそうになる。
「久しぶり。珍しいね、ここまで来るなんて。」
「鳴瀧のおじさまに呼ばれたの。まぁ、私も用事があったんだけど。ねぇ、おじさま?」
龍麻の問いかけに館長が困ったように笑った。
「まぁ、こうでもしないと顔を見せてもくれんからな。ところで、壬生。」
「はい。」
「龍麻と、手合わせしてやってくれないか。どうも勉強で体がなまっているようでな。」
「構いませんが…。」
ちらりと龍麻を見るとにっこりと微笑をたたえている。
「道場をあけてある。私も後で見に行こう。龍麻を案内してやってくれ。」
「はい。」
僕は龍麻を連れて館長室を出た。
「急に来るからびっくりしたよ。」
「うふふふ、ごめんなさいね。…ねぇ、紅葉。」
「なに?」
「紅葉って、人気あるのね?」
すごい発見でもしたかのように嬉しそうに龍麻が笑う。
「何を言って…?」
「だって、ずっと女の子が見てるよ?」
龍麻に言われてぐるりと回りを見回すと確かに女の子が沢山僕らの方を見ている。けれど男だっている。
「ただ単に君が珍しいだけじゃないのか?僕のクラスでも噂になっていた。館長室に案内も呼び出しもなしで入れるなんていったい誰だってね。」
「無自覚なのね?」
龍麻が可笑しそうに笑った。これは誉められているのだろうか?僕は多分その時に複雑な表情をしていたに違いない。
「自分をちゃんと客観的に見れないと、いけないわ?敵を知り、己を知れば百戦危うからずって言うでしょ?」
龍麻はそう言ってふふふと笑った。
「女子のロッカー室はこっち。道場はここを出たところ。」
僕はなんとなくからかわれているような気がして、龍麻の笑いをさえぎるようにしてロッカー室をさした。
「道着じゃないんだけど、いいかなぁ?」
「え?」
「ジーンズ。いい?」
「勝手に。僕は着替えさせてもらうから。」
そう言って、僕は男子ロッカー室に入っていった。
僕みたいな男がもてるわけないじゃないか。道着に着替えながら考える。僕は女の子と話すのが苦手だ。それに自分では気付かないけど、目つきが恐いらしいし。第一、にこやかな暗殺者っていうのもどうかと思うし。それに、なるべく親切にしようと思ってはいてもなかなかうまくできない。如月さんみたいならともかくも、愛想も何もない僕みたいな男を好きになる女なんているわけがない。
着替えてから道場に入ると、龍麻はすでにジーンズ姿でいた。館長と話をしている。
「随分、ギャラリーが多いのね?」
龍麻の言葉に館長がくるりと見回した。確かに、道場のまわりの窓という窓には人だかりができている。
「気になるかい、もし嫌だったら…。」
「私は構わないわ。紅葉がいいのなら、このままで。」
僕を挑発するように言う。
「僕も構わない。」
「そう。それなら始めましょう。」
龍麻は道場のほぼ真中ほどに立つ。
「紅葉。これは実戦のつもりでやって頂戴。いいわね?」
「ああ。」
「手加減無用よ?あなたに隙があれば、全力で打ち倒すわ。」
にやりと、その美貌に悪魔が宿ったように口の端だけで彼女は笑った。背中をぞくりと悪寒に似たものが走る。
「わかった。その言葉、僕もそっくり君に返すよ。」
彼女の目は笑ってはいず、そして館長も真剣な表情をしている。本当に本気らしい。
「準備できたよ。」
「始めましょう。」
それとともに、彼女の全身から凄まじい勢いで清冽な金のオーラが立ち上り始める。これが陽の龍。黄龍の器である彼女の気。見えるものは畏怖の念を抱かずにはいられない、激しい気の奔流。
「はぁぁぁぁっ!」
その気が塊となって襲ってくる。以前地下鉄の駅で戦ったときよりも激しかった。あの時はやはり僕を本気では倒そうとしていなかったのだと、改めて思う。
「やぁっ!」
龍麻の攻撃を受けても、僕とて旧校舎潜りで随分と鍛えられたからすぐにはくたばらない。お返しとばかりに龍牙咆哮蹴を放つと吹き飛ばし効果で龍麻の体が後ろに飛んだ。
「やるわね。」
嬉しそうに龍麻は立ち上がると構え直す。
「こうじゃなくっちゃ、楽しくないわ。」
秘拳黄龍はさすがにきついけど、それでも僕はまだ立っていられた。すぐさま裏龍神翔で応酬するが、螺旋掌でやりかえされる。あまりに激しい技の応酬に館長も言葉もなくし、ただ僕たちの戦いを見つめている。常人ならばとうに倒れているはずだが、お互いにかなり鍛えているのでまだまだ戦える。そうして、技を掛け合いながら戦うことしばらく。互いの技が徐々に生命力を削っていき、もうすぐに決着もつこうというところだった。龍麻に一瞬の隙ができたのだ。
「はぁっ!」
僕は迷わずに龍牙咆哮蹴を龍麻に向けて放った。龍麻の体が再びふっとんで後ろの壁に激しく打ち付けられる。龍麻の体はずるりと力なく床に崩れ落ちた。これで終わり、のはずだった。
「いったーい。」
龍麻は僅かな生命力を残して再び立ち上がったのだ。しまった!瞬間的に僕の頭には後悔がよぎった。他の技を先にかけて最後に龍牙咆哮蹴で飛ばすというコンボにしておけばよかった。ダメージが少なすぎたのだ。龍麻はにやりと不敵に笑うと、こちらに寄ってくる。八雲をまずは食らってしまい、ダメージを受けた僕に、龍麻は容赦なく鳳凰を浴びせ掛けた。まばゆい龍麻の気が襲い掛かってきて、そして暗転。ブラックアウト。
また負けてしまったな。僕は沈む意識の中でそんなことをぼんやりと考えていた。
「紅葉、紅葉?」
ぺちぺちと、頬を軽く叩かれる感触でふぅっと意識が浮上する。目を開けると、目の前には龍麻の心配そうな顔があった。
「大丈夫?」
「ああ。平気だ。」
僕は体を起こして頭をぶんぶんと振った。龍麻はほっとした顔をすると、立ち上がって館長の方を向いた。
「どう?後継者としては、合格かしら?」
「ああ。1年で随分と腕をあげたものだな。みちがえたよ。」
後継者?僕は館長と龍麻を見ていた。
「そりゃあ、いろいろあったもの。まだコトが片付いたわけじゃないけどね。」
龍麻はにっこりと笑った。置かれている状況は決して予断を許さないはずなのに、なのにどうしてこんなに笑っていられるのだろう。館長はまだ畳に座ったままでいる僕を苦笑して見つめながら龍麻に聞いた。
「壬生は、少しは役に立ちそうか?」
「充分だわ。彼はとても強いし、それに優しいから。」
そう言って、龍麻も僕の方を見た。
優しい?僕は言われたことのない言葉を聞いて戸惑っていた。
「さてと。随分長居しちゃったから、そろそろ帰るわね。」
その言葉にはっとして僕は慌てて立ち上がった。
「送っていくよ。」
「ありがと。お願いするわ。」
急いでロッカー室に戻って制服に着替える。
優しい、か。僕は先ほど龍麻から言われた言葉を頭の中で反芻していた。そう言われるのは恥ずかしいけど、なんだかとても嬉しかった。僕を嫌いではない、そう思うと安心に似た感情と、今まで感じたことのないようなとろけそうな甘さがじんわりと胸の中に染みていく。
外に出ると龍麻は既に元のスカートに着替えていた。校門のところまで館長も送ってきてくれて、僕はそのまま館長に挨拶をすると龍麻と一緒に学校を出た。
「さっき、君は後継者って言っていたようだったけど、館長の後継者に、君がなるのかい?」
さきほど気になった言葉を聞いてみる。
「そう考えているみたいよ。」
たいしたことではないと、そんな感じで答えが返された。
「その話で、今日、拳武館に?」
「ううん、違うわ。今日はね、私、誕生日なの。」
「え?」
驚いて彼女の顔を見ると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「おじさま、プレゼントを渡したいからって。だから受け取りに来たのよ。」
そうか。彼女の誕生日なんて知らなかった。出会ってからまだ半月ばかりだからデータ不足なのだ。
「その、おめでとう。…知ってたら、何か用意したんだけど。」
「ありがと。そうね、もし良かったらお願い、聞いてくれる?」
「お願い?」
「そう。お願い。」
そう言って立ち止まって強い意思の宿った瞳で僕をじっと見つめる。
「僕でできることなら。」
「あなたにしか、できないことなの。」
僕にしかできないこと?一体、なんだろう。まっすぐと僕を見つめる瞳に戸惑う僕が映し出されている。
「ここじゃ言えないわね。大事なことだから。…人が少ないところ、どこかない?」
「じゃあ、僕の家に来るといい。…そういえば、時間ある?」
「あるけど。何?」
「誕生日、っていったよね。ケーキでもどう?」
「わ、ホント?ありがとう。」
龍麻は目を輝かせて嬉しそうに言った。やっぱりこうしていると普通の女の子なんだよね。


「これで30分焼けばできあがり。」
「すごいねぇ。紅葉ってば、ほんとに器用。」
僕の横で感心したように龍麻が言った。
「そうでもないよ。」
汚れたボールやゴムのへらなどを洗いながら照れ隠しにそっけなく答える。
「翡翠といい勝負だよ。」
龍麻の言葉に僕は首をかしげた。
「翡翠?」
「如月のこと。下の名前が翡翠って言うんだ。覚えてる?骨董屋。」
僕の脳裏にはさらさらとした黒髪の、温和な顔が思い浮かぶ。龍麻と出会った時に応援として駆けつけて来ていたし、旧校舎潜りでは必ずいる人である。普段は温和で、でもその実、龍麻が絡むととんでもない激情家になる。
「ああ。」
「翡翠はね、和食作らせると凄いよ。そうそう、翡翠も一人暮らしだから。」
和食ねぇ。なんだかあんまりに予想通りでおかしくなる。聞いた話によると、彼は由緒正しき忍者の末裔なんだそうだ。
「で、いつもご馳走になっている、と。」
「いつも、ではないけれどね。今日もお呼ばれしてたんだけど、おじさまに会う方が優先だったから断っちゃった。」
「如月さんよりも館長?」
「当たり前でしょ?後見人ですもの。」
龍麻は冷めかけた紅茶をこくりと飲んだ。
「で。ところで、僕にお願いって?」
「あ、そうだった。大事なこと忘れるところだったわ。」
にっこりと、龍麻が笑って紅茶のカップを置く。
「紅葉、私を殺してくれる?」
は?僕は余りの言葉に固まってしまった。今、なんて言ったんだろう。もし、僕の聞き間違いでなければ彼女はとんでもないことを口走ったのだが。悪戯成功というように、無邪気に笑う龍麻に僕は聞き返す。
「な、に?」
「だから、私を殺して?」
もう一度、はっきりと彼女が言った。聞き間違いではないらしい。
「どうして?」
理由を尋ねる僕に、更に嬉しそうに目を輝かせて龍麻が言う。
「ダメって言わないのね?」
「理由を聞くのが先だね。どうしてそんなこと?」
「やっぱり、紅葉だわ。うふふふ、紅葉のそういうとこ、大好き。」
大好き。いきなりそんなことを言われて、普通だったら心臓が跳ね上がるくらいに驚くだろうけど今はそれどころじゃない。龍麻の不可解なお願いの、理由を聞かなくてはいけないのだ。
「龍麻。」
咎めるような僕の口調に龍麻はひょこっと肩を竦めて、それからゆっくりと話し出す。
「私の力は紅葉も分かってる通り、かなり強大なものになっている。それを私自身がコントロールできているうちはいいけど、もし、この力が制御できなくなったとしたら。最近ね、そんなことをよく考えるのよ。」
龍麻はそう言って少し俯いた。
「自分自身を傷つけるのならかまわない。だけどね、この力が制御できなくなって、他の誰かを傷つけるのだとしたら。それだけは嫌なの。そんなことになるんだったら、私は誰かに殺されたほうがマシ。」
「で、そのときに君を殺す役目を僕に頼むと、そういうことかい?」
「ええ。紅葉じゃなきゃダメなの。」
「他にもいるんじゃないのかい?蓬莱寺とか、醍醐とか、それこそ如月さんとか。」
僕は旧校舎潜りの固定メンバーで強力な技を持っている人たちの名前をあげた。すると龍麻はふるふると首を振り悲しそうな表情を浮かべる。
「だめなのよ。」
そう言って龍麻はふぅっとため息をひとつ漏らした。
「京一も、醍醐も、理由はどうであれ私を殺すことはできないから。他のみんなも。翡翠にいたっては、私を護るのが役目だから、私がどうなろうとも最後まで私に付き従うそうよ。例え私が彼を殺しても、ね。」
龍麻に協力する仲間達。その男性達はほとんどが龍麻の信奉者であり、龍麻に惚れているもの達でもある。その大事な龍麻が自分を殺してくれなどと言ったら、普通は誰だって首を振るだろう。
「紅葉だけよ。私と戦って、隙があったときに迷わずに最強の技を叩き込んでくれたのは。」
くすくすと彼女は可笑しそうに笑った。
「あれは…本気だって言うから。」
「そうよ。もし、私が狂ってしまったら、あれで躊躇していたら自分がやられるわ。そうでしょう?」
そう。戦いにおいては一瞬の躊躇さえ命取り。たとえ相手が自分の知人であろうとも、それは自らが生き残っていくためには決してやってはいけないこと。それがただの稽古ならばそれでいいかもしれない。だけど、今日は本気と彼女は言ったのだ。その違いを分かっているのは確かにあの仲間内ではいなさそうだった。
「だから、紅葉だけなの。ね?お願い。」
少しだけ甘えたような響きを含んだ彼女の声音に僕は思わずうなづいてしまった。殺してくれ、か。確かに、人殺ししか能がないと、以前彼女には言ったけれど。
「よかった。」
僕が了承したことで龍麻はほっとしたように呟いて、力が抜けたみたいにテーブルに突っ伏した。
「その代わり、君は僕以外の人に殺されちゃダメだよ。」
僕の出した交換条件に、彼女はくすくすと笑い声を漏らす。
「わかったわ。」
「じゃあ、龍麻の頼み、ちゃんと覚えておくよ。」
「紅葉は優しいから、きっと聞いてくれると思った。」
テーブルに伏せた顔をこちらに向けてにこりと彼女は笑いかける。
「優しくなんかない。」
その笑顔があまりに儚くて、見ているほうが辛くなった。普段の、明るくて強い笑顔からは想像できないほどの脆さと危うさを含んでいて、同一人物なんて信じられないほどの悲しい笑顔。
「優しいよ。…その時になったら、あとで自分が苦しくて、辛い思いをするのに、私との約束を果たしてくれるでしょう?」
「約束だからね。」
「ほら。」
笑いを忍ばせるように、再び顔をテーブルに突っ伏してくすくすっと笑った彼女の声があんまりに無邪気で、話している内容とギャップがありすぎて、その違和感に、僕はそっと彼女に近寄ってみた。
「できるだけ、そうならないようにするから。でも、もしそうなっちゃったら、ごめんね。」
そう言った彼女の肩は僅かだけど震えていた。
黄龍の器。女性の身でその立場にいるのはどんなにか辛いことだろう。自分を慕い、集ってくる者たちの安全も考え、華奢な双肩に未来をも背負って、自分の暴走を心配して自分自身の暗殺をも依頼するような、そんな切羽詰った状況に立たされているなんて僕は気付かなかった。…この分では、もしかしたら蓬莱寺や醍醐といった一番身近にいる者達も気づいていないのかもしれない。そんなあまりにも重すぎる負担に、弱音を吐くことも許されず、いつも笑っている彼女の真実をいま見たような気がする。その辛さは僕などがわかってやれるものではないけど、もし、僕との約束が保険にでもなって、少しは楽になるのだったらいくらでも約束してやろう。
「ごめんね、紅葉。」
「かまわないよ。僕も、君がそうならないようにできることがあったら協力するから。」
龍麻が僕の言葉に驚いたようにぴょこんと顔をあげた。その目は真っ赤で、鼻も少し赤い。
「ほら。」
僕はポケットに入っていたハンカチを彼女に渡した。彼女はそれを照れくさそうに受け取るとそっと涙を拭う。
「えへへへ。かっこ悪い。」
笑った顔がまたすぐに泣いてしまいそうで、彼女の泣き顔を見るのは辛くって僕は反射的に腕を伸ばしていた。
「あ…?」
そうして気付くと、龍麻を抱きしめていて。かなり自分でも慌てたけど、やってしまったことは取り返しがつかなく、遅かった。どうしよう。腕の中には硬直した龍麻。
「あの、…その…。」
あまりのことに僕がしどろもどろになっていると、逆に龍麻が可笑しそうに言う。
「紅葉。ちょっとだけココ貸してね?」
「あ、うん。」
龍麻は僕の腕の中でもぞもぞと動いて、おさまりのいい場所を探してほっと息をついた。しばらくそのままでいたけれど、やがて静かに肩が震え始める。
龍麻も、声を出さずに泣くんだな。僕はそっと龍麻の背中をぽんぽんと叩いてやった。声を出さずに泣く辛さはわかるから、大声を上げて泣くことが出来ればいいのに、それができない悲しさが少しでも和らぐように。今の僕ができることはそれぐらいしかないから。彼女が落ち着くまで僕はずっとそうしていた。
キッチンでオーブンがチーンという音で焼き上がりを知らせてくれる。
「あー、お腹すいちゃった。」
その音につられたように龍麻は顔をあげた。やっぱり目は真っ赤で、鼻も随分と赤い。
「すぐにデコレーションしよう。」
どうか、彼女が幸せであるように。早くこの一連の事件が終わりを迎えますように。僕はらしくもなく、偶然と奇跡もたらすと信じられているモノにそう祈りつつ、とりあえずは彼女に身近な幸せを与えるであろうケーキにデコレーションを施していった。


                                   END

 

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