思い上がり
昨日、僕は龍麻に告白をした。 どうせ嫌われているのなら、これ以上嫌われることなどないのだから。今でさえ、携帯に連絡を入れても居留守を使われるほどだから、これ以上悪くなることなどそうそうない。 如月さんちで網を張って、そしてうちに連れてきて。 生涯初めてで、そして多分、最後の告白。 これからの長い人生、他の人を好きになることもあるんじゃないかと、他人が聞いたら思うかもしれない。だけど、僕はきっと、龍麻以外の人を好きになることはないと思う。根拠は何もないけれど、龍麻ほどの女性がこの先そうそういるとは思えないからだった。それは僕だけではなく、如月さんや蓬莱寺、村雨さんといったメンバーが揃いも揃って龍麻を狙っていることからも推測されることだ。 そして僕はそのときに初めて龍麻が、僕のつぶやいた些細な夢をかなえようと、一生を投げ打つつもりでいたことを知った。 どうして僕なんかのために、龍麻の大事な一生を引き換えるような真似ができるんだろう。僕が笑っていられるように、それだけのために、龍麻は僕の身代わりになることを決意したという。 だから、僕は君が好きなんだ。僕にさえも笑って手を差し伸べて、そして光ある場所に導いてくれる。まぶしい光は闇の中で生きてきた僕にはまだ辛いけれど、でも、光のその暖かさが心地よく、美しさに心が和む。 龍麻は、僕の告白を笑ったりはしなかった。返事はしてくれなかったけど、否定はしていない。拳武館でこき使ってやると、彼女は笑った。どうやら、側にいることを許可されたらしい。 たとえ僕の想いが叶わなかったとしても、僕は彼女の側にいることを許されただけでとても満足だった。 それから10日後。僕らは二次試験を迎えた。僕も龍麻も如月さんも同じ高等教育学部だけどそれぞれに専攻が違う。僕は数学、龍麻は社会、如月さんは美術と、それぞれの得意分野を専攻することになった。 「うー、キンチョーするぅ。」 試験会場となっている大学へ向かう途中で龍麻がつぶやいた。 柳生や渦王須との最終決戦でさえ緊張しなかった龍麻が、入試を前にあがっていて、手のひらを握ったり開いたり、また胸に手を当ててみたりと、さっきからなんとも落ち着きない挙動をしている。 「大丈夫。龍麻のいつもの力を出せばいいだけだから。」 如月さんは龍麻の手をとって、にこにこと笑いながらそうアドバイスする。今日はデッサンの実技のテストを受けることになっている如月さんは余裕しゃくしゃくという顔をしていた。 手をしっかりと握られた龍麻はほんのりと頬を染め、不安そうな表情を和らげてこくりとうなづく。 「僕と一緒に大学に通おう?一緒に昼食とって、帰りは待ちあわせして。きっと楽しいよ?」 如月さんの言葉に、龍麻は嬉しそうに笑う。 「うんっ。がんばるっ!」 花のように微笑む龍麻は可愛くて、ほんとなら見とれてしまうほどなのに、僕はちりちりと胸が痛んで直視できなくって、電車の車窓に目を移した。 これは嫉妬だ。自分でもわかっている。 龍麻の側にいれればそれでいいと、そう龍麻に言った気持ちは決して嘘ではない。だけど、それだけじゃ我慢できない自分もいて、言葉にして伝えることで、自分が自分に許されている領域から出てしまわないように呪いをかけているだけだ。 龍麻はいつでも如月さんを頼りにしている。 自称相棒より、龍麻に暖かい眼差しを向ける菩薩眼の少女より、玄武の宿星を持つ彼を、何よりも信頼して、誰よりも側近くに置いている。それは黄龍と玄武という星の定めではなく、おそらく龍麻自身が欲しているに違いないことだった。また、如月さん自身も龍麻の身の回りに起こるどんな些細なことでも見逃さず、彼女が何を考え、何を見て、何をしているのかを的確に理解する能力に長け、常に龍麻を穏やかなその水の力で守り、柔らかく包みこんでいる。それは龍麻同様、如月翡翠としての欲求に違いない。 玄武の宿星。それがひどくうらやましいものに感じられた。そんなものでも龍麻の隣にいる言い訳になるのなら、僕は喜んで過酷な宿星の定めを背負ってやる。僕の陰の龍という星は、龍麻と表裏一体。決して無縁というわけではないけれど、きっと僕らは背中合わせにいるのだろう。龍麻には決して僕の姿は目に入らない。 そもそも最初から龍麻に元から手が届くはずなんてなかった。 僕を拾ってくれた館長が、何よりも大事にしている掌中の珠。いわば館長の宝物。そんな彼女を僕はどうこうできるような立場にはないのだ。 それを僕が勝手に思い上がっていただけのこと。 彼女が僕に笑って話し掛けてくれるから、笑顔で手を差し伸べてくれるから、その手をとっていいのだと、答えていいのだと、思い上がっていた。僕に許されているのは彼女に協力すること、守ることだけなのに。 彼女の隣に並ぶことではない。微笑みあうことではない。 彼女の陰になり、付き従う。彼女の望むままに手足となって動き、万難を排除し、さらなる高みに彼女をおしあげ、そうして用がなくなれば朽ちていく。それが僕に許されていること。 だけど、一度、望んでしまったものはそうやすやすとは諦めきれなかった。 手に入らないとわかっているのに、それでも僕は龍麻を諦めることができなかった。あの花のように綺麗な微笑が僕に向けられたら、光のあたる場所を一緒に歩けたら、その華奢な体を抱きしめることができたなら。 叶いもしない夢を見続ける愚かさに我ながら反吐が出そうだ。こんなに汚れた僕が、それを望むなんて許されない。 じわり。ベッドの上で、ぼんやりと天井を見ている目の前が滲む。 自分の何を差し出してもかまわないのに、だけど、何を差し出しても決して手に入らない。 もっと手に入りやすい他のものを欲すればこんなに苦しい思いをせずに済んだのに、僕は知ってしまったから。彼女の持つ光の美しさも暖かさも眩しさも、そしてその光の下にある影の濃さも。 龍麻が他の男を思って綺麗になっていく様を、これから僕は見ていかなければならない。いっそのこと狂ってしまえれば、どんなに楽だろう。君と想い合う幻の世界で、そこでなら僕の隣にいてくれるだろうか。僕に笑いかけ、一緒に歩き、僕の腕の中にいてくれるだろうか? 受験が済んで気が抜けたのか、龍麻は以前以上に如月さんちに入り浸るようになっていた。携帯に電話をすれば出てくれるようになったけど、なんだか上の空で、生返事しか帰ってこないし、早く電話を切りたがっていた。後ろで如月さんの声がしていることもしばしばだった。もう龍麻は如月さんと付き合い始めているのだろう。 その事実を知っても僕は狂いもせずにいる。案外、しぶといもんなんだな。苦笑しながら僕は少し前を歩く二人の背中を見つめた。 今日は合格発表。10時より合否が掲示されるので3人で揃って見に来たのだ。最寄駅から徒歩10分のキャンパスの入り口まで龍麻は如月さんに背中を押されるようにして歩いていた。よほど自信がないのか、怖くて足が進まないといった感じである。 なんとか合格者が貼り出されている所までやってきた。 「えーと。」 龍麻がびくびくしながら社会専攻のところで自分の番号を探し始める。大きな目を見開いて、少しだけ眉をひそめて不安そうな表情でゆっくりと番号を探していく横顔を、僕は見つめていた。 「あった…!!」 不安げに曇っていた表情が一瞬にして輝くようにほころんだ。そして、そのままこちらを向くと、月並みだけど、まるで天使のように笑ったのだ。 「ね、ね、紅葉は?」 見とれていて自分のは見ていなかった。慌てて僕は数学専攻のところから自分の番号を探し出す。受験番号は受付順であったため、間際に願書を出した僕の番号は随分と後ろのほうになる。目だけで番号をたどっていくと、最後から3人目に僕の番号が載っていた。 「受かったようだよ。」 「ほんとっ!?じゃあっ、一緒に通えるねっ!」 無邪気に笑う君は人のものだけど、それでもまだ側にいることのできる幸運を今だけは素直に感謝しよう。 「翡翠は?」 「もちろん、合格だ。」 余裕たっぷりに答える如月さんは、なんだか少し面白くなさそうな顔をしていた。 事務の窓口で手続きに必要な書類を受け取って帰路につく。 「今週中に手続きかぁ。明日は卒業式だから、今日、できるだけしておいたほうがいいよね?」 龍麻の通う真神学園は明日卒業式が行われる。ちょうど、僕の通う拳武館高校も明日が卒業式なのだ。 「そうだね。できるだけ早いうちにそういうものは済ませたいからね。」 如月さんはこくりとうなづく。王蘭学院はあさってが卒業式だから、如月さんは明日ゆっくりと手続きをとることができる。 「そうだ!明日、卒業式のあと、おじ様のところに行くんだよ。」 龍麻が唐突に叫ぶ。 「おじ様って、拳武館の?」 如月さんが龍麻に尋ねると龍麻がにっこりと微笑んでうなづいた。如月さんは12月に桜ヶ丘病院で鳴瀧館長に会っている。そのときに館長に諭されて以来、どうも如月さんは鳴瀧館長が苦手のようだった。 「そ。鳴瀧のおじ様。無事に大学も合格したし、卒業したらちゃんとご挨拶にいかなきゃね。さんざんいろんなことで心配をかけたし、これからまたお世話になるんだし。」 うふふふと、龍麻が笑う。 「君は、本当に拳武館を継ぐのかい?」 「ええ、そうよ。」 どうしてそんなことを聞くの?と目線で訴えた龍麻に気づかれぬように、ふ、と如月さんがため息をついたのが見えた。やはり、拳武館を継いで欲しくないというのが彼の本音なんだろう。 裏の仕事にかかわってほしくない、もっと明確な言い方をすれば人殺しの片棒など担いで欲しくない。それは当然の心情だった。 龍麻には一切裏の仕事にはかかわらせない。それが館長の意向だから、如月さんの杞憂は徒労に終わるのだけど、それでもやはり如月さんにとっては心配の種であることは間違いない。龍麻の相手として。 高校3年間の思い出はほとんどない。暗殺組に籍をおき、この拳武館に尽力するべくして裏の仕事も、勉学も励んできた。それは僕の生活の糧を得るためで、好むと好まざるとにかかわらず行ってきたことであった。だから、卒業といっても特別に何か感慨深いものがあるわけではなかった。これからだって裏の仕事は入るのだから。しいて言うのならば、やはり龍麻に出会ったことが3年間のうちで一番印象に深かったことだろう。 裏の仕事の残務整理をしてから帰ろうと校庭に出ると、式が終わってから随分と時間がたつのに、名残惜しいのか未だに卒業生の姿が残っている。その中を縫うようにして帰ろうとしていると急に呼び止められた。 「あの…壬生先輩。」 おずおずと話し掛けてくる2年生の女生徒に足を止める。 「あの、記念に、制服の第二ボタンが欲しいんですっ…。」 言われて僕は去年、龍麻に言われたことを思い出した。 「人気あるのね?」 人気なんかいらない。1000人の女性に好きだと言われるよりも、龍麻たった一人に好きだと言ってもらったほうがどんなに嬉しいか。 「悪いけど、これは誰にも上げる気はないよ。」 僕がそういうと、彼女の目が潤んで瞬く間に大きな涙を粒をためる。ああ、泣くんだな。どうするか。 「袖のでもあげればいいじゃない。」 後ろからした声にはっとして振り返ると、真神学園の白いセーラー服のままの龍麻がそこに立っていた。にこ、と笑うと僕に寄って来て左腕をつかんで袖のボタンを1つひきちぎった。 「龍麻っ。」 「はい。ごめんね、袖だけどいいかな?」 咎める僕を無視して龍麻は女生徒にボタンを渡す。 「あっ、ありがとうございますっ…大事にしますっ。」 ぺこりと、頭を深く下げた彼女は廊下を走って去っていってしまった。 「龍麻。かってに僕の制服を破かないでくれるかな?」 「あら。今日でもう着る事はないんでしょう。」 うふふと笑いながら彼女は外に向かって歩き出す。真っ白な真神のセーラー服はとても異質で、周囲の好奇の視線を集めたまま彼女は平然と振舞っている。 「もう館長にはあったのかい?」 「今、ね。忙しいみたいだから顔だけ見せたの。紅葉はこれからどうするの?」 「病院に寄って、それから帰るよ。」 「病院、私もいきたいなぁ?」 突然の龍麻の申し出に僕は驚いて立ち止まってしまった。驚いた顔をしている僕に龍麻は上目遣いで少し首をかしげて僕の返事を待っている。 母さんのところに友達を連れて行ったことはない。僕の一番大事なもので、一番辛いもの、弱いものを見せることになるからだった。どうしようと逡巡してた僕に、龍麻はふと表情を曇らせる。 「あ。別にイヤならいいんだ。ヒマだから、そうだな、翡翠ん家にでも行くからいいよ。」 翡翠、という言葉が龍麻の口から漏れたとき、僕は思わず龍麻の腕をつかんでいた。 「紅葉…?」 「あ、いや、いいよ、一緒に行こう。」 「でも…。」 「いいんだ。行くよ。」 僕はそのままバス停に向かって歩き出した。 「紅葉、腕。」 言われてはっと気づくと僕は龍麻の腕をつかんだままだった。慌てて離すと龍麻がくすっと笑う。その笑顔があんまりにかわいらしくて僕は照れてしまってわざと視線をはずした。 こうして隣にいるだけでいいと想うのも事実。だけどすべて奪ってしまいたいのも事実。 「母さん?」 病室に入っていくと母は上体を起こして本を読んでいた。 「あら、紅葉。」 本から顔を上げるとにこりと微笑んだ。 「今日は友達もいるんだけど、いいかな?」 「ええ、かまわないわ、ぜひ入ってもらって頂戴。」 僕はほっとして入り口にいる龍麻を呼んだ。龍麻が中に入ってきた瞬間に、母はとても驚いたような顔をしていたけれど、それでもすぐに嬉しそうに笑う。 「こんにちは。急にお邪魔して申し訳ありません。私、緋勇龍麻と言います。紅葉にはいっつもお世話になってます。」 龍麻はぺこりと頭を下げた。 「いいえ、こんなところまで来てくださって嬉しいわ。紅葉の母です。ごめんなさいね、こんな姿で。」 母も龍麻に軽く会釈をする。 「これ、お見舞いです。もうすぐ桜が咲くから。」 龍麻がここに来る前に花屋によって桜の枝の入っている花束を買ってきた。 「まぁ、綺麗ね。そうねぇ、もうすぐ桜の季節なのねぇ。」 母は龍麻が持ってきた花束に顔をうずめるとうっとりと呟いた。 「活けてくるよ。」 僕は母から花束を受け取り花瓶をサイドボードから取り出す。 「あ、私がやってくるよ。」 龍麻が立ち上がりかけるのを制止して僕は水道に行こうと部屋を出た。 「あら、紅葉くん。」 看護婦さんが僕を見つけて声をかけてくる。 「こんにちは。」 「さっきの女の子、かわいいわね。彼女?」 からかうように言われて僕は困惑する。 「友達です。」 「あら、そうなの?」 残念そうに看護婦さんは言う。龍麻が彼女だったらどんなにいいか。水道で花を活けながらぼんやりと考える。龍麻が側にいてくれたらどんなに楽しいだろう。退屈で虚しい毎日がそれだけで豹変してしまうだろう。あの、ひとりの部屋にでさえ帰るのが楽しくなるだろうか。 活け終わった花を抱えて病室に戻ると中から珍しく楽しそうに弾んだ母の声が聞こえてきた。 「まぁ、そうなの。」 中に入ってみるとにこにこと嬉しそうに笑う顔がふたつ。 「随分と楽しそうだね。」 ベッドサイドに花を置くと二人に言う。 「女同士の話だもんっ、ね、おば様?」 龍麻が母に笑いかけると母も楽しそうにうなづいた。 「そうね。紅葉にはナイショ。」 あのね、龍麻、それは僕の母なんだけど。 僕は憮然としながら余っている椅子を引き寄せて座る。二人は楽しそうにたわいもない話で盛り上がっていた。そういえば、龍麻っていつもこうだよなあ。ふと旧校舎での彼女を思い出す。 旧校舎に呼ばれるメンバーの選定は龍麻が決めていて、それには2種類ある。実戦に備えた訓練目的と経験値や金稼ぎ目的と。仲間に加わったのが遅かった僕はどちらにも呼ばれていた。そのときに、龍麻は女の子相手にいつも楽しそうに話をしていた。性格の合わない人間たちでも龍麻がいると不思議と一緒に話し込んでしまう。この人懐こさがみんなに好かれる理由の一つなんだろう。 「今日はほんとに楽しかったわ。またいらっしゃいな。今度は紅葉ヌキで。」 「はい、そうします。」 すっかりと意気投合したようで、最後には僕は邪魔者扱いになっていた。 病院から出るとあたりは薄暗くなっている。 「龍麻、夕飯は?」 「帰るよ。明日は朝から翡翠んトコだから。」 ちくり。如月さんの名前が出ただけで胸に微かな痛みが走る。 「そうか。じゃあ、駅まで送っていくよ。」 「えへへ、ありがと。」 それでも今の瞬間、隣にいる嬉しさが優先で。せめてそれが失われる時間が少しでも先になるように僕はゆっくりと歩き出した。 それから1週間ほどたった。僕は昨日、如月さんの家に行った。マージャンが目的であったが、やはり龍麻は如月さんの家にいた。しかもエプロンをかけて。如月さんの家の中は煮物のいい香りがしていて、実際に僕らに振舞われたのは煮物だった。どうやら龍麻が作ったらしい。 失恋は決定的だな。僕は煮物を食べながらそんなことを考えていた。 余計なことを考えていたせいか、昨日は惨敗で、よりによって3人で総攻撃といった言葉が似合うほど集中的に僕が負ける。普段なら大負けをするのは蓬莱寺なのに、昨日に限ってそれは僕の役目だったようだ。手持ちの金が底をついて財布が空っぽの状態で家に戻ってきたのは深夜の3時。それからシャワーを浴びてベッドに潜り込んで今まで熟睡していた。太陽はすっかりと昇ったようで、カーテンの隙間から日差しが差し込んできている。時計を見ると10時を少し回ったところだった。 ぴんぽーん。 玄関のチャイムが鳴る。どうせセールスか何かだろう。居留守に限る、そう思って毛布をかぶろうとしたが、ふと、なじみのある気に驚いて僕は玄関までダッシュした。 「龍麻っ!?」 ドアを開けると、やはりそこには龍麻が立っていた。 「おはよ、紅葉。」 にっこりと笑って挨拶をする。 「あ、おはよう。…どうしたの?」 「遊びに来た。」 見ると、手には近所のスーパーの袋を抱えている。 「入れてくれないの?」 「ごめん。どうぞ。」 驚いて、中に通すのも忘れていた僕は龍麻に言われて慌ててスリッパを出した。 「今起きたの?」 「ああ。」 「ごめんね、起こしちゃって。」 「いいよ、そろそろ起きる時間だから。」 「それならよかった。紅葉、ちょっとキッチン貸してね。」 龍麻はビニールの袋をもったままキッチンに入っていく。僕も後ろからついていった。 「何をするんだい?」 「…それより、紅葉、寝癖ひどいよ?それに何か羽織ってくれたほうが私としては嬉しいけど?」 言われてはっと気づく。頭に手をやると確かに寝癖がついている。よく乾かさないまま寝てしまったせいだった。それにパジャマは下だけで、上はめんどうなので上半身裸のまま寝てしまったのだった。 「あ、ごめん。」 言われて僕はあわてて身づくろいをしに部屋に戻った。いったいどういうつもりなんだろう。訝りながらともかく服を着て、洗面所で寝癖を直して、ついでに顔を洗う。唐突の行動に不審さはあるが、朝から龍麻と一緒に、しかも二人だけというのは僕にとってとてもラッキーである。 リビングに戻ると、なにやら甘い香りがキッチンのほうから漂ってくる。 「龍麻?」 「あ、ちょっと待って。あと2分。」 そう言って追い返されてしまう。僕は苦笑しながら、仕方なくリビングで待機。まもなくトレイに何かをのせてきた龍麻の顔はとても得意気だった。 「はい、どうぞ。」 僕の前に出されたのは、こんがりときつね色に焼きあがったホットケーキ。 「ホットケーキ?」 「好きでしょう?」 にっこりと笑った龍麻の顔に僕は、自分がホットケーキが好きだったことを思い出した。 「よく知ってるね。…最近、食べてなかったけど。」 「ね、ね、食べてみて?」 言われてバターをつけて適当な大きさに切ってから一切れ口に運ぶ。口の中ではバターのほのかな塩味とメイプルシロップの甘さがふんわりと溶け出した。ホットケーキの味はなんだかひどく懐かしく感じて、そのせいかなんだか随分と幸せな気持ちになる。 「どう?」 「おいしい。」 「よかった。」 ほっとした顔で龍麻が笑った。 「でも、どうして知ってるんだい?」 「うふふふ。」 龍麻は笑っているだけで答えてはくれなかった。ま、いいか。僕はホットケーキを食べながら嬉しそうに僕を見つめている龍麻を眺める。 「今日は如月さんちじゃないの?」 「うん、もういいの。」 「もういい?」 「ねぇ、紅葉、今日はヒマ?」 龍麻は僕の質問に答えずに新たに僕に質問をなげかける。 「ヒマだけど。」 「じゃあ、今日は一日私と遊んでね?」 ホットケーキのブランチをとったあと、僕は龍麻に連れ出されて柴又まできていた。 「東京に住んでてもさー、なかなか来ないよねー。」 参道で彼女は珍しげにきょろきょろとしている。 「おじ様のところに来ても寄り道なんてしないですぐに帰っていたし。」 あちこちの店を覗いている。 「団子屋がたくさんあるよね。あ、佃煮。おせんべ。いいなぁ。」 短い参道の突き当たりに帝釈天がある。 「わー。映画とかだともっと広そうに見えるのに。」 お参りをした後に川沿いにある記念館に入ったり、江戸川にある矢切の渡しに乗ったりして龍麻の柴又観光に付き合わされる。 「さて。龍麻、一体どうしたんだかそろそろ話をしてくれないかな?」 江戸側沿いの公園で傾きかけた日を背中にあびながら隣で座って川を眺めている龍麻に聞いてみた。 「どうもしないよ?」 「今日は日曜だろう?如月さんと喧嘩でもした?」 僕の言葉に龍麻はきょとんとした顔をして首をかしげた。 「なんで翡翠が出てくるの?それに別に、喧嘩もしてないけど?」 その顔に嘘はなさそうだった。ならば、一体どうしてここにいるんだろう。 考え込む僕に龍麻ははーっと盛大にため息をついた。 「ねぇ、今日は何の日?」 不機嫌そうに龍麻が尋ねる。 「え?日曜…、3月14日。あ、ホワイトデーか。」 「もうひとつ質問。紅葉、1ヶ月前のこと覚えてる?」 1ヶ月前。忘れるはずなどない、龍麻に告白をした日。 「うん。」 「紅葉、バレンタインデーだからってザッハトルテ作ってくれたでしょ?そのお返し。」 あ、と僕はようやくそこでザッハトルテを思い出した。龍麻が以前、桜井さんに雑談の最中に言った言葉を僕は覚えていて、先月、龍麻のためだけに作ったのだ。 「覚えてたみたいね。で、紅葉の好きなもの、わからなかったから先週、病院で紅葉のお母さんに聞いたのでした。」 なるほど。それで僕がいないあいだに二人で盛り上がっていたのか。確かに、今朝のホットケーキはとても懐かしい気がした。 「紅葉は、朝、なかなか起きないから、ホットケーキ焼くから起きなさいって言って起こしていたって。」 「それは子供の頃の話だよ。」 母さん、余計なことを。僕は真っ赤になった顔を隠すためにそっぽを向いた。 「今日は面白かった。紅葉の起抜けの顔が見れたし、初めてデートできたし。」 デート。その単語に驚いて龍麻を見ると、恥ずかしそうに俯いている。 「デートだなんて、如月さんに聞かれたら怒られるよ?」 ただでさえ、今日、一緒にいないのだから。僕は、あの普段は温和な彼が龍麻のことになると激情家になるのを知っている。 「ねぇ、なんでさっきから翡翠の名前が出てくるの?」 顔を上げた龍麻が不機嫌さをあらわにして僕に尋ねた。 「なんで、って、君は如月さんと付き合ってるんだろう?」 「はぁ?」 龍麻は目鼻を顔の中央に寄せて思いっきり考え込むような顔をする。 「なんで、そうなるの?」 「なんでって、君はいつも如月さんの家にいるだろう?それに仲もいいし。」 「仲もいいし、翡翠の家によくいるのは否定しないけど、どうしてそれで私と翡翠が付き合ってることになってるの?」 「違うの?」 「違うわよ。」 思い切り否定したあとで龍麻は大きなため息をおもいっきりついてうなだれた。 「翡翠の家にはちょっとお稽古しに行っていたの。」 「お稽古?」 「料理のっ。私、あんまりできないんだもんっ。」 怒ったように龍麻は言い捨ててふいと横を向く。 「これだから、自覚のない人、キライ。」 しばらくしてからぼそりと龍麻は呟いた。 その台詞は前にも聞いた。自覚がないのね。 「どういう意味…?」 聞きかけた僕の髪を龍麻がぐいっと引っ張った。 「もうっ、いー加減に気づきなさいっ!」 龍麻が口をへの字にしている。 「普通、好きでもない人のために一生を引き換えたりしないっ!」 顔を真っ赤にして怒る龍麻に僕は呆然としていた。 「好きでもない人が他の子と歩いてもやきもち妬かないっ。」 やきもち?もしかして、比良坂さんに嫉妬してた? 「好きでもない人のお母さんのお見舞いになんか行かないっ!」 これは、本当だろうか。 「た…つま…。」 喉がカラカラになる。張り付いた喉から掠れた声で名前を呼ぶと彼女は綺麗に微笑んで僕の耳に口を近づける。 「…大好き。」 耳元で囁かれた言葉は、まるで呪文のよう。じんわりと、体中に麻薬のように甘い感覚が広がっていく。龍麻の顔を見ると、やっぱり恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っていた。 僕は都合のいい夢を見ているのだろうか。それとも僕は狂ってしまったのだろうか。龍麻が僕を好きだと言ってくれる夢なら何度も見た。そのたびに目覚めるて、ベッドの上で余計に悲しい思いをするのに。 「夢、なのかな。それとも、僕が狂ったかな?」 呟くと隣で龍麻がくすくすと笑った。そして、僕の頬をきゅっとつねる。 「痛いでしょ?夢じゃないよ。」 確かに痛い。思いっきりつねられたところはじんじんと痛みが残る。まっすぐな強い瞳で僕を見つめている。 人生最大の幸運。 僕は再び思い上がってもいいんだろうか。龍麻の隣に立つことを、微笑みあうことを許されるのだろうか。手を伸ばせば、すぐに触れられる場所にいる彼女を、腕の中に抱きとめていいのだろうか。 そっと手を伸ばして龍麻の頬に触れる。柔らかな頬の感触が手に吸い付いてくる。龍麻はくすぐったそうに身じろいだ。 狂っててもいい。夢でもいい。大事なのは、龍麻が今、ここいること。触れられる距離にいてくれること、隣にいること。 僕は少し背をかがめて隣に座る龍麻にそっとキスを落とした。 END |